親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

第220回「悲しみを秘めた讃嘆」④

 曇鸞の求道心について、その回心に「劣弱性」の自覚があったと前回に述べた。この自覚内容に対して、親鸞が深く共感したようだとも述べた。しかし、このことは道を求める者としてどういうことなのか。少しく考察してみたい。

 求道心にかぎらず人間が社会で生活する時、自分が何をしようとするかが自他の間に意識される。その意識する方向について、どれだけ的確に目標に向かえるかが自己にとって強く意識されるなら、逆にその方向から逃避するような意識は、「逃げ腰」とか「弱気」という言葉に示されているように、他からの評価はもちろん、自己評価も低くなってしまうであろう。

 まして求道の道にとっては、究極的な大菩提(大いなる覚り)と言われるような課題の達成が最高の目標なのである。その獲得を自己の究極の存在意味であるとするのであるから、その目標からの方向の逸脱は、その意味空間にとってはほとんど自己放棄か自己否定として認識されることになる。したがって、発心して仏法を求めようとするからには、たとえそれがいかに困難であろうとも、目的たる成仏に向かって自己を叱咤激励して歩もうとするべきなのである。

 そういうわけであるから、『十住毘婆沙論』で「易行」を説き始めるに当たって、易行の道を要求する求道者がもしいるなら、それは「怯弱下劣」であると論主龍樹がしかりつけ、発願して阿耨多羅三藐三菩提を求めるのは三千大千世界を挙げるよりも重いのだと、その志願の重さを自覚させようとしているのである。

 しかし、求道の発心の因縁にも、実際には衆生の数だけ様々な事情がある。その中には、求道心の重さに耐えきれない劣弱な身体や意志力の場合もあるであろう。いわば、仏道に落第せざるを得ない事情にぶつかる衆生もあるわけである。そういうやむにやまれぬ因縁からの要求であるならと断って、龍樹は「易行」を説き始めるのである。

 その易行に対し、求道心の挫折に幸いにも出合わない場合(これが後に聖道門とされる)には、「難行」に耐えて目的成就に向かうべきだとされている。したがって、「易行」を求める者は、いわば道に落第した者で、あるいはまともには成就できずに次の生でかろうじて救われるとさえ指摘されるようにもなってくるのである。

 さりながら、親鸞における自覚の深さをしっかりと学ぶとき、この落第者の自覚こそが、真に人間存在の深みに与えられている「如来の欲生心」に応答するあり方であると知らされるのである。

(2021年10月1日)

最近の投稿を読む

FvrHcwzaMAIvoM-
第257回「存在の故郷」⑫
第257回「存在の故郷」⑫  人間は合理的な生活を追求してきたのであるが、現代のいわゆる先進国の人びとは、はたして生きることに満足が与えられているのであろうか。忙しく情報に振り回されているのが実態なのではないか。そして孤独と憂愁にとりつかれ、不安の生活に沈んでいくことが多いのではないか。  現代社会はこの方向に進展し、資本主義社会において功利性を追い求め、合理性を追求する結果、人間の本来性から遠ざかっていくように思われてならない。その合理性の追求は、真理の基準を人間の理性に置いているのだが、その方向が遂にAIをも生み出し、人間自身の存在の意味すら危ういものとされてきているのである。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第256回「存在の故郷」⑪
第256回「存在の故郷」⑪  曇鸞が気づいたことは、第十一願のみではなかった。第十八願の成就を意味づけるために、第二十二願をも加えているのである。第十八願に第十一願・第二十二願を加えることによって、浄土への往生を得た衆生に大乗菩薩道の完成たる仏の位を与え、人間存在の完全満足たる大乗仏教の大涅槃(阿耨多羅三藐三菩提)の成就を与えるのだと、明らかにされたのであった。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第255回「存在の故郷」⑩
第255回「存在の故郷」⑩  阿弥陀の本願の中に、「必至滅度の願」(『教行信証』「証巻」、『真宗聖典』〔以下『聖典』〕初版280頁、第二版319頁。親鸞は『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』により「証大涅槃の願」〔同前〕とも呼んでいる)が語られている。曇鸞はこの願が、浄土の利益を表す願であると気づいた。それは、曇鸞が仏道の究極目的を見定めながら、自身の挫折体験を通して無量寿経の本願を見直したとき、当然出会うべき事柄であったと言えよう。実は曇鸞がこのことを表現したのは、天親菩薩の『浄土論』解義分の結びにある「速やかに阿耨多羅三藐三菩提(無上菩提)を成就することを得る」(『大正新修大蔵経』第36巻、233頁a。原漢文)という言葉を解釈するためであった。...

テーマ別アーカイブ