親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 浄土とは、願心(がんしん)の荘厳功徳(しょうごんくどく)で表される場所だと世親(せしん)菩薩はいう(『浄土論』取意)。この願心とは、『無量寿経』に語られる法蔵菩薩の四十八願のこころである。その願を場所のもつ功徳として表現したのが、浄土だというのである。すなわち、人間が環境を与えられて生きているという生命の実態に対応して、衆生をすくい取るための環境を浄土として建設する。だからその浄土の環境的な意味とは、救済しようとする志願そのものの表現なのだということである。

 これは浄土教の神話的なわからなさを、一挙に根本から切り開くような指摘だと思う。これを親鸞は自己の信念を明らかにするときの根源の立場にしているのである。願心は十方衆生(じっぽうしゅじょう)の救済を、法蔵菩薩の五劫(ごこう)の思惟(しゆい)と兆載永劫(ちょうさいようごう)の修行という神話的時間を通して具体化しようとする。この意味を、親鸞は「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」(『歎異抄』、『真宗聖典』640頁)とうなずいているのである。

 超時間的なかたちで志願の成就を呼びかけ続ける言葉を、自己一人の解放をはたらきかける大悲(だいひ)の言葉であると信受するのである。五劫思惟の願は、一如(いちにょ)の功徳を「名号(みょうごう)」に具備して、衆生のこころにその功徳が転移して染(し)みつくまで、「兆載永劫」の時間をかけてはたらこうとするものと語る。はたらくべき相手の衆生はというなら、固陋(ころう)なる自我心の砦(とりで)にこもって、世俗への関心に染まり続け、清浄(しょうじょう)なる一如の影をも宿そうとはしない。だから「兆載永劫」という超時間をかけても「無倦(むけん)」にはたらこうとするのである。

 この環境的な静かな呼びかけが、頑迷なわれらに届くのが、願力回向(えこう)の信心なのだ、というのが親鸞の自覚だったのである。願力の「場」が頑迷な衆生をいつの間にか、場に感応する存在に転成するのである。この場からのはたらきを、われらは知らず求めずして受けている。あたかも自然界からいのちのエネルギーを賜っていることを忘れているかのように、あまりにも存在の根源に与えられているが故に、愚かな分別知(ふんべつち)には見えないのである。世間の事象に対する知恵はいかに賢くとも、この根源に対する感受が抜け落ちているのである、ということなのであろう。

(2006年6月1日)

最近の投稿を読む

公開講座画像
第235回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑥
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第235回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑥  善導のいわゆる「十四行偈」の出だしの「道俗時衆等 各発無上心 生死甚難厭 仏法復難欣 共発金剛志 横超断四流」(『真宗聖典』235頁)の問題である。この偈文に、了解しにくい内容がある、と思う。菩提心が「各発」という意味であるならば、それは成就しがたくあるのに、「共発」として「金剛の志」であるなら「横超」において「四流(迷妄の生存)」を「断つ」ことができる、という偈の言葉が突然に出されているからである。そもそも発菩提心は、個人に発起する仏教的意欲(仏に成りたいという意志)を表している言葉であるし、それが「共発」として「金剛」であるように発起するということは、かなり「困難」だとも思えるからである。...
公開講座画像
第234回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑤
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第234回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」  法蔵菩薩とは、苦悩の衆生を救済しようと願う普遍的な菩提心を象徴する名である。苦悩の衆生とは、親鸞の言葉に「諸有に流転の身」とある。諸(もろもろの)とは、それぞれの宿業因縁に依って、この五濁悪世に生存を与えられているすべての生命存在ということである。「諸有」として、それぞれ異なる身体を与えられ、おのおの別々の境遇や限定を受けつつ、この五濁の世に生きているということである。それらすべての事情を超えて、普遍的にすくい取らずにはおかない、という志願を「法蔵」という名にこめて、『大無量寿経』(以下、『大経』)が法蔵菩薩の因願を語り出しているのである。...
公開講座画像
第233回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」④
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第233回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」④  そもそも仏法の課題は、流転の苦悩を超脱するところにある。言い換えれば、生死の迷いを超克するのである。この目的を達成すべく求道するところに、仏道が存立してきたのである。  これは衆生の普遍的苦悩である四苦八苦の生存を出離することである。その出離生死の課題を独り超え出るのみでなく、衆生と共に歩み続けようという方向に、如来の願心を聞き当ててきたのが大乗仏道の歩みであった。その思想の依り処となったものが、如来の入滅を前になされた涅槃説法であり、そこから『涅槃経』が編み出されてきたとされる。...

テーマ別アーカイブ