親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 今日、「浄土」と言えば死後の世界と同義語のように日本語に定着し、それが一般的な共通理解になってしまっている。親鸞の時代に、どれほどこの観念が民衆に定着していたかは、定かではない。現今(げんこん)の浄土についての理解が、このような死後世界とほとんど同義語となっていることについては、一般化した浄土の理解に浄土真宗の教えの側がすり寄った責任もあるように思う。それは祖師親鸞の思索や試みを無視したというよりも、親鸞が苦労して従来の浄土教の浄土理解を解体するほどの仕事をしたことが、きちんと了解できていなかったのではないかとさえ思われる。

 親鸞以外の浄土教の祖師達は、自分たちが求める浄土の救済が、聖道門の止観の対象となっている「観念」の浄土とは異なることを主張しようとし、慈悲方便して説き出された浄土の荘厳世界を、文字どおりに臨終来迎をくぐって至らしめられる死後の場所として基本的に理解したようである。専修念仏を主張した法然にあっても、往生浄土は身の「臨終」と結びついて理解されていたようである。

 しかしながら、親鸞における「顕浄土」の仕事は、必ずしもこの点では師の考えを継いではいない。往生に三段階の信念に対応した名を与えていることからも、それは明らかであろう。親鸞の本願力による救済の了解には、『浄土論』・『浄土論註』から取り出し獲得した「往還二回向」ということがある。この言葉が、親鸞の浄土理解に対して、決定的な意味をもっているのだと思う。この「回向」とは、言うまでもなく『浄土論』・『浄土論註』が浄土への行として説いている五念門の行を、自利の四念(礼拝〈らいはい〉・讃嘆〈さんだん〉・作願〈さがん〉・観察〈かんざつ〉)を成就した利他の回向門を中心に、理解し直すことである。すなわち、利他の回向が、如来の側から衆生への大悲回向と読み取るということである。「回向を首として大悲心を成就することを得る」(『真宗聖典』139頁)ということが『無量寿経』の語る法蔵願心の「兆載永劫(ちょうさいようごう)」の修行成就の意味なのであり、その成就とは、「回向」に五念門の「首」(代表)である意義を見ることによって、衆生のうえに「本願成就」する信心の背景の修行である、と理解されたのである。

 どこまでも「回向」が大悲の願行であるといただくとき、「無有出離之縁(出離の縁あることなし)」(『真宗聖典』215頁)とされる流転の凡夫に、摂取不捨の心光が現にはたらいていると信じられてくるのである。罪悪深重の身が信知されるとともに、兆載永劫のご苦労がわが身のためであると感じられるのである。名号の信心に修行が欠如しているのでなく、名号の信心には、難信を突破せしめる如来回向の大悲の修行があると信受するのである。わが存在の根源にはたらき続ける永劫修行があることに気づくのである。その信知が起こるとき、凡夫の浅薄な努力意識は微塵のごとくに吹き飛ばされるしかないのである。

(2012年5月1日)

最近の投稿を読む

公開講座画像
第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①  親鸞聖人のお言葉には、人間存在のもつ実相への深い洞察とそこから染み出てくるような懺悔の心が感じられる。このことには、その背後に『大無量寿経』にまで煮詰められた大乗仏道の菩提心の歴史があるのであろう。総願から別願を開示して、この大乗の菩提心を掘り下げるべく歩みを進めるところに、「法蔵菩薩」なる人間像が生み出されてきている。...
公開講座画像
第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬  本願によって衆生に開かれる「宗教的実存」とは、いかなる構造として表現し得るものであろうか。その構造解明の手がかりを、横と竪という菩提心のありかたから探ってみた。そして我らに開かれる信心の意味に、この世での生き方に対して、超越的で立体的な空間として本願の信仰空間と言うべきありかたが、教えられていることを了解した。...
公開講座画像
第228回「悲しみに秘めた讃嘆」⑫
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第228回「悲しみに秘めた讃嘆」⑫  我らの現実の生存において、宗教的実存を求めてこれを成就するとは、どういうことであろうか。本願の仏教では、阿弥陀如来の本願を信じ、自己の有限なる生存をそのままにして(煩悩具足と信知して)「浄土」に往生し、阿弥陀如来の苦悩の衆生を摂取せんとする志願に随順して衆生済度の志願を輔翼することである、と教えられている。この願心に随順することによって、阿弥陀如来と平等なる仏陀(諸仏)になる、と願われているのである。...

テーマ別アーカイブ