親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 法藏菩薩の願心には、「志願無倦」と表現されるような、止むことのない願心の持続があるという。これを大願業力ともいう。願が業といわれるような、持続する力といえるようなことだというのである。

 法藏菩薩という名が、我ら一切の衆生の救済を念じ続ける願心を示すものであり、その願心が、人間の深層的な暗部に行為経験の結果が蓄積されるごとく、宗教的な解放への意欲の可能性をささやき続けるというのであろう。

 自業自得がこの世の因果である。この場合の業は、自我の意欲から行為を選択することによって、その結果が自己の存在の深層に刻み込まれる。自らこの世のつとめを生きて、その結果を自分が引き受けつつ、自分になっていくのである。しかし、その因果を作り出す因そのものを、自我の思いで捉えているところに、身動きできないような固着がある。すなわち阿頼耶を自我だと執着する末那識に執蔵されて、業の繋縛を蓄積しているのである。

 そしてその因に与えられる縁についても、自我が勝手に選び取れるような思いが抜けない。縁を偶然のものと感じるものの、その縁を自分で選べるのだと思っているから、そうできない場合は不運であり、不遇であると苦しむのである。

 我らの心身は、自我の思いのごとくに生まれ出るのではない。遠く深い因縁の背景を賜わって、この世に、そしてこの時間に、心身を受けるのである。そして、あたかも偶然のごとくに、生きるための諸縁が恵まれてくるのである。この深い因縁を感受する自己には、与えられる縁は、遠い宿縁のもよおしである。ここに偶々命を感受するものは、遠い因を感謝し、深い縁を頂いたものとして、この苦悩の実存を引き受けることができる。すべての歴史的な因縁の結果を、全面的に引き受けている主体を、異熟なる阿頼耶識というのであろう。それを真に尊い主体とする自覚が、法藏菩薩の意味なのではなかろうか。

(2008年7月1日)

最近の投稿を読む

公開講座画像
第235回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑥
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第235回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑥  善導のいわゆる「十四行偈」の出だしの「道俗時衆等 各発無上心 生死甚難厭 仏法復難欣 共発金剛志 横超断四流」(『真宗聖典』235頁)の問題である。この偈文に、了解しにくい内容がある、と思う。菩提心が「各発」という意味であるならば、それは成就しがたくあるのに、「共発」として「金剛の志」であるなら「横超」において「四流(迷妄の生存)」を「断つ」ことができる、という偈の言葉が突然に出されているからである。そもそも発菩提心は、個人に発起する仏教的意欲(仏に成りたいという意志)を表している言葉であるし、それが「共発」として「金剛」であるように発起するということは、かなり「困難」だとも思えるからである。...
公開講座画像
第234回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑤
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第234回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」  法蔵菩薩とは、苦悩の衆生を救済しようと願う普遍的な菩提心を象徴する名である。苦悩の衆生とは、親鸞の言葉に「諸有に流転の身」とある。諸(もろもろの)とは、それぞれの宿業因縁に依って、この五濁悪世に生存を与えられているすべての生命存在ということである。「諸有」として、それぞれ異なる身体を与えられ、おのおの別々の境遇や限定を受けつつ、この五濁の世に生きているということである。それらすべての事情を超えて、普遍的にすくい取らずにはおかない、という志願を「法蔵」という名にこめて、『大無量寿経』(以下、『大経』)が法蔵菩薩の因願を語り出しているのである。...
公開講座画像
第233回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」④
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第233回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」④  そもそも仏法の課題は、流転の苦悩を超脱するところにある。言い換えれば、生死の迷いを超克するのである。この目的を達成すべく求道するところに、仏道が存立してきたのである。  これは衆生の普遍的苦悩である四苦八苦の生存を出離することである。その出離生死の課題を独り超え出るのみでなく、衆生と共に歩み続けようという方向に、如来の願心を聞き当ててきたのが大乗仏道の歩みであった。その思想の依り処となったものが、如来の入滅を前になされた涅槃説法であり、そこから『涅槃経』が編み出されてきたとされる。...

テーマ別アーカイブ