親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり」(『正像末和讃』『真宗聖典』、503頁)という和讃は、如来の大悲はすでに成就しているということを語っている。その回向成就とは、一切の衆生を摂取せずには自己自身を成就できないという誓いを、浄土という場所を建立してそこに平等に一切の衆生を往生せしめ(往相回向)、同時にその場所の力で浄土に生まれた衆生には必ず利他のはたらきを具足させよう(還相回向)という内容なのである。このことは、本願自身はすでに衆生救済の方法とその成就の形式を見出したということであって、それに帰入するかしないかは、衆生の決断に任されている。そのことと、如来の二種回向に値遇するかどうかということが、深く関係しているのである。

 我ら煩悩具足の衆生は、現実の苦悩と不安に縛りつけられている。無限なる大悲を誓う如来とは、単なる人間の虚像に過ぎないのであろうか。しかしそれならば、人間の歩みが真実の明るみを求め続けて来たことは、一体何であったというのか。求道の歴史が呼びかける真実は、決して単なる虚偽や詐諂(さてん)ではあるまい。世間に言うところのいわゆる効き目がある神々は、人間の悲痛なる願望に応じた虚像であるのかもしれない。しかし、仏道が伝えようとする人間の暗闇からの開放とは、苦悩の衆生の迷妄の意識に取りついている病理ともいえる我執からの脱却ではなかったか。自我の執心こそが、一切の人類の迷妄の根源の病であることを、人間として初めて発見しそれからの脱却に成功したのが釈迦牟尼如来であった。

 この人間の根源の病を「無明」と名づけて、真実の明るみを明示したことから、教言が立ち上がったのである。ところが、いかに「頭燃(ずねん)をはらうがごとく」(『真宗聖典』215頁)に努力しても、この境位に到達できないという嘆きに対応して、本願の仏法が聞き当てられてきたのである。大悲の作願が、横超といわれる所以は、人間の迷妄の発想には徹底的に不可解なことを呼びかけているところにある。したがって、ここに教えられる「二種回向」とは、大悲の側から用意されている誓願の作用なのである。これは親鸞が苦心して語り明かそうとする本願力の内実なのである。

 この願力の前に、我ら凡夫は虚心に低頭して帰入することが、求められているのである。それを、回向との値遇と表現するのであろう。我らには出会うべき必然性があるとは思えない、にもかかわらず大悲は待ち続けていてくださったと、気づくほかないのである。大悲に帰して全面的に信順するのだが、有限なる凡夫にはその上で、さまざまの状況的な不条理が襲ってくる。ここに、有限の努力がかかるのだが、この問題はテーマを改めて考えてみたい。

(2019年8月1日)

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202305
第246回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑰
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第246回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑰  『一念多念文意』のこの了解は、『教行信証』「信巻」において展開されている本願成就文の了解でもある。それは、我らに発起する信心は、本願成就の信心であり、如来回向の信心であるということである。  本願成就の文の中ほどに「至心回向」という語があるのだが、その「至心」も「回向」も、「信巻」の三一問答(『真宗聖典』223頁~236頁参照)において、衆生の側に属する事柄ではなく、大悲の如来の側に属する事柄であることが明らかにされている。そのことを明白にするために、本願成就の文の「至心回向」以下の文を「欲生心成就の文」と、親鸞は名付けてもいるのである。この「欲生心」は如来の大悲が発起して、衆生に「勅命」として命じている心だというわけである。  その理解をもって、『一念多念文意』の文の「至心回向」以下の段を読んでみよう。 「至心回向」というは、「至心」は、真実ということばなり。真実は阿弥陀如来の御こころなり。「回向」は、本願の名号をもって十方の衆生にあたえたまう御のりなり。 (『真宗聖典』535頁)  このように、本願を成就するとは、如来が不実なる凡夫をみそなわして、しかもその不実を超えて真実を恵まんとする「こころ」が現実化することだとされている。我らが不実の凡夫であるというのは、無明煩悩を取り払うことなどできず、自我に愛着して自己主張や自己の権利要求にのみ生涯を費やしてしまうことをあらわしている。愚痴も多く欲望が深い存在であることを徹底的に知らされながら、しかもそういう無明煩悩が満ち満ちている衆生にどこまでも寄り添って、しかもそういう執着の深い存在を横さまに超えて(衆生の側の努力や意志ではなく)真実を恵むのだ、というところに大悲願心の超越性を信ずるという教えの構造がある。  これを善導は『観無量寿経』の三心の「深心」を解釈する中で、信に「二種あり」(「信巻」「散善義」引文、『真宗聖典』215頁参照)といって、矛盾するような構造を持つ二種の信が並立していることこそが、「深心」の語で押さえられる信心であることを示される。  これによって親鸞は、煩悩具足の身の事実は変えることなどできないが、しかし、悲願成就の証しにおいて、現生の正定聚が我らの信心に与えられる利益であるとされる。それが、「即得往生」の語で教えられている報土得生という意味でもあるとさえ述べておられるのである。  摂取の心光を煩悩の身に感受するとき、闇を生きている一面を忘れることなく、しかも摂取の光の暖かさに触れるのだとされるのである。深信の二面を同時に信知することが、如来回向の他力の信であるということ、そして大悲が名号として衆生に呼びかけているところに、この二種の信を同時に成就する作用が我らに恵まれるということなのである。 (2023年12月1日) 最近の投稿を読む...
202305
第245回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑯
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第245回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑯  先回確認した『一念多念文意』」』のこの了解は、『教行信証』「信巻」において展開されている本願成就文の了解でもある。それは、我らに発起する信心は、本願成就の信心であり、如来回向の信心であるということである。    本願成就の文の中程に「至心回向」(「『無量寿経』、『教行信証』「信巻」引文、『真宗聖典』233頁)という語があるのだが、その「至心」も「回向」も、「信巻」の三一問答において、衆生の側に属する事柄ではなく、大悲の如来の側に属する事柄であることが明らかにされている。そのことを明白にするために、本願成就の文の「至心回向」以下の文を「本願の欲生心成就の文」(『教行信証』「信巻」、『真宗聖典』233頁)と、親鸞は名付けてもいるのである。この「欲生心」は如来の大悲が発起して、衆生に「勅命」として呼びかける心心だというわけである。    その理解をもって、『一念多念文意』の文の「至心回向」以下の段を読んでみよう。   「至心回向」というは、「至心」は、真実ということばなり。真実は阿弥陀如来の御こころなり。「回向」は、本願の名号をもって十方の衆生にあたえたまう御のりなり。 (『一念多念文意』、『真宗聖典』535頁)    このように、本願を成就するとは、如来が不実なる凡夫をみそなわして、しかもその不実を超えて真実を恵まんとするこころが現実化する、ということだとされるのである。我らが不実の凡夫であるとは、無明煩悩を取り払うことなどできず、自我に愛着して自己主張や自己の権利要求にのみ生涯を費やしてしまう存在であるということである。愚痴に覆われ欲望が深い存在であることを、徹底的に知らされながら、しかもそういう無明煩悩が満ち満ちている衆生に、如来の大悲がどこまでも寄り添って、そういう執着の深い存在を横ざまに超えて(衆生の側の努力や意志によることなく)真実を恵むのだ、と知らされるところに、大悲願心の超越性を信ずるという教えの構造がある。  これを善導は『観無量寿経』の三心の深心釈において、信心に「二種あり」(『観無量寿経疏』「散善義」、『教行信証』「信巻」引文、『真宗聖典』215頁)と言って、矛盾するような構造を持つ二種の信が並立していることこそが、「深心」の語で押さえられる信心であることを示されるのである。  これによって親鸞は、煩悩具足の身の事実は変えることなどできないが、しかし、悲願成就の証しにおいて、現生の正定聚が我らの信心に与えられる利益だとされるのである。それが、「即得往生(すなわち往生を得〔え〕)」(『教行信証』「信巻」、『真宗聖典』233頁)の語で教えられている報土得生という意味でもあるとさえ述べておられるのである。  摂取の心光を煩悩の身に感受するとき、闇を生きている一面を忘れることなく、しかも摂取の光の暖かさに触れるのだとされるのである。深信の二面を同時に信知することが、如来回向の他力の信であるということであり、つまり大悲が名号として衆生に呼びかけているところにこの二種の信を同時に成就する作用が我らに恵まれるということなのである。 (2023年11月1日) 最近の投稿を読む...
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第244回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑮
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第244回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑮  本願の信心においては、現生の正定聚、すなわち必定して仏果に至りうるという不退転の信念を、現生の有限なる生存状態において実現できる、と親鸞は述べている。この正定聚の課題についてであるが、釈尊在世の頃には、仏弟子に「必ず成仏するであろう」と予言することが、仏陀釈尊によって為されていたとされている。しかしその後、時を経て、仏陀無き時代になって、成仏の必然性を確信することが仏道の過程において、どのようにして確保されるかということが問題になっていったのである。    法蔵願心は、この問題を衆生の根本問題であるとして、十方衆生を必ず成仏させようと誓うのである。そのことを示しているのが第十一願である。そして、『無量寿経』下巻の始めに第十一願の成就が説き出されてくるのである。その第十一願成就文には、   それ衆生ありてかの国に生ずれば、みなことごとく正定の聚に住す。所以は何ん。かの仏国の中には、もろもろの邪聚および不定聚なければなり。 (『真宗聖典』44頁)   とある。「かの国に生ずれば」とあるので、この文は明らかに此土ではなく彼土のことを述べたものとして読むべきなのであろう。法蔵願心が、自己の国土の持つ大テーマとして、一切衆生の成仏の必然性を誓っているのであるから。    ところが、親鸞は晩年の『一念多念文意』において、   釈迦如来、五濁のわれらがためにときたまえる文のこころは、「それ衆生あって、かのくににうまれんとするものは、みなことごとく正定の聚に住す。 (『真宗聖典』536頁)   と、原文の「生者」を「生ずれば」ではなく、「うまれんとするものは」と訓んで、本願の果である報土に生まれようとする因位、すなわち願生の位の利益として考察しておられるのである。    そこでは第十一願の因果を語り出すに先立って、第十八願の成就文を解釈されている。そこに「至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」(『真宗聖典』44頁)という文を、独自の読経眼で読み解いている。詳細は『一念多念文意』に譲るが、そこでは「願生彼国 即得往生 住不退転」について、   「即得往生」というは、「即」は、すなわちという、ときをへず、日をもへだてぬなり。また即は、つくという。そのくらいにさだまりつくということばなり。「得」は、うべきことをえたりという。真実信心をうれば、すなわち、無碍光仏の御こころのうちに摂取して、すてたまわざるなり。「摂」は、おさめたまう、「取」は、むかえとると、もうすなり。おさめとりたまうとき、すなわち、とき・日をもへだてず、正定聚のくらいにつきさだまるを、往生をうとはのたまえるなり。 (『真宗聖典』535頁)   と述べて、願生と得生を「即」の言で結んであるところに、本願の信心に「住不退転」の利益が存することを明白に説き出されている。   (2023年10月1日) 最近の投稿を読む...

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