親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

第214回「〈願に生きる〉ということ」⑩

 如来の大悲とは、「おおいなる悲しみ」である。「無縁」であるとは、「縁なき衆生」をも摂して捨てないのである。ここに「おおいなる」というのは、「限りなく摂取しよう」とする存在の、有限の条件を破る深い意図を示そうとしているのである。我ら凡夫の有限の発想を、深く悲しみつつ静かに待ち続けようとする、見えざる意思とでも言うべきであろうか。

 そもそも「如来の大悲」というときの「如来」とは、「おおいなる願心」の主語のごとくに見えるが、実は主語という文法上の言葉が、我ら凡夫の発想に付帯する制約・限定を語っている。「おおいなる」とは、主語無くしてはたらくこころ、すなわち見えざる意思を言い当てようとしているのである。その見えざる深みのはたらきを、「大悲の本願」として表現するのが、『大無量寿経』の物語なのである。

 これを文字通りに、見える形として我ら凡夫が受け止めようとしても、それは必ず無理なゆがみを伴うのである。有限な見える限りの発想でとらえても、それなりに有限の限界をちらつかせながらも、なにがしかの意味を開示しようとしているには違いない。その限りにおいて、我らが願心に随順しようとする場合には、有限の限界に引き留められて、その壁を越えられないという有限の悲哀を惹起するのである。

 この見えざるおおいなる悲願を一身に担って立ち上がる名が、「法蔵菩薩」である。その名は、見えざる願心を言葉で具体化するための自己限定、すなわち無限が有限に形を示してくる自己限定でもある。物語として表現する場合に、時間的には「五劫思惟」とか「兆載永劫」の修行というように、無限なるものを一応あたかも限りある因位のごとくに示している。そして「すでに正覚を開いて十劫を経ている」とも言う。因の修道が無限大の時間なのに、果の正覚を開いてすでに十劫も経っているというように、その物語自身が我らには理解不可能なのである。このように無限の側が、大悲を呼びかけようと自己限定して、有限の表現になろうとしても、我ら凡夫には、つじつまの合わない物語と映ってしまうのである。

 この限界を内から打破して、「法蔵願心」に同感するまで物語を聞くことが、いわゆる「聞法思惟」として、有限の我らに分限を自覚せよと迫っているのである。この聞法の呼びかけに、我らの迷いの底からいわば名のり出るごとくに、「法蔵願心ここにあり」と発起してくる事実を、親鸞は「金剛心成就」のかおばせであると感得されたのではないか。

(2021年4月1日)

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202305
第245回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑯
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第245回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑯  先回確認した『一念多念文意』」』のこの了解は、『教行信証』「信巻」において展開されている本願成就文の了解でもある。それは、我らに発起する信心は、本願成就の信心であり、如来回向の信心であるということである。    本願成就の文の中程に「至心回向」(「『無量寿経』、『教行信証』「信巻」引文、『真宗聖典』233頁)という語があるのだが、その「至心」も「回向」も、「信巻」の三一問答において、衆生の側に属する事柄ではなく、大悲の如来の側に属する事柄であることが明らかにされている。そのことを明白にするために、本願成就の文の「至心回向」以下の文を「本願の欲生心成就の文」(『教行信証』「信巻」、『真宗聖典』233頁)と、親鸞は名付けてもいるのである。この「欲生心」は如来の大悲が発起して、衆生に「勅命」として呼びかける心心だというわけである。    その理解をもって、『一念多念文意』の文の「至心回向」以下の段を読んでみよう。   「至心回向」というは、「至心」は、真実ということばなり。真実は阿弥陀如来の御こころなり。「回向」は、本願の名号をもって十方の衆生にあたえたまう御のりなり。 (『一念多念文意』、『真宗聖典』535頁)    このように、本願を成就するとは、如来が不実なる凡夫をみそなわして、しかもその不実を超えて真実を恵まんとするこころが現実化する、ということだとされるのである。我らが不実の凡夫であるとは、無明煩悩を取り払うことなどできず、自我に愛着して自己主張や自己の権利要求にのみ生涯を費やしてしまう存在であるということである。愚痴に覆われ欲望が深い存在であることを、徹底的に知らされながら、しかもそういう無明煩悩が満ち満ちている衆生に、如来の大悲がどこまでも寄り添って、そういう執着の深い存在を横ざまに超えて(衆生の側の努力や意志によることなく)真実を恵むのだ、と知らされるところに、大悲願心の超越性を信ずるという教えの構造がある。  これを善導は『観無量寿経』の三心の深心釈において、信心に「二種あり」(『観無量寿経疏』「散善義」、『教行信証』「信巻」引文、『真宗聖典』215頁)と言って、矛盾するような構造を持つ二種の信が並立していることこそが、「深心」の語で押さえられる信心であることを示されるのである。  これによって親鸞は、煩悩具足の身の事実は変えることなどできないが、しかし、悲願成就の証しにおいて、現生の正定聚が我らの信心に与えられる利益だとされるのである。それが、「即得往生(すなわち往生を得〔え〕)」(『教行信証』「信巻」、『真宗聖典』233頁)の語で教えられている報土得生という意味でもあるとさえ述べておられるのである。  摂取の心光を煩悩の身に感受するとき、闇を生きている一面を忘れることなく、しかも摂取の光の暖かさに触れるのだとされるのである。深信の二面を同時に信知することが、如来回向の他力の信であるということであり、つまり大悲が名号として衆生に呼びかけているところにこの二種の信を同時に成就する作用が我らに恵まれるということなのである。 (2023年11月1日) 最近の投稿を読む...
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第244回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑮
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第244回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑮  本願の信心においては、現生の正定聚、すなわち必定して仏果に至りうるという不退転の信念を、現生の有限なる生存状態において実現できる、と親鸞は述べている。この正定聚の課題についてであるが、釈尊在世の頃には、仏弟子に「必ず成仏するであろう」と予言することが、仏陀釈尊によって為されていたとされている。しかしその後、時を経て、仏陀無き時代になって、成仏の必然性を確信することが仏道の過程において、どのようにして確保されるかということが問題になっていったのである。    法蔵願心は、この問題を衆生の根本問題であるとして、十方衆生を必ず成仏させようと誓うのである。そのことを示しているのが第十一願である。そして、『無量寿経』下巻の始めに第十一願の成就が説き出されてくるのである。その第十一願成就文には、   それ衆生ありてかの国に生ずれば、みなことごとく正定の聚に住す。所以は何ん。かの仏国の中には、もろもろの邪聚および不定聚なければなり。 (『真宗聖典』44頁)   とある。「かの国に生ずれば」とあるので、この文は明らかに此土ではなく彼土のことを述べたものとして読むべきなのであろう。法蔵願心が、自己の国土の持つ大テーマとして、一切衆生の成仏の必然性を誓っているのであるから。    ところが、親鸞は晩年の『一念多念文意』において、   釈迦如来、五濁のわれらがためにときたまえる文のこころは、「それ衆生あって、かのくににうまれんとするものは、みなことごとく正定の聚に住す。 (『真宗聖典』536頁)   と、原文の「生者」を「生ずれば」ではなく、「うまれんとするものは」と訓んで、本願の果である報土に生まれようとする因位、すなわち願生の位の利益として考察しておられるのである。    そこでは第十一願の因果を語り出すに先立って、第十八願の成就文を解釈されている。そこに「至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」(『真宗聖典』44頁)という文を、独自の読経眼で読み解いている。詳細は『一念多念文意』に譲るが、そこでは「願生彼国 即得往生 住不退転」について、   「即得往生」というは、「即」は、すなわちという、ときをへず、日をもへだてぬなり。また即は、つくという。そのくらいにさだまりつくということばなり。「得」は、うべきことをえたりという。真実信心をうれば、すなわち、無碍光仏の御こころのうちに摂取して、すてたまわざるなり。「摂」は、おさめたまう、「取」は、むかえとると、もうすなり。おさめとりたまうとき、すなわち、とき・日をもへだてず、正定聚のくらいにつきさだまるを、往生をうとはのたまえるなり。 (『真宗聖典』535頁)   と述べて、願生と得生を「即」の言で結んであるところに、本願の信心に「住不退転」の利益が存することを明白に説き出されている。   (2023年10月1日) 最近の投稿を読む...
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第243回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑭
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第243回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑭  法蔵菩薩の誓願が一如宝海から発起するということを、『大無量寿経』では「超発」(『真宗聖典』14頁)と表現している。それは、煩悩具足の凡夫に普遍的に与えられている仏性の成就、すなわち『大般涅槃経』が言うところの「一切衆生悉有仏性」(『教行信証』「信巻」、「師子吼菩薩品」引文、『真宗聖典』229頁)の成就たる成仏には、凡夫自身にはその可能性が全くないにもかかわらず、それを必ず成就させようとする大悲の必然があるのだということである。先回触れたように、ここで「超発」とされてくることを、親鸞は一如宝海より形を現し御名を示してくることとして了解した。それは曇鸞が、「法性法身に由って方便法身を生ず。方便法身に由って法性法身を出だす」(『教行信証』「証巻」、『浄土論註』引文、『真宗聖典』290頁)と注釈しているからであると拝察する。    法蔵願心が、誓願を超発するということは、文字や分別に執着してやまない凡夫に、その執着を突破した存在の本来性たる法性に帰らしめんがための方便を与えようということである。寂静なる法性と虚妄分別してやまない凡夫の執着との間を直接つなぐ橋は架けられない。虚妄というあり方で分別する以外には、我ら凡夫の存在了解は成り立ち得ないのである。    そのことを明瞭に知りながら、それを超えて彼方から橋を架けるがごとくに、法蔵願心は本願を超発するという。そのことを菩薩として受け止めるとはどういうことなのか。龍樹が『十住毘婆沙論』で、軟心の菩薩のために難易二道を示して、大乗の菩薩に課せられた、不退転地に至るという課題に応えようとするところには、このような不可能を可能にするべく大悲の願心が超発しているということが見通されていなければならないのであろう。    菩薩十地の初地は、「歓喜地」(『教行信証』「行巻」、『十住毘婆沙論』引文、『真宗聖典』162頁)と名付けられている。その歓喜の意味とは、仏道に入門し仏法を聞思してきた菩薩が、仏道の究極にある「大菩提」を、自分において「必ず成就することができる」と確信し得た喜びであるとされている。菩薩道の成就を確信する歓喜なのである。そこに「初」と言われているのは、仏道成就の確信が、「初めて」成り立ったことを表し、また『華厳経』(六十華厳)に「初発心時便成正覚」(「梵行品」、『大正新脩大蔵経』第9巻449頁下段)と説かれているように、初めて発心したとき、正覚を必ず成就できることとして見通されていることを示している。その可能性として表明された信念を、確実なものとする道を龍樹は求めた。「十地品」(『華厳経』)の釈論である『十住毘婆沙論』では、難易二道とされて、あたかも相対的な選びが可能であるかのごとく表現されているが、親鸞にあっては、難行は陸上の隘路のごとく、易行は水上の乗船の大道のごとくに了解されているのである。    こういう展開を下敷きにして本願の意図をいただいてみるなら、曇鸞が第十一願に着目したことも、もっともだと思う。さらには、親鸞がこの願によって正定聚・不退転を真実信心の利益として、現生に「正定聚に入る」(『教行信証』「信巻」、『真宗聖典』241頁)と確信されたことも了解できるのである。   (2023年9月1日) 最近の投稿を読む...

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