親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 一般の仏教の発想は、仏陀が指示する無為法(むいほう)、すなわち大涅槃へ自己の努力を尽くして至り得るとする。それに対して、親鸞は徹底的に自己が無能であり愚痴であり、その方向を阻害して止まない罪悪や煩悩を生きる存在であるという智見に立つ。

 例えば、天親菩薩の『浄土論』の五念門行や如実修行という事柄に対しても、一般の仏教の立場なら、自分で努力してこれに相応しようとするであろう。しかし、親鸞は曇鸞の「有漏の心より生じて法性に順ぜず。いわゆる凡夫人天(にんでん)の諸善・人天の果報、もしは因・もしは果、みなこれ顛倒(てんどう)す、みなこれ虚偽(こぎ)なり」(『真宗聖典』170頁)という押さえを厳しく自分に突きつけ続ける。自分には、法性に相応できるような可能性はまったく無いのだ、と。

 それなら、天親菩薩の『浄土論』は、いかにして衆生に可能となるのか。それを可能とするためにこそ、『無量寿経』の本願の教えが発起するのだ、自己の救済の必然性としてこの道理を取り入れるのだ。たとえ求道心がつまずこうとも、救済への深い要求は諦めきれない。むしろその深い要求をこそ、如来回向の欲生心と仰ぐのである。自分の思いよりも深く、大悲願心がわれらを救うべく歩み続けてくださっていたのだ、と。

 この存在論的な求道心は、表層意識に自覚される救済への要求よりも深く、意識の深層に静かに動き続けている。表面の意識には自覚されないけれども、何かの機会に、あたかも湖の底から吹き上がる湧水のように、われらの生活意識の隙間に垣間見えるものであろう。それが、われらには、生活の不安感となったり、欲求不満の愚痴となったりするのではないか。

 こういうわけで、天親菩薩が五念門を「善男子・善女人」の行のごとくに表しているものを、親鸞は『大無量寿経』に照らして、この行を法蔵願心の「兆載永劫」の行と仰いだ。たとえば、五念の第一の「帰命(礼拝門)」を、善導が「発願回向」であるとする釈を受けて、「「発願回向」と言うは、如来すでに発願して、衆生の行を回施したまうの心なり」(『真宗聖典』177〜178頁)と「行巻」に註釈されるごとくである。

 そして、「如実修行」については、曇鸞が「体、如にして行ずれば、すなわちこれ不行なり。不行にして行ずるを、如実修行と名づく。」(『真宗聖典』288頁)と注釈しているから、如実修行に相応することは、煩悩具足の凡夫にできるはずはなく、どうするのかと言うときに、曇鸞が「如実修行相応は 信心ひとつにさだめたり」(『真宗聖典』494頁)と示されているのだ、と見抜いたのである。

(2017年10月1日)

最近の投稿を読む

公開講座画像
第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①  親鸞聖人のお言葉には、人間存在のもつ実相への深い洞察とそこから染み出てくるような懺悔の心が感じられる。このことには、その背後に『大無量寿経』にまで煮詰められた大乗仏道の菩提心の歴史があるのであろう。総願から別願を開示して、この大乗の菩提心を掘り下げるべく歩みを進めるところに、「法蔵菩薩」なる人間像が生み出されてきている。...
公開講座画像
第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬  本願によって衆生に開かれる「宗教的実存」とは、いかなる構造として表現し得るものであろうか。その構造解明の手がかりを、横と竪という菩提心のありかたから探ってみた。そして我らに開かれる信心の意味に、この世での生き方に対して、超越的で立体的な空間として本願の信仰空間と言うべきありかたが、教えられていることを了解した。...
公開講座画像
第228回「悲しみに秘めた讃嘆」⑫
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第228回「悲しみに秘めた讃嘆」⑫  我らの現実の生存において、宗教的実存を求めてこれを成就するとは、どういうことであろうか。本願の仏教では、阿弥陀如来の本願を信じ、自己の有限なる生存をそのままにして(煩悩具足と信知して)「浄土」に往生し、阿弥陀如来の苦悩の衆生を摂取せんとする志願に随順して衆生済度の志願を輔翼することである、と教えられている。この願心に随順することによって、阿弥陀如来と平等なる仏陀(諸仏)になる、と願われているのである。...

テーマ別アーカイブ