親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 法蔵願心は、まず衆生に業報(ごうほう)の差異が存することを感じ取り、具体的に衆生に欲生心を呼びかけるにあたって、諸行を修することを明らかにされた。しかし、それは有限なる衆生に自力の努力を要求することになるから、努力の果てに自分の無能と愚かさと煩悩の深さとに気づかされて、この道を終点まで行くことはできないことをいやでも知らされることになる。

 この意味で『観無量寿経』の世尊の説き方は、まさに法蔵願心の第十九願の意図と重なるのである。『観無量寿経』を説こうとされた教主世尊は、愚痴深き韋提希(いだいけ)夫人の事情に単に同情するのでなく、沈黙のなかにいかに大悲の意図に導くべきかを考察されていたのであろう。この『観無量寿経』の本当の意図(仏の密意)は、実は「念仏」にあったのだと善導は読み取られた。『涅槃経』記載の阿闍世(あじゃせ)の物語にあっては、業縁の深さに泣く阿闍世の救済に、世尊は静かに月愛三昧(がつあいさんまい)に入って阿闍世の気づきを待ったと伝えられているのである。努力や論理の操作、さらには言葉による説得では、阿闍世が犯した親殺しの罪に対する罪悪の自覚から来る心身の病を癒やすことはできないと見られたのである。

 この『涅槃経』が伝える阿闍世の救済の本質は、『無量寿経』の本願に照らすなら、第十九願によるのでなく、第十八願に誓われる欲生心の成就によるのだ、ということが親鸞の見方であった。第十八願の「欲生」は、衆生の側からの意欲を誘う言葉ではなく、如来が衆生を如来の国土たる大涅槃の大地に呼び返す「招喚の勅命」(『真宗聖典』177頁)なのだ、と言うのである。

 親鸞のこの解釈の意味は、真実の宗教的要求とは、仏陀の教える真実の実在(すなわち法性)からの呼びかけなのだ、ということである。この宗教的要求を凡夫のあり方から言うなら、凡夫にとっては「他」としか言えない、何らかの意味で凡夫とは異質なるものからの呼びかけだということである。親鸞が本願成就を如来の「回向成就」であると仰がれるのは、この「他」たる真実の実在を凡夫の上に成就する力こそ「本願力」であるとして仰ぐからであった。

 このとき、真実それ自体が、異質なる衆生の上に成就するはたらきとなる。その事実が「他力回向」、すなわち「本願力回向」であり、それによって不実なる衆生に真実が発起するという不思議な事態が起こることを、本願成就と教えるのだ、と『大無量寿経』の仏説の意図を見抜かれたということである。この事実を受け止めるなら、「信心よろこぶそのひとを 如来と等しとときたまう 大信心は仏性なり 仏性すなわち如来なり」(『真宗聖典』487頁)という「諸経和讃」(『浄土和讃』)が意味するところもうなずけるのではないか。

(2017年5月1日)

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第252回「存在の故郷」⑦
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第252回「存在の故郷」⑦  「難中之難 無過此難」(『無量寿経』下巻、『真宗聖典』〔以下、『聖典』〕初版87頁、第二版94頁)とされる他力の信は、真実報土への往生を必然とする。親鸞は、その内実を釈迦如来の名で説かれる『無量寿経』の願心とその成就との文に見出された。その必然性を確保する力は、「他力と言うは、如来の本願力なり」(『教行信証』「行巻」、『聖典』初版193頁、第二版213頁)と押さえられていて、阿弥陀如来の大悲の力だとされる。法蔵願心の成就(果)たる阿弥陀如来の力なのである。この力について曇鸞は、因位法蔵菩薩の本願の力と成就した阿弥陀仏の仏力が、願力成就として信心の行者にはたらくのだと注釈される。それによって、阿弥陀如来の浄土の功徳に必ず値遇できるのだとされるのである。  この願力成就の功徳が、大乗仏教の「大涅槃」であり「一如」でもあることを、親鸞は「仮名聖教」で明らかにしている。この大乗仏教の至極である大涅槃こそが、いま筆者がここに表現しようとする「存在の故郷」なのである。大乗仏教の大涅槃を、親鸞は大乗の『涅槃経』によってさまざまな観点から取り上げているが、その課題として阿弥陀如来の本願力を信受するところに、我ら罪業深重の衆生に大涅槃が必ず成就するのだと論じておられるのである。  しかし、ここに大きな難問が生ずる。この「本願成就」の事実は、現実の生存のなかにいる我らのうえに、何時・どこで生起しうるのか、という問いである。我らの生存は、煩悩の身を離脱できないから、この生起は各人の「臨終」を待たねばならないのか。しかし、阿弥陀如来の別号たる無碍光は、いかなるものにも妨げられないはたらきであることを告げているのではないか。煩悩の身が摂取されることこそ、私たちがこの願心をいただくということではないか。  臨終を待って本願が成就すると誓うのは、第十九・第二十の願の意になる。第十八願は、成就文に「願生・即生」とあり、その「即」の文字に、親鸞は時・日を隔てないことだと注釈しておられる。そして、我らの身は本願を信じたからと言って、煩悩がなくなるわけではない。そのことを、「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」(『悲歎述懐和讃』、『聖典』初版508頁、第二版622頁)と言っている。しかし同時に「無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまう」(同、『聖典』初版509頁、第二版622頁)とも言っておられるのである。ここに、難信の奧義があるようだが、これを突破するのが容易ではないことを、親鸞は「信巻」(『教行信証』)の三一問答「信楽」釈で、衆生のいかなる努力をもってしても「往生は不可能だ」と言われているのである。 (2024年7月1日) 最近の投稿を読む...
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第251回「存在の故郷」⑥
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第250回「存在の故郷」⑤
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