親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 親鸞は「如来の回向」を依(よ)り処(どころ)として、「願生彼国(がんしょうひこく) 即得往生(そくとくおうじょう)」(『真宗聖典』44頁)を、衆生の通常の意識としての心理的体験内容、「願生したら、いずれ往生する」と理解するのではなく、大悲の回向が衆生に恵む存在の利益なのだから「願生の即時に往生して不退転(ふたいてん)に住する」のだ、と受得した。すなわち「住不退転」を成り立たせる内なる動的因果が回向との値遇(ちぐう)なのだと読むのである。そのままでは凡愚(ぼんぐ)に成就するはずのない「不退転」の信念が、如来の回向との値遇によって、一切衆生に平等に発起(ほっき)しうる。このことが、真実信心を表す大切な意味となるとするのである。

 このときの「願生彼国」とは、かの国を荘厳(しょうごん)し建立する大悲のはたらきたる本願を、自己の環境として生きることである。つまり、如来の本願を生活根拠とするということである。これはわれらの日常的自我関心が、いったん、死ぬことである。「信に死し」と曽我量深が言うのは、「願生」とは「願に生きる」のであるから、何かが死ぬことが前提とされているということを見いだしたからである。この死は「穢土に死ぬ」と言っても良いのであろうが、「自我の邪見(じゃけん)が死ぬ」ということなのではないか。そして、凡夫は自分で死のうとして死ぬことはできないが、「本願に乗ずる」ということによって、それまでの根拠を捨てるということがあるのだから、それを「信に死して」と表現したのではないか。自力が死ぬことなしに、本願力に値遇することはできないからである。また、本願力に値遇することなしに、自力に死することはできないからである。

 「即得往生」とは、時日を隔(へだ)てず、分秒をも容(い)れずに、「願生」の即時に新しい生活が恵まれることを表している。第十一願の本願成就の文には、「生彼国者 皆悉住於正定之聚(かの国に生ずれば、みなことごとく正定の聚に住す)」(『真宗聖典』44頁)とあるのを、「かのくににうまれんとするものは、みなことごとく正定の聚に住す」(『一念多念文意』、『真宗聖典』536頁)と親鸞は読んでいるのであった。願生するときに、正定聚に住することを得るのだというのである。その即時の即得往生はすなわち住不退転ということなのである、と。新しい生活が「不退転」の信念だということなのである。

 ここにおいて、われらの有限な時間と、如来願心が発起してくる根拠の「一如法界(いちにょほっかい)」とが、不連続の連続となって信の一念の持続を生み出してくる。有為(うい)の時間を突破する契機が、「回向」のはたらきを通して、凡夫の生活に起こってくる。この境界線に「根本言(こんぽんごん)」としての名号(みょうごう)が関わる。選択(せんじゃく)本願が「名号」の内に、「衆生の行」を廻施(えせ)する願心を孕(はら)んで、信の一念を待つのである。回向に値遇するとは、具体的には名号を信受することである。名号の内に「願行具足(がんぎょうぐそく)」の意味を包んで、凡愚の衆生の一念の信に、無為法(むいほう)に触れる時の先端を恵むということなのである。

(2011年11月1日)

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第251回「存在の故郷」⑥
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第251回「存在の故郷」⑥  仏教一般の了解は、人間の常識にもかなっている自力の次第を是とするから理解しやすいが、他力の次第を信受することは「難中の難」だとされている。それは、生き様の差異を超えてあらゆる衆生が等しく抱える愚かさを見通した、如来の智見によってなされた指摘である。  衆生は有限であり、大悲に背いて自我に執着(我執・法執)し、差別相の表層にこだわり続けている。如来は、大悲の心をもってそのように衆生を見通している。仏陀は、『大無量寿経』や『阿弥陀経』の結びにおいて、そのように見通す如来の智見に衆生が気づくことは困難至極だと注意しているのである。  人間は人の間に生まれ落ち、人間として共同体を生きている。そこに生存が成り立っているのだが、人間として生きるとき、我執によって他人を蹴落としてでも自己の欲望を成就したいというような野心を発(おこ)すのである。仏教では、我執(による欲)は菩提心を碍(さまた)げる罪であり、そういう欲望を極力避けるべきだと教える。  そもそも仏教における罪悪とは、菩提心を碍げるあり方を示す言葉である。その意識作用を「煩悩」と名付けているのである。大乗の仏弟子たちは、菩提心を自己として生活することが求められるのであるから、それを妨げる煩悩に苛まれた自己を克服することが求められる。だから、仏教とは、基本的に「自力」でそのことを実現することであると教えられているのである。  しかし、この自己克服の生活における戦いは、限りなく続くことになる。自己が共同体の中に生存している限り、他を意識せざるをえないし、そこに起こる様々な生活意識には、我執を意識せざるを得ない事態が常に興起するからである。  しかも大乗仏教においては、この我執を完全に克服するのみでなく、さらに利他救済の志願を自己とする存在たることが求められる。それが表現されている。この要求を満足した存在が仏陀であり、すなわち仏陀とは大乗仏教思想が要求した人間の究極的理想像であるとも言えよう。そしてこの仏陀たちが開示する場所が「浄土」として荘厳されている。それが諸仏の浄土である。その諸仏の浄土に対し、一切の衆生を平等にすくい上げる誓願を立てて、その願心を成就する名告りが阿弥陀如来であり、安楽浄土である。その因位の位を「法蔵菩薩」と名付け、その発起してくる起源を、一如宝海であると表現するのである。  法蔵菩薩の願心の前に、個としての自己は、愚かで無能で罪業深重であると懺悔せざるを得ないのである。限りなく我執が発ってしまうことが、人間として生涯にわたって生活することの実態であるからである。しかし、これを見通し、自覚することは困難だと『大無量寿経』や『阿弥陀経』では注意されているのである。 (2024年6月1日) 最近の投稿を読む...
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第250回「存在の故郷」⑤
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第250回「存在の故郷」⑤  大乗仏教では、大涅槃を浄土として荘厳・象徴することによって、とらえがたい大涅槃なるものをイメージとして具体化してきた。また浄土教ではそのイメージに基づいて、浄土往生を実現することが浄土教徒にとっての最終目的のように受けとめられてきた経緯があるわけだが、親鸞は本願の思想に返すことでその考え方を改め、浄土の意味を根本的に考察し直した。  その考察の道筋をたどることは、浄土を実体的な「あの世」とみなし、それを常識としてきた立場からすると受けとめにくいことかもしれない。しかしながら、我々はいま、親鸞が浄土を一如宝海と示して考察した道筋を、『教行信証』の説き方に則しながら考察してみようと思う。  『教行信証』の正式な題名は『顕浄土真実教行証文類』という。この題が示すように、「浄土」を顕(あきら)かにすることが、衆生にとっての根本的な課題なのである。そこで親鸞は、真実の「教行証」という仏道の次第を見出して論じ、その課題に応答している。そして、本願に依って衆生に呼びかける大涅槃への道筋が、「行信」の次第であることを示している。  この次第は、いわゆる仏教一般の受けとめ方とは異なっている。仏教一般で言われる「行」は、信解した教えに基づき自力で涅槃を求めてなされる修行の方法であり、各々その行の功徳によって果である涅槃への道筋が開かれるという理解である。つまり仏道の教を信じて行じた結果が証だという次第になる。この次第は「信・解・行・証」あるいは「教・理・行・果」とも表されるが、これは、この世の一般的な時間における因果の次第と同様の流れであるから、人間の常識からすると理解しやすい。  これに対し、親鸞が出遇った仏道は、本願に依って誓われ一切衆生に平等に開かれる「証大涅槃」の道である。だからして、衆生にとってだれであろうと行ずることができるような「行」、すなわち「易行」が本願によって選び取られているのであり、本願力に依ることによって、個々の衆生の条件によらず、平等に涅槃への必然性が確保されると親鸞は理解する。この本願力を「他力」と言い、衆生がこの他力の次第を信受することが待たれているというわけである。親鸞は、この他力の次第を行から信が開かれてくると了解したのだ。  この他力を信ずるのは、衆生にとっては難中の難であるとされる。それは、各々の衆生の生には、それぞれ異なる多様な縁が絡み付き、その事態に各々が個別に対処しているということがあるからである。だからして、この事態を打破するには、各々の出会う縁に対し、各自がそれぞれ努力するべきだという「自力」の教えが伝承されてしまうのである。 (2024年5月1日) 最近の投稿を読む...
202305
第249回「存在の故郷」④
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