親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

第233回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」④

 法蔵菩薩の願心とは、『無量寿経』に説かれている菩提心の因果を内容とするものである。その菩提心の因は、四十八願を内容とする「国土を建立する願」として展開されている。その願には、国中の人天とか、国中の菩薩とか、さらには他方仏土の衆生や菩薩というような、それぞれの国土をみずからの環境として受け止める衆生の諸問題が、様々な形で取り上げられている。いわゆる自然環境のような形で清浄国土自体の荘厳を説いているのは、わずかに第二十八願、第三十一願・第三十二願のみである。国土の環境として「金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀」(『無量寿経』、『真宗聖典』29頁)等が説かれるところに、極楽国の荘厳の特色があるであろうと思われがちだが、意外にも本願の表現としては、そういう内容は圧倒的に少ないのである。


 このことは、法蔵菩薩の精神に学ぼうとするとき、何より大事な方向性なのではないかと思う。『観無量寿経』には観の対象となる具体的な事象が、『阿弥陀経』には極楽国の様々の具体的宝物や環境的事象が説かれているのと比べるとき、この差異が大きいことに驚かされる。


 この差異に注目して、親鸞が『大無量寿経』の宗・体について、「如来の本願を説きて、経の宗致とす」(『教行信証』「教巻」、『真宗聖典』152頁)、あるいは「すなわち、仏の名号をもって、経の体とするなり」(同前)と述べられていることを捉えなおしてみると、親鸞がそこに真実教のあり方についての大切な指標を示されようとしていることが窺えるのである。そこから、真実の仏身・仏土に対応する方便化身・化土を開かざるを得ない必然的な意味が見えてくるのである。


 国土というなら、そこに生活する国民にとって、平和で安穏な状態や、豊かな経済状況や豊富な文化的環境等が大切な課題になるところである。その表現の形は、さまざまな宝物類に象徴されるのであろう。そういう内実が確保される国土こそが、現実の衆生にとっては魅力的な理想の国土のごとくに思われる。


 ところが、真実教の主題は法蔵菩薩の菩提心の因果を示すことにあるのであり、そういう国土のあり方を説き表すことにあるのではない。そうした国土は衆生誘引のために開く「方便・化身」の国土であるとされるのである。衆生の意識上の理想的国土は、凡夫にとって、いかに魅力的であり強い誘引力があろうとも、それ自体は方便的な意味しか持たない。


 真実の願心のテーマは、天親菩薩が「優婆提舎」として説く「五念・五功徳」の因果による自利利他成就にあるとされているのである。この因果が、先の「本願を説」くことと「名号をもって、経の体とす」るということに対応するとされたわけである。これこそが、仏法の真実性を確保できる事実だということである。


(2022年11月15日)

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第248回「存在の故郷」③
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第248回「存在の故郷」③  流転する生命の在り方は生死流転という熟語となり、私たちに現実に変化してやまない日常意識を抱え、状況に流されて生きているのだと教えている。その日常的な在り方が、いわば異郷に流離する旅人のようなものだと喩えられているのである。  それに対して「存在の故郷」を求めようとする意欲を、仏教は求道心と言い、菩提(さとり)を求める心だから菩提心とも言う。その意欲によって、日常の意識に映る存在は、迷いの情念(無明)によって闇の中に在るのだと教えられる。その闇は無明の黒闇とも言われ、その存在は闇の中で藻掻いているような状態だとされる。その暗中模索の状態を求道心によって突破して、光明海中に浮かぶような生き方をしようと求めることを、菩提心の目的として大涅槃を開くまで努力せよと教えるのである。  求道心によっていわば存在の本来性を回復することが、無明に覆われた存在を転じて明るみを生きる存在へと転換するというわけである。その転換された在り方を、「存在の故郷」に帰るのだと表現するのである。そして、その故郷とは、生死流転を超えた一如であり、大涅槃であるとされる。衆生が迷える意識を翻転することができるなら、その生存の在り方が、光明海と表現される明るみとなり、その存在はそこを場として立ち上がるのだとも教えられる。  存在の故郷とは一如宝海と教えられ、その一如が涅槃でもあると、親鸞は『涅槃経』によって押さえている。その究極である一如、すなわち大涅槃と、それを求める菩提心とは因果であるとされるが、因位にあることは、果位に対して常に待ち望む状態にあるということである。それが、異郷にあって故郷を渇望し、帰りたいという意欲に喩えられる在り方である。  我ら衆生が自らの意欲で帰郷を果たすことを望む場合、流転を真に突破することは難しい。有限なる衆生は、状況に巻き込まれ流転していて、因から果へ、状況を超えて一如・涅槃へは、とてもたどり着くことができないであろう。そこに呼びかけてくるものがある。本来からの呼び声が、迷える我らの現存在に、「存在の故郷」へ帰れと呼びかけていると教えられているのである。  この呼び声が、阿弥陀の大悲本願の呼びかけとして示され、その本願の呼びかけを信ずるなら、その信心は因でありながら、果を必然としてはらむのだと語られている。その場合の信は、衆生から起こるのではなく、如来の大悲より発起するところだとされる。親鸞はそれが如来の回向によって、衆生の上に成就するのだと、教えているのである。だからして、その信は如来の質を保持しているとされる。その信が因でありながら果を必然とすることができるのは、如来回向の信心だからだ、というわけである。 (2024年3月1日) 最近の投稿を読む...
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第247回「存在の故郷」②
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第247回「存在の故郷」②  故郷という言葉が迫力をもって訴えてくるのは、異郷に居て孤独の寂しさを感じるときであろう。異郷では、自己の存在を暖かく見つめる親兄弟や友人も居ないし、自己の感情を言葉で表現するときも方言や母国語が通じなかったりする。そういった言葉の違いは特に強く異郷にあることを意識させる。感情を表現しても理解されないと感じてしまい、孤独感を増幅させるのだと思う。    このような感覚や情景を内包する「故郷」ということに関連して、仏教が「正覚」という言葉で示している「大涅槃」のあり方を「存在の故郷」(安田理深)として考察してみようと思う。この「存在の故郷」という言葉は、人間存在の在処を迷いの境界であると教え、そのあり方に目覚めさせて覚醒へと歩ませる要求を、望郷の情念に託して「願生浄土」の要求として表現した「帰去来(いざいなん)、魔郷には停(とど)まるべからず」(『真宗聖典』284頁)という善導の『観無量寿経疏』「定善義」の言葉に依っている。浄土とは、大涅槃を仏の本願によって象徴的に表現したものであり、衆生を大涅槃へと誘う教えの言葉であるからである。    今、「願生浄土」の意味を「存在の故郷」という言葉を通して考察しようとしているのだが、「存在」ということを仏教ではどう考えているのであろうか。現代語で「存在」という言葉は、辞書的に言えば、現実にそこにあると感じられること、あるいは人間のことといったように理解されるだろう。この語感には、現代人の人間の生存を肯定的に捉えているところがある。さらには、人間を生き物の中で最も高位にある者とする欧米由来の感覚が、現代日本人に沁み込んでいるとうことにも関わっているのではないかと思う。    これに対し、仏教の存在了解には、生きとし生けるものは平等である、という感覚がある。その中で、人間に生まれるということは、仏教徒の基本的なあり方を示す三帰依文に「人身受け難し」(『真宗聖典』中表紙)と示されているように、「有り難い」(有ることが難しい)ことなのだという感覚があるのである。    この感覚をたどると、その背景にはインドの思想に見られる輪回転生の生存了解があるとされる。仏教の六道流転の生存理解は、インド古来の生命観に由来すると言われる。現在の生存の背景には、遠い過去の時間があり、それが生々流転とも言われる。現在の生存は自分の意志や意欲で選んだのではなく、過去の深く遠い因縁の重なりや蓄積が現在にまで来たものなのであろう。    この因縁の重なりや蓄積が日常の自己を取り巻く事情となることで、自分の思うようにならない事件や出会いが生じてしまうと感じるのである。このことは、運命論とは異なるとされる。運命論の前提には、存在を決定づける必然性は自分の外部にあるという理解があるからである。それに対して六道流転してきた自己という理解には、現在の自分の思いのままにはならないとはいえ、自分が今ここに存在しているのは、曠劫以来の自分の過去があるからだという感覚がある。   (2024年2月1日) 最近の投稿を読む...
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第246回「存在の故郷」①
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