親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 われらの実存の事実を「宿業(しゅくごう)」が支えている。この「宿業」といわれる自己の過去の背景は、いったいわれらのどこに蓄積されているのであろうか。これについて、唯識(ゆいしき)思想においては、われらの意識の深層に「阿頼耶識(あらやしき)」と名づける意識を見いだし、その阿頼耶識に経験の結果が蓄積されて、新しい経験の可能根拠となっていると考えている。行為や経験が起こると、その影響(熏習〈くんじゅう〉)が次の行為・経験の可能性に何らかの変更をもたらすのである。その動き行く可能性の蓄積の場所を、阿頼耶識と名づけるわけである。阿頼耶識は、その可能性(種子〈しゅうじ〉)と身体・環境を持続的に感覚する用(はたら)きである、といえよう。

 一人の人間には、その人独自の身体と、その人だけの一回限りの人生が与えられる。それを別業(べつごう)の所感という。その人独自の業の蓄積が、その人独自の人生を引いてくるというのである。それを「業報(ごうほう)」というのである。その業報を引き受けている場所が阿頼耶識なのである。すなわち、後戻(あともど)りも繰り返すことも、取り替えもきかないこの一回限りの人生を、責任をもって生きている主体が、阿頼耶識なのである。そういう実存の責任とは、いわゆる行為の責任としての倫理的責任ではない。誰にも取り替えられない一個の実存の責任感である。つまり、存在の責任感である。

 その責任感は、一切衆生を荷負(かふ)して永劫(ようごう)に歩み続けようと発願(ほつがん)する法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)の意味と重なる。この法蔵の志願は、どのような苦悩の実存であろうとも、逃げようとすることなく黙って担(にな)って生きる阿頼耶識と共通の意味があると感得したのが、曽我量深(1875〜1971)であった。「法蔵菩薩は阿頼耶識なり」というテーゼは、業報の場所たる阿頼耶識を、迷いの人生の主体であるのみならず、その苦悩の実存を担う志願という意味もあると感得したということであろう。われらの表層の意識は、そのときどきの状況を映して移ろいゆくが、その経験の全体をいつも背負って生きているものは、決して変わることのない一個の実存の主体である。その主体が自己自身を真に自覚することは、困難である。深層意識なるが故である。その主体に気づこうとする意欲が、如来回向(にょらいえこう)の求道心なのだということなのではないか。だから、その求道心こそ、深みの阿頼耶識なのではないか、というのであろう。

(2008年5月1日)

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第243回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑭
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第243回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑭  法蔵菩薩の誓願が一如宝海から発起するということを、『大無量寿経』では「超発」(『真宗聖典』14頁)と表現している。それは、煩悩具足の凡夫に普遍的に与えられている仏性の成就、すなわち『大般涅槃経』が言うところの「一切衆生悉有仏性」(『教行信証』「信巻」、「師子吼菩薩品」引文、『真宗聖典』229頁)の成就たる成仏には、凡夫自身にはその可能性が全くないにもかかわらず、それを必ず成就させようとする大悲の必然があるのだということである。先回触れたように、ここで「超発」とされてくることを、親鸞は一如宝海より形を現し御名を示してくることとして了解した。それは曇鸞が、「法性法身に由って方便法身を生ず。方便法身に由って法性法身を出だす」(『教行信証』「証巻」、『浄土論註』引文、『真宗聖典』290頁)と注釈しているからであると拝察する。    法蔵願心が、誓願を超発するということは、文字や分別に執着してやまない凡夫に、その執着を突破した存在の本来性たる法性に帰らしめんがための方便を与えようということである。寂静なる法性と虚妄分別してやまない凡夫の執着との間を直接つなぐ橋は架けられない。虚妄というあり方で分別する以外には、我ら凡夫の存在了解は成り立ち得ないのである。    そのことを明瞭に知りながら、それを超えて彼方から橋を架けるがごとくに、法蔵願心は本願を超発するという。そのことを菩薩として受け止めるとはどういうことなのか。龍樹が『十住毘婆沙論』で、軟心の菩薩のために難易二道を示して、大乗の菩薩に課せられた、不退転地に至るという課題に応えようとするところには、このような不可能を可能にするべく大悲の願心が超発しているということが見通されていなければならないのであろう。    菩薩十地の初地は、「歓喜地」(『教行信証』「行巻」、『十住毘婆沙論』引文、『真宗聖典』162頁)と名付けられている。その歓喜の意味とは、仏道に入門し仏法を聞思してきた菩薩が、仏道の究極にある「大菩提」を、自分において「必ず成就することができる」と確信し得た喜びであるとされている。菩薩道の成就を確信する歓喜なのである。そこに「初」と言われているのは、仏道成就の確信が、「初めて」成り立ったことを表し、また『華厳経』(六十華厳)に「初発心時便成正覚」(「梵行品」、『大正新脩大蔵経』第9巻449頁下段)と説かれているように、初めて発心したとき、正覚を必ず成就できることとして見通されていることを示している。その可能性として表明された信念を、確実なものとする道を龍樹は求めた。「十地品」(『華厳経』)の釈論である『十住毘婆沙論』では、難易二道とされて、あたかも相対的な選びが可能であるかのごとく表現されているが、親鸞にあっては、難行は陸上の隘路のごとく、易行は水上の乗船の大道のごとくに了解されているのである。    こういう展開を下敷きにして本願の意図をいただいてみるなら、曇鸞が第十一願に着目したことも、もっともだと思う。さらには、親鸞がこの願によって正定聚・不退転を真実信心の利益として、現生に「正定聚に入る」(『教行信証』「信巻」、『真宗聖典』241頁)と確信されたことも了解できるのである。   (2023年9月1日) 最近の投稿を読む...
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第242回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑬
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第242回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑬  法蔵菩薩の願心は、「本願海」として展開された大菩提心である。この大菩提心の立ち上がる根底には、「一如宝海」があるとされる。そのことを親鸞は「この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)と語るのである。一如とは菩提の内容であり、大乗仏教では大涅槃とも言う。それ自体は「いろもなし、かたちもましまさず」(『唯信鈔文意』、『真宗聖典』554頁)とされ、凡夫の認識の対象や感覚の内容としてはまったく見当もつかず、無内容な事柄のごとくに見えてしまう。つまり、われら凡夫には捉えようがないということなのである。もっと積極的に言うなら、仏陀の覚(さと)りの内容は、凡夫の妄念ではまったく了解し得ないということである。  この落差というか断絶というか、手がかりさえつかめない状態を捉えて、仏陀の側から慈悲の心によって敢(あ)えて「かたち」や「いろ」のごとくに象徴的にあらわすことにより、この断絶を突破させる方法(方便)を案じ出した。その「かたち」が『無量寿経』の本願の主体たる法蔵菩薩であり、大菩提心の行相だということである。それを曇鸞は、「法性法身に由って方便法身を生ず。方便法身に由って法性法身を出だす」(『浄土論註』『教行信証』「証巻」引文、『真宗聖典』290頁)と了解し表現した。法性法身とは一如宝海であり、方便法身はそこから姿をあらわした法蔵菩薩だということである。そして、『大無量寿経』の語る因願・成就は、まさに「方便法身」の展開する内容だということになる。  したがって、法蔵菩薩の果である阿弥陀仏が方便法身の相であるからには、仏土として表現される「報土」も方便法身の相であるに相違ない、ということである。「願心の荘厳」(同前289頁)という『浄土論』の言葉とその内容を、『大無量寿経』の本願の因果に返して解釈した曇鸞のこの視座は、親鸞にしっかりと受け継がれているのである。  このように本願の成り立ちを、一如宝海から「かたち」をあらわし御名を示した法蔵菩薩に返してみると、浄土の荘厳功徳を『無量寿経』の本願の言葉に照らして了解する曇鸞の意図は、確かに龍樹の『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』の方向と重なってくるのである。龍樹は、難行易行の相対を通しながら、菩薩の中には「軟心(なんしん)」のものもあり、その要求に応えるかたちで、方便して易行を開示したのである。その易行を説き出す場は、菩薩十地の初地において「阿惟越致(あゆいおっち:不退転)」の確信を開くためのものであった。  その初地は「歓喜地(かんぎじ)」と名付けられているのだが、不退転の確信を得た喜びである「歓喜」を、法蔵願心は「諸有の衆生」に「聞其名号、信心歓喜」(『無量寿経』、『真宗聖典』44頁)として広く開示しようとしたのだ、と親鸞は見られたのである。 (2023年8月1日) 最近の投稿を読む...
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第241回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑫
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第240回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑪  大乗仏教運動と呼ばれる大きなうねりは、果たる覚りを求める因位(いんに)の菩薩を語りだす方向と、覚りの証果を解明しあらゆる衆生に平等に届けようとする方向を生み出した。それは一方では、求道心を限りなく展開する『華厳経』となる。その場合、因分は説くことができるが果分は不可説だと見ることになる。そして、他方では果の涅槃を釈尊の個人体験に留めるのでなく衆生の獲得すべき究極の課題であるとし、また一切衆生に施与された可能性として論究していく方向を取ろうとする。それは大乗の『涅槃経』となって僧伽(さんが)の課題を究明していくことになった。    この二つの方向を展望しながら、大乗仏教を代表する僧である龍樹の名で中国に伝えられたものがある。鳩摩羅什(くまらじゅう)によって翻訳された『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』(以下『十住論』と略す)である。この論は『華厳経』に組み込まれた「十地品」の解釈である。その初地の釈のなかに「易行品」があり、易行として諸仏の称名が出され、そのなかに阿弥陀の名もあり、その阿弥陀の名には本願があるとして特別に取り上げられているのである。    この論に曇鸞が注目し、天親の『無量寿経優婆提舎願生偈(むりょうじゅきょううばだいしゃがんしょうげ)』(『浄土論』)の注釈をするにあたり、龍樹の『十住論』を通して五難(外道の相善・声聞の自利・無顧の悪人・ 顚倒の善果・自力のみで他力を知らない)を示し、それまでの仏道が時代の課題(五濁・無仏の世界)に対応していないことを指摘して他力の易行を表してきたことを語っている(『真宗聖典』167~168頁、『教行信証』「行巻」・『論註』引文参照)。    親鸞が判明に見出したことは、この大乗仏道のテーマの背景に『涅槃経』で取り上げられる五逆・謗法・一闡提を摂するべきという僧伽の課題があり、それらを包んで一切衆生を平等に救済しうる道が求められているということである。阿弥陀の因位の本願には様々の課題が語られており、その中心に一切衆生に開かれるべき「大涅槃」についての願(第十一願)があり、その成就のための道として称名を諸仏が勧める願(第十七願)があり、その願に応答して行者に信心が施与される(第十八願)のだが、それらの願を総合する願心の主体としての「法蔵菩薩」なる菩提心の永劫修行が語られる。いわば『華厳経』で取り上げられる菩提心の課題を受け継ぎ、その菩薩の願心のなかに『涅槃経』の課題たる三病人の救済を成就すべく、大悲の第十八願に「唯除五逆誹謗正法」と示されているのである。 (2023年7月1日) 最近の投稿を読む...

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