親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 衆生に与えるべき「大涅槃」を「純粋未来」の必然性として確定的に表現することと、法蔵願心が「兆載永劫」という無限の時間を語ることとの課題を考えよう。

 無限大悲が凡愚に「無上功徳」を回施するには、名という方法を選び取った。名は、無為法である涅槃(一如)より、大悲によって願心を発起した法蔵菩薩の「選択摂取」である。そのために「五劫思惟」の時間をかけたと、『大無量寿経』の物語を解釈することができよう。その名をとおして、有為(生死無常を生きる)の衆生に、無為法たる涅槃の功徳を開示しようとするのが、大悲回向の中心的な意味である。

 その名(根本言)において、本願力を自己の事実として「生死」を離れずに「涅槃」に触れることを信ずること。しかしここに、有為と無為との矛盾を超えるために、「兆載永劫」という願心の無倦の作用をいただかねばならないのだ、と気づかされよう。それによって「生死即涅槃」という大乗仏教の根本標識を、本願の信心において凡夫が必然性として確保しうるのだ、とするのが親鸞の信心の内面である。そういう本質をもつ信心であることを表すために、三心の第一たる至心の体(たい)が名号であるとし、その至心を衆生に回施するところに、兆載の修行がかかるとする善導の至誠心釈を取り上げるのであろう。

 「正信偈」に、「不断煩悩得涅槃(煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり)」(『真宗聖典』204頁)と言い「証知生死即涅槃(生死即涅槃なりと証知せしむ)」(『真宗聖典』206頁)とあることを、現生にはこれは成り立たないから、臨終をくぐった死後の浄土での利益であると伝承の解釈学が説明しているのは、この有為と無為の矛盾を超える信念をもてずに、生死が終わった死後ならば、矛盾がなくなるという常識的世間的論理に妥協したためではないか。生死が終わってからの涅槃というのでは、大乗の「生死即涅槃」の標識を捨てて、小乗仏教に退転してしまっているのではないのか。

 親鸞は、「正信偈」の先の二句の直前に、「能発一念喜愛心(よく一念喜愛の心を発すれば)」(『真宗聖典』204頁)と言い、「惑染凡夫信心発(惑染の凡夫、信心発すれば)」(『真宗聖典』206頁)と書き記している。これは明らかに、凡夫が本願の信心を獲得するならば、大乗の根本標識を自覚的に成就するのだ、と言うことである。本願の信に、無為法と有為の生死との絶対矛盾を突破して、「生死即涅槃」が成り立ってくることを表現しているのである。

 煩悩と菩提の矛盾を内に抱えながら、しかしそれを突破させようとする本願力を信ずる。そこに、法蔵菩薩が永劫に修行しているのだ、という物語を置いて、凡夫が自力でこの矛盾を突破するのでないことを判然としているのである。さらに親鸞は、善導の指示を受け止めて、真実信心は「金剛心」であると言う。「金剛」は無漏の体であるとも言う(『真宗聖典』235頁参照)。煩悩具足の凡夫に、「無漏」の信心が成り立つのだと言うのである。

(2013年12月1日)

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第244回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑮
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第244回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑮  本願の信心においては、現生の正定聚、すなわち必定して仏果に至りうるという不退転の信念を、現生の有限なる生存状態において実現できる、と親鸞は述べている。この正定聚の課題についてであるが、釈尊在世の頃には、仏弟子に「必ず成仏するであろう」と予言することが、仏陀釈尊によって為されていたとされている。しかしその後、時を経て、仏陀無き時代になって、成仏の必然性を確信することが仏道の過程において、どのようにして確保されるかということが問題になっていったのである。    法蔵願心は、この問題を衆生の根本問題であるとして、十方衆生を必ず成仏させようと誓うのである。そのことを示しているのが第十一願である。そして、『無量寿経』下巻の始めに第十一願の成就が説き出されてくるのである。その第十一願成就文には、   それ衆生ありてかの国に生ずれば、みなことごとく正定の聚に住す。所以は何ん。かの仏国の中には、もろもろの邪聚および不定聚なければなり。 (『真宗聖典』44頁)   とある。「かの国に生ずれば」とあるので、この文は明らかに此土ではなく彼土のことを述べたものとして読むべきなのであろう。法蔵願心が、自己の国土の持つ大テーマとして、一切衆生の成仏の必然性を誓っているのであるから。    ところが、親鸞は晩年の『一念多念文意』において、   釈迦如来、五濁のわれらがためにときたまえる文のこころは、「それ衆生あって、かのくににうまれんとするものは、みなことごとく正定の聚に住す。 (『真宗聖典』536頁)   と、原文の「生者」を「生ずれば」ではなく、「うまれんとするものは」と訓んで、本願の果である報土に生まれようとする因位、すなわち願生の位の利益として考察しておられるのである。    そこでは第十一願の因果を語り出すに先立って、第十八願の成就文を解釈されている。そこに「至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」(『真宗聖典』44頁)という文を、独自の読経眼で読み解いている。詳細は『一念多念文意』に譲るが、そこでは「願生彼国 即得往生 住不退転」について、   「即得往生」というは、「即」は、すなわちという、ときをへず、日をもへだてぬなり。また即は、つくという。そのくらいにさだまりつくということばなり。「得」は、うべきことをえたりという。真実信心をうれば、すなわち、無碍光仏の御こころのうちに摂取して、すてたまわざるなり。「摂」は、おさめたまう、「取」は、むかえとると、もうすなり。おさめとりたまうとき、すなわち、とき・日をもへだてず、正定聚のくらいにつきさだまるを、往生をうとはのたまえるなり。 (『真宗聖典』535頁)   と述べて、願生と得生を「即」の言で結んであるところに、本願の信心に「住不退転」の利益が存することを明白に説き出されている。   (2023年10月1日) 最近の投稿を読む...
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第243回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑭
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第243回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑭  法蔵菩薩の誓願が一如宝海から発起するということを、『大無量寿経』では「超発」(『真宗聖典』14頁)と表現している。それは、煩悩具足の凡夫に普遍的に与えられている仏性の成就、すなわち『大般涅槃経』が言うところの「一切衆生悉有仏性」(『教行信証』「信巻」、「師子吼菩薩品」引文、『真宗聖典』229頁)の成就たる成仏には、凡夫自身にはその可能性が全くないにもかかわらず、それを必ず成就させようとする大悲の必然があるのだということである。先回触れたように、ここで「超発」とされてくることを、親鸞は一如宝海より形を現し御名を示してくることとして了解した。それは曇鸞が、「法性法身に由って方便法身を生ず。方便法身に由って法性法身を出だす」(『教行信証』「証巻」、『浄土論註』引文、『真宗聖典』290頁)と注釈しているからであると拝察する。    法蔵願心が、誓願を超発するということは、文字や分別に執着してやまない凡夫に、その執着を突破した存在の本来性たる法性に帰らしめんがための方便を与えようということである。寂静なる法性と虚妄分別してやまない凡夫の執着との間を直接つなぐ橋は架けられない。虚妄というあり方で分別する以外には、我ら凡夫の存在了解は成り立ち得ないのである。    そのことを明瞭に知りながら、それを超えて彼方から橋を架けるがごとくに、法蔵願心は本願を超発するという。そのことを菩薩として受け止めるとはどういうことなのか。龍樹が『十住毘婆沙論』で、軟心の菩薩のために難易二道を示して、大乗の菩薩に課せられた、不退転地に至るという課題に応えようとするところには、このような不可能を可能にするべく大悲の願心が超発しているということが見通されていなければならないのであろう。    菩薩十地の初地は、「歓喜地」(『教行信証』「行巻」、『十住毘婆沙論』引文、『真宗聖典』162頁)と名付けられている。その歓喜の意味とは、仏道に入門し仏法を聞思してきた菩薩が、仏道の究極にある「大菩提」を、自分において「必ず成就することができる」と確信し得た喜びであるとされている。菩薩道の成就を確信する歓喜なのである。そこに「初」と言われているのは、仏道成就の確信が、「初めて」成り立ったことを表し、また『華厳経』(六十華厳)に「初発心時便成正覚」(「梵行品」、『大正新脩大蔵経』第9巻449頁下段)と説かれているように、初めて発心したとき、正覚を必ず成就できることとして見通されていることを示している。その可能性として表明された信念を、確実なものとする道を龍樹は求めた。「十地品」(『華厳経』)の釈論である『十住毘婆沙論』では、難易二道とされて、あたかも相対的な選びが可能であるかのごとく表現されているが、親鸞にあっては、難行は陸上の隘路のごとく、易行は水上の乗船の大道のごとくに了解されているのである。    こういう展開を下敷きにして本願の意図をいただいてみるなら、曇鸞が第十一願に着目したことも、もっともだと思う。さらには、親鸞がこの願によって正定聚・不退転を真実信心の利益として、現生に「正定聚に入る」(『教行信証』「信巻」、『真宗聖典』241頁)と確信されたことも了解できるのである。   (2023年9月1日) 最近の投稿を読む...
202305
第242回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑬
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第242回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑬  法蔵菩薩の願心は、「本願海」として展開された大菩提心である。この大菩提心の立ち上がる根底には、「一如宝海」があるとされる。そのことを親鸞は「この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)と語るのである。一如とは菩提の内容であり、大乗仏教では大涅槃とも言う。それ自体は「いろもなし、かたちもましまさず」(『唯信鈔文意』、『真宗聖典』554頁)とされ、凡夫の認識の対象や感覚の内容としてはまったく見当もつかず、無内容な事柄のごとくに見えてしまう。つまり、われら凡夫には捉えようがないということなのである。もっと積極的に言うなら、仏陀の覚(さと)りの内容は、凡夫の妄念ではまったく了解し得ないということである。  この落差というか断絶というか、手がかりさえつかめない状態を捉えて、仏陀の側から慈悲の心によって敢(あ)えて「かたち」や「いろ」のごとくに象徴的にあらわすことにより、この断絶を突破させる方法(方便)を案じ出した。その「かたち」が『無量寿経』の本願の主体たる法蔵菩薩であり、大菩提心の行相だということである。それを曇鸞は、「法性法身に由って方便法身を生ず。方便法身に由って法性法身を出だす」(『浄土論註』『教行信証』「証巻」引文、『真宗聖典』290頁)と了解し表現した。法性法身とは一如宝海であり、方便法身はそこから姿をあらわした法蔵菩薩だということである。そして、『大無量寿経』の語る因願・成就は、まさに「方便法身」の展開する内容だということになる。  したがって、法蔵菩薩の果である阿弥陀仏が方便法身の相であるからには、仏土として表現される「報土」も方便法身の相であるに相違ない、ということである。「願心の荘厳」(同前289頁)という『浄土論』の言葉とその内容を、『大無量寿経』の本願の因果に返して解釈した曇鸞のこの視座は、親鸞にしっかりと受け継がれているのである。  このように本願の成り立ちを、一如宝海から「かたち」をあらわし御名を示した法蔵菩薩に返してみると、浄土の荘厳功徳を『無量寿経』の本願の言葉に照らして了解する曇鸞の意図は、確かに龍樹の『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』の方向と重なってくるのである。龍樹は、難行易行の相対を通しながら、菩薩の中には「軟心(なんしん)」のものもあり、その要求に応えるかたちで、方便して易行を開示したのである。その易行を説き出す場は、菩薩十地の初地において「阿惟越致(あゆいおっち:不退転)」の確信を開くためのものであった。  その初地は「歓喜地(かんぎじ)」と名付けられているのだが、不退転の確信を得た喜びである「歓喜」を、法蔵願心は「諸有の衆生」に「聞其名号、信心歓喜」(『無量寿経』、『真宗聖典』44頁)として広く開示しようとしたのだ、と親鸞は見られたのである。 (2023年8月1日) 最近の投稿を読む...

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