親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 『無量寿経』が語りかける「浄土」の教えが、長い年月にさらされ風土化した日本の仏教文化のなかで、生きている人間存在にとっての積極的なはたらきを失い、死後の救済の場所になってしまっている。このことが、いつごろから起こってきたのかはわからないが、本来の意味の仏教の教えの内容と、直接に因果関係がある考え方だったのだろうか。本来の仏陀の教えとは言えないのではないか。しかし、その関係が無関係であるとも思えない。私は、むしろ仏教の側が、一般の死後の観念界の闇に明るみを投ずるべく、本願の教えとなって「お浄土」を語りかけたのかも知れないとも感ずるのである。

 生老病死の四苦といわれるが、死はそのなかでも生存在の終点であるから、死を苦しむというよりも、われらは死ぬことを畏(おそ)れ、その死の先が見えないことの不安におののくのである。死それ自身を苦しむのではなく、死ぬであろうことを不安と共に悩むのである。その不安の先の闇に、いささかの安心感を与えたいという慈悲心が、その先にもこの生存と同じような時間空間があって、その時空が特別の安らぎの場所であると語って、不安を少しでも減少させようとするのであろう。

 たとえ、この生存情況が悪業の因縁に満ちていて、生まれて死ぬまで「五逆十悪 具諸不善」(『真宗聖典』120頁)であり、悪業の限りを尽くした人間であろうとも、仏陀の前に身を投げて臨終の救済を懇願したならば、たった一声でも仏陀の名を念ずれば、浄土に生まれられると説くのは、まさにこの地獄の苦悩を予感する不安からの解放を教えているものであろう。

 この『観無量寿経』の説いている臨終の往生浄土の教えが、圧倒的な説得力をもって、仏教の土壌に死後の浄土の観念を植え付けてしまってきたのであろう。しかし、この教え方に、仏陀の慈悲を仰ぐことに共感しつつも、それは衆生を導く方便なのだと見抜いたのが、親鸞であった。

 その気づきの端緒は、おそらく天親菩薩の『浄土論』を読み込んだ経験だったのではなかろうか。『浄土論』では浄土荘厳を、二十九種の内容に整理して表している。そしてその功徳の言葉(句)が、願心の表現であり、それが浄土の内容だといっている。その願心とは、経典に帰せば、『大無量寿経』の本願である。だから、二十九句は、法蔵願心の大誓願なのである。「横超の大誓願を光闡す」(「正信偈」、『真宗聖典』206頁)と言われるゆえんである。

 『大無量寿経』の本願の表現に「臨寿終時」ということがあって、この世が終わるときでの仏陀との出遇いを語っている。これと『浄土論』の純潔な荘厳功徳との落差をいかに解釈すべきなのか。親鸞の疑問は深かったのであろうと思うのである。

(2012年4月1日)

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第252回「存在の故郷」⑦
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第252回「存在の故郷」⑦  「難中之難 無過此難」(『無量寿経』下巻、『真宗聖典』〔以下、『聖典』〕初版87頁、第二版94頁)とされる他力の信は、真実報土への往生を必然とする。親鸞は、その内実を釈迦如来の名で説かれる『無量寿経』の願心とその成就との文に見出された。その必然性を確保する力は、「他力と言うは、如来の本願力なり」(『教行信証』「行巻」、『聖典』初版193頁、第二版213頁)と押さえられていて、阿弥陀如来の大悲の力だとされる。法蔵願心の成就(果)たる阿弥陀如来の力なのである。この力について曇鸞は、因位法蔵菩薩の本願の力と成就した阿弥陀仏の仏力が、願力成就として信心の行者にはたらくのだと注釈される。それによって、阿弥陀如来の浄土の功徳に必ず値遇できるのだとされるのである。  この願力成就の功徳が、大乗仏教の「大涅槃」であり「一如」でもあることを、親鸞は「仮名聖教」で明らかにしている。この大乗仏教の至極である大涅槃こそが、いま筆者がここに表現しようとする「存在の故郷」なのである。大乗仏教の大涅槃を、親鸞は大乗の『涅槃経』によってさまざまな観点から取り上げているが、その課題として阿弥陀如来の本願力を信受するところに、我ら罪業深重の衆生に大涅槃が必ず成就するのだと論じておられるのである。  しかし、ここに大きな難問が生ずる。この「本願成就」の事実は、現実の生存のなかにいる我らのうえに、何時・どこで生起しうるのか、という問いである。我らの生存は、煩悩の身を離脱できないから、この生起は各人の「臨終」を待たねばならないのか。しかし、阿弥陀如来の別号たる無碍光は、いかなるものにも妨げられないはたらきであることを告げているのではないか。煩悩の身が摂取されることこそ、私たちがこの願心をいただくということではないか。  臨終を待って本願が成就すると誓うのは、第十九・第二十の願の意になる。第十八願は、成就文に「願生・即生」とあり、その「即」の文字に、親鸞は時・日を隔てないことだと注釈しておられる。そして、我らの身は本願を信じたからと言って、煩悩がなくなるわけではない。そのことを、「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」(『悲歎述懐和讃』、『聖典』初版508頁、第二版622頁)と言っている。しかし同時に「無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまう」(同、『聖典』初版509頁、第二版622頁)とも言っておられるのである。ここに、難信の奧義があるようだが、これを突破するのが容易ではないことを、親鸞は「信巻」(『教行信証』)の三一問答「信楽」釈で、衆生のいかなる努力をもってしても「往生は不可能だ」と言われているのである。 (2024年7月1日) 最近の投稿を読む...
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第251回「存在の故郷」⑥
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