親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

第216回「〈願に生きる〉ということ」⑫

 善導が「十四行偈」(『観無量寿経疏』)において表そうとした「横超断四流〈横に四流を超断し〉」(『真宗聖典』146頁)の意味を、「信巻」において論ずる親鸞の意図は、どういうところにあるのであろうか。横超が「願成就」の「真宗」を表すものだというのは了解可能であるが、「断」の一字に「「断」と言うは、往相の一心を発起するがゆえに、生として当に受くべき生なし。趣としてまた到るべき趣なし。すでに六趣・四生、因亡じ果滅す。かるがゆえにすなわち頓に三有の生死を断絶す。かるがゆえに「断」と曰うなり」(『教行信証』、『真宗聖典』244頁)と注釈をされている。「すでに」とあるのだから、信心を獲るときに、生死の迷いを超えることを表現している。

 これはどう見ても信心の内実を、直接、現在的に表わそうと意図したものであるに相違ない。この親鸞の意図を、言うところの「竪」の意識の内面に起こる「証」と見ることは、いかにも無理がある。凡夫とは、煩悩と共に生きる存在であって、六趣四生の因果や欲界・色界・無色界という三有の生死を超えることはできないのであり、そもそも「信巻」での問題解明なのであるから。それなのにここでは、「一心を発起」するなら「生死を断絶」すると言い切っている。

 これは「横超」というときの「横」が、一般の時間軸を「竪」とするなら、その軸を「横」に切断する「時」が、「横」軸のごとく存在すると見ているのではないか。竪軸が時間なら横軸は空間を表現するものだと言えば、我らには理解可能となるだろう。この横軸を「横」の時間として、本願力が凡夫に開こうとする宗教的救済の時を示している、と見られたのではないか。先回に表現したように、『無量寿経』が「横截五悪趣 悪趣自然閉〈横に五悪趣を截りて、悪趣自然に閉じん〉」(『真宗聖典』57頁)と語るところを、この善導の「横超断四流」に対照していることから、これが浄土の利益でありながら、それを衆生の「信心」の利益として示すために、竪に対する「横」なる「菩提心」を用いると共に、その成就の「時間」をも「横」で表そうとされたのではないか。

 「横」で表される時間とは、竪で考えれば、今生どころか、弥勒菩薩でさえ五十六億七千万年かかるとされる時間が、一挙に「今現在」に、本願力に出遇う即時に成就するのだとされる。「願生彼国 即得往生〈かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て〉」(『真宗聖典』44頁)とある願成就の文を、本願力に遇うならば、即時に不退転を獲得すると解する意図もこれで読めてくる。「本願力にあいぬれば 空しくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」(『高僧和讃』「天親和讃」、『真宗聖典』490頁)と言われるのも、願力と「あいぬる」ことが、現在完了の形で「煩悩の濁水」を隔てないというのである。これが、横超の時間として「今現在」に成り立つ願力との値遇ということなのである。

(2021年6月1日)

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202305
第251回「存在の故郷」⑥
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第251回「存在の故郷」⑥  仏教一般の了解は、人間の常識にもかなっている自力の次第を是とするから理解しやすいが、他力の次第を信受することは「難中の難」だとされている。それは、生き様の差異を超えてあらゆる衆生が等しく抱える愚かさを見通した、如来の智見によってなされた指摘である。  衆生は有限であり、大悲に背いて自我に執着(我執・法執)し、差別相の表層にこだわり続けている。如来は、大悲の心をもってそのように衆生を見通している。仏陀は、『大無量寿経』や『阿弥陀経』の結びにおいて、そのように見通す如来の智見に衆生が気づくことは困難至極だと注意しているのである。  人間は人の間に生まれ落ち、人間として共同体を生きている。そこに生存が成り立っているのだが、人間として生きるとき、我執によって他人を蹴落としてでも自己の欲望を成就したいというような野心を発(おこ)すのである。仏教では、我執(による欲)は菩提心を碍(さまた)げる罪であり、そういう欲望を極力避けるべきだと教える。  そもそも仏教における罪悪とは、菩提心を碍げるあり方を示す言葉である。その意識作用を「煩悩」と名付けているのである。大乗の仏弟子たちは、菩提心を自己として生活することが求められるのであるから、それを妨げる煩悩に苛まれた自己を克服することが求められる。だから、仏教とは、基本的に「自力」でそのことを実現することであると教えられているのである。  しかし、この自己克服の生活における戦いは、限りなく続くことになる。自己が共同体の中に生存している限り、他を意識せざるをえないし、そこに起こる様々な生活意識には、我執を意識せざるを得ない事態が常に興起するからである。  しかも大乗仏教においては、この我執を完全に克服するのみでなく、さらに利他救済の志願を自己とする存在たることが求められる。それが表現されている。この要求を満足した存在が仏陀であり、すなわち仏陀とは大乗仏教思想が要求した人間の究極的理想像であるとも言えよう。そしてこの仏陀たちが開示する場所が「浄土」として荘厳されている。それが諸仏の浄土である。その諸仏の浄土に対し、一切の衆生を平等にすくい上げる誓願を立てて、その願心を成就する名告りが阿弥陀如来であり、安楽浄土である。その因位の位を「法蔵菩薩」と名付け、その発起してくる起源を、一如宝海であると表現するのである。  法蔵菩薩の願心の前に、個としての自己は、愚かで無能で罪業深重であると懺悔せざるを得ないのである。限りなく我執が発ってしまうことが、人間として生涯にわたって生活することの実態であるからである。しかし、これを見通し、自覚することは困難だと『大無量寿経』や『阿弥陀経』では注意されているのである。 (2024年6月1日) 最近の投稿を読む...
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第250回「存在の故郷」⑤
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第250回「存在の故郷」⑤  大乗仏教では、大涅槃を浄土として荘厳・象徴することによって、とらえがたい大涅槃なるものをイメージとして具体化してきた。また浄土教ではそのイメージに基づいて、浄土往生を実現することが浄土教徒にとっての最終目的のように受けとめられてきた経緯があるわけだが、親鸞は本願の思想に返すことでその考え方を改め、浄土の意味を根本的に考察し直した。  その考察の道筋をたどることは、浄土を実体的な「あの世」とみなし、それを常識としてきた立場からすると受けとめにくいことかもしれない。しかしながら、我々はいま、親鸞が浄土を一如宝海と示して考察した道筋を、『教行信証』の説き方に則しながら考察してみようと思う。  『教行信証』の正式な題名は『顕浄土真実教行証文類』という。この題が示すように、「浄土」を顕(あきら)かにすることが、衆生にとっての根本的な課題なのである。そこで親鸞は、真実の「教行証」という仏道の次第を見出して論じ、その課題に応答している。そして、本願に依って衆生に呼びかける大涅槃への道筋が、「行信」の次第であることを示している。  この次第は、いわゆる仏教一般の受けとめ方とは異なっている。仏教一般で言われる「行」は、信解した教えに基づき自力で涅槃を求めてなされる修行の方法であり、各々その行の功徳によって果である涅槃への道筋が開かれるという理解である。つまり仏道の教を信じて行じた結果が証だという次第になる。この次第は「信・解・行・証」あるいは「教・理・行・果」とも表されるが、これは、この世の一般的な時間における因果の次第と同様の流れであるから、人間の常識からすると理解しやすい。  これに対し、親鸞が出遇った仏道は、本願に依って誓われ一切衆生に平等に開かれる「証大涅槃」の道である。だからして、衆生にとってだれであろうと行ずることができるような「行」、すなわち「易行」が本願によって選び取られているのであり、本願力に依ることによって、個々の衆生の条件によらず、平等に涅槃への必然性が確保されると親鸞は理解する。この本願力を「他力」と言い、衆生がこの他力の次第を信受することが待たれているというわけである。親鸞は、この他力の次第を行から信が開かれてくると了解したのだ。  この他力を信ずるのは、衆生にとっては難中の難であるとされる。それは、各々の衆生の生には、それぞれ異なる多様な縁が絡み付き、その事態に各々が個別に対処しているということがあるからである。だからして、この事態を打破するには、各々の出会う縁に対し、各自がそれぞれ努力するべきだという「自力」の教えが伝承されてしまうのである。 (2024年5月1日) 最近の投稿を読む...
202305
第249回「存在の故郷」④
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第249回「存在の故郷」④  菩提心が菩提を成就するということを、仏教では因果の転換と表現している。そして大乗仏教では、因が果を必然としてはらむ状態を「正定聚」や「不退転」と表現し、阿弥陀如来はその果を確保する手がかりとして、それらを一切の衆生に与えんと、大悲をもって誓っている。阿弥陀如来は、衆生の存在の故郷として仏土を建立するのだが、この国土において衆生に涅槃の超証を必定とする正定聚の位を与えようと誓うのは、菩提という課題を成就するためだとされるのである。  ところで、阿弥陀如来の願心に不退転が誓われていることは、大涅槃に至るという究極的な目的から再考してみると、いかなる意味を持つと言えるだろうか。親鸞はこの内実を、凡夫である自己にとってどのようなことと受けとめたのであろうか。そして、大涅槃が存在の故郷であることは、それが衆生という存在にとって究極の目的であるということにとどまるのであろうか。  ここに、親鸞が『大無量寿経』を「真実の教 浄土真宗」(『教行信証』「総序」、『真宗聖典』初版〔以下、『聖典』〕150頁)と捉えて顕示されたことの意味をしっかり確認しなければなるまい。その問いに向き合う時、親鸞が法蔵菩薩の意味について「この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて、無碍のちかいをおこしたまうをたねとして、阿弥陀仏と、なりたまうがゆえに、報身如来ともうすなり」(『一念多念文意』、『聖典』543頁)と了解されていることが思い合わされる。『大無量寿経』は、「如来の本願を説きて、経の宗致とす」(『教行信証』「教巻」、『聖典』152頁)と押さえられているように、法蔵菩薩の本願を説き表している。その経説が「一如」から出発している教言であると言うのである。一如は、法性や仏性など、大涅槃と同質・同義であるとも注釈されている(『唯信鈔文意』、『聖典』554頁参照)。  法蔵菩薩がこの一如からかたちをあらわした菩薩であるということは、大涅槃が究極の終点ではなく、菩薩道の出発点であるということを暗示していると見ることもできよう。  そもそも我らの生存は、時間的にも空間的にも重々無尽(じゅうじゅうむじん)の因縁関係の中に与えられているのではないか。そして仏陀の教意には、このことを衆生に気づかせようとすることがあるのではないか。釈迦如来が五濁悪世に降誕し無我の覚りを開いた背景には、すでに無窮というもいうべき菩提心の歴史的な歩みがあったと、仏陀自ら聞き当て衆生にもそのように説いてきた。このことは、『大無量寿経』における法蔵菩薩の求道の歩みの、背景が五十三仏の伝承として押さえられていることにも窺うことができる。  かくして、仏法においては無始以来の生命の歴史とも言えるような求道心が教えられ、その教えをしかと受けとめた時、その者は三世諸仏の伝承に入れしめられるとして語られるのであろう。 (2024年4月1日) 最近の投稿を読む...

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