親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

【特集趣旨】仏教と現代文化―新しい仏像からマンガやゲーム、ネット空間の最新表現まで―

【特集趣旨】

仏教と現代文化

―新しい仏像からマンガやゲーム、ネット空間の最新表現まで―

――新しい仏像からマンガやゲーム、ネット空間の最新表現まで

嘱託研究員

青柳 英司

(AOYAGI Eishi)

 現代の多くの日本人にとって、仏教は縁遠いものに感じられるかもしれません。ですが、博物館で開催される仏像の展覧会はとても人気が高く、マンガやゲーム、音楽やYouTubeといったものの中に、仏教的な要素が見られることも決して珍しいことではありません。現代の日本人が、仏教的な「何か」に魅かれることがあるのは確かなようです。また、様々な現代文化のコンテンツを通して、仏教を少しでも身近に感じてもらおうとする実践も、積極的に行われています。

 そこで今回の特集では、現代の文化的事象の中に見られる仏教的な要素と、現代文化を通した仏教の発信について、様々な立場の方々からご論考・エッセイをお寄せいただきました。

 長い歴史と伝統があり、ともすると古いものと思われがちな仏教と、最先端の現代文化との接点について、改めて考えてみたいと思います。

(あおやぎ えいし・嘱託研究員)

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とんちと風狂の「虚実皮膜」―現代にあらわれ続ける一休像―

とんちと風狂の「虚実皮膜」

―現代にあらわれ続ける一休像―

嘱託研究員

飯島 孝良

(IIJIMA Takayoshi)

 一休宗純(1394~1481)は、知名度という点では群を抜いている。たとえば、「一休さん、一休さん、はなおかの一休さん、ともしび灯す心~」という仏壇店のCMソングに耳馴染みのある方が、信州あたりにはおられるのではないだろうか。このテレビCMは長野県に展開する「はなおか」がはじめのようであるが、それ以外にも、米永(石川県)、かじそ(福井県)、ほこだて仏光堂(宮城県)、大黒堂(福島県)、開運堂(山梨県)などの仏壇店も、一休とタヌキ・ウサギが登場する同じフォーマットでCMを展開している。一見すると不思議な現象であるが、はなおかは「一休さん」の商標登録権を所有しており、同じCMを各社も利用しているということのようである。この一休のCMを用いている各社は、社名に「一休さんの○○」と冠するほど、そのイメージを定着させている。

 

 一休は、やはり「とんち坊主」の親しみやすいイメージが強いようである。「あわてない、あわてない」のセリフで一世を風靡したアニメ『一休さん』は、中国やタイでも人気が高い。とはいえ、放送されていたのは1975年~1982年のことであり、いまの世代は絵本などで触れることが多いようだ。このため、最近の講義で一休のことを取り上げると、受講者の感想に「一休が実在したとはじめて知りました」というものが、年を追うごとに増えている気もする。

 

 こうした現象は、歴史上で著名な存在をめぐってしばしばみられるものでもある。つまり、いつともしれず逸話や俗伝の類が追補されていき、或る部分が極大化することもあれば、或る部分が曲解されて伝わっていくこともある。そうして、虚像がどんどん拡大し多層化するのである。ときには、その実在すらわからなくなる、というわけである。

 

 その一例として興味深いのは、真宗において、一休が本願寺中興の祖・蓮如(1415~1499)と親しく交流していたと伝えられてきたことである。これは、一休が修行した祥瑞寺と、蓮如が一時期活動拠点としていた本福寺とが、ともに堅田(滋賀県大津市)で向かい合う位置にあったことにも起因するものに思われる。ただ、これが単に逸話として伝わるのみならず、真宗教学でも言及されるようになっていく。その一例が、敬信『浄土真宗流義問答』(正徳六年[1716]刊)である。その巻三下には、徳川期の儒学者・永田善斎(ながた・ぜんさい、1597~1664)の漢文随筆『膾餘雑録』(かいよざつろく、承応二年[1653]刊)を引用しつつ、一休について言及している。永田が一休を「実に大悟明眼の一異人」であると評価していることに追補する形で、一休にはその世話をしていた尼の森侍者(森女)がおり、その師である華叟宗曇(かそう・そうどん、1352~1428)は大津堅田の祥瑞寺に蟄居して尼と漁業を営んでいたことから、華叟と一休はともに肉食妻帯していたと記している。そして、その肉食妻帯について今も昔も誰ひとり批判する者がなかったのは、その徳が高かったゆえである、と述べるのである。この記述が示すのは、大津堅田で真宗門徒に近いところにいた華叟や一休も肉食妻帯をしており、有徳であることから誰も咎めることがなかったことを強調する意図である。それは翻って、親鸞や蓮如以来、肉食妻帯をいとわぬ教えを受け継いできた真宗の在り方を改めて意識させるものといえる。ただし、華叟は正長元年[1428]に示寂していることから、応仁の乱(1467~1477)のときまで堅田に蟄居していたということは誤りであり、尼僧が傍らにいたかもはっきりとはしない。こうした一休像を提示するのは、ことによると、真宗側の牽強付会ともみえてくる。

 

 もうひとつ興味深い事例は、徳川期の戯作である。山東京伝『本朝酔菩提全伝』(ほんちょうすいぼだいぜんでん、文化六年[1809]成立)には、一休が楽器を演奏する骸骨とともに酒宴を楽しみ、遊女との一夜を味わう姿が描かれる。「風狂」一休の面目躍如というべき場面であるが、その着想の源のひとつとなっているのは、『一休骸骨』(奥付は康正三年[1457])である。一休と思しき僧が墓場に迷い込み、そこで骸骨どもが呑めや歌えの大騒ぎを楽しむところから始まる本書では、人間が欲望におぼれ最後は虚しく没していくさまが、一貫して骸骨の姿で描かれる。内容的には「空」の思想など仏教の基本的な考えを示すものである(が、一休自身の真筆というわけではなく、一休の名を冠した入門書といった性格がある)。ここに描かれる骸骨の姿は、まさに『本朝酔菩提全伝』に描かれるものと重なる。この場面のもうひとつの典拠というべき徳川期の『一休関東咄』(いっきゅうかんとうばなし)第七「堺の浦にて遊女と歌問答の事」には、一休が「地獄といえる遊女」と歌の応酬をする逸話が伝わる。地獄太夫の姿を前に、一休は「聞きしより見て怖ろしき地獄かな」と上の句を示すと、地獄太夫は「しにくる人のおちざるはなし」と返すのである。己の生そのものを「地獄」と認識している太夫は、欲望のままに――つまり肉欲にあふれて――自分の元にやってくる男どもなど、空の何たるか、仏の何たるかがわかるまい、と批判するかのように挑みかかって来る。しかし、地獄太夫はそうした自身の生こそ、男どもを自らの煩悩に向き合わせる仏道そのものと捉えていたようにもみえる。ただし、地獄太夫の逸話は一休自身の手で書かれた漢詩集の『狂雲集』や『自戒集』、或いは一休の弟子たちによる『一休和尚年譜』などにはみられない。一休の「風狂」と相まって、そうした強烈なキャラクターが後代に創作されたものと考えられる。

 

 いま、真宗での言及と山東京伝の描出を例にとったが、これらが全くの捏造であると言いたいのではない。むしろ、そうした像は一休が『狂雲集』『自戒集』といった著作類で述べる考え方に何らかの形で重なり、どこかで実像を髣髴とさせるものでもある。先ほど『浄土真宗流義問答』で言及のあった森侍者(森女)にしても、『狂雲集』で森女との純愛を詠い、生々しいまでのエロスを赤裸々に描いているのである。これは室町禅林文学ではもちろん、それまでの漢文学でも類をみないものとなっている。また『狂雲集』によれば、文明二年[1470]11月14日、一休77歳のときに住吉神社の薬師堂で森女と出逢ってその艶歌を聴き、翌年春に住吉の雲門庵で再会して、互いの思いを確認したという。また、『真珠庵文書』の「祖心紹越酬恩庵根本次第聞書案」には、文明七年[1475]、一休82歳の時に酬恩庵内に敷地を買い取ることになったが、資金の一部を森侍者の衣服を売って用立てた、などと記載がある。森女が、一休の周辺にいたのは確かなのである。

 

 こうして、一休は虚と実が入り乱れつつ、その魅力と毒気(!)を現代にまで伝えているように感じられてくる。いわば、一休像の虚と実が連鎖していきながら、我々にさまざまなことを考えさせもするのである。近松門左衛門は、「虚実皮膜論」(きょじつひにくのろん)といわれる次のような一節を開陳している。

 

芸といふものは実(じつ)と虚(うそ)との皮膜の間にあるもの也。成程今の世、実事によくうつすをこのむ故、家老は真の家老の身ぶり口上をうつすとはいへ共、さらばとて真の大名の家老などが、立役(たちやく)のごとく顔に紅脂(べに)白粉(おしろい)をぬる事ありや。又真の家老は顏をかざらぬとて立役がむしやむしやと髭は生(はえ)なり、あたまは剝(はげ)なりに、舞台へ出て芸をせば慰になるべきや。皮膜の間といふが此(ここ)也。虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰が有たもの也。【中略】それ故に画そらごとゝて、其像(すがた)をゑがくにも又木にきざむにも、正真の形を似する内に又大まかなる所あるが、結句人の愛する種とはなる也。趣向も此ごとく、本の事に似る内に又大まかなる所あるが、結句芸になりて人の心のなぐさみとなる。

(穂積以貫「難波土産」発端に所収)

 

 つまり、ウソとマコトが紙一重のような表現を以て、舞台上の演出は迫真のものとなるという。言い得て妙である。

 

 どうやら一休の像も、虚と実が「皮膜」のようになって、我々の前にあらわれ続けているようである。最近は、可愛らしい小坊主ではない一休を描き出そうと『オトナの一休さん』(Eテレ、2016~2017)が制作され、本作の作画を担当した伊野孝行氏の『となりの一休さん』(春陽堂書店、2021)が刊行されるなど、「風狂」「破戒」というべき一休の実像がより一層着目されてきている。こうした破天荒な一休の姿を知ったとき、受け手のリアクションは「そんな姿に却って興味をそそられた」というものと「可愛らしい一休さんとのギャップにがっかりした」という真逆のものになりもするのである。一休像にどのような反応を示すかで、自らが重んじる価値観に気づかされることもあろう。いわば、一休像は自己の「合わせ鏡」として機能するものでもあるのかもしれない。

 

 室町期の在世当時から、同時代の形骸化を批判しつつ女犯も厭わぬ言動で世をアッと言わせた一休は、果たして今なお「なやましい」存在といえよう。

(いいじま たかよし・嘱託研究員、花園大学国際禅学研究所副所長)

著書に、『語られ続ける一休像―戦後思想史からみる禅文化の諸相』(ぺりかん社、2021)など。

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今との出会い第244回「罪と罰と私たち」

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親鸞仏教センター嘱託研究員

繁田 真爾

(SHIGETA Shinji)

 2023年10月、秋も深まってきたある日。岩手県の盛岡市に出かけた。目当ては、もりおか歴史文化館で開催された企画展「罪と罰:犯罪記録に見る江戸時代の盛岡」。同館前の広場では、赤や黄の丸々としたリンゴが積まれ、物産展でにぎわっていた。マスコミでも紹介され話題を呼んだ企画展に、会期ぎりぎりで何とか滑り込んだ。

 

 実はこれまで、同館では盛岡藩の「罪と罰」をテーマとした展示会が三度ほど開催されてきた。小さな展示室での企画だったが、監獄の歴史を研究している関心から、私も足を運んできた。いずれの回も好評だったようで、今回は「テーマ展」から「企画展」へ格上げ(?)したらしい。今回は瀟洒な図録も販売されたが、会期末を待たずに完売。若い来訪者も多く、「罪と罰」に対する人びとの関心の高さに驚かされた。

 

 展示をじっくり観覧して、とくに印象的だったのは、現在の刑罰観との違いだ。火刑や磔や斬首など、江戸時代には苛酷な身体刑が存在したことはよく知られている。だがその他にも、(被害者やその親族、寺院などからの)「助命嘆願」が、現在よりもはるかに大きく判決を左右したこと。「酒狂」(酩酊状態)による犯罪は、そうでない場合の同じ犯罪よりも減刑される規定があったこと。などなど、今日の刑罰との違いはかなり大きい。

 

 現在の刑罰観との違いということでは、もちろん近世の盛岡藩に限らない。たとえば中世日本の一部村落や神社のなかには、夜間に農作業や稲刈りをしてはならないという法令があった。「昼」にはない「夜の法」なるものが存在したのだ(網野善彦・石井進・笠松宏至・勝俣鎭夫『中世の罪と罰』)。そして現代でもケニアのある農村では、共同体や人間関係のトラブルの解決に、即断・即決を求めない。とにかく「待つ」ことで、自己―他者関係の変化を期待するのだという。この慣習は、人が人を裁くことに由来するさまざまな困難を乗り越える一つの英知として、注目されている(石田慎一郎『人を知る法、待つことを知る正義:東アフリカ農村からの法人類学』)。

 

 「罪と罰」をめぐる観念は、このように時代や場所によって大きな違いがみられる。まさに“所変われば品変わる”で、今ある刑罰観が、確固とした揺るぎない真理に基づいているわけではないのだ。

 

 だとすれば私たちは、いったい人間の所行の何を「罪」とし、それを何のために、どのように「罰する」のだろうか。そして罰を与えることで、私たちはその人に何を求めるのだろうか(報復?それとも改善?)。そのことがあらためて問われるに違いない。そして「罪と罰」は、おそらく刑罰に限らず、社会規範・教育・団体規則・子育てなど、私たちの社会や日常生活のさまざまな場面にわたる問題でもあるだろう。

 

 それにしても江戸時代の盛岡では、なぜ酒狂の悪事に対して現代よりも寛容だったのだろうか。帰宅後に土産の地酒を舐めながら、そんなことに思いをはせた。

 

(2024年3月1日)

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第248回「存在の故郷」③

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

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 流転する生命の在り方は生死流転という熟語となり、私たちに現実に変化してやまない日常意識を抱え、状況に流されて生きているのだと教えている。その日常的な在り方が、いわば異郷に流離する旅人のようなものだと喩えられているのである。

 それに対して「存在の故郷」を求めようとする意欲を、仏教は求道心と言い、菩提(さとり)を求める心だから菩提心とも言う。その意欲によって、日常の意識に映る存在は、迷いの情念(無明)によって闇の中に在るのだと教えられる。その闇は無明の黒闇とも言われ、その存在は闇の中で藻掻いているような状態だとされる。その暗中模索の状態を求道心によって突破して、光明海中に浮かぶような生き方をしようと求めることを、菩提心の目的として大涅槃を開くまで努力せよと教えるのである。

 求道心によっていわば存在の本来性を回復することが、無明に覆われた存在を転じて明るみを生きる存在へと転換するというわけである。その転換された在り方を、「存在の故郷」に帰るのだと表現するのである。そして、その故郷とは、生死流転を超えた一如であり、大涅槃であるとされる。衆生が迷える意識を翻転することができるなら、その生存の在り方が、光明海と表現される明るみとなり、その存在はそこを場として立ち上がるのだとも教えられる。

 存在の故郷とは一如宝海と教えられ、その一如が涅槃でもあると、親鸞は『涅槃経』によって押さえている。その究極である一如、すなわち大涅槃と、それを求める菩提心とは因果であるとされるが、因位にあることは、果位に対して常に待ち望む状態にあるということである。それが、異郷にあって故郷を渇望し、帰りたいという意欲に喩えられる在り方である。

 我ら衆生が自らの意欲で帰郷を果たすことを望む場合、流転を真に突破することは難しい。有限なる衆生は、状況に巻き込まれ流転していて、因から果へ、状況を超えて一如・涅槃へは、とてもたどり着くことができないであろう。そこに呼びかけてくるものがある。本来からの呼び声が、迷える我らの現存在に、「存在の故郷」へ帰れと呼びかけていると教えられているのである。

 この呼び声が、阿弥陀の大悲本願の呼びかけとして示され、その本願の呼びかけを信ずるなら、その信心は因でありながら、果を必然としてはらむのだと語られている。その場合の信は、衆生から起こるのではなく、如来の大悲より発起するところだとされる。親鸞はそれが如来の回向によって、衆生の上に成就するのだと、教えているのである。だからして、その信は如来の質を保持しているとされる。その信が因でありながら果を必然とすることができるのは、如来回向の信心だからだ、というわけである。

(2024年3月1日)

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サイケデリック・ブッダ——ロックと仏教の歴史・序

サイケデリック・ブッダ

――ロックと仏教の歴史・序――

嘱託研究員

宮部 峻

(MIYABE Takashi)

 「どんなジャンルの音楽を聴くのか」と問われたら、「ロック、とくにUKロック」と答える。どこか屈折した歌詞と哀愁漂う曲調に惹かれる。

 

 曲だけを楽しんでいるというよりもバンドやミュージシャンの態度が好きなのかもしれない。インタビューや人前でのパフォーマンスでは挑発的な姿勢を見せながら、書き上げた曲はアイロニカルでありながらも繊細であり、社会のなかでもがき苦しむ自我の葛藤を描き出す。私が理解するUKロックの歴史とは、素直に自己を表現できず、社会に対して皮肉めいた発言を繰り返しながら悩み苦しみ続けている、捻(ひね)くれ者の表現の歴史である。ザ・スミスのボーカリスト、モリッシーがその極北だ。

 

 そんなこともあり、CDやレコード集めだけでなく、ロックに関する雑誌記事や本を読むのが日課である。そうすると、断片的にロックと仏教に関するエピソードを読んだりする。

 ファンのあいだでは有名なエピソードだが、ビートルズの代表曲の一つである「Tomorrow Never Knows」にも仏教に関する逸話が残されている。『Rolling Stone』誌の記事を踏まえつつ紹介しておこう。

 

 ビートルズは活動前半期、ライブバンドとして世界各地でアイドル的な人気を誇った。しかし、やがて熱狂ゆえの混乱・暴動に巻き込まれる。その苦悩ゆえか、ラブソングが中心であった初期の歌詞・曲調が一転し、哲学的・文学的表現を取り入れた歌詞や高度な芸術表現を追求する。その象徴的な曲の一つが1966年発表のアルバム『Revolver』に収録される「Tomorrow Never Knows」である。

 

 「Tomorrow Never Knows」の歌詞は抽象的で難解である。その歌詞に影響を与えたとされるのが、『チベットの死者の書——サイケデリックバージョン』(ティモシー・リアリー、ラルフ・メツナー、リチャード・アルパート著、1964年刊行、1994年邦訳)である。この書では、8世紀の仏教書をもとに、ドラッグによる自我の喪失と再生の理論が説かれている。この時期、ビートルズがLSDを使用していたことはよく知られているが、ジョン・レノンは、LSDで得た体験とこの書で説かれる理論を結びつけ、曲作りをしたとされる。

 

 曲調も多くのテープループ素材やそれを逆再生したものが用いられており、幻想的な世界観が表現されている。ジョン・レノンは、プロデューサーのジョージ・マーティンに曲作りに際して抽象的な要望を出すことが多かったと言われているが、この曲についても、「ダライ・ラマが最も高い山頂から歌っている」ようなサウンドに、「たくさんの僧侶がお経を唱えているようなイメージで」とチベット仏教の世界観を表現しようとしていたとされている。

 

 こうしたエピソードからわかるように、サイケデリック期のビートルズを象徴する曲に、ジョン・レノンが理解した仏教的世界観が影響している。自我の喪失と再生を説くものとしてジョン・レノンは仏教にインスパイアされたのであろう。どうやらロックの世界には、自我の再生のためにドラッグの使用を勧める「サイケデリック・ブッダ」と呼ぶべきブッダがいるらしい。しかし、仏教の歴史は、ドラッグの使用による救済を説いてはいない。どうもロックの世界に生きる仏教は、現代に再創造されたもののようである。

 

 自我の喪失と再生を説く、ロックの世界に存在するブッダ——謎多き存在である。ロックの歴史には、たびたびこのような再創造された仏教が登場する。仏教の哲学には納得がいくと言う無神論者を標榜するロックスターもいれば、内気な仏教徒と大量虐殺の比喩を用いて自分が抱えた痛みがいかに大きなものであったのかを歌い上げるロックの詩人もいる。さらには、響きがいいからという理由でバンド名を涅槃とした者もいる…ロックスターに仏教解釈のことについて尋ねれば、きっとこう答えるのであろう——「かくのごとく、我聞けり」と。ロックスターたちが体得した仏教の教えとは何なのか。その歴史を辿るにはまだまだ謎が多いので、「序」として留めておくことにしよう。

(みやべ たかし・嘱託研究員、立命館アジア太平洋大学助教)

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仏教をテーマにマンガを描く中で知らされた可能性と危うさ

shinran-bc

浄土真宗本願寺派僧侶・漫画家 

近藤丸

(Kondoumaru)

(註)本作は作者の経験に基づいた創作(フィクション)です。マンガに登場する、人物、固有名詞は実在しません。

広大な世界への通路になってくれたマンガ

 筆者は、浄土真宗系の中学校・高等学校で、教員として「宗教」(仏教)という科目を担当している。

 以前、先輩の宗教科教員からこう言われたことがある。


私たちのやっていることは種まきなんだと思う。


 多くの子どもたちにとって、仏教は普段の生活の中で必要ないものかもしれない。しかし、生きていく中で、行き詰ったとき、仏教の言葉が彼女・彼らにあらためて響いてくることがあるかもしれない。もちろん、今を生きる生徒たちに言葉を投げかけている。しかし、同時に、仏教という教えがあること、仏教という広い世界に常に通路が開いていると伝えることが大事なのだと思う。生徒の中に、仏教の言葉を尋ねてくれる人が一人でもいてくれたら。そういう想いで、仏教の授業をしてきた。

 教職のかたわら、マンガを描いてきた。寺院での活動に携わる中で感じたことを描いたエッセイマンガや、仏教用語を紹介するマンガを創作してきた。

 普段、なかなか仏教の話に興味を持ってくれない子どもたちも、マンガにすると読んでくれることがある。マンガには文字情報にプラスして、絵があることによって、読者にイメージを喚起しやすい。情報などが「ある意味で」わかりやすく伝わるという利点がある。マンガにも「行間」ならぬ、「コマ間」があり、読者はマンガを通して、何事かを感じ、考えることができる※1

 私は高校生のときに、手塚治虫の『ブッダ』を読んで、仏教という教えが「何か人間にとって大切なことを説いている」と感じた。手塚のマンガが、自分を、どこか違う世界、仏教という想像もつかないような広大な世界にワープさせてくれる窓口になっていた。

 本や、映画、ラジオ、法話まで様々なメディアが自分を他の世界とつなぐ通路になる。私にとっては、手塚作品が、他世界へ連れていってくれる窓口であり、そのことによって、様々な問題に悩んでいた高校生の自分はどこかで助けられていた。全く違う異世界への通路が開いていることを知り、その通路から吹き込む風によって、呼吸ができていたということがあると思う。マンガという、ある意味で近づきやすい仏教への窓口が、あってよかったと感じている。

 そして、その経験があったから、マンガという手法で描いてみたいと思った。現代の自分の言葉で、今を生きる人や、若い人たちに、出遇った教えによって受け取ったものの一端を伝えようと試みた。

 拙作を通して、仏教に興味を持ったという人の声も頂くことがある。畏れと責任を感じるとともに、あのように描いて良かったのだろうかと反省する点も多々ある。

 自分が描けるのは、あくまで自分が出遇った仏教の一端でしかない。願わくば、一人一人があらためて教えに出遇い直していって欲しい。作家の表現はどこまでも作家自身の偏見や、恣意が混ざったものとなるからである。


一瞬を切り取るという特性

 マンガは一瞬を切り取るメディアだ。瞬間を切り取るところにマンガの面白さと魅力がある。例えば上記の作品は、夏のお盆参りをモチーフに描いた作品だ。実際は、何年もお盆参りに通って気づかされたことを描いているが、具体的に取り上げているのはその経験の中のほんの数十分程度の出来事である。厳密に言えば、そのうちの何分かの景色にフォーカスし、その中の数秒を自分の視点で切り取って描いている。つまり、作中に描かれているのは、集中して考えれば数秒のシーンである。しかし、マンガの中には過ぎ去った時間や、自分の経験を、いわば封じ込めることができる。だが、そこでは多くのものは捨象されてしまっている。マンガで多くは決して語れない。しかし、作者の感じた一瞬と、読者が読む時間とが呼応し合い、作品に封じ込められた時間が読者の上にある意味で蘇生する。マンガを読むことで、お参りの時間があることの豊かさや、そこに流れていた時間や空間の中にあった何事かを感じとることもできるのかもしれない。この作品を通して、お盆参りの意義をあらためて感じたという声が寄せられた。


「分かりやすさ」と「危うさ」

 2人の若者が、生活の中で仏教の教えに触れていく『ヤンキーと住職』という作品を描いた。作品に対して、様々な反応があった。「分かりやすい」とか、「仏教が分かりました」という感想も頂いた。

 中学生・高校生が、仏教に出会う教材を作りたいという狙いもあって描き始めた自分にとっては、有難いと思う反面、危惧も抱いた。仏教の教えとは、分かったとか分からなかったとか、そういうものだっただろうか。法(教え)の言葉を手掛かりに、答えのでない問を自己の人生の中に生き、考え続けていくことが大切な営みなのではないだろうか。仏教の教えによって、私たちの生き方を問うことが大切な営みではなかったか。それがどこか、逆になってはいなかっただろうか。表面的な分かりやすさは、問いを眠らせてしまうような危険性もはらんでいるのではないか。なにより、自分自身がこれまで仏教に出遇い、様々なことを教えられてきたが、終わりなき学びの途上にいる。共に聞き続け、教えられ続けていく身である。

 マンガという表現には、分かりやすく伝えられるという利点がある一方で、そこから欠落してしまうものもある。

 結論として言えば、仏教をテーマに漫画を描く際には、その意義と危うさの両方を見つめ、その中を行き来することがどうしても必要なのだと思う。


2つの言葉を通して

 2つの言葉を紹介したい。筆者が、仏教に関するマンガを描き始めてから出会い、印象に残った言葉だ。

 1つは、ライターの武田砂鉄の言葉である。


いいねを狙って書く。そういうことをするとライターはあっという間にダメになっていく。


 武田の仕事の姿勢を尊敬している。誰かに媚びるような文章を書かない人だ。上記の言葉は、ある対談での発言※2だが、その対談の少し前に、著名な俳優の方が自死されていた。武田は、例えば、その俳優の方のことに触れて記事を書いたら、ページビューは稼げるかもしれない、だけど、そういうことは絶対にしないようにしているという。武田の言葉は、アテンションや、「いいね」を狙って何事かを書くことのどこに問題があるのか、端的に示している。そこには書く人が決して見失ってはならない敬意の原点のようなものがあるように思う。「書く」ということは人間存在の深みや、意味の深みに触れることとつながっている。

 長く、水俣病被害者に寄り添い、水俣病被害に係る相談を受けて解決を目指し、事件に関する調査研究と啓発を行ってきた団体がある。その団体の主催する水俣病の勉強会に出席したとき、次の言葉を聞いた。その団体で活動してきた、筆者と同世代の職員の方の言葉である。


私たちは、水俣病事件のことを伝えていかなければならない。だけど、ただ伝えるのではなくて、地続きに伝えていかないといけない。私たちが伝えられたように、伝えていくことが大事だと思う。


 彼女の真意を聞いたわけではない。しかし、その言葉を聞くだけで分かることがあると思った。水俣病事件の悲惨・悲しみ、同じことを決して繰り返してはならないということを、われわれは伝えていかなければならない。だからといって、ただ伝えればいいのではなく、伝え方・残し方が大事なのだ。ふざけて扱うことなどできない。例えば、公害の問題を「ポップ」に「楽しく」扱い、伝えていくということは成り立たないのではないか。そんなことはしてはいけない。きっと仏教を伝えるときにも、同じ質の問題が通底していると思う。仏教もまた、人間の苦悩や悲嘆の中から生まれてきた教えである。

 2人の言葉から、自分の執筆姿勢が問われてきた。

 仏教の歴史においては常に、経典や論・釈、その他の著作をテキストとして新しい解釈が生まれてきた。また、教えに出遇った者が、その時代に応じた表現を試みてきた。現代においても、仏教という営みの生命に触れて、現代に生きる人に応じた言葉(あるいは表現)を紡いでいくことは必要不可欠なことである。しかし、何かを伝えようとするとき、それをどのように残すのかということも大切な問題だ。


「ひっくり返し」や「まぜっ返し」というマンガの特性

 鼎談「宗教、宗教団体によるマンガの特徴は何か?」(『宗教と現代がわかる本2015』)の中で、宗教学者の井上順孝が次のように述べている。


まじめな世界で、信仰なら信仰という世界を築くときに、何をよりどころにその世界観をつくるかというところでは、近代にいたるまで一つの体系性というか、仏教やキリスト教各派が持ってきたものがあって、それを侵食してくるものとは闘ってきたわけです。そういう伝統的に伝えられてきた体系性すら失われている※3


 この発言の前後の文脈を補いたい。ここで議論されているのは、マンガというメディアは、常識をくつがえすとか、常識とは逆さのことをやるとか、とんでもないものを持ってきて楽しむという特性を持っているということである。マンガに限らず、人間は芸能や文学・芸術という営みにおいて、ある要素と別の要素を混ぜたり、ひっくり返したりして面白くしてきた。その中でも、マンガは特に「ひっくり返し」、「まぜっ返し」の要素が多いメディアだ。

 仏教は「まじめ」な世界であると井上は述べている。しかし、「絵解き」や「節談説教」など芸術・芸能の中においても仏教が伝えられてきたことから分かるように、歴史的に仏教が常に「まじめ」な部分だけで語られてきたということはできない。

 しかし、井上がいうように、その宗教のよりどころとなるような肝心要の部分、あるいは、信徒・宗教者たちが大切にしてきたものがある。それを侵食してくるものとは闘ってきたという歴史があることは、厳然たる事実である。それはいうまでもなく、これまでも、これからも大切なことだ。一方で、すべての「ひっくり返し」や「まぜっ返し」を否定すれば、新しいメディアを使った布教などは一切できなくなるし、新しい表現も生まれなくなってしまう。だからといって、何でもありになってしまえば、その宗教の持つ本質を見えなくしてしまったり、教えそのものを傷つけてしまったりする恐れもある。宗教は誰かにとって「生きること」そのものだからである。

 マンガというメディアが多分に持っている、「ひっくり返し」たり「まぜっ返し」たりして楽しむ側面は、教えを棄損するあり方と常に触れ合っており、まじめに描いているつもりでも、そのまじめさがふとした弾みに悪ふざけに転化してしまうという恐れをはらんでいるように思う。ある意味での危なっかしさを内包しているのが、マンガというメディアだと考える。

 伝統というものは古めかしいものではない。伝統によって私たちは教えを聞くことができている。その伝統の中で大切にされてきた教えの内部の生命、あるいは核心はいったい何なのかということを、私たちは常に確認していく必要がある。

 マンガを使って、仏教のことを伝え・語ることには様々な可能性がある。だがマンガというメディアにはある種の暴力性や弱点もあることも見つめていくこと※4を忘れてはならない。それと同時に、真宗であれば、真宗の体系の中で、先人たちが大切にしてきたものは何か、われわれが今何を聞くべきなのか、何を伝えていかなければならないのかを知ろうとする営みの中で、描かれる必要があるのではないだろうか。


現代においてマンガを描くことの難しさ


 哲学者の千葉雅也のツイートを引用したい。

ただ無為にバイクで暴走する、アホな遊びで盛り上がる。それは何にもならないエネルギーの消費だった。思い出だけが残った。だが今はアホな遊びを動画にすればマネタイズできるかもしれない。何をやってもどこかにマネタイズの可能性がチラつく。筋トレでも何でも※5


 現代の社会は、すべてマネタイズに結び付く社会になってしまっている。あらゆる物事が「ネタ化」してしまいかねない。そういう社会で何を聞き、何を語り、何を書くべきなのだろうか。仏教ですらネタになってしまう。そういう問題がある。仏教の要素をマンガにすることは、仏教の「ネタ化」と紙一重の表現であると感じる。教えが「いいね」に「換算されてしまうことの耐えがたさ※6」というものがある。

 教えを聞き、伝えようとする者は、現代に呼びかける必要がある。しかしそれが、結局現代の価値に媚びるようなものであれば、単に現代に飲み込まれていくだけである。そうではなくて、人間が本当に何を求めているのか、如来の悲願に通じるような、深い要求を尋ねていくような思索をしなければならないのではないだろうか※7

 おそらく、仏教の教えを聞いている者が、マンガを描こうとするとき、そこには逡巡というものが必要なのであろう。戸惑いやためらいの中で描かれる必要があると思うし、私が聞いてきた教えや、私に教えを伝えてくれた存在が、私に逡巡することを引き起こさせるように思う。そして、唯一、何か私のマンガから伝わることがあるとすれば、その逡巡させるものそのものなのではないかという気すらしている。


「誠を尽す」ということと「対話」

 最後に、筆者なりに大切にしたいと思うことを述べたい。

 親鸞は主著である『教行信証』の中で、善導の『往生礼讃』を引用し、


[原文]自信教人信難中転更難 大悲弘普化真成報仏恩※8

[現代語訳]自ら信じ、人に教えて信じさせることは、難しい中にもなお難しい。しかし、仏の大悲はどこまでも弘がっていき、すべてのものを教化してくださる。真に私たちはその仏恩を報じていくほかないのである※9


と述べている。「自信教人信」ということが、念仏者のあるべき姿勢として受けとめられている。自ら念仏の教えを信ずると同時に、他者にもこれを教えていくことが、仏への報恩になると語られる。

 僧侶・哲学者の清沢満之が「真宗大学開校の辞」の中で、「自信教人信」について次のように述べていることを知った※10


本願他力の宗義に基きまして…中略…自信教人信の誠を尽すべき人物を養成するのが本学の特質であります※11


 清沢は「自信教人信」に「誠を尽す」という言葉をそえている。ここに私たちが受け取るべき大切なメッセージがある。本願他力の宗義に触れて、書こうとする自分の言葉や表現が誠であるかどうか、問い尋ねるということが大切なのではないだろうか。誠を尽くそうとすること。もちろん、その誠の内実を尋ねていくことも同時に必要であろう。

 しかし、誠を尽くすといっても、私たちが一人でそれを成し遂げることは難しい。大切なのは、作者が批判を嫌わないということである。批判を厭わずに、対話・議論をすることだと思う。もちろんそこにおいては、謙虚に「法(教え)」を問い尋ねるという姿勢を大切にしなければならない。

 ある鼎談の中で、『キリスト新聞』編集長の松谷信司が、キリスト教に関するマンガが描かれることについて、


それが全部正しいか正しくないかは別として、でもサブカルからそういう見られ方をしているということを知り、キリスト教の本家本元としてはこういう解釈だし、ここはこうだよねみたいな対話をすればいいんであって、全否定をする必要もない※12


と指摘していることには頷かされる。宗教に関わる表現への批判を恐れるあまりに萎縮することの中にも、また別の問題があるのだろう。マンガをきっかけとしてコミュニケーションをすることが大事なのではないか。批評・批判を許す空間を持つこと。マンガをきっかけに、対話し合える場、批判や異論があったとしても、そこから共に議論し、聞思し、聴聞する場を開いていくことが大切なのではないか。仏教に関するマンガを批評し合ったり、受けとめを確かめ合ったりする場所を持つことである。

 浄土真宗の法座には、伝統的に座談という時間がある。説法を聞いて終わるのではなくて、聴者も、お互いに説法に対する理解を語り合い、自らの信仰を披瀝し、質疑する機会を持つのだ。聞いた教えの受けとめを確かめ合うという時間が大切にされてきた。一人合点していたということが、他人に話すことで初めて知らされるのである。そうして一人合点して、我がものとして教えを握りしめようとする自分だからこそ、誰かと教えを共有したり、あるいは間違って解釈しているところをときに正してもらったり、疑問を他者と共有したりすることが大事なのである。仏教を題材としたマンガを通して、そうした場を開くことこそが大切なのではないだろうか。

《注釈》

※1釈徹宗、ナセル永野「『スラムダンク』を読むとイスラームがわかる!?」、渡邊直樹編『宗教と現代がわかる本 2014』平凡社、2014年、p.182。
※2withnews、“武田砂鉄さんと考える『わかりやすい記事の罪』コロナショック後『PV狙いの記事』は生き残れるのか”、2020年08月19日。
※3井上順孝、塚田穂高、藤井修平 「宗教、宗教団体によるマンガの特徴は何か?」、渡邊直樹編『宗教と現代がわかる本2015』、平凡社、2015年、p.152。
※4マンガの良い面でもあり、同時に注意しなければいけない面とは、例えば「ものごとを単純化し、デフォルメして伝えることができるところ」である。作者の恣意によって単純化もできてしまうことが、マンガを描く際に警戒しなくてはならない点の一つだと考える。
※5千葉雅也、Twitter(現X)、2021年6月15日。
※6綿野恵太『「逆張り」の研究』、筑摩書房、2023年、p.112。
※7この点に関して、本多弘之氏の論考に示唆を受けた。本多弘之『浄土 その解体と再構築「濁世を超えて、濁世に立つ」Ⅰ』、樹心社、2007年、pp.167-168。
※8親鸞『教行信証』、教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典全書』Ⅱ、本願寺出版社、2011年、p.101。
※9真宗大谷派教学研究所『解読教行信証』上巻、東本願寺出版、2012年、p.252。
※10寺川俊昭「教化のめざすもの―信心の共同体の現前を求めて―」、『真宗教学研究』第25号、pp.21-22。
※11大谷大学編『清沢満之全集』第7巻、岩波書店、2003年、p.364。
※12吉村昇洋、松谷信司、ナセル永野「マンガも宗教も、めちゃめちゃおもしろい」、渡邊直樹編『宗教と現代がわかる本 2015』、平凡社、2015年、p.64。

(こんどうまる・浄土真宗本願寺派僧侶、漫画家)

本名 近藤 義行。著書に、『ヤンキーと住職』(KADOKAWA、2023)など。

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マンガと仏教

shinran-bc

曹洞宗八屋山普門寺住職

相愛大学非常勤講師

吉村 昇洋

(YOSHIMURA Shoyo)

 マンガやアニメにおいて、仏教的な営みが表現されることは多々ある。例えば、現在大人気連載中の遠藤達哉『SPY×FAMILY』のアニメ版(Ⅰ期第10話「ドッジボール大作戦」)において、主人公の小学生アーニャがドッジボールの特訓を行う際にイメージトレーニングと称して坐禅を組んだり滝に打たれたりするいわゆる”仏道修行”の姿が描かれたし(原作マンガでは描かれていないが…)、澄守彩のライトノベルが原作の高橋愛『実は俺、最強でした?』では、魔法使いの少女がアンデッドのモンスターを倒した後、「なむなむなのです…」と目を閉じて手を合わせる、“仏教的な供養”を思わせるシーンも出てくる。

 

 これらは、日本の文化に慣れ親しんだ読者であれば、サッと読み飛ばしてしまうほど自然な表現となっているが、仏教文化をまったく知らない人からすると、宗教的な何かをしているのかなと察するのが精一杯であろう。

 

◆仏教マンガとは何か?

 このように、日常に馴染んだ仏教的行為が結果として、日本のマンガのワンシーンに反映される一方で、より自覚的に仏教を前面に押し出す作品群もある。わたしはそれを“仏教マンガ”と呼び、次の図に示すとおり、ストーリー構造の側面から4つに分類している。つまり、仏教マンガとは、この4要素の最低1つを少しでも含む作品となる。

 

【Ⅰ】釈尊・仏教者(祖師方・名僧及び信者、仏師など)の伝記、仏教史、教団史 (手塚治虫『ブッダ』、坂口尚『あっかんべェ一休』、さいとう・たかを『運慶 天空をつらぬく轍』など)

【Ⅱ】仏教説話、仏教思想、仏教教理、仏教哲学、仏教用語、行持、仏事 (蔡志忠『マンガ 禅の思想』、近藤丸『ヤンキーと住職』、今西精二『まんが電爺さん 真宗門徒の生活』など)

【Ⅲ】現代の仏教者(及びその環境)の実情・生活 (きづきあきら・サトウナンキ『まんまんちゃん、あん。』、能條純一〔原作:永福一成〕『月をさすゆび』、岡野玲子『ファンシイダンス』など)

【Ⅳ】仏教関連のキャラや世界観を使用するも仏教に主軸はない (荻野真『孔雀王』、江口夏実『鬼灯の冷徹』、武井宏之『仏ゾーン』、吉岡公威『てんぷる』など)

 

 この分類を見てピンと来た方もおられるだろうが、仏教に主軸を置かない【Ⅳ】は別として、【Ⅰ】、【Ⅱ】、【Ⅲ】は、仏教者が帰依すべき仏法僧の三宝と対応関係にある。ちなみに、「仏」は覚りを開かれた釈尊という存在、「法」は仏の教え、「僧」は仏弟子の集団であるサンガのことであり、仏教者の3つの大切な拠り所という意味で「三宝」と呼ばれている。

 

◆仏教マンガの変遷

 この他にも、直接仏教のモチーフが出てきていないものの、内容に“仏教らしさ”を感じる作品を仏教マンガに含める研究者もいるが、その場合、他宗教/思想との差異を明確に出来ない場合が多く、読み手の推測をベースとせざるを得ないので、絵なり文章なりの客観的な指標によって判断するにとどめたい。また、ここでは伝統仏教教団の範囲内の作品を研究対象としており、通仏教的な内容(例えば、特定の経典の解説)を除き、仏教系新宗教及び新新宗教の作品は除外している。

 

 それを踏まえて、次にこちらのグラフをご覧いただこう。

 

【タイトル数】年代ごとに発行された仏教マンガのタイトル数

【累計冊数】各タイトルの最終的な巻数(全○巻)を第1巻が発行された年代で集計

【仏教系出版社】仏教教団の所有する出版社、仏教や宗教の専門書を主に発行する出版社が仏教マンガを発行した数

【一般出版社】一般書を主に発行する出版社が仏教マンガを発行した数

 

 早速グラフを眺めてみると、80年代に第一次仏教マンガブームが起きているように思える。しかも、仏教系出版社の発行数が他年代よりも多いので、突然、たくさんの仏教系出版社がこぞって仏教マンガを世に送り出したかのように見えるが、これは鈴木出版が出した『仏教コミックス』(原作:ひろさちや、作画:漫画家多数参加)というシリーズ物の影響によるものであり、たった1社による一大プロジェクトにグラフの高低が大きく左右されてしまっている。ゆえに、この時はブームとまでは言えないわけだが、2010年代に仏教系出版社の発行数減少と反比例するように、一般出版社がこれまでになく、より多くの仏教マンガのタイトルを世に送り出した現象は、マンガ市場全体から見れば零細の極みではあるものの、ちょっとした仏教マンガブームが起きていたと言ってよいだろう。

 

 実は、マンガを含め出版業界の市場規模は、1995~96年頃をピークに急激に縮小している。そう考えると、一般出版社発行の仏教マンガが増え続けている現象は、注目に値する。布教重視で採算をあまり問題にしない教団組織の出版社や、ある程度の固定層を持つ仏教書中心の出版社と違い、一般の出版社は細かい認識の違いはあるにせよ、一定の社会的ニーズが存在する“売れる商品”として仏教マンガを見据えているからだ。これは、布教教化ツールとしての子ども向け仏教マンガしか知らない仏教の内側にいる人にとっては、忘れがちなポイントである。

 

 仏教系出版社が、青少年教化を目的に釈尊や祖師方の伝記や教えを描いたマンガを発行してきたのに対し、一般の出版社は全く別の切り口で作品を展開しているところに特徴がある。

 

 それに関しては、次のグラフを見ていただきたい。

 

 これは、「仏教マンガ分類別の割合の推移」である。これまで発行された仏教マンガを「仏教マンガの4分類」に当てはめ、その割合の推移を示したが、1作品の中に複数の分類を含むものは、より強度の高いもので代表した。

 

 80年代を見てみると、先にも述べたとおり、『仏教コミックス』(鈴木出版)のシリーズの影響が極めて強く、仏教系出版社の発行する仏教マンガが、仏教者の伝記の類である【Ⅰ】と、難しい仏の教えを分かりやすく表現しようと試みる【Ⅱ】に偏る傾向にあることを物語っている。

 

 一方、一般の出版社では、【Ⅰ】や【Ⅱ】がないわけではないが、現代の仏教者の実状を描く【Ⅲ】と、キャラとして仏教者や世界観は出てくるものの主題を仏教に置かない【Ⅳ】の作品が多く見られる。近年の代表作で言えば、宗派が異なる僧侶3人が開いた仏教カフェを舞台にした小林ロク『ぶっカフェ ! 』は【Ⅲ】 に、2023年にアニメ化もされたお寺を舞台にしたお色気ラブコメの吉岡公威『てんぷる』や、荻野真の1985年からお亡くなりになる2019年まで続いた『孔雀王』シリーズなどは【Ⅳ】にあたる。

 

 90年代以降、一般出版社の仏教マンガの発行数が増えるにつれ、【Ⅲ】と【Ⅳ】の割合も比例して増えており(20年代は4年しか経過していないので別として…)、10年代に入ると特に【Ⅲ】の割合が大きく伸びているのが分かる。実は、ここに現代の仏教マンガの特徴がある。

 

◆仏教マンガのリアルさ

 10年代を代表する【Ⅲ】の作品と言えば、僧侶の性欲と老病死、寺の家族と檀信徒との関係などをリアルに描ききった朔ユキ蔵『お慕い申し上げます』が真っ先に挙げられるが、他にも若き尼僧が虐待問題を抱える親子と向き合う竹内七生『住職系女子』など、現代の僧侶が悩み続けるところにこのカテゴリーの傾向がある。

 

 ここに挙げた作品の主人公たちは、煩悩を断ちきって心が平安の境地に安住するどころか、悩みの渦に巻き込まれまくる。そう、坊さんのくせに、煩悩だらけなのだ。

 

 しかし、これは当たり前のことでもある。僧侶も人間なのだ。人間であるがゆえに悩み苦しむ。では、僧侶と一般人のどこに違いがあるのかというと、その苦悩との向き合い方であろう。そもそも仏教とは、誰もが体験するような人生の苦(自分の思い通りにならないこと)と真正面から向き合い、なんとかしていくための考え方と方法論について、お釈迦さまが説いたものである。そこで、それらに則って人生を歩む人々のことを“僧侶”と呼ぶわけであるが、仏教マンガの主人公たる僧侶たちが、紆余曲折しながら苦悩と向き合う姿に、読者である我々は共感し、共に考え、共に苦しむのである。

 

◆仏教マンガの現在

 現在の動向で特徴的なのは、①【Ⅳ】に分類される作品の多様化、②僧侶の漫画家の存在、③監修者の僧侶の存在、の3点であろう。

 

 まず①に関して、90年代以降、着実にジャンルとして増加傾向にある【Ⅳ】であるが、以前はバトル物、ギャグ、ラブコメあたりが主流であったものの、2013年刊行開始の本間アキラ『坊主かわいや袈裟までいとし』のボーイズラブ(BL:男性同性愛を題材とした小説や漫画などのジャンル)や、2015年刊行開始の真臣レオン『僧侶と交わる色欲の夜に…』のティーンズラブ(TL:日本における女性向けポルノグラフィのジャンル)などによって、仏教マンガにも新たな流れが生まれてきている。

 

 次に②に関して、近年僧侶自身がマンガを描く例が散見されるようになってきた。いくつか紹介すると、山口淨華『漫画・高木顕明:国家と差別に抗った僧侶』は、真宗大谷派浄泉寺(和歌山県新宮市)の副住職が、大逆事件に連座した高木顕明(浄泉寺第十二代)について描いた作品。2015年に自費出版した『漫画で読む高木顕明』を電子出版専門の仏教系出版社「響流書房」にて焼き直したものである。

 

 他には、同じく響流書房から加藤泰憲作品集として『漫画ブッダから親鸞へ』『闡提―SENDAI』の2冊が発行されており、【Ⅰ】や【Ⅱ】に分類される短編が多い。作者は浄土真宗本願寺派常髙寺(愛媛県今治市)の住職であった人物で2017年に遷化されている。30代の頃には講談社の青年誌『モーニング』にも掲載経験のある漫画家でもあった。

 

 また、仏教系フリーペーパー『フリースタイルな僧侶たち』でマンガコーナーを担当していた真宗大谷派覚法寺(福岡県八女市)の衆徒である光澤裕顕の存在も目を引く。今のところ全編マンガの出版物こそないが、著作ではエッセイのほかにマンガも披露している。

 

 そして、ここ最近わたしがオススメしたいのが、近藤丸『ヤンキーと住職』である。作者は浄土真宗本願寺派真光寺(富山県砺波市)の衆徒で、この作品が処女作となる。もともと2020年にコルク発行のwebマンガとして発表されたが、2023年になってKADOKAWAで書籍化した。内容はというと、やたらと難しい漢字を特攻服に使用したがるヤンキーと若い僧侶との対話という、キャッチーなシチュエーションで、しかもヤンキー側の仏教教理の理解が意外としっかりとしており、教えを説くべき若い僧侶が毎回ハッとさせられる展開が新しい。ただ、「天上天下唯我独尊」の解釈に関しては、現代の仏教学から見ると誤りであるとされるので、その一点だけ残念ではあるが、自分の体験をマンガにした後半を含め、全般的に内容は素晴らしいものがある。僧侶自身がマンガで法を説くということが、これほどまでに説得力を生むものなのかと感動すら覚える。

 

 このように見ていくと、ここに挙げた漫画家は親鸞聖人の系譜の方たちばかりだが、高野山真言宗僧侶の悟東あすか(高野山別格本山西禅院徒弟)も、『あいむ・ヤッチ! 』(『毎日中学生新聞』)や『門前のにゃん』(臨済宗妙心寺派月刊誌『花園』)など、現在に至るまで多くの作品を残していることを忘れてはならない。

 

 最後に、③に関して。仏教マンガを僧侶でない漫画家が書こうとしたとき、事実関係が合っているのかどうか監修者に判断をしてもらうのが手っ取り早い。かつてはその監修を、仏教学者が行うことが多かったのだが、それは、監修を必要とする内容が分類の【Ⅰ】や【Ⅱ】に属する作品であったためで、当然と言えば当然である。しかし近年は、学者ではない僧侶が監修を行う機会が増えてきたように思う。例えば、2018年の高島正嗣『ZEN 釈宗演』では臨済宗円覚寺管長の横田南嶺が、そして2020年刊行開始の藤村真理『めでたく候』では真言宗豊山派正福寺(千葉県松戸市)住職の櫛田良道(大正大学文学部准教授)、同じく大聖護国寺(群馬県高崎市)住職の飯塚秀誉、能蔵院(千葉県木更津市)住職の守祐順が挙げられる。監修だけではなく、企画の段階から加わることもあり、僧侶自身が漫画を描かずとも、仏教マンガを生み出せるという新たな流れも生まれてきているのである。

 

◆仏教マンガの今後

 仏教をもっと身近にと考えて、マンガというメディアを取り入れるのであれば、現在のマンガが置かれている現状を知っておかなければならない。

 

 若い世代を中心に、現在のマンガは、紙媒体の単行本をめくって読むものではなく、スマートフォンの画面を指でスライドさせて読むものへと変化している。その際、既存のページ原稿では、文字も絵も見えづらいということもあって、90年代末頃に韓国で発明されたウェブトゥーンという形式が主流になりつつある。ウェブトゥーンは、「縦スクロール(縦読み)」且つ「オールカラー」のマンガのことで、小さいスマホの画面に1~2コマずつ表示される方式だ。

 

 つまり、これまでとは読書中の視線の動きが異なるということであり、それはマンガを作成する上での文法自体が変化していることを示している。こうした新しいプラットフォームは、スマートフォンが支持され続ける限り発展し続けることは明白である。この技術にマッチする形での仏教マンガの制作も今後は課題となっていくことだろうし、逆に効果的に表現できれば、おもしろい作品が作られる可能性も広がっているのである。

 

※ 本稿のグラフで示した数値は、現時点での私ができる限り調べた結果であり、これらに反映されていない作品もどこかにあることはご承知頂きたい。また、年代別に集計する際、複数巻発行の作品やシリーズ物に関しては、コンセプトを打ち出して動き始めたという意味で第1巻の発行年にまとめている。

※ グラフの元データとなるデータベースに収めた“仏教マンガ”は、全編がマンガで構成されている作品であり、1冊の内に補足のエッセイなどの分量が多い作品は除外した。

(よしむら しょうよう・曹洞宗八屋山普門寺住職、相愛大学非常勤講師)

著書に、『心とくらしが整う禅の教え』(オレンジページ、2021)、『精進料理考』(春秋社、2019)など。

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YouTubeが配信する信仰の現在地

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北海道大学大学院 教授

岡本 亮輔

(OKAMOTO Ryosuke)

 どの宗教でも、一般の人々が宗教者と交わる機会はそれほど多くない。多くの日本人にとって、宗教者は、冠婚葬祭のような非日常に登場する不思議な存在だ。僧侶・神職・牧師・神父と日常的に話せるような関係を築いている人は少数派だろう。進学・就職・恋愛・結婚・子育て・介護などをめぐる悩みや問題が生じた時、まずは寺院や教会を訪れる人はそれほどいないはずである。

 

 そうした中、宗教者との接点を広げるプラットフォームとしてYouTubeは興味深い。仏教では、昨今、宗派や寺院が公式チャンネルを持っていることは珍しくないが、特に興味深いのが宗教者個人によるチャンネルや出演だ。宗派や寺院のような公式の立場だと、どうしても穏当な内容になりがちだが、宗教者個人の場合、もう一歩踏み込んだ内容を発信できるのだろう。

 

 仮に、僧侶による発信を仏教系YouTubeと呼ぶとしよう。言うまでもなく膨大な数がある。法話、教義や歴史の解説、瞑想法の指南などがオーソドックスだ。聞き流すだけで運気が上がるマントラのようなスピードラーニング系もある。また、お経のテクノ風アレンジ、メタル風アレンジも人気が高い。赤坂陽月氏(@yogetsuakasaka)「般若心経ビートボックスRemix」は656万回再生されている(2024年2月8日時点、以下同)。とはいえ、やはり人生相談の需要が高いだろう。日常的にはなかなか接点のない僧侶に直接質問できるのはYouTubeならではだ。

 

 相談系でもっとも回っているチャンネルの一つが、「大愚和尚の一問一答(@osho_taigu)」である。63万人以上の登録者がいる。構成は至ってシンプルで、視聴者から寄せられた悩みに対して、和尚が仏教用語を交えながら返信する。大愚和尚は愛知県にある福厳寺の住職で、一度は生家でもある寺を飛び出してビジネスに身を投じたが、その後改めて仏道に戻ったというユニークな経歴の持ち主だ。和尚の語り口は柔らかく、わかりやすいロジックではっきりと指針を示す。

 

 例えば「自殺は悪いことなのか?」という相談がある。相談者は母親と愛猫を立て続けに失い、自殺すれば、あの世で母や猫に会えるのかと尋ねる。大変に難しい相談だが、宗教者こそが答えるべき問いかもしれない。和尚は「死んだらどうなるのかはわからない」と言い切る。ただ、仏教が「不殺生戒」を第一に掲げるのは、それが極めて「残念」だからであり、自殺は残念としか言いようがないと述べる。

 

 「子育てが思い通りにいかない」という悩みには、「忍辱(にんにく)」を説く。和尚によれば、忍辱は単なる我慢を意味しない。子育てを忍辱の修行と捉え返すことで、自分が成長する機会になる。そしてイラっとしたら合掌する。手を開いてくっつければ拳にならない。実にうまい回答である。

 

 「自分には友達がいない」「コミュニケーション能力がない」という相談には、そもそも僧侶の集まりであるサンガは、世間一般とうまくいかないはみ出し者のコミュニティであったと語る。そして、無理に友達になろうとして、自分の内側に緊張を生まないようにとアドバイスする。この動画は260万回以上再生されている。

 

 こうした仏教系YouTubeの展開は、今後の日本の宗教状況を考える上でも重要だ。筆者は、日本宗教の特徴を「信仰のない宗教」として捉えている。何か否定的に響くかもしれないが、そうではない。仮に、この言葉に否定的なニュアンスを感じ取ったとしたら、それは、宗教を理解する際にあまりに信仰を重視してしまっているということだ。

 

 ここで言う信仰とは、教団が公認する教義の体系に基づく信仰を指す。キリスト教のプロテスタントをイメージしていただくとわかりやすい。何よりも聖書という文章に紐づいた言語化された信念体系を中心とし、儀礼や巡礼のような実践、あるいは単に教会に所属していることには、それほど価値を見いださない。個々人が聖書の教えを内面化することが大切なのだ。

 

 他方、日本の伝統宗教の文脈では、上のような信仰の内面化がないまま、宗教と関わるのが一般的であった。自分の家の宗派についてほとんど知識がなくとも、檀家として特定の寺院に所属し、不幸があれば葬儀を実践することに違和感を抱かない。2018年の真宗教団連合の調査では、門徒と呼ばれる信者のうち、悪人正機という言葉の意味を正しく理解していたのは約19%で、約40%はそもそもこの言葉を知らなかったという。信仰と実践が分離しているのだ。

 

 2000年代以降、パワースポットという和製英語が定着し、事実上の聖地巡礼が活性化しているのも、やはり信仰が重要視されないからだろう。アニミズムという土台があるとはいえ、神社仏閣も巨木も滝も鍾乳洞もパワーがもらえる聖地として一括される。そして、パワーの源泉や詳細については特に語られないのである(詳しくは拙著『宗教と日本人──葬式仏教からスピリチュアル文化まで』[中央公論新社、2021]をご高覧頂きたい)。

 

 俯瞰すると、人生相談系の仏教系YouTubeは、日本の信仰のない宗教状況に対して、信仰が持つ意味を改めて確認する場になっているように思われる。法事の際の法話では届かなかった信仰をめぐる話が、YouTubeでは、それを必要とする相談者に届けられる。信仰の需要と供給が一致しやすいところに、宗教者がYouTubeで発信するメリットがあると言える。

 

 とはいえ、YouTubeには、一般的に問題ありとされる教団による発信も無数にある。そうした動画が数十万回再生されている現実もある。当然ながら玉石混交であり、そうした中で一般の人々の需要をしっかりとつかみ取ることが、伝統宗教を担う宗教者にこれまで以上に求められるように思われる。

(おかもと・りょうすけ 北海道大学大学院教授)

著書に『聖地と祈りの宗教社会学 巡礼ツーリズムが生み出す共同性』(春風社、2012、日本宗教学会賞受賞)、『聖地巡礼 世界遺産からアニメの舞台まで』(中央公論新社、2015)など。新著に『創造論者vs. 無神論者 宗教と科学の百年戦争』(講談社、2023)。

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東日本大震災後の仏像

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和光大学 表現学部 講師

君島 彩子

(KIMISHIMA Ayako)

 「仏像」と聞いて何を思い浮かべるだろうか?  あまり興味のない方は、歴史の授業で出てきたのを、ぼんやりと思い出す程度かもしれない。逆に美術が好きな方は、博物館や美術館に展示された仏像、そして京都や奈良の有名寺院に安置された仏像などをすぐに思い出すだろう。美術ファンの間で仏像の展覧会の人気はとても高い。2000年以降の美術展の入場者数のベスト3を見てみよう。1位が「国宝 阿修羅展」(2009年、東京国立博物館)、2位が「国宝 薬師寺展」(2008年、東京国立博物館)、3位も「国宝 阿修羅展」(2009年、九州国立博物館)、いずれも仏像がメインの展覧会だ。仏像を鑑賞するため、1日平均1万人以上の人々が博物館に足を運んでいる。

 

 仏像の展覧会に「国宝」という言葉がつけられていることからも分かるように、人気を集める仏像の多くは国宝に指定されている。例えば東大寺の毘盧遮那仏(奈良の大仏)、興福寺の阿修羅像、広隆寺の弥勒菩薩像など、著名な仏像の多くが国宝だ。日本において国宝に指定された彫刻の大半が仏像であることからも、仏像が日本美術を代表するものであることが理解できるであろう。葬儀や法事などの「仏事」の次に仏教に触れる機会になっているのは、仏教美術と言えるかもしれない。

 

 明治期、美術や文化財という概念によって仏像がとらえられるようになったことで、仏像は鑑賞の対象となった。だが仏像が鑑賞の対象となっても、仏像における宗教的役割が消えることはなかった。筆者は10年以上にわたり東京国立博物館において接客に携わり、多くの来場者を目にしてきた。「国宝 阿修羅展」や「国宝 薬師寺展」などの混雑する仏像展においても、展示された仏像に手をあわせる来館者が多かったことが印象的だった。仏像に対する祈りが根づいているからこそ、文化財・美術作品として仏像が「展示」されていても手をあわせるのだ。

 

 国宝の仏像のようにテレビや雑誌で紹介されるのは、飛鳥時代から鎌倉時代に造られた仏像であるため、仏像は「古いもの」という印象が強い。だが日本に残されている仏像の半数以上は、江戸時代以降に造立されたものだ。そして、現在も新しい仏像が発願され、制作されている。仏像が発願される理由はさまざまだが、そこには何らかの「祈り」が込められている。

 

 筆者は宗教学の領域で近代以降の仏像を研究しているが、それは仏像を「美術作品」として研究するのではなく、仏像にどのような祈りが込められているのかを考察するためだ。このような研究をしようと思ったきっかけは、2011年3月11日に発生した東日本大震災だった。2013年から地震と津波の被害が大きかった岩手・宮城・福島の東北3県にて調査をおこない、その中で複数の仏像が造られる現場に立ち会った。

 

 何度も東北地方を訪れる中で、筆者自身が提案した「にぎり仏ワークショップ」で被災者の方々と一緒に仏像を造る機会もあった。このワークショップのきっかけは、岩手県大船渡市の仮設住宅にお住まいの目が不自由な高齢の女性から、私は目が見えないけれど、震災関連死を遂げた配偶者のために仏像を造ってあげたいとの申し出があったことだ。筆者は被災地で傾聴ボランティアをおこなっていた僧侶や学生ボランティアと協力しながら、木質粘土を使って仏像を造るワークショップを提案した。仮設住宅でおこなわれたワークショップでは、まず僧侶が女性の配偶者の戒名を紙に墨で書き、その紙を小さく丸めて芯にした。そして学生ボランティアに手を添えてもらいながら、芯の周りに粘土を盛りつけ仏像の形を造った。粘土を使った簡素な造形であったため、はじめて仏像を造る高齢の女性でも制作が可能になった。出来上がった小さく可愛らしい仏像を前に涙を流しながら手をあわせて祈る女性の姿に、改めて仏像は祈りの対象であることを感じた。

 

 粘土とは異なり、木材を彫る仏像彫刻は技術と経験が必要となる。東日本大震災後に筆者が出会った仏像の制作者のうち、木を彫ることに祈りを込められていると強く感じた2名の方を紹介したい。

 

 お一人目は陸前高田市の被災松に観音像を彫った仏像彫刻師の佐々木公一氏だ。佐々木氏は富山県で修行し、生まれ故郷である岩手県気仙郡住田町に木彫工房五葉舎を開いた。その2年後、東日本大震災が発生したのだ。当初は巨大地震の全貌がわからなかったが、消防団員として捜索活動に加わり津波による甚大な被害を目の当たりにしたという。震災からしばらくは物資の輸送などの支援をおこないながら、それまで引き受けていた木彫の仕事を続けていた。

 

  震災から1年が経過し、外部からの支援も増えたことで木彫の仕事に集中することができ、震災で亡くなった方のための仏像を彫るしかないと感じるようになった。特に陸前高田市の市役所に勤める従姉妹が津波によって亡くなったこともあり、陸前高田の松を使用したいと考えていた。被災した高田松原の松を陸前高田の木材商より、知人の紹介で無償で提供してもらうことができた。「奇跡の一本松」として現在はモニュメント化されている松よりも樹齢の長い大きな松の木に、高さ約160センチメートルの慈悲の表情に満ちた白衣観音像を彫り上げた。

 

 陸前高田は復興の途中であり恒久的な建物が少なかったこと、また気仙地域から盛岡に避難している方も多かったことから、観音像は盛岡市の復興支援センターに安置された。震災から10年が経過した2021年、観音像にヒビ割れが出てきたので、工房に持ち帰り修復した。当初、佐々木氏は、陸前高田市の公共施設に設置することを考えていたが、政教分離などの問題もあり、長期間にわたる観音像の設置に不安があるため断念した。そして観音像に地域の観音信仰の中で末永くお参りしていただけるよう、気仙三十三観音霊場の三十三番札所にあたる陸前高田市の浄土寺(浄土宗)に安置することになった。佐々木氏は、これだけ大きな仏像を彫れるほどの松の木が高田松原に何万本もあったのだということ、それらを植え育ててきた先人たちの思い、そしてそれらが一瞬にして失われたという事実を、いつまでも忘れないでいてほしいと願っているという。

 

 お二人目は、震災で亡くなった多くの人々のために巨大な不動明王像を彫り続ける僧侶、小池康裕氏だ。宮城県東松島市の清泰寺(曹洞宗)の住職である小池氏は、東日本大震災が発生した2011年の夏から葬儀などの合間を縫い、ケヤキ材を組み合わせて6メートルを超える巨大な不動明王像を彫り続けている。

 

 小池氏は30年ほど前から独学で仏像を彫っていた。転機となったのは2003年7月に発生した宮城県北部連続地震だ。この地震によって江戸時代から続く清泰寺の本堂や山門は全壊してしまった。この時、倒壊した建物の部材を用いて、檀家のために仏像を彫るようになった。宮城県北部連続地震からの復興が進められていたところに、また東日本大震災が発生した。内陸部にあり津波の被害を免れた清泰寺は檀家や近隣住民の避難場所となった。震災直後から小池氏は、菩提寺を持たない遺族らのため、犠牲者の供養に奔走し、震災で亡くなられた方、200名以上の葬儀で導師を務めた。さらに震災で家族を亡くした檀家のために仏像を彫り贈った。小池氏は、震災や津波、自然の巨大な力に立ち向かうには、お地蔵さんや観音様のような優しさだけではダメだ、不動明王のような力強さが必要であると考えた。一般的な不動明王像は右手に宝剣、左手に羂索(縄)を持つ二臂の姿だが、震災後に彫り始めた不動明王像は通常の二臂に左右一本ずつ腕を加えた四臂とした。加えられた二臂のうち、大地に下ろされた右腕は、地震を抑え犠牲者を津波からすくい上げることを表し、天に向かって伸びる左腕は、亡くなった人を極楽浄土へと導くことを表している。

 

 巨大な不動明王の周りに足場の組まれた作業場には暖房設備はなく、冬はとても寒い。またケヤキ材は固いため、節などに当たると弾き返されることもある。だが80歳を過ぎてなお、読経しながら大きな木槌を振るいノミを入れる小池氏の手は力強い。小池氏は「芸術のための仏像ではない、僧侶にしか彫ることのできない、亡くなった方を思い、人々が静かに手をあわせられる仏像を彫り続けたい」とおっしゃっていた。

 

 最後に東日本大震災による津波などによって亡くなられた方々の十三回忌にあたる2023年に新たに発願された大仏を紹介したい。遺族の心の拠り所となるように発願された「いのり大佛」である。震災の記憶が薄れはじめる十三回忌という節目は、新しい生活に少しずつ慣れる時期であるとともに、亡くなった方々への思いを受けとめてくれる存在が必要とされる時期となる。

 

 東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市の門脇小学校のそば、西光寺(浄土宗)墓地内の慰霊広場「祈りの杜」に、同寺住職である樋口伸生氏を代表として、西光寺遺族会「蓮の会」が中心となり「いのり大佛」を建立する予定だ。遺族会の中には子供を失った母親も多い。遺族の方々は、今まで仏教にあまり関心がなかったが、悲しい気持ち、やりきれない思い、愛しい感情など、全ての想いを預けられる存在、自分自身を救い取ってもらい、そのような想いを受けとめ、支え、助けてくれる存在を考えたとき、実際に目に見えて、手に触れることが出来る大きな仏像が必要であると感じたという。生き残ったからこその苦悩、その辛さの中で生活してきたからこそ、寄り添う存在として大きな仏様が必要とされたのだ。

 

 「いのり大佛」は、台座を含めて高さ約5メートルの石でできた阿弥陀如来坐像となる予定である。大仏の制作は石材加工で有名な愛知県岡崎市の石工らによっておこなわれる。そして造形の監修は仏師の村上清氏がおこなう。2023年には村上氏が実物の阿弥陀如来坐像の6分の1サイズの石膏原型像を完成させ、檀家や支援者に公開された。2026年の完成を目標に寄付を募り、制作が進められている。

 

 大仏から手の中に収まるほどの小さな仏像まで、東日本大震災の被災地で造られた仏像は大きさも素材も尊格もさまざまである。だが、それらすべてに、未曾有の災害によって亡くなった方々のための供養・慰霊という「祈り」が込められているという。筆者は被災地で仏像を造る人々の声を直接聞くことができたおかげで、造形物として祈りを後世に残すという仏像にしかできない信仰があると知ることができた。東北地方の復興は進み、少しずつ記憶は薄れている。だが2024年は元旦に発生した能登半島地震によって改めて地震や津波の脅威を目の当たりにした。長い歴史の中で自然の脅威を前に人々は祈り続け、その祈りを形にしようとしてきたことを、仏像は伝えている。現在は国宝に指定された遥か昔に造られた仏像にも、当時のさまざまな社会状況を反映した祈りが込められているのだ。

(きみしま あやこ・和光大学表現学部講師)

著書に、『観音像とは何か 平和モニュメントの近・現代』(青弓社、2021)、大谷栄一・吉永進一・近藤俊太郎編『増補改訂 近代仏教スタディーズ: 仏教からみたもうひとつの近代』(分担執筆、法藏館、2023)など多数。

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