親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

第206回「〈願に生きる〉ということ」②

 『愚禿鈔』にある言葉は、親鸞による本願の信心の領受を表している。そこでは善導の『往生礼讃』の文「前念命終 後念即生」を、本願成就の文「願生彼国 即得往生」に照らし合わせて、「本願を信受するは、前念命終なり。即得往生は後念即生なり」(『真宗聖典』430頁)と示されている。これによって曽我量深は、「信に死し、願に生きよ」というテーマを感得されたのである。

 その「願に生きよ」とは「願生」の主体的了解として、如来の本願に誓われている「我が国に生まれんと欲(おも)え」という如来からの勅命を、自己に受け止めた表現である。それは親鸞の仮名聖教(『唯信鈔文意』など)における本願成就文の「願生」の了解によっているのであろう。この「願生」(生まれんと願え)の了解を考察するについて、実はこの言葉には多義性というか、深い重層性というべきものがあることを指摘しておきたい。

 浄土教一般の情念は、「厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」と言われているが、その「厭離」の面は、『愚禿鈔』では「竪出」とされていて、これは「難行道の教なり、厭離をもって本とす、自力の心なるがゆえなり」(『真宗聖典』438頁)とされている。

 これに先だって『愚禿鈔』には、「阿弥陀如来選択本願を除きて已外、大小・権実・顕密の諸教、みなこれ、難行道・聖道門なり」(『真宗聖典』425頁)とあって、大きくは選択本願による信心以外の立場は、自力であるとされている。そして、その本願の受け止め、いわゆる浄土の教えによる「願生」であっても、「易行道・浄土門の教、これを浄土回向発願自力方便の仮門」(同前)とされるものがあると押さえるのである。自分に起こる「願い」としての「欣求浄土」がこれに当たるのであろう。この「欣求浄土」の「欣求」を『愚禿鈔』では「横出」に位置づけている。「横出」とは、「他力中の自力なり」とされ、さらに「横出とは易行道の教なり。欣求をもって本とす」とも押さえられている(『真宗聖典』438頁)。

 『無量寿経』の本願の中に、「機の三願」と言われている願がある。第十八・十九・二十願である。この三願に通じて「至心」と「欲生我国」があり、その二語の間に、それぞれ「信楽」「発願」「回向」という語が置かれている。この「至心・発願・欲生我国」、「至心・回向・欲生我国」に応ずる「願生」が、『愚禿鈔』に押さえられている「厭離穢土 欣求浄土」に相当すると思われる。そして、「至心・信楽・欲生我国」の成就文が、「願生彼国 即得往生〈かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て〉」(『真宗聖典』44頁)なのである。

 「化身土巻」の巻頭(『真宗聖典』325頁)を見ると、「無量寿仏観経の意」という語と「阿弥陀経の意なり」という語が並列して書かれてあり、その隣にそれぞれ「至心発願の願」と「至心回向の願」の語が置かれ、その下段にそれぞれ二行に分けて「邪定聚機 双樹林下往生」「不定聚機 難思往生」と書かれている。

(2020年8月1日)

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202305
第251回「存在の故郷」⑥
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第251回「存在の故郷」⑥  仏教一般の了解は、人間の常識にもかなっている自力の次第を是とするから理解しやすいが、他力の次第を信受することは「難中の難」だとされている。それは、生き様の差異を超えてあらゆる衆生が等しく抱える愚かさを見通した、如来の智見によってなされた指摘である。  衆生は有限であり、大悲に背いて自我に執着(我執・法執)し、差別相の表層にこだわり続けている。如来は、大悲の心をもってそのように衆生を見通している。仏陀は、『大無量寿経』や『阿弥陀経』の結びにおいて、そのように見通す如来の智見に衆生が気づくことは困難至極だと注意しているのである。  人間は人の間に生まれ落ち、人間として共同体を生きている。そこに生存が成り立っているのだが、人間として生きるとき、我執によって他人を蹴落としてでも自己の欲望を成就したいというような野心を発(おこ)すのである。仏教では、我執(による欲)は菩提心を碍(さまた)げる罪であり、そういう欲望を極力避けるべきだと教える。  そもそも仏教における罪悪とは、菩提心を碍げるあり方を示す言葉である。その意識作用を「煩悩」と名付けているのである。大乗の仏弟子たちは、菩提心を自己として生活することが求められるのであるから、それを妨げる煩悩に苛まれた自己を克服することが求められる。だから、仏教とは、基本的に「自力」でそのことを実現することであると教えられているのである。  しかし、この自己克服の生活における戦いは、限りなく続くことになる。自己が共同体の中に生存している限り、他を意識せざるをえないし、そこに起こる様々な生活意識には、我執を意識せざるを得ない事態が常に興起するからである。  しかも大乗仏教においては、この我執を完全に克服するのみでなく、さらに利他救済の志願を自己とする存在たることが求められる。それが表現されている。この要求を満足した存在が仏陀であり、すなわち仏陀とは大乗仏教思想が要求した人間の究極的理想像であるとも言えよう。そしてこの仏陀たちが開示する場所が「浄土」として荘厳されている。それが諸仏の浄土である。その諸仏の浄土に対し、一切の衆生を平等にすくい上げる誓願を立てて、その願心を成就する名告りが阿弥陀如来であり、安楽浄土である。その因位の位を「法蔵菩薩」と名付け、その発起してくる起源を、一如宝海であると表現するのである。  法蔵菩薩の願心の前に、個としての自己は、愚かで無能で罪業深重であると懺悔せざるを得ないのである。限りなく我執が発ってしまうことが、人間として生涯にわたって生活することの実態であるからである。しかし、これを見通し、自覚することは困難だと『大無量寿経』や『阿弥陀経』では注意されているのである。 (2024年6月1日) 最近の投稿を読む...
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第250回「存在の故郷」⑤
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202305
第249回「存在の故郷」④
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