親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

第202回「意欲の異質性を自覚せよ、と。―願のままに成就しているとは―⑤」

 先に、「今の一刹那として信の一念を考察したい」と言ったが、この一刹那について、少し確認しておきたいことがある。ここに解明しようとする時間は、言うまでもなく「宗教的時間」である。宗教的時間とは、親鸞の立場からするなら、本願によって我らの信心の生活に開示される時間である。このことを我らが求めてやまないのは、表面的には、我らの実存が現実の時間に埋没して空虚に過ぎていく、という感覚から解放されたいからである。そして、これを深層的に本願から見るなら(親鸞の表現するところはこの視点である)、大悲が苦悩の有情を哀れんで、あらゆる衆生に「願生せよ」と呼びかけている、これが『無量寿経』の本願なのである。

 この願心の要求に応答することが本願他力の信心であるから、この信心に与えられる時間を考察するために、「今の一刹那」ということを提起しているのである。今ここに言う「一念」は、本願成就文には「乃至一念」(『真宗聖典』44頁)と言われている。これを親鸞は『一念多念文意』で「ときのきわまり」(『真宗聖典』535頁)であると言う。しかし、その極まりには、あたかも山嶺の先端を支える稜線が存するごとく、「信心歓喜」ということと「獲信による大慶喜」ということの、時間の前後に相当する二面の内実が具足されている。この「歓喜」は「うべきことをえてんずとさきだちてよろこぶ」(『一念多念文意』、『真宗聖典』539頁)ことであり、「慶喜」とは、「うべきことをすでにえたりとよろこぶ」ことだと、親鸞は信心の内面の充足性を明らかにする。ここにある「うべきこと」とは、仏教の究極目的である「大涅槃」を指しているのである。

 この両面を満足している時間を、いわば時を超越して表現している「行の一念」(『真宗聖典』191頁参照)から、時間の中に暗中模索する凡愚のための時間として「信の一念」(『真宗聖典』239頁)を開示して、時の先端に立たしめるのである。この先端が、一念でありつつ、相続心でもある。曇鸞が言うように、純粋でないなら、一心でもないし、相続もしないであろう。純粋なるがゆえに、一心であって、しかも相続する。如来回向の信心は、純粋無垢の心であるから、一念でありつつ持続する。有為転変する時に関わりつつ、本願力による同一性を保持する。

 この「時の極まり」は、決して単なる花火のような「一刹那」の事件ではない。しかし、のんべんだらりと過ぎていく日常的時間に堕するものでもない。念々に大悲との値遇を感受させつつ、しかしながら、それを受け止める存在は、罪業の身を抱える凡夫なのである。

(2020年4月1日)

最近の投稿を読む

FvrHcwzaMAIvoM-
第254回「存在の故郷」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第254回「存在の故郷」⑨  衆生の本来性である「一如」・「大涅槃」は、釈尊の体験における「無我」を表現したことに相違ない。その無我が衆生の本来有るべきあり方ということである。しかしそのあり方を求める衆生は、その意...
FvrHcwzaMAIvoM-
第253回「存在の故郷」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第253回「存在の故郷」⑧  この難信の課題が起こってきたのは、仏陀が衆生を無我の菩提に導こうとするそのとき、生きている釈尊を人間の模範として見ている衆生の眼に根本的な誤解があったからではないか。釈尊が入滅せんとす...
FvrHcwzaMAIvoM-
第252回「存在の故郷」⑦
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第252回「存在の故郷」⑦  「難中之難 無過此難」(『無量寿経』下巻、『真宗聖典』〔以下、『聖典』〕初版87頁、第二版94頁)とされる他力の信は、真実報土への往生を必然とする。親鸞は、その内実を釈迦如来の名で説か...

テーマ別アーカイブ