親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

第103回「〈願に生きる〉ことと〈時間〉」⑦

 親鸞の『浄土和讃』に次の和讃がある。

  定散自力の称名は 果遂のちかいに帰してこそ

   おしえざれども自然に 真如の門に転入する (『真宗聖典』484頁)

 人間にとっての時間は、移ろいゆく意識に、過去とか未来として感じられているものである。だから、変化していく有為法(ういほう)である。その有為法の領域に、われらの一切の体験は起こっている。

 しかし、真如は「不増不減(ふぞうふげん)」であり、「不生不滅(ふしょうふめつ)」であって、有為法ではない。人間の意識の想念(そうねん)を超えたもの、これを無為法(むいほう)という。無為法を体験するということは、言葉の定義に矛盾する。真如は、われら衆生にとって、色や形のように直接体験されるものではないのである。われらの体験のなかに無為法を取り込もうとすることは、たとえば、消化できない金属を飲み込んで、消化しようとするようなものである。先の和讃は、善導(ぜんどう)の偈(げ)を親鸞が和語にしたものだが、ここに「真如の門」とあることが大切なことを比喩(ひゆ)的に示しているのではなかろうか。

 「果遂の誓い」とは、第二十願の最後に付いている言葉によって名づけられた願の名である。この言葉は、本願のはたらきが単に自力の意識を破って名号を信受せしめるのみでなく、本願力に帰入して真実信心に立つことに至るまでも「果遂」するのだ、と親鸞は見ているということを表している。凡愚(ぼんぐ)に深く張り付いている自力の執心(しゅうしん)を、徹底的に自覚せしめて、「仏智うたがうつみふかし」(『正像末和讃』、『真宗聖典』507頁)と気づかせる。その信念の歩みをもたらす力が、果遂の願の力だ、と感得しているということなのである。

 この果遂の願の力で、「自然に」真如の門に「転入」するというのである。ここで真如の門とあることによって、無為法である真如の「門」を見いだすということが、凡夫の意識と無為法との接点になることを暗示しているように思うのである。直接に体験するのでなく、信心の因に、「必至滅度(ひっしめつど)」の願果(がんか)を恵もうと誓われた因果の必然性を、「門」によって比喩的に入出できる因果のごとくに表現しているのである。

 至心信楽(ししんしんぎょう)の願を因として、必至滅度の願果を衆生の上に成り立たせようというところに、「回向」の願心の中心があると親鸞は見た。つまり、われらに発起(ほっき)する真実信心に、大般涅槃(だいはつねはん)の利益が与えられる。しかし、そのことは意識体験として涅槃の体験がわれらに起こるというのではない。体験としては、因である信心に「正定聚(しょうじょうじゅ)」の確信が起こるというのである。正定聚とは、大涅槃を確定して揺らぐことのない信念の質を受けとめた人々の集まりをいう言葉である。その信念を持つ人々の位を「不退転(ふたいてん)」とも「阿惟越致(あゆいおっち)」ともいうのだと、親鸞は繰り返し語っている。この位を因として、果の大般涅槃が必然の果として展望されているというのである。

(2011年12月1日)

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第235回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑥
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第235回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑥  善導のいわゆる「十四行偈」の出だしの「道俗時衆等 各発無上心 生死甚難厭 仏法復難欣 共発金剛志 横超断四流」(『真宗聖典』235頁)の問題である。この偈文に、了解しにくい内容がある、と思う。菩提心が「各発」という意味であるならば、それは成就しがたくあるのに、「共発」として「金剛の志」であるなら「横超」において「四流(迷妄の生存)」を「断つ」ことができる、という偈の言葉が突然に出されているからである。そもそも発菩提心は、個人に発起する仏教的意欲(仏に成りたいという意志)を表している言葉であるし、それが「共発」として「金剛」であるように発起するということは、かなり「困難」だとも思えるからである。...
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第234回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑤
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第234回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」  法蔵菩薩とは、苦悩の衆生を救済しようと願う普遍的な菩提心を象徴する名である。苦悩の衆生とは、親鸞の言葉に「諸有に流転の身」とある。諸(もろもろの)とは、それぞれの宿業因縁に依って、この五濁悪世に生存を与えられているすべての生命存在ということである。「諸有」として、それぞれ異なる身体を与えられ、おのおの別々の境遇や限定を受けつつ、この五濁の世に生きているということである。それらすべての事情を超えて、普遍的にすくい取らずにはおかない、という志願を「法蔵」という名にこめて、『大無量寿経』(以下、『大経』)が法蔵菩薩の因願を語り出しているのである。...
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第233回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」④
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第233回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」④  そもそも仏法の課題は、流転の苦悩を超脱するところにある。言い換えれば、生死の迷いを超克するのである。この目的を達成すべく求道するところに、仏道が存立してきたのである。  これは衆生の普遍的苦悩である四苦八苦の生存を出離することである。その出離生死の課題を独り超え出るのみでなく、衆生と共に歩み続けようという方向に、如来の願心を聞き当ててきたのが大乗仏道の歩みであった。その思想の依り処となったものが、如来の入滅を前になされた涅槃説法であり、そこから『涅槃経』が編み出されてきたとされる。...

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本多 弘之

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 親鸞の『浄土和讃』に次の和讃がある。

  定散自力の称名は 果遂のちかいに帰してこそ

   おしえざれども自然に 真如の門に転入する (『真宗聖典』484頁

 人間にとっての時間は、移ろいゆく意識に、過去とか未来として感じられているものである。だから、変化していく有為法(ういほう)である。その有為法の領域に、われらの一切の体験は起こっている。

 しかし、真如は「不増不減(ふぞうふげん)」であり、「不生不滅(ふしょうふめつ)」であって、有為法ではない。人間の意識の想念(そうねん)を超えたもの、これを無為法(むいほう)という。無為法を体験するということは、言葉の定義に矛盾する。真如は、われら衆生にとって、色や形のように直接体験されるものではないのである。われらの体験のなかに無為法を取り込もうとすることは、たとえば、消化できない金属を飲み込んで、消化しようとするようなものである。先の和讃は、善導(ぜんどう)の偈(げ)を親鸞が和語にしたものだが、ここに「真如の門」とあることが大切なことを比喩(ひゆ)的に示しているのではなかろうか。

 「果遂の誓い」とは、第二十願の最後に付いている言葉によって名づけられた願の名である。この言葉は、本願のはたらきが単に自力の意識を破って名号を信受せしめるのみでなく、本願力に帰入して真実信心に立つことに至るまでも「果遂」するのだ、と親鸞は見ているということを表している。凡愚(ぼんぐ)に深く張り付いている自力の執心(しゅうしん)を、徹底的に自覚せしめて、「仏智うたがうつみふかし」(『正像末和讃』、『真宗聖典』507頁)と気づかせる。その信念の歩みをもたらす力が、果遂の願の力だ、と感得しているということなのである。

 この果遂の願の力で、「自然に」真如の門に「転入」するというのである。ここで真如の門とあることによって、無為法である真如の「門」を見いだすということが、凡夫の意識と無為法との接点になることを暗示しているように思うのである。直接に体験するのでなく、信心の因に、「必至滅度(ひっしめつど)」の願果(がんか)を恵もうと誓われた因果の必然性を、「門」によって比喩的に入出できる因果のごとくに表現しているのである。

 至心信楽(ししんしんぎょう)の願を因として、必至滅度の願果を衆生の上に成り立たせようというところに、「回向」の願心の中心があると親鸞は見た。つまり、われらに発起(ほっき)する真実信心に、大般涅槃(だいはつねはん)の利益が与えられる。しかし、そのことは意識体験として涅槃の体験がわれらに起こるというのではない。体験としては、因である信心に「正定聚(しょうじょうじゅ)」の確信が起こるというのである。正定聚とは、大涅槃を確定して揺らぐことのない信念の質を受けとめた人々の集まりをいう言葉である。その信念を持つ人々の位を「不退転(ふたいてん)」とも「阿惟越致(あゆいおっち)」ともいうのだと、親鸞は繰り返し語っている。この位を因として、果の大般涅槃が必然の果として展望されているというのである。

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