親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 阿頼耶識(あらやしき)は、自己の一切の経験・行為を引き受けて、黙って新しい自己を生きていく。そこには、自己に与えられる因縁の善し悪しを選ぶことはない。運命的に襲ってくるような悪縁であろうと、自己の生命を危機に陥れるような事態であろうと、そこを生き抜くほかには自己自身があり得ない場合は、そのまま引き受けて生きていこうとする。その主体的存在を、好きだとか嫌いだとか、安全だとか危険だとか、善いとか悪いとかと分別するのは、末那識(まなしき)がからんだ第六意識の作用なのである。

 そもそも、この末那識という意識作用を名づけて阿頼耶識から独立させ、意識の構造を解明したのは、『唯識三十頌』の作者、世親菩薩であった。世親が学んだ無著菩薩の『摂大乗論』では、主体たる阿頼耶識を中心に、人間存在の意識的構造を解明し、迷妄の意識を転換して菩提を得るなら、生死の苦悩が転じて大涅槃となり、そのはたらきが浄土(十八円成)ともなるのだと語っている。

 そして、なぜ有漏(うろ)の主体が無漏(むろ)の自己に転換しうるのかという、「転識得智(てんじきとくち)」の成立に関しては、その根拠は教えに依るとしていた。教えの言葉は、純粋無漏の法性から慈悲によって生み出されるのだから、「浄法界等流(じょうほっかいとうる:清浄なる法界から質を変えずに流れ出る)」の教法だから、その聞法経験に依るのだというわけである。法界等流の清浄なる教言の体験が阿頼耶識に熏習(くんじゅう)するのだから、聞熏習の蓄積が雑染(ぞうぜん)なる主体そのものを転ずるまで修習するなら、転識得智が成り立つのだとするのである。

 しかし、世親は論理的にも経験的にも、それは成り立ちえないと考えた。もし雑染の質をもつ作用が阿頼耶それ自身であるなら、いかに清浄なる法界からの言葉であろうとも、それを雑染にしてしか熏習しないのではないか。例えば、どれほど親身な心から出た言葉でも、疑いでしか受け止めない人間にとっては、悪意の表れとされてしまう。純粋無漏の言葉といっても、不浄なる生活空間に入れば、不浄の言葉としてしか通用しないであろう。その不浄なる解釈で熏習することからは、決して雑染の質を転ずるような事件が起こるはずはない。

 世親は、おそらくそういう論理をくつがえすために、経験を熏習する主体それ自身は、煩悩に雑染された「現行(げんぎょう)」でなく、「依他起(えたき)」の作用の根拠として、有漏とも無漏ともなり得るような現行の構造を、阿頼耶識の現行・熏習とすべきだと考察したに相違ない。意識の深層に有漏雑染が現行しているからには、そのはたらきに「末那識」と名づけるべき独自性があり、その末那識の現行と熏習のなかで経験される一切が、限りない妄念流転の生活となるのだ。しかしその主体に、浄法界等流の教えが聞こえるとき、阿頼耶自身は黙ってその清浄性を熏習していくことができるのだ、と考察したのであると思う。

(2018年1月1日) 

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第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨  有限なる存在を、浄土教の歴史的な表現では「凡夫」という。凡夫とは一般用語であるが、この語において、仏教に出遇っている自分の存在の意味を、無限なる如来の大悲の眼に照らし出されたあり方として、表現しているのである。そうすると、善導が押さえているように、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(『真宗聖典』215頁)と深く信じるところにあるのが凡夫である。この自覚において親鸞は、「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』〔『真宗聖典』545頁〕)と言われているのである。  浄土教の自覚に表れてくる罪障の自覚とか罪業の身の重さということは、有限という語には現れてはいないのであるが、浄土教の求道における自覚的な表現とは、こういう罪障の自覚を通した有限なる自己の表現であると言える。その対照である無限という語にも、仏道の無為法ということで求められてくるような永劫に変わらない真実という性格はさしあたってないのであるが、求道の問題として無限という語を使う場合は、仏智の大きさや広大な涅槃ということも含まれてくると言うべきなのである。  この広大無辺の無限は、法蔵願心の果であり、因位の菩薩として法蔵菩薩は、果たる一如・涅槃から立ち上がったのだと言われる(『一念多念文意』〔『真宗聖典』543頁〕及び『唯信鈔文意』〔『真宗聖典』554頁〕参照)。その因位の修行は、大悲によって我ら衆生を済度せんがために、「兆載永劫」の時を貫く菩薩行であるとされている。兆載の時間をかけて、虚妄分別する我らに真実信を成就させようというのだと、親鸞は受けとめられているのである。  有限なる我らは、どこまでも煩悩具足の身を離れないから、決してそのまま無限に成ることはできない。しかし、無限の無限たる所以(ゆえん)は、一切の有限を包んでいるところにある。親鸞はこの道理について、善導が法蔵菩薩の果たる如来(阿弥陀如来)を「摂取不捨」として示していることに着眼している(「摂取して捨てざるがゆえに、阿弥陀と名づく」と善導が釈しているのを『教行信証』「行巻」で取り上げている〔『真宗聖典』174頁参照〕)。すなわち、無限大悲の光明は、たとえ我らが忘れようとも常に照らしていてくださるのだという。この道理にうなずくことにおいて、有限なる我らに無限のはたらきが具足する。親鸞は、このことを「如来回向」の信心として表されたのである。 (2023年5月1日) 最近の投稿を読む...
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第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧  親鸞の示す「金剛の信心」とは、大悲の不可思議なるはたらきによって、われら有限なる存在がどういう状態であるかを問わず、大いなる光明(無限大悲)が常に我等を包み摂していると信じることであるとされる。ここに有限・無限という言葉を出しているので、この二項(有限・無限)の関係を考察してみよう。    仏教語の一般的表現で「無為法」と言われる場合は、対応する言葉は「有為法」である。この有為法とは、我等有限の一切の事象が、すべて時間とともにあり、時を超えて永続する物事は存在しないということであり、「諸行無常」(あらゆる存在は永続しない)であるとされている。この諸行(一切の現象)が「有限」に相当する。そこから言うなら、無為法は「無限」と言われることの内容に当たるわけである。移りゆき変わりゆく一切の現象に対し、時間的な要素を交えず、いわば永久不変なることを示す概念が、「無為法」である。    この無為法という概念に相当する語が、一如・真如・涅槃・法性などと教えられ、さらには法身・実相・常楽などと転釈されていく。これらの教学用語は、それぞれに微妙な差異を生じてはいる。しかし親鸞は、それらを『涅槃経』などを依り処として、すべて同等の意味を示す概念であると了解している。これらの用語をすべて無為法なる概念の内容であるとするなら、いま考察している無限は、仏教的理念で言うと「涅槃」に相当するということになる。    親鸞が、『大無量寿経』に語られている「法蔵菩薩」とは、「一如宝海よりかたちをあらわして」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)きたと了解していることは、いかなる意味になるのであろうか。文字通りであれば、時間を超越した無限であるはずの一如が、有限の生存上の名告り(これは時間的に消滅する存在になる)に成ることである。このことは普通には、矛盾そのものである。しかしながら、法蔵菩薩が大悲の心の示現であるから、矛盾を超えて、無限が有限に展現するという表現であるとされている。    無限とは、内に有限の一切を包んでいる。しかるに、有限から無限を考究しようとするなら、無限なる事態は、自己の外に、いかにしても到達することなどできない極限の様態として考えられることになる。無限の立場からは、「内」とされるありかたが、その内の有限からは、「外」であるということになる。この内・外の矛盾を、清沢満之は有限と無限との「根本的撞着」と言われるのである。この矛盾が一致することを求めることこそ、宗教的実存の要求であるというわけである。 (2023年4月1日) 最近の投稿を読む...
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第236回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑦
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第236回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑦  善導の言う「能生清浄願往生心」を、親鸞が「能生清浄願心」(『教行信証』信巻、『真宗聖典』235頁参照)と表現することについて、前回から考察している。二河譬で言われる「清浄願心」は、決して凡夫個人の「願生心」ではなく、如来回向の「金剛の信心」であると親鸞が了解したことが、「信巻」で押さえられている。如来回向の信心は、大悲の願心によって根底から支えられていて、「われら凡夫」に発起するように思われるけれども、個人の能力によって起こるのでなく、法蔵願心の「能」く発起するところだと、親鸞は感得されたのである、と思う。  本願文の欲生心とは如来の願心であり、それが回向表現して真実信心として我等に感じられるということである。これによって信心に「金剛」の質が確保されるのであるから、いかなる条件によろうと破れず壊れないことが確信として示されてくるのである。  この願力による信は、凡夫における意識レベルに対して、いかなる意味で相続しているのであろうか。というのは、我らに現行している意識は、生滅し流転していて、一瞬もとどまることがない。にもかかわらず、どうして信心が堅牢にして純潔なる金剛という質であると言えるのか、という問題が感じられるからである。  この難問は、有限なる存在が有限のみにとどまるなら、決して解決し得ないであろう。有限なる身心を、無限なる大悲心に投げ入れるような決定的な回心の展開においてのみ、この矛盾が矛盾にとどまることを脱出し得るのではなかろうか。  そもそも誓願の発起について「超発」と言われているのだが、この「超」とは、有限なる我等を超越して起こることを意味しているのであろう。そうであるから、我等にとっては「不可称・不可説・不可思議」であると言われるのである。この不可思議なる誓願が、有限の我等のレベルに関係するということは、どういうことが起こることであろうか。  さきに有限・無限という言葉を出してみたが、この言葉で少しく考察を進めてみたい。まず無限は、どのような有限性をも超えていると言えよう。いま考察しようとする無限は、大悲とも言われるように、一切衆生を包み摂しているというイメージが示されている。有限存在がいかなる状態であろうと、いかなる条件があろうと、必ず摂しているのが無限なのである。これを「摂取不捨」であると表現されている。我ら有限なる存在には、この不可思議なる無限は、有限の努力や苦労をいかに積み上げても到達できないし、感知することすらできない。ただ信ずるのみだとされるのである。 (2023年3月1日) 最近の投稿を読む...

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