親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

第221回「悲しみを秘めた讃嘆」⑤

 易行の要求に対し『十住毘婆沙論』は、一旦それを「怯弱下劣」な者の要求として退け、大乗菩薩道の菩提心にまい進するように励ますのだが、どうしても易行の道を要求するなら仕方ないと、「易行」の方法を説き出している。これでは論主龍樹の意図は、どう見ても菩提心の強いことを優位にしているとしか思えまい。ここを主にしてこの論を見るなら、法然が言うように「傍らに往生浄土を説く論」だと見るのも、当然だと言えよう。

 だからこそ、親鸞がこの『十住毘婆沙論』を「行巻」に浄土の行を説いた論として扱うのはどうしてか、いかなる思索過程から出てきたものか、という疑問も起こるのである。

 この論を「行巻」に取り上げるという取り扱い方は、実は曇鸞からの視点である。天親の『浄土論』の解釈を始めるに当たって曇鸞は、「謹謹んで龍樹菩薩の『十住毘婆沙』を案ずるに」(『真宗聖典』167頁)と、龍樹の名を出してくる。そして続いて、「菩薩、阿毘跋致を求むるに、二種の道あり」(同前)と、大乗の菩薩道にすでに「二種の道」があることを龍樹が説いていると言うのである。その「二種」とは、「難行道・易行道」であるとする。それはすでに曇鸞の時代において、「五濁の世、無仏の時」であるから、阿毘跋致(不退転と漢訳される)を求めるのは困難至極であるからだ、と言う。

 そもそも、曇鸞は龍樹系統の論を中心にした四論の学匠だったのだから、菩提心に立って仏道を求めることに疑いをいだいたわけではなかろう。しかし、翻訳を通しての論の解釈と、仏陀の教えそのものとの隙間のようなものへの、デリケートな疑惑の陰を感じていたのではないか。釈尊没後、すでに千年に及ぶ年月があり、インドの僧伽に、いわゆる「大乗仏教」と呼ばれる仏教思想の大変革が起こって、それが伝えられている。その学びを、インドからの翻訳者を通して言語を異にする中国で受け取るのである。仏法の開祖たる釈迦如来の存在は疑うはずもないが、それが伝承されてくる過程において、諸条件による教えの差異などが惹起してくることは、当然あり得るであろう。

 先に翻訳された龍樹の『中論』を中心にした四論系に属する曇鸞に対し、後発の唯識系の翻訳者・菩提流支との出遇いが起こったのである。そして、唯識学派の学匠・天親との出遇いを承けたのである。だから、その解釈をするに当たって、時代状況の問題を介して菩薩道に二種の道があるということから説き起こしてくるのであろう。そこには、天親自身に「阿弥陀への帰依」の必然性を大乗菩薩道に位置づける要求があった、と曇鸞が理解し、その要求が龍樹によってすでに肯定されていることから説きだしたと考えられよう。

(2021年11月1日)

最近の投稿を読む

公開講座画像
第235回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑥
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第235回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑥  善導のいわゆる「十四行偈」の出だしの「道俗時衆等 各発無上心 生死甚難厭 仏法復難欣 共発金剛志 横超断四流」(『真宗聖典』235頁)の問題である。この偈文に、了解しにくい内容がある、と思う。菩提心が「各発」という意味であるならば、それは成就しがたくあるのに、「共発」として「金剛の志」であるなら「横超」において「四流(迷妄の生存)」を「断つ」ことができる、という偈の言葉が突然に出されているからである。そもそも発菩提心は、個人に発起する仏教的意欲(仏に成りたいという意志)を表している言葉であるし、それが「共発」として「金剛」であるように発起するということは、かなり「困難」だとも思えるからである。...
公開講座画像
第234回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑤
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第234回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」  法蔵菩薩とは、苦悩の衆生を救済しようと願う普遍的な菩提心を象徴する名である。苦悩の衆生とは、親鸞の言葉に「諸有に流転の身」とある。諸(もろもろの)とは、それぞれの宿業因縁に依って、この五濁悪世に生存を与えられているすべての生命存在ということである。「諸有」として、それぞれ異なる身体を与えられ、おのおの別々の境遇や限定を受けつつ、この五濁の世に生きているということである。それらすべての事情を超えて、普遍的にすくい取らずにはおかない、という志願を「法蔵」という名にこめて、『大無量寿経』(以下、『大経』)が法蔵菩薩の因願を語り出しているのである。...
公開講座画像
第233回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」④
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第233回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」④  そもそも仏法の課題は、流転の苦悩を超脱するところにある。言い換えれば、生死の迷いを超克するのである。この目的を達成すべく求道するところに、仏道が存立してきたのである。  これは衆生の普遍的苦悩である四苦八苦の生存を出離することである。その出離生死の課題を独り超え出るのみでなく、衆生と共に歩み続けようという方向に、如来の願心を聞き当ててきたのが大乗仏道の歩みであった。その思想の依り処となったものが、如来の入滅を前になされた涅槃説法であり、そこから『涅槃経』が編み出されてきたとされる。...

テーマ別アーカイブ