親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

第211回「〈願に生きる〉ということ」⑦

 一念の信心は、具体的には称名念仏において感受される。それが本願成就文に「聞其名号 信心歓喜 乃至一念〈その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん〉」(『真宗聖典』44頁)と語られる事柄である。すなわち名号を体として、真実信心が行者に発起するのである。この一念の事実の因縁を内観して、行・信ともに如来の本願力回向であるといただいたのが、親鸞であった。したがってこの回向による信の一念は、行の一念を依り処として、具体的事実として立ち上がるのである。すなわち信の一念は、行の発起とともにそれに付記するごとく発起するわけである。

 「念々称名常懺悔」(『般舟讃』)と言われることがあるように、称念のところに信心が施与されるごとくに発起するわけである。その一念の信に、超越的な内実が付与せられるというのは、いかなる事態なのであろうか。この問題展開が、「信巻」において「横超断四流」(『真宗聖典』243頁)の問題として論じられているのである。

 この超越的事実は、『大無量寿経』において、「必得超絶去 往生安養国 横截五悪趣 悪趣自然閉〈必ず超絶して去ることを得て、安養国に往生せよ。横に五悪趣を截りて、悪趣自然に閉じん〉」(『真宗聖典』57頁)と言われている。それを受けて善導が『観経疏』の偈文でこの問題を取り上げて、「共発金剛志 横超断四流〈共に金剛の志を発して、横に四流を超断せよ〉」(『真宗聖典』235頁)と表現されている。それを親鸞は「信巻」に取り上げて(同前参照)、「金剛」が願力回向の真実信の質であると論じた後に、この「横超断四流」を「一念」の信心の内実として明らかにしてくるのである。

 この超越の事実は信念の内実である、と押さえる親鸞の確信は、超越がどこまでも本願力に依るというところからきている。この横超による超越とは、生死の迷いの生活から涅槃の覚りへの、本願の信心による超越ということである。ここに言われる「生死」と「涅槃」の関係は、大乗仏教において「生死即涅槃」と言われる根本テーマである。それについて「正信偈」には、「惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃〈惑染の凡夫、信心発すれば、生死即涅槃なりと証知せしむ〉」(『真宗聖典』206頁)と押さえられ、さらには「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃〈よく一念喜愛の心を発すれば、 煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり〉」(『真宗聖典』204頁)とも言われている。

 ここに押さえられているように、一念の信心が起こるとき、「生死即涅槃」と言われる大乗仏教の「正覚」の内容に相応する事実を、本願の信心において十分に語りうるのだと、親鸞は丁寧に述べているのである。しかし、愚かな我ら凡夫に、いかなる形でその内実が与えられるというのであろうか。それに関して、先に挙げた「能発一念喜愛心」と「共発金剛志」とにある「能」と「共」の文字を手掛かりに、問題を掘り下げてみたいと思う。いずれもその内容は、愚悪の凡夫には成り立ちえないような事柄だからである。

(2021年1月1日)

最近の投稿を読む

公開講座画像
第235回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑥
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第235回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑥  善導のいわゆる「十四行偈」の出だしの「道俗時衆等 各発無上心 生死甚難厭 仏法復難欣 共発金剛志 横超断四流」(『真宗聖典』235頁)の問題である。この偈文に、了解しにくい内容がある、と思う。菩提心が「各発」という意味であるならば、それは成就しがたくあるのに、「共発」として「金剛の志」であるなら「横超」において「四流(迷妄の生存)」を「断つ」ことができる、という偈の言葉が突然に出されているからである。そもそも発菩提心は、個人に発起する仏教的意欲(仏に成りたいという意志)を表している言葉であるし、それが「共発」として「金剛」であるように発起するということは、かなり「困難」だとも思えるからである。...
公開講座画像
第234回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑤
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第234回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」  法蔵菩薩とは、苦悩の衆生を救済しようと願う普遍的な菩提心を象徴する名である。苦悩の衆生とは、親鸞の言葉に「諸有に流転の身」とある。諸(もろもろの)とは、それぞれの宿業因縁に依って、この五濁悪世に生存を与えられているすべての生命存在ということである。「諸有」として、それぞれ異なる身体を与えられ、おのおの別々の境遇や限定を受けつつ、この五濁の世に生きているということである。それらすべての事情を超えて、普遍的にすくい取らずにはおかない、という志願を「法蔵」という名にこめて、『大無量寿経』(以下、『大経』)が法蔵菩薩の因願を語り出しているのである。...
公開講座画像
第233回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」④
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第233回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」④  そもそも仏法の課題は、流転の苦悩を超脱するところにある。言い換えれば、生死の迷いを超克するのである。この目的を達成すべく求道するところに、仏道が存立してきたのである。  これは衆生の普遍的苦悩である四苦八苦の生存を出離することである。その出離生死の課題を独り超え出るのみでなく、衆生と共に歩み続けようという方向に、如来の願心を聞き当ててきたのが大乗仏道の歩みであった。その思想の依り処となったものが、如来の入滅を前になされた涅槃説法であり、そこから『涅槃経』が編み出されてきたとされる。...

テーマ別アーカイブ