親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 正定聚(しょうじょうじゅ)と定まった位をいただいて、この現世を凡夫として生きていくことを、仏弟子の積極的な意味として明らかにしようとしたのが、親鸞の「欲生心(よくしょうしん)の成就」という言葉で表したかったことなのではないか。しかしながら、「末法」という時代に生きるものは、その生死の場所が、五濁悪世であることをいやというほど知らされる。その末法の危機感を引き受けて、しかも喜びと共に生きていくことができる信念を、「真実信心」として獲得できるということを、正定聚の位を現生(げんしょう)にいただくのだということで、宣言したかったのではないか。

 親鸞においては、五濁増(ごじょくぞう)の実感は我が子善鸞にからんで、ことに深かったのではなかろうか。関東の門人達の間の争論の質が、如実に利害関心を伴っての教義争いであったであろうし、自分の名代として使わした善鸞が、あろうことか、新たな争論の中心になっていってしまい、やむなく親子の縁を切らざるをえないという事態になったのであり、その事件を背景にして、『歎異抄』の第二条の「十余か国のさかいを越えて」(『真宗聖典』626頁)はるばる関東から門弟が親鸞を訪ねてくるようなことにもなっていたのであるから。

 そのなかで『正像末和讃』が構想されていき、その途上で「夢告」に出遇うのである。

  弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな

   摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり (『真宗聖典』500頁)

との和讃を夢で受けて、「うれしさに書きつけまいらせたるなり」と記し、「康元二歳丁巳(ひのとのみ)二月九日夜寅時」と日時までも記している。善鸞義絶事件の次年の二月初旬のことで、親鸞八十五歳のことであった。

 しかし親鸞は、弥勒菩薩を主題として始めた『正像末和讃』を、五濁を表している和讃を初めに置くように編輯(へんしゅう)し直しているようである。その場合に、五濁のいちいちの内実を『安楽集』が取り上げる『大集経(だいじっきょう)』の言葉によって、その意味を押さえ直して、衆生濁・劫濁・煩悩濁・見濁・命濁のそれぞれをあらわし、第十首目から、

  末法第五の五百年 この世の一切有情の

   如来の悲願を信ぜずは 出離その期(ご)はなかるべし

  九十五種世をけがす 唯(ゆい)仏一道きよくます

   菩提に出到(しゅっとう)してのみぞ 火宅の利益は自然(じねん)なる

  五濁の時機いたりては 道俗ともにあらそいて

   念仏信ずるひとをみて 疑謗(ぎほう)破滅さかりなり(『真宗聖典』501頁)

と言って、末法濁世の悲しみにおいて、「仏の一道」をいよいよ明らかにする外に道はないことを詠(うた)っているのである。

 こういう末法の抜きがたい汚辱(おじょく)を見つめつつ、「火宅の利益」を生きていこうという志願が、「正定聚」の位を生きる現生の内容なのだということなのではなかろうか。

(2010年8月1日)

最近の投稿を読む

公開講座画像
第235回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑥
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第235回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑥  善導のいわゆる「十四行偈」の出だしの「道俗時衆等 各発無上心 生死甚難厭 仏法復難欣 共発金剛志 横超断四流」(『真宗聖典』235頁)の問題である。この偈文に、了解しにくい内容がある、と思う。菩提心が「各発」という意味であるならば、それは成就しがたくあるのに、「共発」として「金剛の志」であるなら「横超」において「四流(迷妄の生存)」を「断つ」ことができる、という偈の言葉が突然に出されているからである。そもそも発菩提心は、個人に発起する仏教的意欲(仏に成りたいという意志)を表している言葉であるし、それが「共発」として「金剛」であるように発起するということは、かなり「困難」だとも思えるからである。...
公開講座画像
第234回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑤
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第234回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」  法蔵菩薩とは、苦悩の衆生を救済しようと願う普遍的な菩提心を象徴する名である。苦悩の衆生とは、親鸞の言葉に「諸有に流転の身」とある。諸(もろもろの)とは、それぞれの宿業因縁に依って、この五濁悪世に生存を与えられているすべての生命存在ということである。「諸有」として、それぞれ異なる身体を与えられ、おのおの別々の境遇や限定を受けつつ、この五濁の世に生きているということである。それらすべての事情を超えて、普遍的にすくい取らずにはおかない、という志願を「法蔵」という名にこめて、『大無量寿経』(以下、『大経』)が法蔵菩薩の因願を語り出しているのである。...
公開講座画像
第233回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」④
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第233回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」④  そもそも仏法の課題は、流転の苦悩を超脱するところにある。言い換えれば、生死の迷いを超克するのである。この目的を達成すべく求道するところに、仏道が存立してきたのである。  これは衆生の普遍的苦悩である四苦八苦の生存を出離することである。その出離生死の課題を独り超え出るのみでなく、衆生と共に歩み続けようという方向に、如来の願心を聞き当ててきたのが大乗仏道の歩みであった。その思想の依り処となったものが、如来の入滅を前になされた涅槃説法であり、そこから『涅槃経』が編み出されてきたとされる。...

テーマ別アーカイブ