親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 仏教は因縁の道理を具体的に体感した事態を、「一如宝海」(『真宗聖典』543頁)と教える。「一如」は、凡愚の人為的な意識分別が作用する以前の、本来の自然な因縁そのままの、ありのままのあり方を仏陀の智慧が言い当てようとする表現であろう。因果の必然性のみの関係が、この世の存在を牛耳ってくるのだと考えることに対し、存在の事実は「縁」を待って、縁と共に動いていくものであることを語りかけるのである。因のみの内面にその特質を探っていくのでなく、いわば因を動かしてくる運命的な「縁」の面が因には付いているのだ、という智見の表現なのである。

 仏教(唯識)では、その縁に四種を数えている。四種とは因縁・増上縁(ぞうじょうえん)・所縁縁(しょえんねん)・等無間縁(とうむけんえん)である。それぞれの縁の意味を探ることは、この場では避けるが、ここの第一に「因縁」とあるのは、因には縁という面があるという考え方である。因それ自体ということはない、という指摘でもある。因と言える事柄が起こるのには、必ず起こるべき縁があるのだから、因それ自体が縁でもあるというのである。

 この思考法と、存在には必ず場所が必然的であるということとも、深く関わっているのではないか。「有る」ということは、空間的な場が与えられるという「もの」の「有」の条件だけでなく、すべての「こと」にも、必ずそれを取り巻く「関連」性が与えられている。関連を切って、「因」という事態があると考えるのは、仏陀の智見からすれば、「我見」なのである。つまり、存在の事実を分別で切り取ってくる考えで、「因」それ自身を設定しているということなのである。

 この「因」それ自身を設定する論理は、たしかに自己の外部の事柄、とくに生命を伴わない自然界のことについて、大変大きな部分を説明できる。これがいわゆる自然科学を成り立たせ、科学が発見した自然界の理法を応用した科学文明の便利さを作り出したのである。

 しかしながら、この論理は、具体的な一回限りの生命を今ここに生きている自己自身の事柄を納得しようとするときには、ほとんど役に立たないのである。なぜ、今ここに「自己」が生きているか、という自己を問う意識にとって、「因」それ自体を設定して、対象的に他物を説明する論理をもってきたのでは、求めている答えにならないのである。自己自身を「因」とするなら、「因」それ自身が起こるところに、運命的な縁があるという論理が入らないなら、切り取られた因の必然性は独断論的に決めつけるしかない。それは自己を問う問いの本質に、まったく届かない答え方なのである。

 「縁」を受け入れることによって、因たる自己は、意識できないほどの無数の縁によって与えられた「因」なのであり、無限の縁の支えによって成り立っている自己なのだ、ということが見えてくるからなのである。

(2012年9月1日)

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第248回「存在の故郷」③
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第248回「存在の故郷」③  流転する生命の在り方は生死流転という熟語となり、私たちに現実に変化してやまない日常意識を抱え、状況に流されて生きているのだと教えている。その日常的な在り方が、いわば異郷に流離する旅人のようなものだと喩えられているのである。  それに対して「存在の故郷」を求めようとする意欲を、仏教は求道心と言い、菩提(さとり)を求める心だから菩提心とも言う。その意欲によって、日常の意識に映る存在は、迷いの情念(無明)によって闇の中に在るのだと教えられる。その闇は無明の黒闇とも言われ、その存在は闇の中で藻掻いているような状態だとされる。その暗中模索の状態を求道心によって突破して、光明海中に浮かぶような生き方をしようと求めることを、菩提心の目的として大涅槃を開くまで努力せよと教えるのである。  求道心によっていわば存在の本来性を回復することが、無明に覆われた存在を転じて明るみを生きる存在へと転換するというわけである。その転換された在り方を、「存在の故郷」に帰るのだと表現するのである。そして、その故郷とは、生死流転を超えた一如であり、大涅槃であるとされる。衆生が迷える意識を翻転することができるなら、その生存の在り方が、光明海と表現される明るみとなり、その存在はそこを場として立ち上がるのだとも教えられる。  存在の故郷とは一如宝海と教えられ、その一如が涅槃でもあると、親鸞は『涅槃経』によって押さえている。その究極である一如、すなわち大涅槃と、それを求める菩提心とは因果であるとされるが、因位にあることは、果位に対して常に待ち望む状態にあるということである。それが、異郷にあって故郷を渇望し、帰りたいという意欲に喩えられる在り方である。  我ら衆生が自らの意欲で帰郷を果たすことを望む場合、流転を真に突破することは難しい。有限なる衆生は、状況に巻き込まれ流転していて、因から果へ、状況を超えて一如・涅槃へは、とてもたどり着くことができないであろう。そこに呼びかけてくるものがある。本来からの呼び声が、迷える我らの現存在に、「存在の故郷」へ帰れと呼びかけていると教えられているのである。  この呼び声が、阿弥陀の大悲本願の呼びかけとして示され、その本願の呼びかけを信ずるなら、その信心は因でありながら、果を必然としてはらむのだと語られている。その場合の信は、衆生から起こるのではなく、如来の大悲より発起するところだとされる。親鸞はそれが如来の回向によって、衆生の上に成就するのだと、教えているのである。だからして、その信は如来の質を保持しているとされる。その信が因でありながら果を必然とすることができるのは、如来回向の信心だからだ、というわけである。 (2024年3月1日) 最近の投稿を読む...
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第247回「存在の故郷」②
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第247回「存在の故郷」②  故郷という言葉が迫力をもって訴えてくるのは、異郷に居て孤独の寂しさを感じるときであろう。異郷では、自己の存在を暖かく見つめる親兄弟や友人も居ないし、自己の感情を言葉で表現するときも方言や母国語が通じなかったりする。そういった言葉の違いは特に強く異郷にあることを意識させる。感情を表現しても理解されないと感じてしまい、孤独感を増幅させるのだと思う。    このような感覚や情景を内包する「故郷」ということに関連して、仏教が「正覚」という言葉で示している「大涅槃」のあり方を「存在の故郷」(安田理深)として考察してみようと思う。この「存在の故郷」という言葉は、人間存在の在処を迷いの境界であると教え、そのあり方に目覚めさせて覚醒へと歩ませる要求を、望郷の情念に託して「願生浄土」の要求として表現した「帰去来(いざいなん)、魔郷には停(とど)まるべからず」(『真宗聖典』284頁)という善導の『観無量寿経疏』「定善義」の言葉に依っている。浄土とは、大涅槃を仏の本願によって象徴的に表現したものであり、衆生を大涅槃へと誘う教えの言葉であるからである。    今、「願生浄土」の意味を「存在の故郷」という言葉を通して考察しようとしているのだが、「存在」ということを仏教ではどう考えているのであろうか。現代語で「存在」という言葉は、辞書的に言えば、現実にそこにあると感じられること、あるいは人間のことといったように理解されるだろう。この語感には、現代人の人間の生存を肯定的に捉えているところがある。さらには、人間を生き物の中で最も高位にある者とする欧米由来の感覚が、現代日本人に沁み込んでいるとうことにも関わっているのではないかと思う。    これに対し、仏教の存在了解には、生きとし生けるものは平等である、という感覚がある。その中で、人間に生まれるということは、仏教徒の基本的なあり方を示す三帰依文に「人身受け難し」(『真宗聖典』中表紙)と示されているように、「有り難い」(有ることが難しい)ことなのだという感覚があるのである。    この感覚をたどると、その背景にはインドの思想に見られる輪回転生の生存了解があるとされる。仏教の六道流転の生存理解は、インド古来の生命観に由来すると言われる。現在の生存の背景には、遠い過去の時間があり、それが生々流転とも言われる。現在の生存は自分の意志や意欲で選んだのではなく、過去の深く遠い因縁の重なりや蓄積が現在にまで来たものなのであろう。    この因縁の重なりや蓄積が日常の自己を取り巻く事情となることで、自分の思うようにならない事件や出会いが生じてしまうと感じるのである。このことは、運命論とは異なるとされる。運命論の前提には、存在を決定づける必然性は自分の外部にあるという理解があるからである。それに対して六道流転してきた自己という理解には、現在の自分の思いのままにはならないとはいえ、自分が今ここに存在しているのは、曠劫以来の自分の過去があるからだという感覚がある。   (2024年2月1日) 最近の投稿を読む...
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第246回「存在の故郷」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第246回「存在の故郷」①  「故郷」という言葉は、生まれ育った場所を離れて生活する場合に、帰りたい場所への切望と共に用いられることが多い。この語に伴って、懐かしい人々、その人々との生活、祭りや市場など、さまざまな想い出や情景が脳裏に浮かんで、そこへ帰りたいという欲求が強烈に呼び起こされるのである。    ところが現代の多くの人々には、そういう情緒や情念を呼び起こす機会すら失われ、帰郷するべき場所を喪失しているようである。会社勤めなどの経済活動に忙しく、故郷喪失者となった人々が群れとして集合しているというのが現代の多くの都市生活者の状態であろう。    筆者の場合は、故郷となるべき場所が、現在は隣国である中国の領土となっている。言うまでもないことだが、日中戦争の発端となった「満洲(まんしゅう)」なる場所のことである。清国の王朝の出自たる中国東北部のことなのだが、ここに日本が武力で進出して、清朝最後の皇帝であった溥儀を新たに皇帝に立てて建ち上げたのが、いわゆる傀儡(かいらい)国家とされている満洲国なのである。    筆者はこの満洲国時代の開拓集落(弥栄村)に生まれて、幼少期をそこで過ごし、敗戦によって引揚者となったのである。だから、生まれ故郷はどこかと問われたら、異国の土地の、現在はそこに帰ることができない場所を指し示さざるを得ないことになるのである。このことに縁って、私は現在、世界でたくさんの方々が難民状態に陥っている事実や、その人々が懐いているであろう故郷喪失感に同感・同情を覚えずにはいられない。    この故郷喪失という情念を、或る特定の状況のこととしてではなく、現代の時代社会の大多数の方々にも妥当することとして、考察してみたい。現代社会は、便利さと快適さにおいては、いままでのいかなる時代にもまして、優れていると言うべきであろう。しかし、その便利さと快適さの中にどっぷりと浸かっていることにより、他の時代と比較してではなく、当今の現在において生きることの意欲が減退し、自己存在の深みという意味が欠落しつつあるのではないだろうか。    このことを、故郷喪失による自己の意味喪失として考えるなら、この故郷喪失の問題は人間存在の深みを問い直す契機として、大切な事柄であると言えよう。すなわち、存在の根底に、そこへ帰郷するべきであると言うことができる真の故郷を持つことができていないということ、そのことは自己自身の信頼すべき根拠を喪失しているということを意味しているのであり、その喪失感に由来する自己喪失感、すなわち自己自身への不信感とも言うべき事柄なのではないか。 (2024年元日)   ※「満洲国(まんしゅうこく)」の正式表記は「洲」を用いるため本稿でも正式表記にならっております。 最近の投稿を読む...

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