親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 親鸞聖人は、いわゆる一般的な菩提心(ぼだいしん)を「自力聖道(じりきしょうどう)の菩提心」と名づけた。この要求も実は人間の深みに繰り返し、静かにささやいているものである。だから、表面的には「自力聖道の菩提心 こころもことばもおよばれず 常没流転(じょうもつるてん)の凡愚(ぼんぐ)は いかでか発起(ほっき)せしむべき」(『正像末和讃』、『真宗聖典』501頁)と和讃されているのである。しかし、この心によって実は「三恒河沙(さんごうがしゃ)の諸仏の 出世のみもとにありしとき 大菩提心おこせども 自力かなわで流転せり」(『正像末和讃』、『真宗聖典』502頁)といわれるような「流転」の生存を迷い続けさせられてきたのだ、と感じ取られているのである。したがって、この心から本当に脱出できないなら、永劫流転の闇を出離できないと見ておられるのである。

 この心の根を親鸞は「至心発願(ししんほつがん)の願」(『正像末和讃』、『真宗聖典』327頁)のはたらきにあると見抜かれた。この「悲願」の配慮を受けて「欲生(よくしょう)」の勅命を感じ取ることで、初めて流転の根元をつかさどってきた「自力の菩提心」から解放される道を歩み出せるというのである。それによって真の「本願成就の信心」こそが、流転の闇を破って光明の広海に遊ぶ「大菩提心」であると確信したのであると思う。

 「信心すなわち一心なり 一心すなわち金剛心 金剛心は菩提心 この心(しん)すなわち他力なり」(『高僧和讃』、『真宗聖典』491頁)というのは、信心を因として菩提が成就することが、『無量寿経』の本願が衆生に呼びかける意味だからであろう。いかなる煩悩の衆生であろうとも、必ず大涅槃(だいねはん)の利益(りやく)を感得せしめようというのが、大悲本願の起こるゆえんなのであるから、信心に金剛の純粋さと堅実さを備えられるのである。この本願を信受する以外に出離生死の道はないという見極めが、信心の内に如来の勅命としての欲生心を感じ取るのである。欲生心を勅命と感ずるところに、我が信念はこれでよいという金剛の決着が与えられるのであろう。

 しかし、「願生」は果(か)たる浄土への願であるから、果の報土に対する「因」の位の要求である。その因果の関係について、果の浄土を因位(いんに)において確定することを、親鸞は「正定聚(しょうじょうじゅ)」であるという。「かのくににうまれんとするものは、みなことごとく正定の聚に住す」(『一念多念文意』、『真宗聖典』536頁)ることを獲(う)るのだ、と。「願生」において「正定聚」という報土(ほうど)の利益を既得権のごとくに得るのだと主張する。これを「現生(げんしょう)正定聚」という。このことを確定するのは、いかなる根拠によるのであろうか。「願生彼国(がんしょうひこく) 即得往生(そくとくおうじょう) 住不退転(じゅうふたいてん)」(『真宗聖典』44頁)という本願成就の文を自身に体験することができると主張しているとするなら、普通に経文の文面を読んでいる場合には、強引で無理な主張と見える。

 ここに、先の「この心すなわち他力なり」ということの大切さがある。実はこの本願成就の文を、前後に切って、後半を欲生心成就の文と見る独自の読み込みがあるのである。

(2011年9月1日)

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