親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

第204回「意欲の異質性を自覚せよ、と。―願のままに成就しているとは―⑦」

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

Series 15 「意欲の異質性を自覚せよ、と。」

 これまでの考察を通して、『無量寿経』の時間表現の不可解さや如来の因果を立てることの意味が、悟りの仏教(いわゆる自力・聖道門)から信心の仏法(他力・浄土門)への転換によるものであることが見えてきた。空間的なこの現実の場所での悟り(此土入証)から、あたかも異次元空間での救済(彼土得生)のように構築された「浄土教」、それは「他方の仏土」への往生という形態の教えであり、その浄土は我らの苦悩の現実である穢土とはまったく異質であるから、生前では触れられずに死後にきっと与えられる場所なのだ、という諦念的了解、それは『観無量寿経』を基礎とした大悲方便の教えの理解なのだ、ということである。それは大乗仏教が標榜する一切衆生の平等の成仏、その課題を凡夫というありかたにおいて成立させるための大悲心のやむをえざる妥協の産物である。

 一切衆生の成仏を目的として追求する大乗の僧伽が見いだした方法が、「仏名」を憶念称名する道であり、その仏名において本願を内観していく歩みとなった。その願心追求の展開が、「聞名」として、すなわち衆生にとっては名号において本願に出遇うべく教えを聞き開いていく道として展開してきたのである。その「聞名」を龍樹菩薩が菩薩道の不退転の獲得の方便として取り上げたのである。その場合の出し方が、菩提心の弱い者にとっての「易行」ということであった。

 さらに、『無量寿経』の本願の教えを中国に翻訳するについて、浄土を衆生が求めて観察するという『観無量寿経』の教えが中心になり、自力で修行して菩提心を磨く教えの方法の一助として了解されて来た。そうなると浄土教は凡夫の救済が目的ではなくなり、易行の浄土教は、聖道門の「寓宗(ぐうしゅう)」(独立した立場でなく、従属したありかた)ということになった。

 そのゆがめられた浄土教理解を超克して、浄土教の僧伽が要求してきた本来の「聞名」による一切衆生の平等の成仏という道を回復しなければならない。それこそ「本願の因果」で表そうとした一切衆生の済度の方向だからである。その方向に気づいた親鸞が、それまでの『観無量寿経』中心の浄土教理解を、『大無量寿経』中心の本願の教えの領解へと方向を転ずるために、『教行信証』という困難な思索を展開することになったのである。

 親鸞にとっての大きな機縁となったのが、『浄土論註』の読み込みであった。それによって、願心とその成就としての報土は、本願の名号がもつ不可思議なる意味となり、仏名が大行として一切の浄土の功徳をすべての善悪の凡夫に与える大悲の教えとなったのである。浄土の究極の意味である「不虚作住持の功徳」を、名号の功徳として我らが信受するなら、そこに信心による「証大涅槃」の方向が確立するということなのである。

(2020年6月1日)

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第203回「意欲の異質性を自覚せよ、と。―願のままに成就しているとは―⑥」

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

Series 15 「意欲の異質性を自覚せよ、と。」

 親鸞は「信の一念」を、『教行信証』「信巻」では「信楽開発の時刻の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり」(『真宗聖典』239頁)と言う。この「時刻の極促」とは、「一念」の時の刻みが極まることである。これをいわば、宗教的な意味での「瞬間」であると言ってもよいかも知れない。親鸞はその内実を明らかにするための引文に、『往生礼讃』の「前念命終 後念即生彼国〈前念に命終して後念にすなわちかの国に生まれて」(『真宗聖典』245頁)の文を挙げておられる。そのことによって、信心の時間のもっている特質を考察しようとしておられるのである。

 さらに、この「前念命終 後念即生」を『愚禿鈔』に採り上げていて、そこには「本願を信受するは、前念命終なり。」「即得往生は、後念即生なり。」(『真宗聖典』430頁参照)と書き込んである。善導の言う「前念命終 後念即生」が、『無量寿経』の本願成就文の「願生彼国 即得往生〈かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て〉」(『真宗聖典』44頁)に対応するものであり、しかもその成就文は第十八願(信心の願)の成就文であるから、「信巻」において信の一念の内容として考察しているのである。信の一念に、善導の「前念・後念」という言葉を対応させ、それが「本願を信受する」という信心成就の内実であることを語ろうとしているわけである。

 このことを取り上げて信心のもつ時間の問題を解明されたものに、曽我量深の「信に死し願に生きよ」というテーマの講演がある。この講演がなされたのは、親鸞聖人七百回御遠忌(1961年)の記念講演(『曽我量深選集』巻12所収)であった。曽我量深はこの講演の中で、「一念の前後」ということを考察して、その前後の二念は、信の一念の前後であって、決して二つの別の時ではないと述べている。そして、これによって「即得往生」が信の一念を離れた当益(未来の死後の利益)ではなく、「本願を信受する」ことのいわば裏側に、張り付いている信念の未来だと主張しているのである。この未来は、「純粋未来」であるとも言われている。

 このことと、先に考察した信心の時間における「一念」の二義、すなわち過去と未来を付帯した現在の今の瞬間ということによって、親鸞の発信している問題を了解できると思う。すなわち、「信の一念」が「時刻の極促を顕す」と言われる意味を、受け止めることができるのである。その場合、いわゆる旧来の教学で言う「当益」と「現益」が決して別の時間ではないこと、つまり現益は生前であって当益は死後に限るというような非宗教的な理解に堕するのではなく、本願の信心に目覚めて生きる現在の一念の宗教的事実の内面であるということが判然とするのである。

(2020年5月1日)

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第202回「意欲の異質性を自覚せよ、と。―願のままに成就しているとは―⑤」

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本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

Series 15 「意欲の異質性を自覚せよ、と。」

 先に、「今の一刹那として信の一念を考察したい」と言ったが、この一刹那について、少し確認しておきたいことがある。ここに解明しようとする時間は、言うまでもなく「宗教的時間」である。宗教的時間とは、親鸞の立場からするなら、本願によって我らの信心の生活に開示される時間である。このことを我らが求めてやまないのは、表面的には、我らの実存が現実の時間に埋没して空虚に過ぎていく、という感覚から解放されたいからである。そして、これを深層的に本願から見るなら(親鸞の表現するところはこの視点である)、大悲が苦悩の有情を哀れんで、あらゆる衆生に「願生せよ」と呼びかけている、これが『無量寿経』の本願なのである。

 この願心の要求に応答することが本願他力の信心であるから、この信心に与えられる時間を考察するために、「今の一刹那」ということを提起しているのである。今ここに言う「一念」は、本願成就文には「乃至一念」(『真宗聖典』44頁)と言われている。これを親鸞は『一念多念文意』で「ときのきわまり」(『真宗聖典』535頁)であると言う。しかし、その極まりには、あたかも山嶺の先端を支える稜線が存するごとく、「信心歓喜」ということと「獲信による大慶喜」ということの、時間の前後に相当する二面の内実が具足されている。この「歓喜」は「うべきことをえてんずとさきだちてよろこぶ」(『一念多念文意』、『真宗聖典』539頁)ことであり、「慶喜」とは、「うべきことをすでにえたりとよろこぶ」ことだと、親鸞は信心の内面の充足性を明らかにする。ここにある「うべきこと」とは、仏教の究極目的である「大涅槃」を指しているのである。

 この両面を満足している時間を、いわば時を超越して表現している「行の一念」(『真宗聖典』191頁参照)から、時間の中に暗中模索する凡愚のための時間として「信の一念」(『真宗聖典』239頁)を開示して、時の先端に立たしめるのである。この先端が、一念でありつつ、相続心でもある。曇鸞が言うように、純粋でないなら、一心でもないし、相続もしないであろう。純粋なるがゆえに、一心であって、しかも相続する。如来回向の信心は、純粋無垢の心であるから、一念でありつつ持続する。有為転変する時に関わりつつ、本願力による同一性を保持する。

 この「時の極まり」は、決して単なる花火のような「一刹那」の事件ではない。しかし、のんべんだらりと過ぎていく日常的時間に堕するものでもない。念々に大悲との値遇を感受させつつ、しかしながら、それを受け止める存在は、罪業の身を抱える凡夫なのである。

(2020年4月1日)

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第201回「意欲の異質性を自覚せよ、と。―願のままに成就しているとは―④」

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本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

Series 15 「意欲の異質性を自覚せよ、と。」

 親鸞は繰り返し、信心を獲得すればかならず無上涅槃を得られる、と証言される。例えば、「正信偈」で「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃〈よ〈一念喜愛の心を発すれば、 煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり〉」(『真宗聖典』204頁)と言い、「獲信見敬大慶喜 即横超絶五悪趣〈信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん、 すなわち横に五悪趣を超截す〉」(『真宗聖典』205頁)とも言われる。そして、その信心を「証大涅槃之真因」(『真宗聖典』211頁)と押さえられる。「証大涅槃」は、仏陀の得たであろう果徳が涅槃であるが、大乗仏教がその意味を追求して見いだした涅槃の内実を大涅槃と言う。その果徳を成就する因となるものを、成仏の因と見るのだが、その仏の因なるものを愚かな凡夫のために、大悲の本願が誓っている。その本願における成仏の因果を、親鸞は『無量寿経』の第十八願と第十一願の関係において、因果が成り立つことを見いだし、果の大涅槃を第十一願成就の文に特定されたのである。

 この因果の因は、我らのところに成り立つ第十八願成就の信心である。この因は如来の大悲心が我らに回向成就(表現的に起こる)して、「横超」的に発起する。そして、その果は因果が本願においては一体であるが故に、因位にすでに果徳が必然として確信されている。それを親鸞は、転輪王の王子が必ず転輪王になるようなものだ、と譬えられるのである。しかしその意味が、教えに随順しようとする弟子たちにとっては、了解不可能なのである。

 本願の因果を我らの体験上の因果で了解しようとするときに、果の大涅槃を我らの現実の時間内では体験不可能なのだから、臨終以後(つまり死後)にきっと成仏すると了解して済ませてしまうことになる。そうするとそれは本願の因果の成就と我らの成仏の因果が分断されることになり、『無量寿経』で本願が因果一体の上に成就であると同時に因願であると語る意味が、不透明になるのである。

 この因願・成就の同時性の難関に、親鸞はどのように立ち向かって了解したのであろうか。試みにこの難題を解くのに、我らの時間の成り立ちを通して考察してみたい。

 我らの生存は、無始以来の連綿と続いて来た生命の因果の繰り返しが、それぞれの個体に宿因(種子)として蓄えられている。それが過去の生存の持続からの施与として、現在の個人の時間に与えられ、そこに我らの生存の時間が成り立っている。そして、その現在には、常に未来への可能性が種子(可能性)として感じられている。

 唯識では「前滅後生」と言って、「今」という現在的時間は、念々に現在が過去に変わりつつ、未来が現在に開けてくると言われている。この「今」の一刹那を「信の一念」(『真宗聖典』239頁参照)の時として考察するなら、難問たる同時因果はどうなるであろうか。

(2020年3月1日)

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第200回「意欲の異質性を自覚せよ、と。―願のままに成就しているとは―③」

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本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

Series 15 「意欲の異質性を自覚せよ、と。」

 親鸞の自覚は、人間とは「煩悩成就の凡夫」である、とする立場である。決して、衆生は本来仏である、というような楽観的な、いわゆる天台本覚思想などではない。むしろ衆生自身には、成仏の可能性すら無いとする自覚なのである。善導の深信釈(機の深信)にあるように、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(『真宗聖典』215頁)と、徹底的に自身の罪悪と愚昧を自覚していくのである。

 だからこそ本願力に依るほかには、無明煩悩を超え出る方法はないと、決定して信受する。その衆生に本願力は、普遍的な誓いを通して「念仏衆生 摂取不捨」(『観無量寿経』、『真宗聖典』105頁)と呼びかけている。確かに原理的にはそうなのだが、それに反逆し、その平等の救いを疑惑して、限りなく自分の力で無明を超え出ようと、愚かにも分別して止まないのが、また凡夫なのである。

 この疑惑を晴らすのは、願力の因縁がいわば背後からささやきかけ、深く存在を震動する地震のように作用して、不思議な事実として「獲信」という事態を発起せしめるのである。親鸞はこの獲信の根拠も本願力の回向成就(本願自体の自己表現)であると言う。しかもその獲信の事実は、煩悩具足の存在において「能発一念喜愛心〈よく一念喜愛の心を発すれば〉」(「正信偈」、『真宗聖典』204頁)として「能発」的に発起する。その発起の「能発」の根拠は、自分自身にはあり得ないから、他力の回向だと言うのである。その願力回向の事件は、かならず五濁のただ中でこそ発起する。決して五濁悪世を避けるような条件を必要とはしない。だから五濁を厭い安楽な場所をこいねがう、「厭離心」や「欣求心」は、自力の思念なのだと見るのである。

 ここにそれまでの浄土教が条件のように語る「厭離穢土 欣求浄土」とは、一線を画する親鸞の「願生浄土」の領解がある。本願が呼びかける「欲生我国」を、如来から衆生への絶対命法であり、その意欲それ自体が如来の表現回向だとまでいわれるのである。

 これに照らして考察するなら、因の願とその成就は、阿弥陀の側からはすでに成就しているのだが、その成就の事実は、衆生に獲信の事実が起こるときに、初めて現実に知られるというわけである。換言すれば、いかに本願が成就していようとも、衆生にはそれが一向に見えない。それはたとえば、「一切衆生悉有仏性」という大乗仏教の根本標識は、仏陀からは言えることだが、凡夫からは煩悩で眼が覆われているから見ることはできないのだ、と教えられるのである(『教行信証』「真仏土巻」所引の『涅槃経』、『真宗聖典』312頁参照)。

(2020年2月1日)

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第199回「意欲の異質性を自覚せよ、と。―願のままに成就しているとは―②」

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本多 弘之

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Series 15 「意欲の異質性を自覚せよ、と。」

 そもそもこの愚かな人間が、完全な存在になりうると考えることは、大きな間違いであり妄想でしかないのであろう。釈尊が成仏したということを、この妄想の中であたかも理想的な存在になり得たのだと受け止めて、その「さとり」を追体験するべく歩んだことから、仏弟子達の悪戦苦闘が展開してしまったのではなかったか。仏陀が如来として覚った法を、人生を尽くして表現して下さった。それを弟子達が仏滅後に、その仏の説かれた法を憶念し編集したことから、経典の内容が歴史に残ったのであった。

 その基本には、存在を「一切皆苦」と感じてしまう事実がある。その事実の根底に自我の執心があることを自覚し、それを妄念と見てそれからの脱出を試みたのが仏陀であった。その自覚には、妄念を払拭すれば必ず苦悩からの脱却が与えられるという確信があった。妄念から脱却できた体験内容を、さまざまな譬喩などで語りかけられたのであろう。

 しかしながら仏弟子達にとっては、その教えをそう簡単には追体験できなかったのであろう。

 そこに悪戦苦闘の自力の努力が始まり、仏陀が理想化され仏道とはその理想を追いかけて、その理想像の具現化を求めることになっていったのではないか。それを根源から見直す運動が大乗仏教運動となったのではなかろうか。

 現実の人間の情況は、『大無量寿経』下巻に展開された三毒五悪段と名付けられる文章に、見事に表現されている。端的には「五濁悪世」(『真宗聖典』52頁)と言われることである。人間が煩悩を具して生まれてきて、その煩悩を増長しつつ歴史や社会が展開しているのである。その三毒五悪の文章の狭間に、独り善を修すればその煩悩の結末たる三悪道を超えられると書かれている。これによって、清沢満之はこの段を「善悪段」とすべきかと言っている。彼はこの経文が、悪世のただ中にこそ仏道を歩む道が開けてくるのだということを、この『大無量寿経』が語っていると見抜かれたのであろう。悪世のただ中でこそということは、この五濁を厭うのではなく、むしろこれを逆縁としつつ歩むべき道があることを暗示しているのではないか。

 親鸞は、『愚禿鈔』において、「厭離」による浄土願生を「自力の心」であると見ている(『真宗聖典』438頁参照)。いわゆる浄土教の主流となった「厭離穢土 欣求浄土」を、善導のいう「自利真実」の内容と見て、「厭離」も「欣求」もいずれも自力の心と見ているのである。それは自力心が五濁を厭い、それから離れて救いがあると見る立場だからであろう。

(2020年2月1日)

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第198回「意欲の異質性を自覚せよ、と。―願のままに成就しているとは―①」

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本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

Series 15 「意欲の異質性を自覚せよ、と。」

 因の願が、願であるままにすでに成就していると教えられる。これが我らの常識にとっては、実に考えにくい。願いであるかぎり、成就へ向かっている状態であろうし、成就したのであるならば、願いは消えるはずだからである。しかし、大乗仏教はこのような矛盾すること、願のままにすでに成就していることを、矛盾ではないと表現するのである。こういう矛盾する例の代表的なものに、「色即是空・空即是色」がある。形あるものが、そのままに形なきものである、と。

 このような表現は、我々の発想が言葉にとらわれ、表現を実体的に執着して考えてしまうことを破ろうとしている。たとえば道元は、川が流れるにあらず、岸が流れるとか、水で顔を洗うにあらず、顔で水を洗う、などと言う。我らの自己中心の発想を相対化して、逆の立場からの見方を獲得するべく教えるのである。それにしても、願のままにすでに成就しているとは、どういうことなのか。

 我ら凡夫は、生存情況の苦境をどうにかして突破しようと悪戦苦闘して生きている。もし、生死即涅槃という大乗仏教の標識が、その生存の苦境がそのままで、すでに救済は成り立っていると主張するのであるなら、それは無責任きわまりないということになる。

 ここに、現実の苦境を解決しようとする課題と、それを宗教的視点から見直して解決する課題とに関する大問題がある。現実の苦境とは、相対有限の存在が煩悩まみれの視野を立場として、お互いに自己中心の不平不満を感じている情況なのではないか。その立場からは、自己が背負っている苦悩は、次から次に襲いかかってくることになる。人間の歴史は、そういう情況存在の悪戦苦闘の経過だったとも言えよう。

 生存とは、そもそも各個が一個の身体を与えられるところに始まる。そこに必ず身体に関わる諸条件と歴史や社会などの諸条件の限定があり、境遇が規定されてくる。その上、個人の能力や機能の程度など、自分ではそれをどうにもしてみようもない限定を受けてくるのである。そこに、生存情況の苦境が起こってくるので、各個にとっては、不条理としか思えない事態が現象することになる。

 もちろん、その条件の中には、因縁の改変や努力次第で、変わりうるものもある。その場合は、有限な諸条件の変更に依る苦悩の解決を求めることになる。しかし、存在が有限であるかぎり、そしてその有限を取り巻く大自然の摂理などには、人間の有限性を超えているところがある。寿命とか運命的な出遇いや別れとか、そのほか無数の場合がありえよう。

 それにどのように対応すべきかに関わるのが、宗教独自の問題なのであると思う。

(2019年12月1日)

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投稿者:shinran-bc 投稿日時:

第197回「意欲の異質性を自覚せよ、と。―仏果からのはたらきかけ―」

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

Series 15 「意欲の異質性を自覚せよ、と。」

 因から出発して果に向かって歩むという仏道の導き方は、受け取った側は必然的に段階的に自己を高めていくということになる。『華厳経』の十地の説き方がその典型であろう。曇鸞はこれを方便の教え方だと見抜いた。仏の覚りは、ある意味でトンネルの出口で一挙に眼前が開けるように、迷ってきた意識の闇が、夜が明けるように明るくなることだとされる。それを、努力によって少しずつ汚れを落として磨いていくような説き方は、確かに一種の方便なのであろう。

 迷っている凡夫を因から果へと導こうとする教え方では、結局迷いを晴らすことができない求道者が続出する。多くの求道者の嘆きを引き出してしまうことになる。大乗の仏道が、あらゆる衆生に仏弟子として果徳を開くことを要求するとき、仏陀の側からの教え方に一大転換が起こった。大悲の願心からの手助けを縁として、衆生に平等の覚りを開かせようという方向に気づいたのである。

 この発想が大乗の僧伽に刺激を与えて、無限なる光明と寿命の大悲の名告りを、因位の願に解きほぐして衆生に呼びかけるという内容が、経典として編纂されるようになっていった。そう考察することができるのではないか。この発想は、いわゆる菩薩の総願、たとえば四弘誓願のような願を、衆生が自分で発すという発想ではない。総願でいえば、「あらゆる衆生を必ず度脱させよう」という第四願が、仏果から立ち上がった大菩薩の願として歩み始めるということであろうか。

 『無量寿経』の本願は、このような発想をいかに物語として展開するかという試行錯誤の結果、展開してきたものなのではないか。本願の数が、翻訳された〈無量寿経〉の間で異なっていること、たとえば、『大阿弥陀経』では、二十四願となっているのも、こういうことで領解が可能となるであろう。そして、康僧鎧訳の『無量寿経』に来たって、四十八の内容に整理されてきたのでは無かろうか。だから、同じく誓願とはいっても、法蔵菩薩の願は、ことさらに「別願」なのであると言われているのであろう。願であれば、因から果へということなのだが、この別願は、実は果から因へ(従果向因)と、一般の願とは方向を転じて語りかけていると言われるのである。だから、願ではあるが、願のままに成就の力を保持しているとも言われるのである。

(2019年11月1日)

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投稿者:shinran-bc 投稿日時:

第196回「意欲の異質性を自覚せよ、と。―有為の善悪と無為の涅槃―②」

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

Series 15 「意欲の異質性を自覚せよ、と。」

 仏陀としての釈迦を、如来(タターガタ)として仰ぐようになるのは、釈迦の覚りの体験の本質を、「タター」(…のごとし、如)であると表現されていることから、釈迦の存在を「如」から来たもの、すなわち覚った真理の中に止まるのでなく、苦悩の娑婆に衆生を教化するために現れてくださった存在(応化身)であると見たからである。

 先に涅槃は無為法(むいほう)であると述べたが、「如」も変わることのない無為法である。親鸞が、「証巻」において、涅槃の同義語として真如・一如・法性などと並記しているとおりである(『真宗聖典』280頁参照)。仰ぐべき釈尊の本質が、有為法(ういほう)としての身体や表現された言語にあるのでなく、無為法に由来することを表そうとしているのである。依りどころとして仰ぐべきは、表面に現象として現れている人でもなく、その人が覚りの内実を語ろうとした言語表現の表相にあるわけでもなく、「法」(ダルマ)に依れと述べていることが、弟子達にとってはなかなか領解しにくかったのではないか。弟子達は迷いの意識の中から、如来たる仏陀の言葉を手がかりに如来に近づこうとする。しかし覚りから出る言葉は、迷いとは異質の内実を言い当てようとするものである。迷いの側から言葉で把握されるものは、どうしても有為法の限界を超え出ることはないのである。「法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし」(『真宗聖典』357頁)との教言は、かくして厳しい弟子への叱咤の言葉となったのである。

 無為法を追求する仏弟子達の営々たる努力は、僧伽の編集による経典の内容として積み上げられ、跡を辿ろうとする者に、どこを辿れば頂上にたどり着けるのかを踏み迷わせることにもなった。仏陀の教えは、迷って来た自己の苦悩を因として、そこから脱出する形で教言が語り出されている。世の中の一般的な宗教の教言は、絶対的な無限者からの命法が根拠となるから、それはいわば果から因へのはたらきかけの言葉なのである。仏教の経典がなぜこれほどに多量になるのかという疑問が出されることがあるのだが、それは因から果へと衆生を導こうとしたのが、その原因であるということができる。

 しかし再考するに、如来が如から来生したという説明には、大きな矛盾があるのではないか。つまり、有為法と無為法との領域は、ある意味で絶対に超え出ることがないはずである。そこを仏陀が乗り越えて来たという表現のもつ問題である。このことには、釈尊の入滅の後も仰ぐべき如来が現に臨在するという、仏弟子達の信念を支える想念が存在しながら、その教えに随順しようとすると領解不能になるという弟子の側の問題があったのではないか。

(2019年10月1日)

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