親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

第187回「親鸞教学の現代的課題Ⅴ―横超の大誓願―」⑧

 親鸞はかくして信心において、大乗仏教の根本命題である「生死即涅槃」(『真宗聖典』194頁206頁参照)の実質に横超的に到達できることを、伝承された経論釈(きょうろんしゃく)の言葉によって明らかにした。それらによって、信心が大菩提心であることを明証したわけである。仏の正覚を一切の凡夫に開示するという課題を、仏の教言の伝統によって論理的に検証したわけである。しかし、これを自己の経験上に実証するには、いまだ十分であるとは言えなかったであろう。

 親鸞は「必至無上道〈必ず無上道に至らん〉」(『無量寿経』「三誓偈」、『真宗聖典』25頁)を要求する求道者として、これらの論証が単なる言語上の論理にとどまらず、自己の内面的な確証になることを求めて止まなかった。その要求に応答するものが、善導の「正受金剛心」(『真宗聖典』147頁207頁235頁参照)の語だったのではなかろうか。『観無量寿経』の「教我思惟 教我正受〈我に思惟を教えたまえ、我に正受を教えたまえ」(『真宗聖典』93頁)に対し、善導は「思惟は観の前方便」であると言い、「正受というは想心すべてやみ、縁慮並びに亡じて三昧と相応す」(真宗聖教全書1・447頁参照)と釈している。それを親鸞は、「「教我正受」と言うは、すなわち金剛の真心なり」(『真宗聖典』331頁)と解釈される。善導では、人間の意識活動のすべてが静まることを示して、自力の努力意識が消え去ることを要求するごとくであるが、親鸞はそれをまったく別の視座から「金剛の真心」(『真宗聖典』235頁)だと押さえるのである。

 信心が金剛であるということを、もし人間の意識を固定することの極地にある事柄だと考えるなら、それは生命活動の流動性を否定する言葉になるであろう。それでは凡夫が教えに相応することはまったく不可能になる。この金剛という語の宗教的意味を、親鸞はそういう方向においてはとらえなかった。どこまでも広大無碍の大悲にこそ、信心の真実性の根拠があることを信じたからである。たとえ煩悩具足の凡夫に発起するにしても、信心が真実であり金剛たり得るのは、如来の本願力に根拠があると見たのである。

 『歎異抄』第九条の唯円の問いかけに対しての親鸞の応答は、このことを見事に示している。「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」(『真宗聖典』629頁)と正直に唯円が自分の内面の弱さをさらけ出したのに対し、親鸞は、それを叱りつけるのではなく、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」(同前)と、それに同感しその感覚を素直に認められた。そして、その不安の感情は煩悩の興盛(こうじょう)であり、それを仏はかねてしろしめして「煩悩具足の凡夫」と呼びかけてくださっているのだから、むしろ頼もしく思うべきではないか、と諭している。本願を信受するのなら、まさに信心の根拠を本願力にこそ置くべきなのであると。

(2019年1月1日)

最近の投稿を読む

公開講座画像
第231回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」②
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第231回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」②  諸仏の国土とは、大乗仏道の歴史が見出した大いなる法界(大乗無上の菩提の内容)に、僧伽を支えてきた無数の求道者が値遇したことを現わそうとしているのであろう。そこには、果徳の平等性と共に、因位の差異を表している様々の名前によって、諸仏それぞれの因位の過程や求道課題の差異が認められているのである。...
公開講座画像
第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①  親鸞聖人のお言葉には、人間存在のもつ実相への深い洞察とそこから染み出てくるような懺悔の心が感じられる。このことには、その背後に『大無量寿経』にまで煮詰められた大乗仏道の菩提心の歴史があるのであろう。総願から別願を開示して、この大乗の菩提心を掘り下げるべく歩みを進めるところに、「法蔵菩薩」なる人間像が生み出されてきている。...
公開講座画像
第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬  本願によって衆生に開かれる「宗教的実存」とは、いかなる構造として表現し得るものであろうか。その構造解明の手がかりを、横と竪という菩提心のありかたから探ってみた。そして我らに開かれる信心の意味に、この世での生き方に対して、超越的で立体的な空間として本願の信仰空間と言うべきありかたが、教えられていることを了解した。...

テーマ別アーカイブ

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 親鸞はかくして信心において、大乗仏教の根本命題である「生死即涅槃」(『真宗聖典』194頁206頁参照)の実質に横超的に到達できることを、伝承された経論釈(きょうろんしゃく)の言葉によって明らかにした。それらによって、信心が大菩提心であることを明証したわけである。仏の正覚を一切の凡夫に開示するという課題を、仏の教言の伝統によって論理的に検証したわけである。しかし、これを自己の経験上に実証するには、いまだ十分であるとは言えなかったであろう。

 親鸞は「必至無上道〈必ず無上道に至らん〉」(『無量寿経』「三誓偈」、『真宗聖典』25頁)を要求する求道者として、これらの論証が単なる言語上の論理にとどまらず、自己の内面的な確証になることを求めて止まなかった。その要求に応答するものが、善導の「正受金剛心」(『真宗聖典』147頁207頁235頁参照)の語だったのではなかろうか。『観無量寿経』の「教我思惟 教我正受〈我に思惟を教えたまえ、我に正受を教えたまえ」(『真宗聖典』93頁)に対し、善導は「思惟は観の前方便」であると言い、「正受というは想心すべてやみ、縁慮並びに亡じて三昧と相応す」(真宗聖教全書1・447頁参照)と釈している。それを親鸞は、「「教我正受」と言うは、すなわち金剛の真心なり」(『真宗聖典』331頁)と解釈される。善導では、人間の意識活動のすべてが静まることを示して、自力の努力意識が消え去ることを要求するごとくであるが、親鸞はそれをまったく別の視座から「金剛の真心」(『真宗聖典』235頁)だと押さえるのである。

 信心が金剛であるということを、もし人間の意識を固定することの極地にある事柄だと考えるなら、それは生命活動の流動性を否定する言葉になるであろう。それでは凡夫が教えに相応することはまったく不可能になる。この金剛という語の宗教的意味を、親鸞はそういう方向においてはとらえなかった。どこまでも広大無碍の大悲にこそ、信心の真実性の根拠があることを信じたからである。たとえ煩悩具足の凡夫に発起するにしても、信心が真実であり金剛たり得るのは、如来の本願力に根拠があると見たのである。

 『歎異抄』第九条の唯円の問いかけに対しての親鸞の応答は、このことを見事に示している。「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」(『真宗聖典』629頁)と正直に唯円が自分の内面の弱さをさらけ出したのに対し、親鸞は、それを叱りつけるのではなく、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」(同前)と、それに同感しその感覚を素直に認められた。そして、その不安の感情は煩悩の興盛(こうじょう)であり、それを仏はかねてしろしめして「煩悩具足の凡夫」と呼びかけてくださっているのだから、むしろ頼もしく思うべきではないか、と諭している。本願を信受するのなら、まさに信心の根拠を本願力にこそ置くべきなのであると。

(2019年1月1日)

最近の投稿を読む

公開講座画像
第231回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」②
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第231回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」②  諸仏の国土とは、大乗仏道の歴史が見出した大いなる法界(大乗無上の菩提の内容)に、僧伽を支えてきた無数の求道者が値遇したことを現わそうとしているのであろう。そこには、果徳の平等性と共に、因位の差異を表している様々の名前によって、諸仏それぞれの因位の過程や求道課題の差異が認められているのである。...
公開講座画像
第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①  親鸞聖人のお言葉には、人間存在のもつ実相への深い洞察とそこから染み出てくるような懺悔の心が感じられる。このことには、その背後に『大無量寿経』にまで煮詰められた大乗仏道の菩提心の歴史があるのであろう。総願から別願を開示して、この大乗の菩提心を掘り下げるべく歩みを進めるところに、「法蔵菩薩」なる人間像が生み出されてきている。...
公開講座画像
第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬  本願によって衆生に開かれる「宗教的実存」とは、いかなる構造として表現し得るものであろうか。その構造解明の手がかりを、横と竪という菩提心のありかたから探ってみた。そして我らに開かれる信心の意味に、この世での生き方に対して、超越的で立体的な空間として本願の信仰空間と言うべきありかたが、教えられていることを了解した。...

テーマ別アーカイブ