親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 衆生(sattva)は「異生(いしょう)」と翻訳される場合がある。それは、みな等しく五蘊(ごうん)所成ではあっても、人間存在の現実的在り方は、それぞれ異なっているからである。その異なりの原因を、宿業因縁であると自覚してきたところに、たぶん「異生」という訳語が選ばれたのであろう。もっとも、衆生ということにも、ただ数が多いというよりも、それぞれが異なっているからだと見ることもありえよう。衆とは、「もろもろの」ということであるが、同じ単位が繰り返されるということのほかに、異なる単位がたくさんあるという意味もありうる。この言葉には、したがって複数を示すだけでなく、集団のなかにある差異性を示しているとも言えると思うのである。

 生存の異なりがあることから、さまざまな差異が生じ、その差異について比較する煩悩(慢)があることから、人間存在の「差別的」で不幸な事態が繰り返されてきた。比較心はコンプレックスを生み出す。このコンプレックスには、優越感と劣等感があるけれども、さらに仏教は「等慢」ということを言う。つまり、人間が宿業存在であるかぎりにおいて、同じだということにも実は比較する煩悩が付いていて、いつでも優劣のコンプレックスに変じうるということである。

 そういう煩悩である慢の根底を突き破って、必ずや平等の視点を与えたいという願心が、法蔵菩薩の「十方衆生」への勅命となっている。「我が国に生まれんと欲せよ」という欲生心の呼びかけを「勅命」と親鸞が言うのは、願心に酬報した場所(報土)への意欲には、衆生に真実の平等への眼を開く力があるからであろう。

 曽我量深が「宿業本能の大地」という言葉を感得したのは、衆生に差異を与えてくる根本原因である宿業にこそ、法蔵発願の大悲の深い意図とその課題を成就せんとするかたじけなさがあると見たからに相違ない。無明の闇をこそ法蔵願心のはたらく場所だとする曽我の表現も同じ問題意識からきているのであろう。衆生が無明に覆われた閉鎖的存在であることには、自我の壁を築いて孤独の悲哀に陥るのみならず、衆生同士の連帯意識があっても、それが必然的に他の衆生との間に壁を築いてしまうことが起こりうるのである。この壁が、団体同士の争いや国家間の戦争にさえ発展してしまうのであろうと思う。親鸞が「大信海を案ずれば、貴賤・緇素を簡ばず、男女・老少を謂わず」(『教行信証』、『真宗聖典』236頁)と言うのは、本願の功徳に触れるなら、法蔵菩薩の大悲心が一切の差異を貫いて平等たれと呼びかけてくるということなのだと思う。

(2017年6月1日)

最近の投稿を読む

公開講座画像
第235回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑥
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第235回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑥  善導のいわゆる「十四行偈」の出だしの「道俗時衆等 各発無上心 生死甚難厭 仏法復難欣 共発金剛志 横超断四流」(『真宗聖典』235頁)の問題である。この偈文に、了解しにくい内容がある、と思う。菩提心が「各発」という意味であるならば、それは成就しがたくあるのに、「共発」として「金剛の志」であるなら「横超」において「四流(迷妄の生存)」を「断つ」ことができる、という偈の言葉が突然に出されているからである。そもそも発菩提心は、個人に発起する仏教的意欲(仏に成りたいという意志)を表している言葉であるし、それが「共発」として「金剛」であるように発起するということは、かなり「困難」だとも思えるからである。...
公開講座画像
第234回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑤
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第234回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」  法蔵菩薩とは、苦悩の衆生を救済しようと願う普遍的な菩提心を象徴する名である。苦悩の衆生とは、親鸞の言葉に「諸有に流転の身」とある。諸(もろもろの)とは、それぞれの宿業因縁に依って、この五濁悪世に生存を与えられているすべての生命存在ということである。「諸有」として、それぞれ異なる身体を与えられ、おのおの別々の境遇や限定を受けつつ、この五濁の世に生きているということである。それらすべての事情を超えて、普遍的にすくい取らずにはおかない、という志願を「法蔵」という名にこめて、『大無量寿経』(以下、『大経』)が法蔵菩薩の因願を語り出しているのである。...
公開講座画像
第233回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」④
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第233回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」④  そもそも仏法の課題は、流転の苦悩を超脱するところにある。言い換えれば、生死の迷いを超克するのである。この目的を達成すべく求道するところに、仏道が存立してきたのである。  これは衆生の普遍的苦悩である四苦八苦の生存を出離することである。その出離生死の課題を独り超え出るのみでなく、衆生と共に歩み続けようという方向に、如来の願心を聞き当ててきたのが大乗仏道の歩みであった。その思想の依り処となったものが、如来の入滅を前になされた涅槃説法であり、そこから『涅槃経』が編み出されてきたとされる。...

テーマ別アーカイブ