親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「横超」は、直接には善導の「横超断四流〈横に四流を超断し〉」(「十四行偈」『真宗聖典』146頁)に由来するが、親鸞はそれを『教行信証』「信巻」において、『無量寿経』の「横截五悪趣〈横に五悪趣を截りて〉」(『真宗聖典』57頁)の文に照らして考察されている。「断」とか「截」の文字には、明らかな断絶が意味されているが、その問題を信心の内面のこととして押さえようとしている。四流や悪趣は、流転を表現する言葉であることを明白にすると共に、それを超越することを「超・截」の文字の意味するところとして解明しているのである。

 その断絶を超えるテーマは、大乗仏教の一般的表現では、「煩悩即菩提」とか「生死即涅槃」とされ、「即」の文字に否定即肯定の意味を含めて表しているのである。この仏教の根本的な覚悟の内実を、親鸞は「正信偈」において、繰り返して確認している。「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃〈よく一念喜愛の心を発すれば、 煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり〉」(『真宗聖典』204頁)・「獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣〈信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん、すなわち横に五悪趣を超截す〉」(『真宗聖典』205頁)・「惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃〈惑染の凡夫、信心発すれば、 生死即涅槃なりと証知せしむ〉」(『真宗聖典』206頁)などがあり、さらには「慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍 証法性之常楽〈慶喜の一念相応して後、韋提と等しく三忍を獲、すなわち法性の常楽を証せしむ〉」(『真宗聖典』207頁)などもこれを表すものである。これらの場合も、必ず「信心」を獲得するという確認事項を押さえて、果である大涅槃を示す諸概念との関わりを書き記しているのである。

 迷いの生存の衆生の事実は、如来の正覚の智慧からすれば一如と別ではないということが、大乗仏教の根本標識である。大涅槃を目的としそれを獲得することが、仏教徒であることの必要十分条件である。この根本目標を一切の群生海に知らしめ、それに関与させ、そしてその目標を確定できる道を探求したのが、大乗仏教の大きな課題だったのである。

 その目標を、自己の根本の願いとして発願し求道したのが、『無量寿経』の物語の主体である法蔵菩薩なのだと、親鸞は見極めたのである。その法蔵の精神を「光闡(こうせん:広く公開する)」したのが、天親菩薩の『浄土論』だとして、天親をたたえる段で「光闡横超大誓願〈横超の大誓願を光闡す」(「正信偈」、『真宗聖典』206頁)と言い表している。その大誓願によって我ら凡夫に大涅槃への道が開かれるということで、「釈迦の教法おおけれど 天親菩薩はねんごろに 煩悩成就のわれらには 弥陀の弘誓をすすめしむ」(『高僧和讃』「天親和讃」、『真宗聖典』490頁)と讃せられ、その事実を本願成就の信心一つに集約する宣言を「為度群生彰一心〈群生を度せんがために、一心を彰わす〉」(『真宗聖典』206頁)と示してくだされた。この一心を、『教行信証』「証巻」(大涅槃の意味を解明した巻)の結びで「論主(天親)は広大無碍の一心を宣布して、あまねく雑染堪忍の群萌を開化す」(『真宗聖典』298頁)と表現されているのである。

 こういう表現の意図は、大乗仏教の根本標識たる「生死即涅槃」を、凡夫が横超的に獲得できることを宣言しているのである。

(2018年12月1日)

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