親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 真実信心の発起とは、「信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す」(『真宗聖典』210頁)と「信巻」別序に押さえられているように、本願力をその根本の原因とすると、親鸞は言う。邪見の凡夫からは、真実の信ということはあり得ないと見ているからである。「煩悩具足と信知して 本願力に乗ずれば すなわち穢身すてはてて 法性常楽証せしむ」(『高僧和讃』「善導和讃」、『真宗聖典』496頁)と詠われるように、「煩悩具足」と信知することは、本願力を信ずることと表裏一体であり、自己の真実の相を知ることには、願力に出遇うことが必要不可欠なのである。

 しかし「煩悩成就のわれらが 他力の信」を得るということは、自力の妄念に動機づけられている我らには、難中の難である。この困難性を突破する機縁は、法蔵願心が我らの煩悩の身の足下に、「兆載永劫」の忍辱を持続することにあるのだ、と感知するところに『無量寿経』の物語が意味をもつのである。この因位のご苦労を、我が身のためであると「聞く」ところに、「我が名を聞け」という教えが響いてくるのである。

 この因位の本願の意味を聞き当てることにおいて、「聞其名号 信心歓喜」という言葉が、衆生における本願の体験の事実となる。これによって「如来の回向に帰入して 願作仏心をうる」(『真宗聖典』502頁参照)人が誕生するなら、その人は「他力」の大菩提心をいただけるのであるから、「十方の衆生」に普遍的にはたらき続ける法蔵菩薩の因位本願の大悲に帰依することになる。親鸞の表現の分からなさは、この大悲のはたらきがあたかも完全に現在の現行(げんぎょう)として、「利益有情」という事実を、凡夫から見えることのように語っていることである。

 そもそも「利他」とは、仏力にのみ成り立つというのが、親鸞の真実信心の視点である。全面的に衆生利益は如来の作用であると認めるのである。凡夫には絶対に煩悩具足の身で、仏道の「救済」を完遂することはできない。有限の関係において有限的に一部分の手助けはありうるが、仏道の済度(完全な仏の正覚を施与すること)は不可能なのである。「自力の回向をすてはて」(同前参照)るとは、この事実をしっかりと信受することであろう。

 その信心には、「煩悩具足と信知して 本願力に乗ず」(『真宗聖典』496頁参照)ることにより、本願が表している願力成就の報土の風光が、光明摂取の生活として眼前に開示されてくるのではないか。「如来の回向に帰入して」(『真宗聖典』502頁参照)と『正像末和讃』が語ることは、「如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり」(『真宗聖典』503頁参照)との和讃のように、如来が大悲を成就していることを認めることである。それは現実の我らから、いかなる意味があることなのであろうか。

(2019年7月1日)

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202305
第251回「存在の故郷」⑥
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第251回「存在の故郷」⑥  仏教一般の了解は、人間の常識にもかなっている自力の次第を是とするから理解しやすいが、他力の次第を信受することは「難中の難」だとされている。それは、生き様の差異を超えてあらゆる衆生が等しく抱える愚かさを見通した、如来の智見によってなされた指摘である。  衆生は有限であり、大悲に背いて自我に執着(我執・法執)し、差別相の表層にこだわり続けている。如来は、大悲の心をもってそのように衆生を見通している。仏陀は、『大無量寿経』や『阿弥陀経』の結びにおいて、そのように見通す如来の智見に衆生が気づくことは困難至極だと注意しているのである。  人間は人の間に生まれ落ち、人間として共同体を生きている。そこに生存が成り立っているのだが、人間として生きるとき、我執によって他人を蹴落としてでも自己の欲望を成就したいというような野心を発(おこ)すのである。仏教では、我執(による欲)は菩提心を碍(さまた)げる罪であり、そういう欲望を極力避けるべきだと教える。  そもそも仏教における罪悪とは、菩提心を碍げるあり方を示す言葉である。その意識作用を「煩悩」と名付けているのである。大乗の仏弟子たちは、菩提心を自己として生活することが求められるのであるから、それを妨げる煩悩に苛まれた自己を克服することが求められる。だから、仏教とは、基本的に「自力」でそのことを実現することであると教えられているのである。  しかし、この自己克服の生活における戦いは、限りなく続くことになる。自己が共同体の中に生存している限り、他を意識せざるをえないし、そこに起こる様々な生活意識には、我執を意識せざるを得ない事態が常に興起するからである。  しかも大乗仏教においては、この我執を完全に克服するのみでなく、さらに利他救済の志願を自己とする存在たることが求められる。それが表現されている。この要求を満足した存在が仏陀であり、すなわち仏陀とは大乗仏教思想が要求した人間の究極的理想像であるとも言えよう。そしてこの仏陀たちが開示する場所が「浄土」として荘厳されている。それが諸仏の浄土である。その諸仏の浄土に対し、一切の衆生を平等にすくい上げる誓願を立てて、その願心を成就する名告りが阿弥陀如来であり、安楽浄土である。その因位の位を「法蔵菩薩」と名付け、その発起してくる起源を、一如宝海であると表現するのである。  法蔵菩薩の願心の前に、個としての自己は、愚かで無能で罪業深重であると懺悔せざるを得ないのである。限りなく我執が発ってしまうことが、人間として生涯にわたって生活することの実態であるからである。しかし、これを見通し、自覚することは困難だと『大無量寿経』や『阿弥陀経』では注意されているのである。 (2024年6月1日) 最近の投稿を読む...
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第250回「存在の故郷」⑤
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第250回「存在の故郷」⑤  大乗仏教では、大涅槃を浄土として荘厳・象徴することによって、とらえがたい大涅槃なるものをイメージとして具体化してきた。また浄土教ではそのイメージに基づいて、浄土往生を実現することが浄土教徒にとっての最終目的のように受けとめられてきた経緯があるわけだが、親鸞は本願の思想に返すことでその考え方を改め、浄土の意味を根本的に考察し直した。  その考察の道筋をたどることは、浄土を実体的な「あの世」とみなし、それを常識としてきた立場からすると受けとめにくいことかもしれない。しかしながら、我々はいま、親鸞が浄土を一如宝海と示して考察した道筋を、『教行信証』の説き方に則しながら考察してみようと思う。  『教行信証』の正式な題名は『顕浄土真実教行証文類』という。この題が示すように、「浄土」を顕(あきら)かにすることが、衆生にとっての根本的な課題なのである。そこで親鸞は、真実の「教行証」という仏道の次第を見出して論じ、その課題に応答している。そして、本願に依って衆生に呼びかける大涅槃への道筋が、「行信」の次第であることを示している。  この次第は、いわゆる仏教一般の受けとめ方とは異なっている。仏教一般で言われる「行」は、信解した教えに基づき自力で涅槃を求めてなされる修行の方法であり、各々その行の功徳によって果である涅槃への道筋が開かれるという理解である。つまり仏道の教を信じて行じた結果が証だという次第になる。この次第は「信・解・行・証」あるいは「教・理・行・果」とも表されるが、これは、この世の一般的な時間における因果の次第と同様の流れであるから、人間の常識からすると理解しやすい。  これに対し、親鸞が出遇った仏道は、本願に依って誓われ一切衆生に平等に開かれる「証大涅槃」の道である。だからして、衆生にとってだれであろうと行ずることができるような「行」、すなわち「易行」が本願によって選び取られているのであり、本願力に依ることによって、個々の衆生の条件によらず、平等に涅槃への必然性が確保されると親鸞は理解する。この本願力を「他力」と言い、衆生がこの他力の次第を信受することが待たれているというわけである。親鸞は、この他力の次第を行から信が開かれてくると了解したのだ。  この他力を信ずるのは、衆生にとっては難中の難であるとされる。それは、各々の衆生の生には、それぞれ異なる多様な縁が絡み付き、その事態に各々が個別に対処しているということがあるからである。だからして、この事態を打破するには、各々の出会う縁に対し、各自がそれぞれ努力するべきだという「自力」の教えが伝承されてしまうのである。 (2024年5月1日) 最近の投稿を読む...
202305
第249回「存在の故郷」④
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