親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 阿頼耶識(あらやしき)の相分(阿頼耶識自身の意識の内容となるもの)は、「不可知の執受(しゅうじゅ)と処」であるとされる。不可知の執受とは「有根身(うこんじん)」(身体)と「種子(しゅうじ)」(可能性)である。身体に生命の持続への能力(種子)が付与されて、「場」(処)を感じながら生きていること、それを阿頼耶識というのである。身体的な限定を受けて生命は存続するのであり、その身体には永い生命の歴史を経てきた経験の結果が蓄えられていて、その身体に与えられてくる環境に、適応したり、反応したりして生きていくのである。

 そういう生命である自己自身は、歴史的背景として無数の生命の生まれては死んでいった経験を蓄積しているのみでなく、生まれてきて生きている他の阿頼耶識を「処」の中に感ずる。つまり、人間は人間の中に生活を与えられるのである。

 「慢」の煩悩は、比較の心理であるとされているが、この比較する心理とは、他の衆生と自己とを比較する心理を根底にもつ。これを「我慢」という。末那識(まなしき)相応の四煩悩(我痴、我見、我慢、我愛)のひとつである。これには、「我痴」が前提にあって、「自己」の実相を知らないから、意識が起こるときには、他の阿頼耶識が気にかかるということなのかもしれない。

 自我の意識が起こるところには、常に他人との間で自己が比較されて意識されるので、さまざまな煩悩がそのうえに奮起(ふんき)することになってくるのである。この煩悩の心理が起こることが、自己自身のありかたをありのままに自覚することを、ますます邪魔してくるのである。末那識の作用に付帯する「自我」がらみの煩悩を払拭(ふっしょく)しうるなら、ようやくに「自己」自身が解放されると教えられるのも、こういう根底的な問題があるからのことなのであろう。

 こういう課題を、個人意識の反省や努力、意識の沈静化による寂滅(じゃくめつ)の方向などに求めても、人間存在としての根本的な解決にはならないということが、仏教における求道の根本問題として掲げられてきた。それを大乗仏教では「自利利他」という言葉で押さえてくるのである。自己の根本的な解放と同時に、人類的な解放がそこに同時的になされなければならない、ということ。これが尽未来際(じんみらいさい)をかけてでも果たされなければならないという、如来の願心の内容となるのである。

(2008年11月1日)

最近の投稿を読む

公開講座画像
第235回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑥
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第235回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑥  善導のいわゆる「十四行偈」の出だしの「道俗時衆等 各発無上心 生死甚難厭 仏法復難欣 共発金剛志 横超断四流」(『真宗聖典』235頁)の問題である。この偈文に、了解しにくい内容がある、と思う。菩提心が「各発」という意味であるならば、それは成就しがたくあるのに、「共発」として「金剛の志」であるなら「横超」において「四流(迷妄の生存)」を「断つ」ことができる、という偈の言葉が突然に出されているからである。そもそも発菩提心は、個人に発起する仏教的意欲(仏に成りたいという意志)を表している言葉であるし、それが「共発」として「金剛」であるように発起するということは、かなり「困難」だとも思えるからである。...
公開講座画像
第234回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑤
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第234回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」  法蔵菩薩とは、苦悩の衆生を救済しようと願う普遍的な菩提心を象徴する名である。苦悩の衆生とは、親鸞の言葉に「諸有に流転の身」とある。諸(もろもろの)とは、それぞれの宿業因縁に依って、この五濁悪世に生存を与えられているすべての生命存在ということである。「諸有」として、それぞれ異なる身体を与えられ、おのおの別々の境遇や限定を受けつつ、この五濁の世に生きているということである。それらすべての事情を超えて、普遍的にすくい取らずにはおかない、という志願を「法蔵」という名にこめて、『大無量寿経』(以下、『大経』)が法蔵菩薩の因願を語り出しているのである。...
公開講座画像
第233回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」④
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第233回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」④  そもそも仏法の課題は、流転の苦悩を超脱するところにある。言い換えれば、生死の迷いを超克するのである。この目的を達成すべく求道するところに、仏道が存立してきたのである。  これは衆生の普遍的苦悩である四苦八苦の生存を出離することである。その出離生死の課題を独り超え出るのみでなく、衆生と共に歩み続けようという方向に、如来の願心を聞き当ててきたのが大乗仏道の歩みであった。その思想の依り処となったものが、如来の入滅を前になされた涅槃説法であり、そこから『涅槃経』が編み出されてきたとされる。...

テーマ別アーカイブ