親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「信の一念」(『真宗聖典』239頁参照)ということは、念仏を行ずる衆生の心に与えられる事柄である。この問題を親鸞が提起したのは、行者が念仏を行ずるということについて、どうしても自分たち衆生の状況についての差違を気にしたり、比較対照して上下差別を付けたりしてしまうからであった。吉水の法然門下には、学問の宗を異にしながらも、同じ念仏に帰して同門の徒となっている人々がいた。だから、行は同じだが、それを修している心は、当然異なっていると感じられていたのであろう。ということは、自力の修行や学問に心を残しながら、念仏を行じているということである。「同一念仏」といいながら、こころはひとつでない、ということの問題が、「一念義」「多念義」とか「有念」「無念」という理解の分かれにもなってきていたのである。

 「こころはひとつにあらねども 雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)これにたり」と和讃に詠(うた)われているが、人間の努力の形ではいかに似たように見えていても、本当にひとつには成り得ないのである。そういう諸種の雑心が混ざっている求道心で、法然上人のご信心と同一の救いを得られるのか、もし得られるなら、どのようにして獲得できるのか。どういう根拠によって自己のこころが、師法然と同じだと言いうるのか。この問いは、親鸞にとっては法然門下への入門の時点で、きっと厳しく自己に問われていたのではなかったかと思う。その根拠を「弥陀の本願に依る」のだ、と確信したのが、「雑行を棄てて、本願に帰す」(『教行信証』、『真宗聖典』399頁)という表現に込められている意味なのではないか、と思う。

 だから、源空上人法然の門下になったからには、上人の信心と入門したばかりの親鸞と、「信心においては同一」であるという確信を、本人としては得ていたのではなかろうか。しかし、それを師からも、また同門の先輩たちからも認めて貰うには、長い確認の時間が必要であった。その過程で提起された問答が「信心同一」の論争であったのではないか。そして、誰にあっても念仏にたまわるこころは平等であるという言明を上人から頂き、それを「本願成就の文」の「至心回向」の解明によって、「信の一念」の内容に確証していったのではなかったかと思うのである。

(2009年11月1日)

最近の投稿を読む

公開講座画像
第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①  親鸞聖人のお言葉には、人間存在のもつ実相への深い洞察とそこから染み出てくるような懺悔の心が感じられる。このことには、その背後に『大無量寿経』にまで煮詰められた大乗仏道の菩提心の歴史があるのであろう。総願から別願を開示して、この大乗の菩提心を掘り下げるべく歩みを進めるところに、「法蔵菩薩」なる人間像が生み出されてきている。...
公開講座画像
第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬  本願によって衆生に開かれる「宗教的実存」とは、いかなる構造として表現し得るものであろうか。その構造解明の手がかりを、横と竪という菩提心のありかたから探ってみた。そして我らに開かれる信心の意味に、この世での生き方に対して、超越的で立体的な空間として本願の信仰空間と言うべきありかたが、教えられていることを了解した。...
公開講座画像
第228回「悲しみに秘めた讃嘆」⑫
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第228回「悲しみに秘めた讃嘆」⑫  我らの現実の生存において、宗教的実存を求めてこれを成就するとは、どういうことであろうか。本願の仏教では、阿弥陀如来の本願を信じ、自己の有限なる生存をそのままにして(煩悩具足と信知して)「浄土」に往生し、阿弥陀如来の苦悩の衆生を摂取せんとする志願に随順して衆生済度の志願を輔翼することである、と教えられている。この願心に随順することによって、阿弥陀如来と平等なる仏陀(諸仏)になる、と願われているのである。...

テーマ別アーカイブ