親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 正定聚(しょうじょうじゅ)の信心を因として大涅槃(だいねはん)の果を得るという因果について考えようとしている。

 この「因果」のあり方は、時間のなかに因が成熟して果になるという意味の因果ではない。『往生要集(おうじょうようしゅう)』正修念仏章に、仏教の因果を仏性の問題として論じている所がある。そこでは、願生心(がんしょうしん)は菩提心(ぼだいしん)であるとする曇鸞大師(どんらんだいし)の主張を受けて、五念門(ごねんもん)の「作願門(さがんもん)」を仏性(ぶっしょう)として考察する所である。そこに「了因仏性(りょういんぶっしょう)」ということを言っている。

 『涅槃経(ねはんぎょう)』では、仏陀の覚(さと)りの智見が、仏陀の本質たる仏性であり、その仏性を顕(あらわ)す智恵から見れば、衆生(しゅじょう)は「悉有仏性(しつうぶっしょう)」であるとされる(「真仏土巻」に引用の『涅槃経』には、「一切衆生悉有仏性」は仏の随自意説(ずいじいせつ)であるといわれている。『真宗聖典』312頁参照)。その智恵が無ければ、仏性は見えないから、凡夫にとっては仏性が無いことになるのを、智恵が開けるならば、一切衆生は悉有仏性である、と見ることができるのだ、と。だから、この意味で仏果たる智恵から見れば、果たる大涅槃が顕れるということで、覚ることを因として果たる大涅槃が顕れるという意味の因果(「了因仏性」)であり、作願門たる願生浄土の心が仏性という意味をもつという。

 これは意識の転換によって、異なった事実をわれらが感受することからも考えられよう。腹立ちの中で受けとめた悪い意味は、好感をもった場合には消えて無くなる。それを、好感を因として果の功徳(くどく)を見いだす、と表現することもできよう。この功徳は、実体的に無かったものが現れたのではなく、見るものの意識の転換で無かったものが有るようになることである。これを仏性の考え方に当てはめれば、了因仏性ということになると言えよう。

 親鸞聖人は、こういう聖道門の学問的概念は、一切用いられないけれども、この言葉が出ている『往生要集』正修念仏章のすぐ後の文から「煩悩は転じて菩提の水となる」ということを、「行巻」(『真宗聖典』198頁参照)にも「高僧和讃」(『真宗聖典』493頁参照)にも使っておられる。そうしてみると、『往生要集』の考え方を踏まえたうえで、それを本願念仏の信心において、「転悪成善(てんあくじょうぜん)」の因果を凡夫が具体的に感受することとして、取り出されるのであろうと思う。どこまでも愚痴(ぐち)なる凡夫の罪悪深重の自覚を離れることなく、この煩悩と涅槃を貫く大乗の因果をいかにして獲得できるのか。「煩悩即菩提 生死即涅槃」という大乗仏教の旗印を、どのような愚痴無知の凡夫のうえにも獲得できるとするものは、いかなる方法であるのか。

 「信巻」引用の『往生要集』の言葉に「煩悩障眼雖不能見 大悲無倦常照我身(煩悩に眼を障えて見たてまつるにあたわずといえども、大悲惓きことなくして常に我が身を照らしたまう)」(『真宗聖典』222頁)ということがある。おそらく親鸞聖人はこの言葉に、大乗仏教の智見が煩悩具足の凡夫に開示される可能性を源信僧都(げんしんそうず)は信じておられることを知ったのではなかろうか。煩悩をさまたげとしないはたらきを信受するところに、涅槃が開示されるのだ、と。しかし、煩悩に眼が覆(おお)われているという事実は、相変わらずなのである。ここに、親鸞聖人が大乗の因果を、因果一如(いんがいちにょ)であると言い切らずに、凡夫の立場からは「正定聚」の位をいただくのだ、と押さえて、果を純粋未来からの回向のはたらきに帰託するとされる大事な自覚があるのではないか。

(2012年1月1日)

最近の投稿を読む

公開講座画像
第235回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑥
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第235回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑥  善導のいわゆる「十四行偈」の出だしの「道俗時衆等 各発無上心 生死甚難厭 仏法復難欣 共発金剛志 横超断四流」(『真宗聖典』235頁)の問題である。この偈文に、了解しにくい内容がある、と思う。菩提心が「各発」という意味であるならば、それは成就しがたくあるのに、「共発」として「金剛の志」であるなら「横超」において「四流(迷妄の生存)」を「断つ」ことができる、という偈の言葉が突然に出されているからである。そもそも発菩提心は、個人に発起する仏教的意欲(仏に成りたいという意志)を表している言葉であるし、それが「共発」として「金剛」であるように発起するということは、かなり「困難」だとも思えるからである。...
公開講座画像
第234回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑤
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第234回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」  法蔵菩薩とは、苦悩の衆生を救済しようと願う普遍的な菩提心を象徴する名である。苦悩の衆生とは、親鸞の言葉に「諸有に流転の身」とある。諸(もろもろの)とは、それぞれの宿業因縁に依って、この五濁悪世に生存を与えられているすべての生命存在ということである。「諸有」として、それぞれ異なる身体を与えられ、おのおの別々の境遇や限定を受けつつ、この五濁の世に生きているということである。それらすべての事情を超えて、普遍的にすくい取らずにはおかない、という志願を「法蔵」という名にこめて、『大無量寿経』(以下、『大経』)が法蔵菩薩の因願を語り出しているのである。...
公開講座画像
第233回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」④
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第233回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」④  そもそも仏法の課題は、流転の苦悩を超脱するところにある。言い換えれば、生死の迷いを超克するのである。この目的を達成すべく求道するところに、仏道が存立してきたのである。  これは衆生の普遍的苦悩である四苦八苦の生存を出離することである。その出離生死の課題を独り超え出るのみでなく、衆生と共に歩み続けようという方向に、如来の願心を聞き当ててきたのが大乗仏道の歩みであった。その思想の依り処となったものが、如来の入滅を前になされた涅槃説法であり、そこから『涅槃経』が編み出されてきたとされる。...

テーマ別アーカイブ