親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 親鸞は我ら凡夫の信心の根拠を、法蔵菩薩の大菩提心に由(よ)るとし、立っている立場が「よこざま」になぎ払われるようなイメージで、その根拠を自覚化せよと示された。立つ瀬がなくなるということがあるが、言うなれば、我らは凡夫ではあっても一応は自分で立っているつもりだが、その立つ瀬がまったくなくなるような自覚なのだ、というのである。このことを、明確にするために、常識を竪(たて)と表し、願力を横として表した。

 この横からなぎ倒されるような圧力に出遇うことには、いかなる機縁が必要条件であるのか、またそのことによっていかなる事態が与えられるのか。第一には、凡夫にとって本願力に出遇うということは、決して簡単なことではないということがある。このことは経典(『無量寿経』)には「難中之難無過此難〈難きが中に難し、これに過ぎて難きことなし〉」(『真宗聖典』87頁)と言われているし、親鸞も「正信偈」で「難中之難無過斯〈難の中の難、これに過ぎたるはなし〉」(『真宗聖典』205頁)と押さえている。出遇いが常識の範囲であれば、これに出遇うことは容易であろう。常識ではないことを「よこざま」と表したのであるから、この願力との値遇は容易であろうはずがない。

 ではその出遇いとは、いかなる場合に起こりうるというのか。この値遇の原理を解明すべく、親鸞は「信巻」でその原理を、あたかも外側から無明の闇にはたらく力や光りのごとくに論じている。その場合の内側とは、我ら衆生の煩悩でくらまされている闇の意識である。無明の闇と願力の光りの角逐(かくちく)が、法蔵願心の「兆載永劫」のご苦労だというのである。

 つまり、法蔵願心のお目当ては、罪業と無明で救済が困難な凡愚だというわけである。法蔵願心が相手にしようとする「煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌」(『教行信証』、『真宗聖典』280頁)とは、我ら自身のことなのである。この煩悩に深く覆われ、我執に取り付かれている存在を、間違いなく真実の存在の真理(すなわち大涅槃)に目覚めさせようという願いを自己の欲願に据えて、それを必ず成就させようとするのである。その成就に当たっての困難さを、時間的な長さとして「兆載永劫」と表現しているのだというのである。言うなれば、凡愚の側には出遇いに必要な条件は要らないが、大悲の広大なはたらき(兆載永劫の修行)に感動することのみが待たれているということなのである。

 願力との値遇といわれる出来事は、実は我らがその大悲の光明海のなかにすでに収め取られているという気づきの出来事を言い当てている事柄だったのである。その事柄を、教えを通してしっかりと聞き当てようではないかというのである。

(2018年9月1日)

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第252回「存在の故郷」⑦
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第252回「存在の故郷」⑦  「難中之難 無過此難」(『無量寿経』下巻、『真宗聖典』〔以下、『聖典』〕初版87頁、第二版94頁)とされる他力の信は、真実報土への往生を必然とする。親鸞は、その内実を釈迦如来の名で説かれる『無量寿経』の願心とその成就との文に見出された。その必然性を確保する力は、「他力と言うは、如来の本願力なり」(『教行信証』「行巻」、『聖典』初版193頁、第二版213頁)と押さえられていて、阿弥陀如来の大悲の力だとされる。法蔵願心の成就(果)たる阿弥陀如来の力なのである。この力について曇鸞は、因位法蔵菩薩の本願の力と成就した阿弥陀仏の仏力が、願力成就として信心の行者にはたらくのだと注釈される。それによって、阿弥陀如来の浄土の功徳に必ず値遇できるのだとされるのである。  この願力成就の功徳が、大乗仏教の「大涅槃」であり「一如」でもあることを、親鸞は「仮名聖教」で明らかにしている。この大乗仏教の至極である大涅槃こそが、いま筆者がここに表現しようとする「存在の故郷」なのである。大乗仏教の大涅槃を、親鸞は大乗の『涅槃経』によってさまざまな観点から取り上げているが、その課題として阿弥陀如来の本願力を信受するところに、我ら罪業深重の衆生に大涅槃が必ず成就するのだと論じておられるのである。  しかし、ここに大きな難問が生ずる。この「本願成就」の事実は、現実の生存のなかにいる我らのうえに、何時・どこで生起しうるのか、という問いである。我らの生存は、煩悩の身を離脱できないから、この生起は各人の「臨終」を待たねばならないのか。しかし、阿弥陀如来の別号たる無碍光は、いかなるものにも妨げられないはたらきであることを告げているのではないか。煩悩の身が摂取されることこそ、私たちがこの願心をいただくということではないか。  臨終を待って本願が成就すると誓うのは、第十九・第二十の願の意になる。第十八願は、成就文に「願生・即生」とあり、その「即」の文字に、親鸞は時・日を隔てないことだと注釈しておられる。そして、我らの身は本願を信じたからと言って、煩悩がなくなるわけではない。そのことを、「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」(『悲歎述懐和讃』、『聖典』初版508頁、第二版622頁)と言っている。しかし同時に「無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまう」(同、『聖典』初版509頁、第二版622頁)とも言っておられるのである。ここに、難信の奧義があるようだが、これを突破するのが容易ではないことを、親鸞は「信巻」(『教行信証』)の三一問答「信楽」釈で、衆生のいかなる努力をもってしても「往生は不可能だ」と言われているのである。 (2024年7月1日) 最近の投稿を読む...
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第251回「存在の故郷」⑥
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