親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 晩年の西田幾多郎(1870〜1945)が親友の鈴木大拙(1870〜1966)に、「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願は親鸞一人(いちにん)がため」(『歎異抄』、『真宗聖典』640頁)という言葉がどこにあったか、と問い合わせている。西田の最後の論文は「場所的論理と宗教的世界観」であった。西田は仏教の存在論を西洋哲学の論理によって表現しようとして、「場所」の論理という考えを出していった。この論理のいわば帰結になるようなところに、「親鸞一人がため」という言葉が取り出されてきているということなのである。

 親鸞の信念を学んでいるもののひとりとして、仏教的な論理としての「場所」の論理の究極のところに、この「親鸞一人」という言葉が取り上げられるということの意味を、しっかりと受け止め直さなければならないのではないかと感じている。西田は主語的な論理に対して、述語的な論理というようなことも言っているのだが、そのことがこのごろになって、無我にしてしかも事実は「かくのごとくに」(如是〈にょぜ〉)現象している、ということを表現しようとしているのだ、ということに愚生はやっと思い至った。遠く深い因縁の恵みによって、「自我」なくしてここに「かくのごとくに」生きているということ。そのことを表現するのは、実は容易ではないのだ。

 存在の根拠が、実体的に把握されていて、その根拠のうえで論理が立てられるのが西欧的な存在論の常識なのであろう。したがって、存在の根拠が「ない」というような、無我にして存在するという仏教的認識は、西洋的な論理にならないといっても良いほど、考えにくいことなのである。

 先日、親鸞仏教センターの研究会に、日本女子大学の井出祥子教授にご出講いただいた。教授のご専攻は、言語学の「語用論」であるという。実際の言語がどういうふうに使用されているかという、現場から発想する言語学である、ということであった。井出教授の比喩によれば、魚の研究をするのに、捕まえて解剖するというような研究方法に対して、海の中で泳いでいる状態のまま魚を研究するようなものである、といわれる。先生の著書に『わきまえの語用論』というものがある。これは、日本語などのアジアの言語を西欧語の文法によって研究するというこれまでの方法論に対して、そうではなく、独自の智見(ちけん)による「語用論」を展開しているものである。長い間、西洋の言語研究の論理を援用(えんよう)してきて、どうしても言語学者として肩身の狭い思いがつきまとっていたという。それに対して、まったく新しい独自の視点を取り入れて、それぞれの地域の言語の本質を解明することができるのではないか、と気が付いたというのである。それについては、仏教の存在論や状況認識の智慧が深くかかわっているのではないか、と言われる。日本語には、西洋的な言語表現にはない前提のようなものがあって、その上に表現が成り立っている。それが「場」の論理とかかわるのではないかといわれるのである。

(2008年8月1日)

最近の投稿を読む

公開講座画像
第235回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑥
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第235回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑥  善導のいわゆる「十四行偈」の出だしの「道俗時衆等 各発無上心 生死甚難厭 仏法復難欣 共発金剛志 横超断四流」(『真宗聖典』235頁)の問題である。この偈文に、了解しにくい内容がある、と思う。菩提心が「各発」という意味であるならば、それは成就しがたくあるのに、「共発」として「金剛の志」であるなら「横超」において「四流(迷妄の生存)」を「断つ」ことができる、という偈の言葉が突然に出されているからである。そもそも発菩提心は、個人に発起する仏教的意欲(仏に成りたいという意志)を表している言葉であるし、それが「共発」として「金剛」であるように発起するということは、かなり「困難」だとも思えるからである。...
公開講座画像
第234回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑤
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第234回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」  法蔵菩薩とは、苦悩の衆生を救済しようと願う普遍的な菩提心を象徴する名である。苦悩の衆生とは、親鸞の言葉に「諸有に流転の身」とある。諸(もろもろの)とは、それぞれの宿業因縁に依って、この五濁悪世に生存を与えられているすべての生命存在ということである。「諸有」として、それぞれ異なる身体を与えられ、おのおの別々の境遇や限定を受けつつ、この五濁の世に生きているということである。それらすべての事情を超えて、普遍的にすくい取らずにはおかない、という志願を「法蔵」という名にこめて、『大無量寿経』(以下、『大経』)が法蔵菩薩の因願を語り出しているのである。...
公開講座画像
第233回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」④
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第233回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」④  そもそも仏法の課題は、流転の苦悩を超脱するところにある。言い換えれば、生死の迷いを超克するのである。この目的を達成すべく求道するところに、仏道が存立してきたのである。  これは衆生の普遍的苦悩である四苦八苦の生存を出離することである。その出離生死の課題を独り超え出るのみでなく、衆生と共に歩み続けようという方向に、如来の願心を聞き当ててきたのが大乗仏道の歩みであった。その思想の依り処となったものが、如来の入滅を前になされた涅槃説法であり、そこから『涅槃経』が編み出されてきたとされる。...

テーマ別アーカイブ