親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

第208回「〈願に生きる〉ということ」④

 本願成就の信心は、「本願を信受する」という形で、我らに宗教的事実を興起せしめる。その宗教的事実を、一般的には救済と言い、仏教一般では「悟り」とか「菩提」などと表現し、浄土教では「往生浄土」と表現しているのだと思うのだが、それぞれその歴史において、内実や表現が微妙に異なっている。大悲の本願において探求された一切の凡夫の宗教的救済の事実とは、「本願成就の真実信心」であるというのが、親鸞の宗教的救済の信念であるということである。

 それが真実の信心であるということは、我らの自力が決して混じらないということである。その獲信は難中の難と言われるように、我らに厳しく自己吟味が問われてくる問題である。第十八願文が「欲生」を呼びかけるときに、人間の条件を加えていないということは、我らの自力は不必要なのだと知れ、ということである。これが、自力の妄念(これを善導は定散の自心という)に生きている我らには、まったく取り付くしまがないように映るのである。真実の信心とは、我らが無想離念(定心の極地)になることでもないし、単なるあなた任せで無責任になることでもない。本願が名号を選んだのだからと自分で名号を称することを功績にする(散心)ことでもない。

 本願力が呼びかけることに、全面的に信順せよということである。それは、仏願力が衆生に「根源的な存在の満足」を与えようとすること、つまり仏道で言うなら「大涅槃」を開かせようと願っていることに、全面的に信頼し随順することである。

 本願の成就として衆生に宗教的事実が成り立つことを、「前念命終」と言うのだ、すなわち自力妄念の生命の終嫣を「命終」というのだ、とされたのである。そのことを善導の『往生礼讃』の「前念命終 後念即生」という表現に、親鸞が見定めたのである。そして『愚禿鈔』(『真宗聖典』430頁)では、「後念即生」とあるところを、本願成就文の「即得往生」で押さえてある。

 その表現に先立って、信心の内実全体に「真実浄信心は、内因なり。摂取不捨は、外縁なり」(同前)という言葉がある。これは阿弥陀如来の光明摂取を受けて、信心には先に述べてきたごとき「絶対満足」の生活が成り立つことを言わんとしているのである。ここに、「内因」とあるのは、「信巻」冒頭の大信心の十二徳に置かれた「証大涅槃の真因」(『真宗聖典』211頁)の意味の「因」を言っているのである。この因の果となるものは、「大涅槃」だということである。

 この因果は、言うまでもなく本願の誓う因果である。大乗仏教が「煩悩即菩提 生死即涅槃」と正覚のありかたを押さえたことを、法蔵菩薩の本願が浄土建立の物語の因果によって、一切の凡夫の上に成就すべく、立ち上がったと親鸞は見たということである。

(2020年10月1日)

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第252回「存在の故郷」⑦
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第252回「存在の故郷」⑦  「難中之難 無過此難」(『無量寿経』下巻、『真宗聖典』〔以下、『聖典』〕初版87頁、第二版94頁)とされる他力の信は、真実報土への往生を必然とする。親鸞は、その内実を釈迦如来の名で説かれる『無量寿経』の願心とその成就との文に見出された。その必然性を確保する力は、「他力と言うは、如来の本願力なり」(『教行信証』「行巻」、『聖典』初版193頁、第二版213頁)と押さえられていて、阿弥陀如来の大悲の力だとされる。法蔵願心の成就(果)たる阿弥陀如来の力なのである。この力について曇鸞は、因位法蔵菩薩の本願の力と成就した阿弥陀仏の仏力が、願力成就として信心の行者にはたらくのだと注釈される。それによって、阿弥陀如来の浄土の功徳に必ず値遇できるのだとされるのである。  この願力成就の功徳が、大乗仏教の「大涅槃」であり「一如」でもあることを、親鸞は「仮名聖教」で明らかにしている。この大乗仏教の至極である大涅槃こそが、いま筆者がここに表現しようとする「存在の故郷」なのである。大乗仏教の大涅槃を、親鸞は大乗の『涅槃経』によってさまざまな観点から取り上げているが、その課題として阿弥陀如来の本願力を信受するところに、我ら罪業深重の衆生に大涅槃が必ず成就するのだと論じておられるのである。  しかし、ここに大きな難問が生ずる。この「本願成就」の事実は、現実の生存のなかにいる我らのうえに、何時・どこで生起しうるのか、という問いである。我らの生存は、煩悩の身を離脱できないから、この生起は各人の「臨終」を待たねばならないのか。しかし、阿弥陀如来の別号たる無碍光は、いかなるものにも妨げられないはたらきであることを告げているのではないか。煩悩の身が摂取されることこそ、私たちがこの願心をいただくということではないか。  臨終を待って本願が成就すると誓うのは、第十九・第二十の願の意になる。第十八願は、成就文に「願生・即生」とあり、その「即」の文字に、親鸞は時・日を隔てないことだと注釈しておられる。そして、我らの身は本願を信じたからと言って、煩悩がなくなるわけではない。そのことを、「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」(『悲歎述懐和讃』、『聖典』初版508頁、第二版622頁)と言っている。しかし同時に「無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまう」(同、『聖典』初版509頁、第二版622頁)とも言っておられるのである。ここに、難信の奧義があるようだが、これを突破するのが容易ではないことを、親鸞は「信巻」(『教行信証』)の三一問答「信楽」釈で、衆生のいかなる努力をもってしても「往生は不可能だ」と言われているのである。 (2024年7月1日) 最近の投稿を読む...
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第251回「存在の故郷」⑥
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