親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 如来の回向に値遇(ちぐう)することによって、愚かで罪悪深重の凡夫が「涅槃」の功徳との関係を獲得できるということを、親鸞聖人はどうしてそれほど大切なこととされたのであろうか。おそらくこの涅槃の課題が、仏道を求めて仏に成っていくという人間観の根本問題だと信じておられたからであろう。曇鸞大師が「願生心」について、「為楽願生(いらくがんしょう)」を否定し、浄土に生まれることは、「菩提心」の要求に応えて無上菩提を得るためだとされたことを、浄土教の根本の課題だと見られたことと同じ問題なのであろう。

 この点に絡んで、三輩段の見方において、法然上人では「一向専念無量寿仏」を取って、「菩提心」は廃捨するのだとされたけれども、明恵上人が問題にされたように、親鸞聖人も菩提心無用ということには納得できなかったのではなかろうか。願生心が「願作仏心(がんさぶっしん)・度衆生心(どしゅじょうしん)」という意味をもつという曇鸞大師の解釈の言葉を、「天親和讃」で天親菩薩の意図でもあろうと見られたのであるから(「願作仏の心はこれ 度衆生のこころなり 度衆生の心はこれ 利他真実の信心なり」〈『高僧和讃』、『真宗聖典』491頁〉)。

 ただし、その菩提心が衆生の自力の菩提心だとするならば、凡夫の上に「涅槃」の果を獲得できるはずがない。「煩悩がすなわち菩提だ」という大乗仏教のテーマがあっても、現実の凡夫の生活が無明の闇を脱出できていないのであり、煩悩罪濁にまみれて苦悩の生活に埋没しているのであるから、いかに大乗仏教の真理であろうと仏法の論理的必然であろうと、一向に凡夫の現実の救済にはならないのである。だから、『安楽集』で「一切衆生悉有仏性」という『涅槃経』の言葉に対して、現実の衆生がこの言葉によって少しもたすからないのはなぜかという問いを道綽禅師が立てられていることを、法然上人が『選択集』の始めに取り出しておられるのであろう。

 その涅槃の課題を、いかにして苦悩の群生に親しく触れさせることができるか。このことを選択本願が課題にしないはずがない。その眼で本願を読むとき、正依『無量寿経』の第十一願が「必至滅度」と語ることを、異訳『如来会』が「証大涅槃」と誓っているということに、親鸞聖人が気づかれて歓喜されたことがあったのではなかろうか(『真宗聖典』280頁参照)。『大無量寿経』下巻が第十一願成就の文(『真宗聖典』44頁参照)から始まっており、曇鸞大師が三願的証でこの願を取り上げ、「住正定聚故必至滅度(正定聚に住せるがゆえに必ず滅度に至らん)」(『真宗聖典』194頁)と言われていることに、深い感動をもたれたに相違ない。

 回向に値遇するとは、「聞其名号 信心歓喜(その名号を聞きて、信心歓喜せん)」(『真宗聖典』44頁)の事実を本願成就としていただくことである。いな、本願成就とは、大悲回向がわれらに届けられることなのだ。「願生」の意欲が、一切衆生の迷妄の生活を貫いて、兆載永劫に地下水脈のごとく流れ続けていたのだ、と気づかされることが回向との値遇なのである。それがはっきりすれば「無上妙果の成じがたきにあらず」(「信巻」、『真宗聖典』211頁)と言いうるのである。

(2013年7月1日)

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第251回「存在の故郷」⑥
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第251回「存在の故郷」⑥  仏教一般の了解は、人間の常識にもかなっている自力の次第を是とするから理解しやすいが、他力の次第を信受することは「難中の難」だとされている。それは、生き様の差異を超えてあらゆる衆生が等しく抱える愚かさを見通した、如来の智見によってなされた指摘である。  衆生は有限であり、大悲に背いて自我に執着(我執・法執)し、差別相の表層にこだわり続けている。如来は、大悲の心をもってそのように衆生を見通している。仏陀は、『大無量寿経』や『阿弥陀経』の結びにおいて、そのように見通す如来の智見に衆生が気づくことは困難至極だと注意しているのである。  人間は人の間に生まれ落ち、人間として共同体を生きている。そこに生存が成り立っているのだが、人間として生きるとき、我執によって他人を蹴落としてでも自己の欲望を成就したいというような野心を発(おこ)すのである。仏教では、我執(による欲)は菩提心を碍(さまた)げる罪であり、そういう欲望を極力避けるべきだと教える。  そもそも仏教における罪悪とは、菩提心を碍げるあり方を示す言葉である。その意識作用を「煩悩」と名付けているのである。大乗の仏弟子たちは、菩提心を自己として生活することが求められるのであるから、それを妨げる煩悩に苛まれた自己を克服することが求められる。だから、仏教とは、基本的に「自力」でそのことを実現することであると教えられているのである。  しかし、この自己克服の生活における戦いは、限りなく続くことになる。自己が共同体の中に生存している限り、他を意識せざるをえないし、そこに起こる様々な生活意識には、我執を意識せざるを得ない事態が常に興起するからである。  しかも大乗仏教においては、この我執を完全に克服するのみでなく、さらに利他救済の志願を自己とする存在たることが求められる。それが表現されている。この要求を満足した存在が仏陀であり、すなわち仏陀とは大乗仏教思想が要求した人間の究極的理想像であるとも言えよう。そしてこの仏陀たちが開示する場所が「浄土」として荘厳されている。それが諸仏の浄土である。その諸仏の浄土に対し、一切の衆生を平等にすくい上げる誓願を立てて、その願心を成就する名告りが阿弥陀如来であり、安楽浄土である。その因位の位を「法蔵菩薩」と名付け、その発起してくる起源を、一如宝海であると表現するのである。  法蔵菩薩の願心の前に、個としての自己は、愚かで無能で罪業深重であると懺悔せざるを得ないのである。限りなく我執が発ってしまうことが、人間として生涯にわたって生活することの実態であるからである。しかし、これを見通し、自覚することは困難だと『大無量寿経』や『阿弥陀経』では注意されているのである。 (2024年6月1日) 最近の投稿を読む...
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第250回「存在の故郷」⑤
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第250回「存在の故郷」⑤  大乗仏教では、大涅槃を浄土として荘厳・象徴することによって、とらえがたい大涅槃なるものをイメージとして具体化してきた。また浄土教ではそのイメージに基づいて、浄土往生を実現することが浄土教徒にとっての最終目的のように受けとめられてきた経緯があるわけだが、親鸞は本願の思想に返すことでその考え方を改め、浄土の意味を根本的に考察し直した。  その考察の道筋をたどることは、浄土を実体的な「あの世」とみなし、それを常識としてきた立場からすると受けとめにくいことかもしれない。しかしながら、我々はいま、親鸞が浄土を一如宝海と示して考察した道筋を、『教行信証』の説き方に則しながら考察してみようと思う。  『教行信証』の正式な題名は『顕浄土真実教行証文類』という。この題が示すように、「浄土」を顕(あきら)かにすることが、衆生にとっての根本的な課題なのである。そこで親鸞は、真実の「教行証」という仏道の次第を見出して論じ、その課題に応答している。そして、本願に依って衆生に呼びかける大涅槃への道筋が、「行信」の次第であることを示している。  この次第は、いわゆる仏教一般の受けとめ方とは異なっている。仏教一般で言われる「行」は、信解した教えに基づき自力で涅槃を求めてなされる修行の方法であり、各々その行の功徳によって果である涅槃への道筋が開かれるという理解である。つまり仏道の教を信じて行じた結果が証だという次第になる。この次第は「信・解・行・証」あるいは「教・理・行・果」とも表されるが、これは、この世の一般的な時間における因果の次第と同様の流れであるから、人間の常識からすると理解しやすい。  これに対し、親鸞が出遇った仏道は、本願に依って誓われ一切衆生に平等に開かれる「証大涅槃」の道である。だからして、衆生にとってだれであろうと行ずることができるような「行」、すなわち「易行」が本願によって選び取られているのであり、本願力に依ることによって、個々の衆生の条件によらず、平等に涅槃への必然性が確保されると親鸞は理解する。この本願力を「他力」と言い、衆生がこの他力の次第を信受することが待たれているというわけである。親鸞は、この他力の次第を行から信が開かれてくると了解したのだ。  この他力を信ずるのは、衆生にとっては難中の難であるとされる。それは、各々の衆生の生には、それぞれ異なる多様な縁が絡み付き、その事態に各々が個別に対処しているということがあるからである。だからして、この事態を打破するには、各々の出会う縁に対し、各自がそれぞれ努力するべきだという「自力」の教えが伝承されてしまうのである。 (2024年5月1日) 最近の投稿を読む...
202305
第249回「存在の故郷」④
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