親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 正定聚(しょうじょうじゅ)の信心を因として大涅槃(だいねはん)の果を得る。その因果に本来は、この世の時間的な課程を挟まない。このことについて考えようとしている。

 仏陀の智見と凡夫の認識とには落差がある。一般的には、修道の時間をくぐってこの落差を一致させることを、菩提心(ぼだいしん)の因果として説くのだ、と考える。しかし、徹底的に罪悪と愚痴に覆われている「煩悩具足の凡夫」にとっては、この落差は自分にいかなる条件を加えようとも超えることのできない落差なのである。

 しかしながら、この落差を竪に超えるのでなく、横に超えるという超え方があり得るのではないか。この方法を本願力による救済として明確にしようとしたのが、親鸞の仕事だったのではないか。

 空間的な次元ならば、竪の距離を超えようとするとき、横の方向にどれほど動こうとも、決して超えるべき距離が縮まることはない。ところが、この絶対の断絶を一挙に超えうるのだということは、思考の軸の転換をするなら、超える方向が違っていたことに気づくということなのではないか。本願力がわれらを救済対象に見据えるとき、超えるべき方向は横になるということであろう。これはイメージの転換でもあろうし、発想の変換でもあろう。さらに言うなら、菩提心の因果は、空間的にも時間的にも表現できない落差なのだということだったのであろう。

 『教行信証』の「真仏土巻」に『涅槃経(ねはんぎょう)』を引用して「仏性未来」(『真宗聖典』308頁)ということを言っているのに、「信巻」では「信心仏性」と言う。この「真仏土巻」における未来は、仏陀の智見からするなら、絶対の現在なのだけれど、因位(いんに)の菩薩や凡夫からするなら未来と言うしかないということである。だから、因たる位からは、目覚めの可能性を「未来」と表現するということである。だからといって、菩薩や凡夫の時間を延長して、因を果にすることではない。「二乗非所測 唯仏独明了(二乗〈にじょう〉の測〈はか〉るところにあらず。唯〈ただ〉仏のみ独〈ひと〉り明らかに了〈さと〉りたまえり)。」(『真宗聖典』50頁)と言われるゆえんである。それなのに、信心が仏性であるとは、果である仏性に因の意味があるということなのか。それとも、因である信にもすでに果の意味がありうるというのか。

 正定聚における時間とは、別の面から考えるなら、本願成就の一念の時に無量億劫(むりょうおっこう)の過去の意味を具現しているのであり、尽未来際(じんみらいさい)の未来の時を内包しているということなのではないか。無始(むし)より已来(このかた)、乃至(ないし)今日今時に至るまで、自力の努力意識で流転(るてん)してきた身が、無限なる「兆載永劫(ちょうさいようごう)」の修行の功徳との値遇(ちぐう)において、自力無効を信知させられる。大悲の先端たる一念の信において、無限の時の意味を恵まれるのである。

 だから、本願力の回向を信受するなら、本願力が信心の本質を仏性であると顕(あらわ)す、それを正定聚と言うのではないか。凡夫の愚かな現実と本願力とが、「速得成就」として凡夫のところに値遇の事実となり、煩悩の闇と光明の明るみとが、一念の事実として矛盾せずに信心開発(かいほつ)する。だから、如来回向の信心は、因でありつつ、すでにして仏性である、というのではないか。

(2012年2月1日)

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