親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「横超」とは、大悲の如来と煩悩具足の凡夫との出遇いが、超越的に起こることであり、その出遇いを衆生の側から見るならば、自力の分別や反省の思いなどを破って如来回向の信心が発起することなのである。願心は「超発無上殊勝願〈無上殊勝の願を超発せり〉」(『無量寿経』、『真宗聖典』14頁)とか「超発於誓〈誓いを超発して〉」(『教行信証』、『真宗聖典』152頁)と言われ、一切衆生に平等の救済を開こうと発起するのであり、衆生がそれを聞き当て聞信することができた場合の自覚の在り方を「よこさま」と示しているのである。

 ところで、この如来からの超越的な発起の表現を、親鸞は衆生に発起する信心の本質にも使いうるのではないかと気づかれた。信心は涅槃の真因であり、仏になる因であるからには菩提心なのではあるが、しかし自力の菩提心ではない。本願成就の信心であり、だから「横超の菩提心」だと言うのである。信心は横超の菩提心なのである。この気づきの端緒は、『大無量寿経』下巻のいわゆる三毒段の始めに置かれた言葉であったろう。そこには「必得超絶去 往生安養国 横截五悪趣 悪趣自然閉〈必ず超絶して去つることを得て、安養国に往生して、横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉じん〉」(『真宗聖典』57頁)とある。親鸞はこの文を「信巻」の「横超断四流」釈の段に引用されるのである(『真宗聖典』243頁参照)。

 善導による「十四行偈(帰三宝偈・勧衆偈)」の「共発金剛志 横超断四流〈共に金剛の志を発して、横に四流を超断し〉」(『真宗聖典』146頁)には、信心にかかわる二つの問題がある。すなわち信心が「金剛」であるということと、その信心は「横超断四流」という作用を有するのだということである。本願成就の信心がこの二つの性質を有(も)っていることを、親鸞は「信巻」で論じている。特にこの中で断じられるべき「四流」には「生老病死」の四苦を当て、さらには『涅槃経』によって「欲暴・有暴・見暴・無明暴」をも引き出している(『真宗聖典』244頁参照)。

 この四流は、我ら衆生の生存を流転輪回(状況に振り回され自分自身を見失わせてしまう在り方)させる生命の暴流である。その流れから自己を取り戻す依り処が涅槃なのであり、それを「洲渚(すしょ)」だと『涅槃経』によって明示されている(同前参照)。そして信心の発起は、「六趣四生の因亡じ果滅す」ということが現前する事実なのだ、とされるのである。

 確かに、一応の論理的必然性としては、このことには強い説得力がある。けれども、我ら凡夫の生命存在の事実には、煩悩が惹起(じゃっき)して止むことがない。この矛盾をどう処理すればよいのか。その隘路(あいろ)を、生前と死後に分断して処置しようとするのが、親鸞以外の多くの浄土教学者だった。

(2018年10月1日)

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第239回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑩
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第239回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑩  我らの意識のあり方は、意識する作用と意識される内容とによって常に二分されている。このことを仏教では、意識は「分別(ふんべつ)」であると言い当てている。分別は、常に対象を内容とする作用なのである。しかもそれは虚しく妄りに分別しているから、虚妄分別(こもうふんべつ)であるとも言う。意識の分別のあり方そのものに、妄念が付いているのだというのである。  その虚妄を晴らすべく唯識思想の教えが表されてくるのであるが、その唯識思想の展開についてはここでは触れない。問題となるのは、その対象とされる意識内容が人間にとって常に興味を引く対象にのみ一切の頭脳活動を集中させていくという近代以降の発想方法のあり方である。その結果として、科学的な知識とそれを応用する技術は現代の文明社会の便利さを生み出したが、競争が過熱する社会をも現出してきているということなのである。  仏陀釈尊が無我の体験を言葉によって表すことを躊躇したという伝説が伝えられているのは、意識の二分化を前提にして言葉が成り立っているということ、そのことに釈尊が気づいていたからであろう。意識内容を言葉で表現することにより、自己の意識生活を他己に伝えることができる。それが言葉の持つ勝れた機能ではあるのだが、そこには限界がある。だから、自己の無我の体験を言葉にすることの困難さを前に、釈尊はひとまず沈黙された。しかし、その困難さを超えて、あえて言葉による共通体験の方向を信頼して、さとりの体験を言葉にして説き表すという決断をした。人間の現世の言葉による意識生活には、意識の対象界のみではなく、意識する作用それ自体によって起こってくる底知れぬ不安感や、生存自身の危機感がある。釈尊の決断の背景には、釈尊がそういった不安感・危機感から出家求道をせざるを得なかったという自己自身の求道過程があった。  それにより、衆生の持つ根本問題を見通した仏陀釈尊は、その問題を解き明かすべく、言葉の限界を超えて如来の教言を紡ぎ出していったのではないかと思う。  初期の仏弟子たちが出遇った如来の教えは、果である無我の体験、すなわち「さとり」と言われる内容を言葉によって表現しようとする教えであった。それは後に起こった大乗の教義了解からするなら、果たる証から教えが始められているということである。証から教が出てきている。因から果に到るという次第で、その果が説き出されたのである。  ところが仏陀の覚りに近づくために、虚妄分別から出発して果を求める道程を歩む者には、悪戦苦闘の努力をもってしても、その達成は困難であった。だからこそ大乗の志願は、如来の無限なる慈悲において、一切の衆生に普遍的な証果をもたらす教えを要求して止まなかったのである。 (2023年6月1日) 最近の投稿を読む...
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第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨  有限なる存在を、浄土教の歴史的な表現では「凡夫」という。凡夫とは一般用語であるが、この語において、仏教に出遇っている自分の存在の意味を、無限なる如来の大悲の眼に照らし出されたあり方として、表現しているのである。そうすると、善導が押さえているように、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(『真宗聖典』215頁)と深く信じるところにあるのが凡夫である。この自覚において親鸞は、「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』〔『真宗聖典』545頁〕)と言われているのである。  浄土教の自覚に表れてくる罪障の自覚とか罪業の身の重さということは、有限という語には現れてはいないのであるが、浄土教の求道における自覚的な表現とは、こういう罪障の自覚を通した有限なる自己の表現であると言える。その対照である無限という語にも、仏道の無為法ということで求められてくるような永劫に変わらない真実という性格はさしあたってないのであるが、求道の問題として無限という語を使う場合は、仏智の大きさや広大な涅槃ということも含まれてくると言うべきなのである。  この広大無辺の無限は、法蔵願心の果であり、因位の菩薩として法蔵菩薩は、果たる一如・涅槃から立ち上がったのだと言われる(『一念多念文意』〔『真宗聖典』543頁〕及び『唯信鈔文意』〔『真宗聖典』554頁〕参照)。その因位の修行は、大悲によって我ら衆生を済度せんがために、「兆載永劫」の時を貫く菩薩行であるとされている。兆載の時間をかけて、虚妄分別する我らに真実信を成就させようというのだと、親鸞は受けとめられているのである。  有限なる我らは、どこまでも煩悩具足の身を離れないから、決してそのまま無限に成ることはできない。しかし、無限の無限たる所以(ゆえん)は、一切の有限を包んでいるところにある。親鸞はこの道理について、善導が法蔵菩薩の果たる如来(阿弥陀如来)を「摂取不捨」として示していることに着眼している(「摂取して捨てざるがゆえに、阿弥陀と名づく」と善導が釈しているのを『教行信証』「行巻」で取り上げている〔『真宗聖典』174頁参照〕)。すなわち、無限大悲の光明は、たとえ我らが忘れようとも常に照らしていてくださるのだという。この道理にうなずくことにおいて、有限なる我らに無限のはたらきが具足する。親鸞は、このことを「如来回向」の信心として表されたのである。 (2023年5月1日) 最近の投稿を読む...
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第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧  親鸞の示す「金剛の信心」とは、大悲の不可思議なるはたらきによって、われら有限なる存在がどういう状態であるかを問わず、大いなる光明(無限大悲)が常に我等を包み摂していると信じることであるとされる。ここに有限・無限という言葉を出しているので、この二項(有限・無限)の関係を考察してみよう。    仏教語の一般的表現で「無為法」と言われる場合は、対応する言葉は「有為法」である。この有為法とは、我等有限の一切の事象が、すべて時間とともにあり、時を超えて永続する物事は存在しないということであり、「諸行無常」(あらゆる存在は永続しない)であるとされている。この諸行(一切の現象)が「有限」に相当する。そこから言うなら、無為法は「無限」と言われることの内容に当たるわけである。移りゆき変わりゆく一切の現象に対し、時間的な要素を交えず、いわば永久不変なることを示す概念が、「無為法」である。    この無為法という概念に相当する語が、一如・真如・涅槃・法性などと教えられ、さらには法身・実相・常楽などと転釈されていく。これらの教学用語は、それぞれに微妙な差異を生じてはいる。しかし親鸞は、それらを『涅槃経』などを依り処として、すべて同等の意味を示す概念であると了解している。これらの用語をすべて無為法なる概念の内容であるとするなら、いま考察している無限は、仏教的理念で言うと「涅槃」に相当するということになる。    親鸞が、『大無量寿経』に語られている「法蔵菩薩」とは、「一如宝海よりかたちをあらわして」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)きたと了解していることは、いかなる意味になるのであろうか。文字通りであれば、時間を超越した無限であるはずの一如が、有限の生存上の名告り(これは時間的に消滅する存在になる)に成ることである。このことは普通には、矛盾そのものである。しかしながら、法蔵菩薩が大悲の心の示現であるから、矛盾を超えて、無限が有限に展現するという表現であるとされている。    無限とは、内に有限の一切を包んでいる。しかるに、有限から無限を考究しようとするなら、無限なる事態は、自己の外に、いかにしても到達することなどできない極限の様態として考えられることになる。無限の立場からは、「内」とされるありかたが、その内の有限からは、「外」であるということになる。この内・外の矛盾を、清沢満之は有限と無限との「根本的撞着」と言われるのである。この矛盾が一致することを求めることこそ、宗教的実存の要求であるというわけである。 (2023年4月1日) 最近の投稿を読む...

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