親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

第224回「悲しみを秘めた讃嘆」⑧

 時代状況のもつ困難性を自覚的に表現するということには、時の面は念々に移ろいゆくけれども、自己自身の面(これを機という語で押さえられている)には、移ろいゆく状況を貫いて生きていくところに、自己と他人に共通する事柄がある。その事実が時代を超えて、「先に生きて今は亡き存在に、苦悩を超える課題についての智恵を学ぶ」という学習が意味をもつのであると思う。

 今、私たちは地球上の大地から見上げる空間のみでなく、宇宙空間から地球を見るという情報技術を与えられている。物理的な実質空間のみでなく、情報技術が作り出す空間において、人間の一般的理知では空想することさえ不可能な空間が構想されてもいる。マクロの世界もミクロの空間も、人間の知覚できる範囲をはるかに超えて、ますます技術の作り出す空間が横溢(おういつ)してきているのである。

 そういう状況に直面していることが、宗教的体験を空間表現によって記述したり、空間的表現から宗教的時間を再現したりすることのもつ困難性ということに、私たち二十一世紀に生きるものは直面しているのだと言えよう。

 そこで宗教的体験とはいかなる事実であるのか、特に仏教者が獲得するべき宗教体験とは、いかに表現され得るのかということが、大問題となるであろう。その問題に直面して、先に歩んでその道を書き遺してくださった先達によって表現されていることを、私自身において温故知新して、しっかりと吟味し直し、再表現されなければならないと思うのである。

 仏教における基本的な体験の事実としては、「無我」による体験と表現されてきた事柄がある。私たち人間存在は、自分が生きていることを知ると同時に、自分自身に執着している事実があることを教えられている。自分の立場とか、自分の過去へのとらわれや未来への不安に、四六時中悩まされて生きているということがある。

 すなわち、自分が「煩悩具足」の自己として、ここに今、生きているということである。この自己のあり方を「有我」的自己であり、この悩ましい自己から脱出したあり方を、「無我」的自己だと言うのであろう。

 一方、大乗仏教が見る基本的あり方からするなら、人間存在は「菩薩」として菩提心に立って、与えられた生存を「自利利他」の成就へと歩みつづける存在であるべきだとされる。この場合は、自分が無我に立つことと、自分以外の一切衆生、すなわち「他」が「無我」に成ることとを同時に成就するべく、人生を尽くして「自利利他」を実践しようとすることだという。

 かくして、仏教における基本の体験とはいかなることかは、個人の条件に与えられる個人的体験を、おのおのが自己の人生を尽くして、求道的に求めることしかないのかとも思われる。ここにおいて、善導が「自覚覚他 覚行窮満」といわれた言葉が重く響くのである。

(2022年2月1日)

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第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨  有限なる存在を、浄土教の歴史的な表現では「凡夫」という。凡夫とは一般用語であるが、この語において、仏教に出遇っている自分の存在の意味を、無限なる如来の大悲の眼に照らし出されたあり方として、表現しているのである。そうすると、善導が押さえているように、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(『真宗聖典』215頁)と深く信じるところにあるのが凡夫である。この自覚において親鸞は、「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』〔『真宗聖典』545頁〕)と言われているのである。  浄土教の自覚に表れてくる罪障の自覚とか罪業の身の重さということは、有限という語には現れてはいないのであるが、浄土教の求道における自覚的な表現とは、こういう罪障の自覚を通した有限なる自己の表現であると言える。その対照である無限という語にも、仏道の無為法ということで求められてくるような永劫に変わらない真実という性格はさしあたってないのであるが、求道の問題として無限という語を使う場合は、仏智の大きさや広大な涅槃ということも含まれてくると言うべきなのである。  この広大無辺の無限は、法蔵願心の果であり、因位の菩薩として法蔵菩薩は、果たる一如・涅槃から立ち上がったのだと言われる(『一念多念文意』〔『真宗聖典』543頁〕及び『唯信鈔文意』〔『真宗聖典』554頁〕参照)。その因位の修行は、大悲によって我ら衆生を済度せんがために、「兆載永劫」の時を貫く菩薩行であるとされている。兆載の時間をかけて、虚妄分別する我らに真実信を成就させようというのだと、親鸞は受けとめられているのである。  有限なる我らは、どこまでも煩悩具足の身を離れないから、決してそのまま無限に成ることはできない。しかし、無限の無限たる所以(ゆえん)は、一切の有限を包んでいるところにある。親鸞はこの道理について、善導が法蔵菩薩の果たる如来(阿弥陀如来)を「摂取不捨」として示していることに着眼している(「摂取して捨てざるがゆえに、阿弥陀と名づく」と善導が釈しているのを『教行信証』「行巻」で取り上げている〔『真宗聖典』174頁参照〕)。すなわち、無限大悲の光明は、たとえ我らが忘れようとも常に照らしていてくださるのだという。この道理にうなずくことにおいて、有限なる我らに無限のはたらきが具足する。親鸞は、このことを「如来回向」の信心として表されたのである。 (2023年5月1日) 最近の投稿を読む...
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第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧  親鸞の示す「金剛の信心」とは、大悲の不可思議なるはたらきによって、われら有限なる存在がどういう状態であるかを問わず、大いなる光明(無限大悲)が常に我等を包み摂していると信じることであるとされる。ここに有限・無限という言葉を出しているので、この二項(有限・無限)の関係を考察してみよう。    仏教語の一般的表現で「無為法」と言われる場合は、対応する言葉は「有為法」である。この有為法とは、我等有限の一切の事象が、すべて時間とともにあり、時を超えて永続する物事は存在しないということであり、「諸行無常」(あらゆる存在は永続しない)であるとされている。この諸行(一切の現象)が「有限」に相当する。そこから言うなら、無為法は「無限」と言われることの内容に当たるわけである。移りゆき変わりゆく一切の現象に対し、時間的な要素を交えず、いわば永久不変なることを示す概念が、「無為法」である。    この無為法という概念に相当する語が、一如・真如・涅槃・法性などと教えられ、さらには法身・実相・常楽などと転釈されていく。これらの教学用語は、それぞれに微妙な差異を生じてはいる。しかし親鸞は、それらを『涅槃経』などを依り処として、すべて同等の意味を示す概念であると了解している。これらの用語をすべて無為法なる概念の内容であるとするなら、いま考察している無限は、仏教的理念で言うと「涅槃」に相当するということになる。    親鸞が、『大無量寿経』に語られている「法蔵菩薩」とは、「一如宝海よりかたちをあらわして」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)きたと了解していることは、いかなる意味になるのであろうか。文字通りであれば、時間を超越した無限であるはずの一如が、有限の生存上の名告り(これは時間的に消滅する存在になる)に成ることである。このことは普通には、矛盾そのものである。しかしながら、法蔵菩薩が大悲の心の示現であるから、矛盾を超えて、無限が有限に展現するという表現であるとされている。    無限とは、内に有限の一切を包んでいる。しかるに、有限から無限を考究しようとするなら、無限なる事態は、自己の外に、いかにしても到達することなどできない極限の様態として考えられることになる。無限の立場からは、「内」とされるありかたが、その内の有限からは、「外」であるということになる。この内・外の矛盾を、清沢満之は有限と無限との「根本的撞着」と言われるのである。この矛盾が一致することを求めることこそ、宗教的実存の要求であるというわけである。 (2023年4月1日) 最近の投稿を読む...
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第236回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑦
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第236回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑦  善導の言う「能生清浄願往生心」を、親鸞が「能生清浄願心」(『教行信証』信巻、『真宗聖典』235頁参照)と表現することについて、前回から考察している。二河譬で言われる「清浄願心」は、決して凡夫個人の「願生心」ではなく、如来回向の「金剛の信心」であると親鸞が了解したことが、「信巻」で押さえられている。如来回向の信心は、大悲の願心によって根底から支えられていて、「われら凡夫」に発起するように思われるけれども、個人の能力によって起こるのでなく、法蔵願心の「能」く発起するところだと、親鸞は感得されたのである、と思う。  本願文の欲生心とは如来の願心であり、それが回向表現して真実信心として我等に感じられるということである。これによって信心に「金剛」の質が確保されるのであるから、いかなる条件によろうと破れず壊れないことが確信として示されてくるのである。  この願力による信は、凡夫における意識レベルに対して、いかなる意味で相続しているのであろうか。というのは、我らに現行している意識は、生滅し流転していて、一瞬もとどまることがない。にもかかわらず、どうして信心が堅牢にして純潔なる金剛という質であると言えるのか、という問題が感じられるからである。  この難問は、有限なる存在が有限のみにとどまるなら、決して解決し得ないであろう。有限なる身心を、無限なる大悲心に投げ入れるような決定的な回心の展開においてのみ、この矛盾が矛盾にとどまることを脱出し得るのではなかろうか。  そもそも誓願の発起について「超発」と言われているのだが、この「超」とは、有限なる我等を超越して起こることを意味しているのであろう。そうであるから、我等にとっては「不可称・不可説・不可思議」であると言われるのである。この不可思議なる誓願が、有限の我等のレベルに関係するということは、どういうことが起こることであろうか。  さきに有限・無限という言葉を出してみたが、この言葉で少しく考察を進めてみたい。まず無限は、どのような有限性をも超えていると言えよう。いま考察しようとする無限は、大悲とも言われるように、一切衆生を包み摂しているというイメージが示されている。有限存在がいかなる状態であろうと、いかなる条件があろうと、必ず摂しているのが無限なのである。これを「摂取不捨」であると表現されている。我ら有限なる存在には、この不可思議なる無限は、有限の努力や苦労をいかに積み上げても到達できないし、感知することすらできない。ただ信ずるのみだとされるのである。 (2023年3月1日) 最近の投稿を読む...

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