親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「超発(ちょうほつ)」という表現を、親鸞は本願の性質であると共に、我らの「信心」の特質でもあると押さえている。それはなぜかとなれば、生死罪濁の凡夫に「真実の信」が起こるのは、「如来回向」という真実からの「超発」の作用があるからだ、と言うのである。如来の回向とは、衆生に対する大きな慈悲のはたらきを表そうとする言葉である。大乗仏教の人間観が、大悲の本願を見いだし、その願心を掘り下げて法蔵菩薩の物語を生み出した。その法蔵菩薩の願心を語るものが、『無量寿経』の本願の教言である。すなわち本願とは、大いなる菩薩の慈悲が、限りなく一切の衆生を呼び覚まそうとする大菩提心のはたらきの表現なのである。その大菩提心が、我ら凡夫の信心の根拠だとされるのである。

 『涅槃経』には、阿闍世(あじゃせ)の物語が取り入れられ、その阿闍世は「未来世の一切衆生」のことだと言われている。その阿闍世には、「無根の信」という自覚が表出されている。親鸞はおそらく、この阿闍世の自覚と同質の思いを自身の信心に実感したのではないか。自分には、いかなる角度から自己を見ようとも、この世に存在する資格もその必然性も見いだせない、と。そして、善導が深信の釈で表出しているように、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(『真宗聖典』215頁)と信ずるほかない、と。その善導の自己表白を、「深信自身」という出始めの言葉のところに、親鸞は深い自己への信頼があるのだと見定めた。

 この自己自身に対する信頼は、救済される必然性など皆無だという信頼である。自分が少し愚かだとか、いささか罪が深いというような、相対的な反省の領域の表現ではない。そうではなく、まったく自己の存在の背景が暗闇でしかないという見定めである。絶対的な救済の可能性への諦(あきら)めなのである。しかし、これは自己に対する個人的絶望などではない。ここに事実として存在している背景にある暗黒への、如来大悲の智慧からのまなざしがあるのである。すなわち、大慈悲の前に愚かな凡夫の実相が照らし出されている内容なのである。

 この深層の闇をも摧破(ざいは)せずにおかないというのが、法蔵願心の大菩提心である。それは、たとえ有限ではあっても、救済の可能性を見いだそうとする凡夫の自己への執心を、徹底的に打ち破る不可思議な力なのである。一般的・常識的な発想を、親鸞は竪(たて)とし、それに対して、本願力はまったく予測することのできない力だから、「横」からくる力だとされた。我らの自力の執心を「よこざま」に打ち払うのが如来の本願力なのである。かくして、「横超」は本願力の本質であって、他力の信の本質でもあるのである。

(2018年8月1日)

最近の投稿を読む

公開講座画像
第243回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑭
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第243回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑭  法蔵菩薩の誓願が一如宝海から発起するということを、『大無量寿経』では「超発」(『真宗聖典』14頁)と表現している。それは、煩悩具足の凡夫に普遍的に与えられている仏性の成就、すなわち『大般涅槃経』が言うところの「一切衆生悉有仏性」(『教行信証』「信巻」、「師子吼菩薩品」引文、『真宗聖典』229頁)の成就たる成仏には、凡夫自身にはその可能性が全くないにもかかわらず、それを必ず成就させようとする大悲の必然があるのだということである。先回触れたように、ここで「超発」とされてくることを、親鸞は一如宝海より形を現し御名を示してくることとして了解した。それは曇鸞が、「法性法身に由って方便法身を生ず。方便法身に由って法性法身を出だす」(『教行信証』「証巻」、『浄土論註』引文、『真宗聖典』290頁)と注釈しているからであると拝察する。    法蔵願心が、誓願を超発するということは、文字や分別に執着してやまない凡夫に、その執着を突破した存在の本来性たる法性に帰らしめんがための方便を与えようということである。寂静なる法性と虚妄分別してやまない凡夫の執着との間を直接つなぐ橋は架けられない。虚妄というあり方で分別する以外には、我ら凡夫の存在了解は成り立ち得ないのである。    そのことを明瞭に知りながら、それを超えて彼方から橋を架けるがごとくに、法蔵願心は本願を超発するという。そのことを菩薩として受け止めるとはどういうことなのか。龍樹が『十住毘婆沙論』で、軟心の菩薩のために難易二道を示して、大乗の菩薩に課せられた、不退転地に至るという課題に応えようとするところには、このような不可能を可能にするべく大悲の願心が超発しているということが見通されていなければならないのであろう。    菩薩十地の初地は、「歓喜地」(『教行信証』「行巻」、『十住毘婆沙論』引文、『真宗聖典』162頁)と名付けられている。その歓喜の意味とは、仏道に入門し仏法を聞思してきた菩薩が、仏道の究極にある「大菩提」を、自分において「必ず成就することができる」と確信し得た喜びであるとされている。菩薩道の成就を確信する歓喜なのである。そこに「初」と言われているのは、仏道成就の確信が、「初めて」成り立ったことを表し、また『華厳経』(六十華厳)に「初発心時便成正覚」(「梵行品」、『大正新脩大蔵経』第9巻449頁下段)と説かれているように、初めて発心したとき、正覚を必ず成就できることとして見通されていることを示している。その可能性として表明された信念を、確実なものとする道を龍樹は求めた。「十地品」(『華厳経』)の釈論である『十住毘婆沙論』では、難易二道とされて、あたかも相対的な選びが可能であるかのごとく表現されているが、親鸞にあっては、難行は陸上の隘路のごとく、易行は水上の乗船の大道のごとくに了解されているのである。    こういう展開を下敷きにして本願の意図をいただいてみるなら、曇鸞が第十一願に着目したことも、もっともだと思う。さらには、親鸞がこの願によって正定聚・不退転を真実信心の利益として、現生に「正定聚に入る」(『教行信証』「信巻」、『真宗聖典』241頁)と確信されたことも了解できるのである。   (2023年9月1日) 最近の投稿を読む...
202305
第242回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑬
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第242回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑬  法蔵菩薩の願心は、「本願海」として展開された大菩提心である。この大菩提心の立ち上がる根底には、「一如宝海」があるとされる。そのことを親鸞は「この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)と語るのである。一如とは菩提の内容であり、大乗仏教では大涅槃とも言う。それ自体は「いろもなし、かたちもましまさず」(『唯信鈔文意』、『真宗聖典』554頁)とされ、凡夫の認識の対象や感覚の内容としてはまったく見当もつかず、無内容な事柄のごとくに見えてしまう。つまり、われら凡夫には捉えようがないということなのである。もっと積極的に言うなら、仏陀の覚(さと)りの内容は、凡夫の妄念ではまったく了解し得ないということである。  この落差というか断絶というか、手がかりさえつかめない状態を捉えて、仏陀の側から慈悲の心によって敢(あ)えて「かたち」や「いろ」のごとくに象徴的にあらわすことにより、この断絶を突破させる方法(方便)を案じ出した。その「かたち」が『無量寿経』の本願の主体たる法蔵菩薩であり、大菩提心の行相だということである。それを曇鸞は、「法性法身に由って方便法身を生ず。方便法身に由って法性法身を出だす」(『浄土論註』『教行信証』「証巻」引文、『真宗聖典』290頁)と了解し表現した。法性法身とは一如宝海であり、方便法身はそこから姿をあらわした法蔵菩薩だということである。そして、『大無量寿経』の語る因願・成就は、まさに「方便法身」の展開する内容だということになる。  したがって、法蔵菩薩の果である阿弥陀仏が方便法身の相であるからには、仏土として表現される「報土」も方便法身の相であるに相違ない、ということである。「願心の荘厳」(同前289頁)という『浄土論』の言葉とその内容を、『大無量寿経』の本願の因果に返して解釈した曇鸞のこの視座は、親鸞にしっかりと受け継がれているのである。  このように本願の成り立ちを、一如宝海から「かたち」をあらわし御名を示した法蔵菩薩に返してみると、浄土の荘厳功徳を『無量寿経』の本願の言葉に照らして了解する曇鸞の意図は、確かに龍樹の『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』の方向と重なってくるのである。龍樹は、難行易行の相対を通しながら、菩薩の中には「軟心(なんしん)」のものもあり、その要求に応えるかたちで、方便して易行を開示したのである。その易行を説き出す場は、菩薩十地の初地において「阿惟越致(あゆいおっち:不退転)」の確信を開くためのものであった。  その初地は「歓喜地(かんぎじ)」と名付けられているのだが、不退転の確信を得た喜びである「歓喜」を、法蔵願心は「諸有の衆生」に「聞其名号、信心歓喜」(『無量寿経』、『真宗聖典』44頁)として広く開示しようとしたのだ、と親鸞は見られたのである。 (2023年8月1日) 最近の投稿を読む...
FvrHcwzaMAIvoM-
第241回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑫
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第240回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑪  大乗仏教運動と呼ばれる大きなうねりは、果たる覚りを求める因位(いんに)の菩薩を語りだす方向と、覚りの証果を解明しあらゆる衆生に平等に届けようとする方向を生み出した。それは一方では、求道心を限りなく展開する『華厳経』となる。その場合、因分は説くことができるが果分は不可説だと見ることになる。そして、他方では果の涅槃を釈尊の個人体験に留めるのでなく衆生の獲得すべき究極の課題であるとし、また一切衆生に施与された可能性として論究していく方向を取ろうとする。それは大乗の『涅槃経』となって僧伽(さんが)の課題を究明していくことになった。    この二つの方向を展望しながら、大乗仏教を代表する僧である龍樹の名で中国に伝えられたものがある。鳩摩羅什(くまらじゅう)によって翻訳された『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』(以下『十住論』と略す)である。この論は『華厳経』に組み込まれた「十地品」の解釈である。その初地の釈のなかに「易行品」があり、易行として諸仏の称名が出され、そのなかに阿弥陀の名もあり、その阿弥陀の名には本願があるとして特別に取り上げられているのである。    この論に曇鸞が注目し、天親の『無量寿経優婆提舎願生偈(むりょうじゅきょううばだいしゃがんしょうげ)』(『浄土論』)の注釈をするにあたり、龍樹の『十住論』を通して五難(外道の相善・声聞の自利・無顧の悪人・ 顚倒の善果・自力のみで他力を知らない)を示し、それまでの仏道が時代の課題(五濁・無仏の世界)に対応していないことを指摘して他力の易行を表してきたことを語っている(『真宗聖典』167~168頁、『教行信証』「行巻」・『論註』引文参照)。    親鸞が判明に見出したことは、この大乗仏道のテーマの背景に『涅槃経』で取り上げられる五逆・謗法・一闡提を摂するべきという僧伽の課題があり、それらを包んで一切衆生を平等に救済しうる道が求められているということである。阿弥陀の因位の本願には様々の課題が語られており、その中心に一切衆生に開かれるべき「大涅槃」についての願(第十一願)があり、その成就のための道として称名を諸仏が勧める願(第十七願)があり、その願に応答して行者に信心が施与される(第十八願)のだが、それらの願を総合する願心の主体としての「法蔵菩薩」なる菩提心の永劫修行が語られる。いわば『華厳経』で取り上げられる菩提心の課題を受け継ぎ、その菩薩の願心のなかに『涅槃経』の課題たる三病人の救済を成就すべく、大悲の第十八願に「唯除五逆誹謗正法」と示されているのである。 (2023年7月1日) 最近の投稿を読む...

テーマ別アーカイブ