親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
曇鸞の求道心について、その回心に「劣弱性」の自覚があったと前回に述べた。この自覚内容に対して、親鸞が深く共感したようだとも述べた。しかし、このことは道を求める者としてどういうことなのか。少しく考察してみたい。
求道心にかぎらず人間が社会で生活する時、自分が何をしようとするかが自他の間に意識される。その意識する方向について、どれだけ的確に目標に向かえるかが自己にとって強く意識されるなら、逆にその方向から逃避するような意識は、「逃げ腰」とか「弱気」という言葉に示されているように、他からの評価はもちろん、自己評価も低くなってしまうであろう。
まして求道の道にとっては、究極的な大菩提(大いなる覚り)と言われるような課題の達成が最高の目標なのである。その獲得を自己の究極の存在意味であるとするのであるから、その目標からの方向の逸脱は、その意味空間にとってはほとんど自己放棄か自己否定として認識されることになる。したがって、発心して仏法を求めようとするからには、たとえそれがいかに困難であろうとも、目的たる成仏に向かって自己を叱咤激励して歩もうとするべきなのである。
そういうわけであるから、『十住毘婆沙論』で「易行」を説き始めるに当たって、易行の道を要求する求道者がもしいるなら、それは「怯弱下劣」であると論主龍樹がしかりつけ、発願して阿耨多羅三藐三菩提を求めるのは三千大千世界を挙げるよりも重いのだと、その志願の重さを自覚させようとしているのである。
しかし、求道の発心の因縁にも、実際には衆生の数だけ様々な事情がある。その中には、求道心の重さに耐えきれない劣弱な身体や意志力の場合もあるであろう。いわば、仏道に落第せざるを得ない事情にぶつかる衆生もあるわけである。そういうやむにやまれぬ因縁からの要求であるならと断って、龍樹は「易行」を説き始めるのである。
その易行に対し、求道心の挫折に幸いにも出合わない場合(これが後に聖道門とされる)には、「難行」に耐えて目的成就に向かうべきだとされている。したがって、「易行」を求める者は、いわば道に落第した者で、あるいはまともには成就できずに次の生でかろうじて救われるとさえ指摘されるようにもなってくるのである。
さりながら、親鸞における自覚の深さをしっかりと学ぶとき、この落第者の自覚こそが、真に人間存在の深みに与えられている「如来の欲生心」に応答するあり方であると知らされるのである。
(2021年10月1日)