親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 迷没の衆生が永劫の迷いを翻して、自己の本来性(一如・法性)を回復しようとする意欲を、「菩提心」と言う。この意欲の大乗的課題は、自己の背景たる無始以来の無明沈淪(ちんりん)のあり方を翻すという個人的な困難性を克服するのみでなく、共業(ぐうごう)を生きる「衆生」(人の間を生きる人間存在、すなわち社会的存在)の罪業性を転じて清浄なる存在の本来性を衆生と共に回復できる方向を見いだすということである。すなわち、菩提心という自己の本来性回復の要求に「大乗仏教」の根本問題をもっていることである。すぐ了解できるように、この課題は無限の困難性の深みをもっている。この課題の大きさを海に譬(たと)えるから、「願海」ということが出てくるのである。

 この願海の内容を親鸞は『教行信証』「行巻」一乗海の釈において、「「海」と言うは、久遠よりこのかた、凡聖所修の雑修雑善の川水を転じ、逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水と成る、これを海のごときに喩うるなり。」(『真宗聖典』198頁)と言っている。ここには、あらゆる人間の起こす善悪の業を本願海のうねりに巻き込んで、全存在を「大宝海水」に転じていく大悲のはたらきが、名号となった「大行」であることを表そうとする親鸞の視線がある。

 人間存在の行為の本質を善のほうからは、「雑修雑善」とし、悪のほうからは、「逆謗闡提恒沙無明」と言う。善には「川水」を当て、悪には「海水」と言っている。人間は自己の行為を「善」に意味づけようとするが、その本質は「雑修雑善」であり、川のように有限で小さいものでしかないということ。それに対して、起こしてしまう悪は、「恒沙無明」の背景から出てくるから、その罪業性は海水のように計ることのできない量であるということであろう。

 ともかく、人間を本来性へと翻すための道筋は、いわば無限に遠い道のりだということである。その人間の困難性の一切を摂して、一挙に「大宝海水」に転ずるはたらきが「名号不思議」の作用である。この不可思議の願力を、「願海」という喩えで示しているのである。「名号不思議の海水は 逆謗の死骸もとどまらず 衆悪の万川帰しぬれば 功徳のうしおに一味なり」(『高僧和讃』「曇鸞和讃」、『真宗聖典』493頁)という和讃は、この願海のはたらきが「大行」として現前する風光を語っているに相違ない。

 この大行の大功徳、すなわち苦悩する衆生の迷妄の事実を清浄なる本来性へ転換して現前の事実とすることはいかにして成り立つか。ここに法蔵願心の菩薩行の、「兆載永劫」の「忍力成就」のご苦労がある。これを表すのが、善導の三心釈だと親鸞は気づいたのである。

(2014年8月1日)

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第252回「存在の故郷」⑦
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第252回「存在の故郷」⑦  「難中之難 無過此難」(『無量寿経』下巻、『真宗聖典』〔以下、『聖典』〕初版87頁、第二版94頁)とされる他力の信は、真実報土への往生を必然とする。親鸞は、その内実を釈迦如来の名で説かれる『無量寿経』の願心とその成就との文に見出された。その必然性を確保する力は、「他力と言うは、如来の本願力なり」(『教行信証』「行巻」、『聖典』初版193頁、第二版213頁)と押さえられていて、阿弥陀如来の大悲の力だとされる。法蔵願心の成就(果)たる阿弥陀如来の力なのである。この力について曇鸞は、因位法蔵菩薩の本願の力と成就した阿弥陀仏の仏力が、願力成就として信心の行者にはたらくのだと注釈される。それによって、阿弥陀如来の浄土の功徳に必ず値遇できるのだとされるのである。  この願力成就の功徳が、大乗仏教の「大涅槃」であり「一如」でもあることを、親鸞は「仮名聖教」で明らかにしている。この大乗仏教の至極である大涅槃こそが、いま筆者がここに表現しようとする「存在の故郷」なのである。大乗仏教の大涅槃を、親鸞は大乗の『涅槃経』によってさまざまな観点から取り上げているが、その課題として阿弥陀如来の本願力を信受するところに、我ら罪業深重の衆生に大涅槃が必ず成就するのだと論じておられるのである。  しかし、ここに大きな難問が生ずる。この「本願成就」の事実は、現実の生存のなかにいる我らのうえに、何時・どこで生起しうるのか、という問いである。我らの生存は、煩悩の身を離脱できないから、この生起は各人の「臨終」を待たねばならないのか。しかし、阿弥陀如来の別号たる無碍光は、いかなるものにも妨げられないはたらきであることを告げているのではないか。煩悩の身が摂取されることこそ、私たちがこの願心をいただくということではないか。  臨終を待って本願が成就すると誓うのは、第十九・第二十の願の意になる。第十八願は、成就文に「願生・即生」とあり、その「即」の文字に、親鸞は時・日を隔てないことだと注釈しておられる。そして、我らの身は本願を信じたからと言って、煩悩がなくなるわけではない。そのことを、「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」(『悲歎述懐和讃』、『聖典』初版508頁、第二版622頁)と言っている。しかし同時に「無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまう」(同、『聖典』初版509頁、第二版622頁)とも言っておられるのである。ここに、難信の奧義があるようだが、これを突破するのが容易ではないことを、親鸞は「信巻」(『教行信証』)の三一問答「信楽」釈で、衆生のいかなる努力をもってしても「往生は不可能だ」と言われているのである。 (2024年7月1日) 最近の投稿を読む...
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第251回「存在の故郷」⑥
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第251回「存在の故郷」⑥  仏教一般の了解は、人間の常識にもかなっている自力の次第を是とするから理解しやすいが、他力の次第を信受することは「難中の難」だとされている。それは、生き様の差異を超えてあらゆる衆生が等しく抱える愚かさを見通した、如来の智見によってなされた指摘である。  衆生は有限であり、大悲に背いて自我に執着(我執・法執)し、差別相の表層にこだわり続けている。如来は、大悲の心をもってそのように衆生を見通している。仏陀は、『大無量寿経』や『阿弥陀経』の結びにおいて、そのように見通す如来の智見に衆生が気づくことは困難至極だと注意しているのである。  人間は人の間に生まれ落ち、人間として共同体を生きている。そこに生存が成り立っているのだが、人間として生きるとき、我執によって他人を蹴落としてでも自己の欲望を成就したいというような野心を発(おこ)すのである。仏教では、我執(による欲)は菩提心を碍(さまた)げる罪であり、そういう欲望を極力避けるべきだと教える。  そもそも仏教における罪悪とは、菩提心を碍げるあり方を示す言葉である。その意識作用を「煩悩」と名付けているのである。大乗の仏弟子たちは、菩提心を自己として生活することが求められるのであるから、それを妨げる煩悩に苛まれた自己を克服することが求められる。だから、仏教とは、基本的に「自力」でそのことを実現することであると教えられているのである。  しかし、この自己克服の生活における戦いは、限りなく続くことになる。自己が共同体の中に生存している限り、他を意識せざるをえないし、そこに起こる様々な生活意識には、我執を意識せざるを得ない事態が常に興起するからである。  しかも大乗仏教においては、この我執を完全に克服するのみでなく、さらに利他救済の志願を自己とする存在たることが求められる。それが表現されている。この要求を満足した存在が仏陀であり、すなわち仏陀とは大乗仏教思想が要求した人間の究極的理想像であるとも言えよう。そしてこの仏陀たちが開示する場所が「浄土」として荘厳されている。それが諸仏の浄土である。その諸仏の浄土に対し、一切の衆生を平等にすくい上げる誓願を立てて、その願心を成就する名告りが阿弥陀如来であり、安楽浄土である。その因位の位を「法蔵菩薩」と名付け、その発起してくる起源を、一如宝海であると表現するのである。  法蔵菩薩の願心の前に、個としての自己は、愚かで無能で罪業深重であると懺悔せざるを得ないのである。限りなく我執が発ってしまうことが、人間として生涯にわたって生活することの実態であるからである。しかし、これを見通し、自覚することは困難だと『大無量寿経』や『阿弥陀経』では注意されているのである。 (2024年6月1日) 最近の投稿を読む...
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第250回「存在の故郷」⑤
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