親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

第24回

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

Series 01

 「他力」とは、「努力のないこと」というなら、何もしないことなのか。どうも、他力というと自分は何もしないで、与えられてくることを拱手傍観(きょうしゅぼうかん)していることと理解されている。あるいは、「状況に対して、ただそれで仕方ない」として、逃避的であることのように考えられている。それに対して、「他力の努力」ということを提出して、他力における努力を考えよう、というのが加藤典洋さんの問題提起であった(日本の現状と宗教の可能性―超越性と現代の文学をめぐって―『現代と親鸞』第8号 親鸞仏教センター刊)。

 そのお話のなかで、自力の超越性として、それを求める努力がオウム真理教の試みであって、それが挫折したことの影響が、「1995年の骨折」と加藤さんご自身が名づけるような現象として文学に現れているという分析をされていた。自力による超越への試みが挫折したからには、他力による超越しか道はないであろうと。

 その場合の「自力」とは、何であるのか。またそれに対応する「他力」とは何であるのか。そのことが、私にはいまひとつわからなかったのではあるが、自力とは自分の努力・精神的な集中力というようなことであろうか。そういう努力が、普通の人間の置かれている状態からの超越の要求に何らかの応答を示すだろうという考えが、「自力」と言われるのであろうか。

 人間存在は、「人と人の間」に生きている。だから、Zwischen-menschlichkeit(間としての人間性)などと言わないでも、世間を生活の場にしているのが「人」だと言えばよい。この世間を生きている人が、世間に対して、自分の意志や価値判断をもって立ち上がろうとするときに、自己を取り巻き、自己の生活の場となっている世間と、それを場として生きている自己とが、対立したり矛盾したりする。自分が自分の生きている「場」と分離するということは、自分の立っている大地が大地震を起こすとき、そのままではそこに立ち上がることができなくなるようなものである。

 いわば、そういう譬喩(ひゆ)で表せるような事態に、自分がどうすればよいのかと投げ出されたとき、自分の努力とは、いったいどれほどの力となるのであろうか。こういう事態にぶつかるのが、現代の人間生活の必然とも言える。近代以降の人間が政治体制のなかで、植民地の取り合いや、近代国家同士の利権がらみの争いや、さらには世界全体が戦争状態となっていったりするときの、一個人の位置は、大地が揺れるときの「立っていようとする努力」に比せられるようなところがあろう。そのときに、いっしょに揺れて、揺れを増大させるのでなく、それを止める方向への運動があり得るとするなら、どういうスタンスなのであろうか。

 例えば、現代のエネルギー多消費の事態に、いささかなりとも省エネの生活を実践するというようなことの「大切さ」は言うまでもない。しかし、世間の洪水のような風潮を止めることはできないであろう。大地のような「世間」から、「足を抜く」ことはできない。だからと言って、大地を離れるような超越を求めるなら、「人間」のあり方そのものを否定することになる。ブランコの揺れに喩(たと)えるなら、揺らす方向に動かされるのでなく、じっとしていることが、止まっていくことになってくることもある。そのとき、そのじっとしているという意志を「他力の努力」とでも言うのかもしれない。

(2005年5月1日)

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第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①  親鸞聖人のお言葉には、人間存在のもつ実相への深い洞察とそこから染み出てくるような懺悔の心が感じられる。このことには、その背後に『大無量寿経』にまで煮詰められた大乗仏道の菩提心の歴史があるのであろう。総願から別願を開示して、この大乗の菩提心を掘り下げるべく歩みを進めるところに、「法蔵菩薩」なる人間像が生み出されてきている。...
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第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬  本願によって衆生に開かれる「宗教的実存」とは、いかなる構造として表現し得るものであろうか。その構造解明の手がかりを、横と竪という菩提心のありかたから探ってみた。そして我らに開かれる信心の意味に、この世での生き方に対して、超越的で立体的な空間として本願の信仰空間と言うべきありかたが、教えられていることを了解した。...
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第228回「悲しみに秘めた讃嘆」⑫
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第228回「悲しみに秘めた讃嘆」⑫  我らの現実の生存において、宗教的実存を求めてこれを成就するとは、どういうことであろうか。本願の仏教では、阿弥陀如来の本願を信じ、自己の有限なる生存をそのままにして(煩悩具足と信知して)「浄土」に往生し、阿弥陀如来の苦悩の衆生を摂取せんとする志願に随順して衆生済度の志願を輔翼することである、と教えられている。この願心に随順することによって、阿弥陀如来と平等なる仏陀(諸仏)になる、と願われているのである。...

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「他力」とは、「努力のないこと」というなら、何もしないことなのか。どうも、他力というと自分は何もしないで、与えられてくることを拱手傍観(きょうしゅぼうかん)していることと理解されている。あるいは、「状況に対して、ただそれで仕方ない」として、逃避的であることのように考えられている。それに対して、「他力の努力」ということを提出して、他力における努力を考えよう、というのが加藤典洋さんの問題提起であった(日本の現状と宗教の可能性―超越性と現代の文学をめぐって―『現代と親鸞』第8号 親鸞仏教センター刊)。

 そのお話のなかで、自力の超越性として、それを求める努力がオウム真理教の試みであって、それが挫折したことの影響が、「1995年の骨折」と加藤さんご自身が名づけるような現象として文学に現れているという分析をされていた。自力による超越への試みが挫折したからには、他力による超越しか道はないであろうと。

 その場合の「自力」とは、何であるのか。またそれに対応する「他力」とは何であるのか。そのことが、私にはいまひとつわからなかったのではあるが、自力とは自分の努力・精神的な集中力というようなことであろうか。そういう努力が、普通の人間の置かれている状態からの超越の要求に何らかの応答を示すだろうという考えが、「自力」と言われるのであろうか。

 人間存在は、「人と人の間」に生きている。だから、Zwischen-menschlichkeit(間としての人間性)などと言わないでも、世間を生活の場にしているのが「人」だと言えばよい。この世間を生きている人が、世間に対して、自分の意志や価値判断をもって立ち上がろうとするときに、自己を取り巻き、自己の生活の場となっている世間と、それを場として生きている自己とが、対立したり矛盾したりする。自分が自分の生きている「場」と分離するということは、自分の立っている大地が大地震を起こすとき、そのままではそこに立ち上がることができなくなるようなものである。

 いわば、そういう譬喩(ひゆ)で表せるような事態に、自分がどうすればよいのかと投げ出されたとき、自分の努力とは、いったいどれほどの力となるのであろうか。こういう事態にぶつかるのが、現代の人間生活の必然とも言える。近代以降の人間が政治体制のなかで、植民地の取り合いや、近代国家同士の利権がらみの争いや、さらには世界全体が戦争状態となっていったりするときの、一個人の位置は、大地が揺れるときの「立っていようとする努力」に比せられるようなところがあろう。そのときに、いっしょに揺れて、揺れを増大させるのでなく、それを止める方向への運動があり得るとするなら、どういうスタンスなのであろうか。

 例えば、現代のエネルギー多消費の事態に、いささかなりとも省エネの生活を実践するというようなことの「大切さ」は言うまでもない。しかし、世間の洪水のような風潮を止めることはできないであろう。大地のような「世間」から、「足を抜く」ことはできない。だからと言って、大地を離れるような超越を求めるなら、「人間」のあり方そのものを否定することになる。ブランコの揺れに喩(たと)えるなら、揺らす方向に動かされるのでなく、じっとしていることが、止まっていくことになってくることもある。そのとき、そのじっとしているという意志を「他力の努力」とでも言うのかもしれない。

(2005年5月1日)

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第23回

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 本願力は、人間に対してまったく努力を求めていないのか。絶対の他者が、人間からは取りつく手がかりがないからと、ただ現れることを待つことなのか。

 確かに「他力」ということは、人間の努力の意識からは「見えない」ことを表しているのだろう。けれども何にも努力がないのみでは、人間にとっては何もしないことと同じになってしまう。本願は仏陀の教えの言葉である。仏陀の大悲の視野からは、人間は自分の力を信じ、努力して自分の行為の功績の積み上げで、何でも適うと思いこんでいるということが見えているのだろう。だから、本願の言葉は、まずはあらゆる努力をして如来の世界を求めよ、と呼びかけている。それを「修諸功徳(しゅしょくどく)」の願という。けれども、人間の力は有限であり、自我にとらわれた有漏(煩悩)の意識で、純粋清浄の如来の世界を求めるという矛盾がある。すなわち有限の力で、無限への「超越」を求めているということである。

 大悲とは、そういう矛盾に気づかない愚かな人間を、「摂取不捨」のこころで救いあげようということを表している。人間の努力の眼からは見えないから、「他力」なのではあるが、人間を包んで人間を信頼して、どのような愚かで罪の深い存在をも、決して排除したりはしない心なのである。

 有限なる人間の状況を哀れみ、大悲をもって人間の意識を超えたおおいなる存在の事実を呼びかけようとするのが「本願」なのである。それで、本願は根本の矛盾の解決には、「修諸功徳」の努力が無効であることに気づかせ、そういう人間をそもそも支えており、命を成り立たせ、生存を相続させている、大自然の機能といってもよいような、おおいなる因縁の事実のあり方に目覚めさせて、一切の存在を摂取しようとするのである。だから、人間のいわゆる努力は要らないということは、人間の小さな力をも生み出し、支え、励ましている、すべての因縁に、首をたれて気づくということなのである。その気づきが容易ではないのである。そのためには、ある意味の限界の突破が必要なのだが、その方向が人間の努力の方向ではないため、否定的に「自力無効」と表現されるのであると思うのである。

(2005年4月1日)

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第22回

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 先日、このセンターの研究会に、気鋭の文芸評論をしておられる加藤典洋さんをお呼びして、お話を頂いた(その概要は親鸞仏教センター通信13号掲載)。その折に、「オウム事件以後、「現世を否定する」、あるいは「彼方への欲望に身を委ねる」といった心の動きが、屈折し、萎縮して、同時代の文学の中で身をひそめるようになった。このような時代に超越性への希求、つまり宗教性への希求はどう生き延びられるか」という問題意識を出されて、「「自力の努力」が挫折した後で、超越的なものへの希求の原理を出すなら、「他力の努力」というべきものだ、これは親鸞の述べた「絶対他力」であろう」といわれた。他力だからといって、何もしないことではなかろう。何もしないのでないなら、「他力の努力」といってみよう。その他力における超越性への努力とは何であるのか。こういう展開で、珍しい問題の提示の仕方だったことと、誠実に他力による超越性を考えていこうという加藤さんの姿勢に、我々仏教センターの一同は、ぐいぐいと引き込まれた。「他力の努力」という言葉が、いままでの「他力」にまつわる誤解に対して、他力を奉ずる側から応答するべき問題を明確に提示したということでもあった。

 「他力本願ではだめだ」という。自らの努力をせずに他の条件に依存することが「他力本願」であるとされ、そういう態度を侮蔑する言葉として、「他力」が使われている。他力というから、自己の努力すなわち自力に対して、努力のないこと、とされているからである。 それに対して、浄土真宗の立場は、親鸞によって「他力というは本願力なり」といわれているから、如来の力を表すのであって、人間が「自己をたよりとし、自己の身をたよりとして」、超越的なるものへの希求を実現することを、否定するのである。それなら、何もせずに、口を開けて待つだけなのか。そうではあるまい。何もしないというだけでは、何も人間に訴えることはできない。そうではなくて、人間の努力や行為は、状況のなかで限られたものであって、超越の方向へは少しも進まないのだ、有限の地平を動き回るのみで、決して彼方へは行けないのだ、という見極めを表しているのである。

(2005年3月1日)

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第21回

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 昨年(2004年)の秋以来、台風や地震、そしてスマトラ島沖から何か国も襲った津波と、地球の状態が人間の生活に対して、すこしはこちら(自然)のことを見直せ、とでも訴えているかのように、大きな災害が起きている。

 単に、自然の異常とはいえない人間の文明生活がもたらす大きな変動、エネルギーの大量消費やそれに伴う炭酸ガスの大量発生、フロンガスによるオゾン層の破壊、あるいは森林の大量伐採や畑地の増大による環境破壊等、人間社会が便利さと豊かさを競って追い求めてきたことに、いわば必然的に付帯して起こってきたような自然の現象という面がある。

 文明化が地球を破壊しつつあるということが、目に見える形で災害として表面化しているのである。けれども、文明を先に走るほうが、「進歩」の上位にあるとされ、近代科学や近代の工業技術に勝るほうが、世界の勝ち組になるという近代文明の論理の前に、だれもこの破滅への行進を止めることを、大きな声では言えない。

 少しでもこの地球破壊の速度を緩めようと、炭酸ガスの排出を全世界で協力して規制しようとしても、最大の排出国であるアメリカ合衆国が賛成しない。自国の産業界の利益を優先するからであろう。起こっている災害に、幾ばくかの援助をすることなどで、もっと大きな自然破壊の方向を進めていくことを誤魔化せるものではないであろう。

 こういう形でだれの目にも明らかに見えるような事象の問題が出ているが、その根底にある課題を見据えていくと、実は自我心の核をお互いが守りながら、自我を取り巻く集合体の自我、さらには自国というような権力構造がらみの自我、それが利益と権利を奪い合うことを止めることができない、人間の自我主張のいがみあいになっているのではなかろうか。

 問題の根は深く、その広がりは際限がない。小さいようだけれども、我らはまず自らの生きざまと、生活のあり方のなかで、地球破壊の方向には向かないような試みを始めてみようではないか。たとえそれが差し当たっての自我の要求とは相容れないとしても、それを実行し持続できるのかどうか。それができないなら、地球の破滅を受け入れるしかないのかもしれない。

(2005年2月1日)

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第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①  親鸞聖人のお言葉には、人間存在のもつ実相への深い洞察とそこから染み出てくるような懺悔の心が感じられる。このことには、その背後に『大無量寿経』にまで煮詰められた大乗仏道の菩提心の歴史があるのであろう。総願から別願を開示して、この大乗の菩提心を掘り下げるべく歩みを進めるところに、「法蔵菩薩」なる人間像が生み出されてきている。...
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第20回

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 なぜいま自分がこのような自分でしかないのか。いまの自分の状況が自分には理不尽であり、納得できない。現在の自分に与えられているこの必然が、自分の責任であるとはどうしても思えない。だからその怨念を、さしあたって親にぶつけたり、社会への憤懣(ふんまん)にしてみても、その疑問が解消するものではない。こういう問題意識は、一般的にはいわゆる成長期の青年に顕著なものであろう。子どもの反抗期などは、それほどはっきりと自己への問いが意識上の形になってはいない。

 自分が強く意識されるようになる、いわゆる思春期をくぐって、自分と他人とのあいだに、だんだん埋めにくい溝のようなものを感じるようになるにつれ、自分の存在が、どうしてこのように成っているのかという必然性への疑念が形をとってくる。そして自己について、他人からどう見られているのかが気にかかり、いわゆる自意識過剰と言われるような、自己についての自分の意識で、突っ張ってみたり、引っ込んでみたりして、自分自身をどう処理して良いのかとまどうのである。

 そして、自己がどこから来てどこへ向かって生きていくのか、というような自己の存立の根本問題にぶつかるのである。「独生、独死、独去、独来(どくしょう、どくし、どっこ、どくらい)」と『無量寿経』にはあるが、人間は生まれてくるのも、死んでいくのも独(ひと)りである。

 このごろ依然として絶えない自死に際して、インターネットで志願者を募って、いっしょに自殺することが報道されているが、全く知らない人同士で、いっしょに死のうというのは、ずっといっしょにどこかへ歩いていくと思っているのではないであろう。ただ、死に際して心細いから、いっしょに死のうとするのであろう。ずっといっしょに行くのなら、知らない人を選ぶわけにはいかないと思う。

 ともかく人間とは、独りを意識し、それに対して他との共感や同心を強く求めるのである。自分の孤独と自己についての認識を、共感をもって理解してくれる存在を求めるといっても良いのかもしれない。

 そうしてみると、「生まれてきた子どもが、初めの段階で、『自分に責罪はない』(イノセンス)ということを親に認められたいのだ、つまり、イノセンスの解体を求めているのだ」という芹沢俊介さん(社会評論家)の主張も、少しわかるような気がする。

(2005年1月1日)

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第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①
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第19回

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本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 社会評論家の芹沢俊介さんが、乳幼児のころの「イノセンスの解体」ということを、成長の過程の不可欠の要因として提出された(『アンジャリ』創刊号・『現代と親鸞』創刊号、共に親鸞仏教センター発行)。それは、「生まれてきた自分を良しとして認め、存在していることを無条件に喜んでいてくれるのだ」と感じられる人がそばにいて、いつも相手をしてくれているということが基本にないと、子どもが自分の存在することの不安を、原初から拭(ぬぐ)えなくなるということだ、と思う。そのことを、自然界の生き物は、自然のままに、いわゆる「本能」の命ずるままに、連綿と、生まれた自分の子を必死で育(はぐく)んでいるのである。テレビの生物番組の子育てのあり様には、厳しい弱肉強食の食い合いを戦いながら、わが子を守り育てていく動物たちの生き様が映し出されていて、人間がそういう自然のいのちの必然性をだんだんに忘れているのではないか、とさえ思うことである。

 だから、いのちの最初の条件として、子を育てる任に当たるものが、全面的に子どもを大切にし、生まれてきたことを無条件に良しとして認め、かわいがることが当たり前のように行われてきたのであろう。ところが、文明社会にあっては、個我の自由な生活が第一になり、自我の核を守り、自分の生活圏を犯されたくないという意識が先行して、他の事態に対しても、その分限を守りながら関わろうとするようになってくる。そして、たとえ子育てであっても、そういう自己の権利とか自由とかを親が強く意識してしまうので、子どもが自分の存在について、“self esteem”(自己尊重のこころ)がもてない、というようなことが起きてしまっているのかもしれない。それはそれで、文明の知恵がもつ闇というべき大問題であろう。

 宗教的な自覚の問題は、その次の段階とでも言うべきレベルのことのように思われる。すなわち、自分がいま、ここにあることの意味を、自分が出合う諸状況のなかで、あらためて問い直してくることが起こるのである。たとえ十分にかわいがられて育っても、シッダールタ太子(お釈迦さまの若いころ)がそうであったように、存在の不安に震撼(しんかん)されることが起こるのである。

(2004年12月1日)

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第18回

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本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「濁浪滔々(だくろうとうとう)の闇黒世裡(せり)」(清沢満之「他力の救済」)を避けることができない人生の場所として、逃げることなく引き受けているのが、我らの身体である。「身体髪膚(はっぷ)これを父母に受く」(私たちの身体のすべては父母から与えられたものである)とは、我らの命が、父母を縁としてこの世に与えられたものであることを言い当てている。すなわち父母は、自己にとっては欠くことのできない原因の一つなのである。しかも、自分からはこれを自由に選ぶことはできない。そういう意味では、自分の存在にとって、両親は運命的に与えられているとも言える。

 そして、生活が開かれてくると、その生活の場所もそこで関係する人間も、広く言うなら、時間的・空間的な限定のすべてはすでに自己に与えられていて、それが自己の存在の条件となっている。これもある意味で、運命的な所与である。我らのいのちの場所のすべて(身体も環境も)が、我らの「選択」する余地のないところにすでに与えられたところから出発しているのである。我らの存在には、我ら自身がどれだけ否定的に考えようとしても、我らを超えた因縁がすでに存在そのものの根底に与えられているのである。

 しかし、我らは自己を、自分自身に対する深い愛着とともに感じて、自分は自分であろうとするし、自分で納得のできるような自分になりたいと要求もする。そういう要求に目覚(めざ)めるとき、自己にすでに与えられているすべての条件は、まったく不条理としか言いようがない。自己の選ぶ余地のない前提条件なのであるから。

 したがって、我らは「この世は自己を縛り自己を苦しめる『暗黒世裡』だし、そこに生を受けた自分には責任はないのに」と恨(うら)む心が起こるのを止められないのである。そして、自己の要求が満たされるような条件に変革したいと欲求してやまないのである。このことを社会評論家の芹沢俊介さんは、生まれた子どもには責任がないのだから「イノセンス」(無垢〈むく〉)であり、そのことを親なりに認めてもらえば「イノセンスの解体」が起こって、自分自身を肯定できるようになるのだ、と言われる。たしかに一応はそうかもしれない。しかし、我らの、現世に対する不平不満や自分自身のありかたへの欲求不満は、やはり消えることはないのではないか。
ところが、これを「清風掃々(そうそう)の光明界中に遊ぶ」といただく、と清沢満之は言う。これを他力の信心のもたらす智慧だという。つまり、絶対に自己を超えた不条理の所与を、すべて自己の存在の事実として受け取り直すということなのであろう。すでに与えられている所与としての自己を、それ以外の自己はない、自己を超えて与えられた事実こそが自己自身だと本当に見直す智慧が、存在を光のなかに回復する力をもつというのであろう。

(2004年11月1日)

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第17回

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「濁浪滔々(だくろうとうとう)の暗黒世裡(せり)に在りて、夙(つと)に清風掃々(せいふうそうそう)の光明界中に遊ぶを得るもの」(濁った波浪が繰り返し巻き返しぶつかってくるような真っ暗闇のこの世の生活のなかに、清らかな風が顔をなでていくような、明るい光にみちた生活空間が開かれて、ゆうゆうとあたかも遊ぶように生活をしていける)という表現が清沢満之にある(「他力の救済」)。この言葉が私たちの日常の苦悩にみちた生活と、親鸞聖人が呼びかけてくださる本願を依り処とする生活との関係を、見事に言い当てていると思われるので、この小生の短文のテーマを「濁浪清風」にさせていただいている。

 とかく宗教というと、日常とはまったく異質の特別な体験ということを強調するところがある。たしかに、この世のあり様を厳しく批判することが、宗教の大切な教えとしての一面であろう。だから、この世の生活にそのまま同じ平面で何かが与えられる[いわゆる現世の利益(りやく)のような]ことを、信仰の与える特別な効能とするのは、真実の宗教とは言えないのである。けれども、この世を生きることに苦しんでいる「衆生」、そこに苦悩の衆生よ、と呼びかけるのが、大悲の如来のお心なのであるから、この濁世(じょくせ)の生活に何らかのおおきな変化をもたらすことがないなら、それもまた真実の宗教とは言えないであろう。

 神秘的な体験を絶対の根拠のように立てて、現世をただ否定的に見るというのは、宗教に名を借りた、何か魔のようなものの誘いなのではないか。人間は自分の生存の根拠を自分で作ったのではないから、必然として自分のことが自分でもわからないし、納得もできない。何でこんな自分なのか、何でこんな、いやな生活をしなければならないのか。これに対しての答えはない。そこに超越的に神秘的な魅力的なものをささやかれると、抵抗ができないのである。

 親鸞の態度は、こういう人間の弱点をけっして非難するのでない。弱きもの、愚かなるもの、罪深きもの、そういう有限なる人間存在である自身を認めて、限りなくそういう救いがたい命を担って共に歩もうとする心を、「大悲心」として語りかけてくる本願の教えを、この迷いやすい濁世の海を渡るための「大船(たいせん)」とし「筏(いかだ)」とするのである。そこに成り立つ現実と宗教の重なりが、先の清沢満之の表現の事実となるのであると思うのである。

(2004年10月1日)

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