親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)が成り立つことを、親鸞は「行巻」(『教行信証』)で語っている。念仏をほめている文章を、歴史の証文として引用し、結びに源空(法然)の『選択集』からの文を置いて、「明らかに知りぬ、これ凡聖自力の行にあらず。かるがゆえに不回向(ふえこう)の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉(ひと)しく選択の大宝海に帰して、念仏成仏すべし」(『真宗聖典』189頁)と押さえた後で、「龍樹大士は『即時入必定(そくじにゅうひつじょう)』と曰えり。曇鸞大師は『入正定聚之数(にゅうしょうじょうじゅししゅ)』と云えり」(『真宗聖典』190頁)と言う。

 凡聖、すなわち一切の求道者、さらには重軽の悪人までも包んで「念仏成仏」が成り立つことを語って、これを成立させる「行」が「不回向の行」であると言い、それによって、「正定聚」が「即時」に、一切の求道者に与えられるのだと言うのである。いうまでもなく、正定聚の利益は、元は浄土の利益であったものを、「念仏」が不回向の行なるがゆえに、さらにいうなら、「大悲回向の行」なるがゆえに、この行を信受するなら、信心の利益として「現生に正定聚に入る」ことができると言われるのである。

 ここにおいて、行ということが、自力から他力へと転換していることを、注目しなければならない。自力ということは、自分の現在置かれている立場や状況から、自分を超えた仏の境地への飛躍を、自分の努力の積み重ねで完成させようとする態度のことである。これは私たちのこの世での生活態度に根ざした、一般常識の立場であるともいえよう。それに対して、「不回向」とか「他力の回向」ということはどういうことなのか。

 こちらから彼方へという方向性で問題を克服しようとするかぎり、「自力」の常識を消すことはできないのではないか。親鸞が「自力」を否定するのは、その方向性自体を反転することを呼びかけているのではないか。つまり、こちらから向こうへという発想ではなくして、向こうからこちらへの大いなるはたらきがあると気付くことが、「他力」なのだということではないか。だから、「回向」はこちらからは「不要」なのであり、向こうから回(めぐ)らし向けて来ていると気づくべきだ、というのであろう。他力の行ということは、人間の努力意識や修行してどうにかなっていこうという発想が、全面的に不要な世界であるということであり、無限なる大行が起こっているのだと目覚めることなのであると思う。

(2009年9月1日)

最近の投稿を読む

公開講座画像
第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①  親鸞聖人のお言葉には、人間存在のもつ実相への深い洞察とそこから染み出てくるような懺悔の心が感じられる。このことには、その背後に『大無量寿経』にまで煮詰められた大乗仏道の菩提心の歴史があるのであろう。総願から別願を開示して、この大乗の菩提心を掘り下げるべく歩みを進めるところに、「法蔵菩薩」なる人間像が生み出されてきている。...
公開講座画像
第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬  本願によって衆生に開かれる「宗教的実存」とは、いかなる構造として表現し得るものであろうか。その構造解明の手がかりを、横と竪という菩提心のありかたから探ってみた。そして我らに開かれる信心の意味に、この世での生き方に対して、超越的で立体的な空間として本願の信仰空間と言うべきありかたが、教えられていることを了解した。...
公開講座画像
第228回「悲しみに秘めた讃嘆」⑫
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第228回「悲しみに秘めた讃嘆」⑫  我らの現実の生存において、宗教的実存を求めてこれを成就するとは、どういうことであろうか。本願の仏教では、阿弥陀如来の本願を信じ、自己の有限なる生存をそのままにして(煩悩具足と信知して)「浄土」に往生し、阿弥陀如来の苦悩の衆生を摂取せんとする志願に随順して衆生済度の志願を輔翼することである、と教えられている。この願心に随順することによって、阿弥陀如来と平等なる仏陀(諸仏)になる、と願われているのである。...

テーマ別アーカイブ