親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

第246回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑰

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

shinran-bc

 『一念多念文意』のこの了解は、『教行信証』「信巻」において展開されている本願成就文の了解でもある。それは、我らに発起する信心は、本願成就の信心であり、如来回向の信心であるということである。


 本願成就の文の中ほどに「至心回向」という語があるのだが、その「至心」も「回向」も、「信巻」の三一問答(『真宗聖典』223頁~236頁参照)において、衆生の側に属する事柄ではなく、大悲の如来の側に属する事柄であることが明らかにされている。そのことを明白にするために、本願成就の文の「至心回向」以下の文を「欲生心成就の文」と、親鸞は名付けてもいるのである。この「欲生心」は如来の大悲が発起して、衆生に「勅命」として命じている心だというわけである。


 その理解をもって、『一念多念文意』の文の「至心回向」以下の段を読んでみよう。


「至心回向」というは、「至心」は、真実ということばなり。真実は阿弥陀如来の御こころなり。「回向」は、本願の名号をもって十方の衆生にあたえたまう御のりなり。

(『真宗聖典』535頁)


 このように、本願を成就するとは、如来が不実なる凡夫をみそなわして、しかもその不実を超えて真実を恵まんとする「こころ」が現実化することだとされている。我らが不実の凡夫であるというのは、無明煩悩を取り払うことなどできず、自我に愛着して自己主張や自己の権利要求にのみ生涯を費やしてしまうことをあらわしている。愚痴も多く欲望が深い存在であることを徹底的に知らされながら、しかもそういう無明煩悩が満ち満ちている衆生にどこまでも寄り添って、しかもそういう執着の深い存在を横さまに超えて(衆生の側の努力や意志ではなく)真実を恵むのだ、というところに大悲願心の超越性を信ずるという教えの構造がある。


 これを善導は『観無量寿経』の三心の「深心」を解釈する中で、信に「二種あり」(「信巻」「散善義」引文、『真宗聖典』215頁参照)といって、矛盾するような構造を持つ二種の信が並立していることこそが、「深心」の語で押さえられる信心であることを示される。


 これによって親鸞は、煩悩具足の身の事実は変えることなどできないが、しかし、悲願成就の証しにおいて、現生の正定聚が我らの信心に与えられる利益であるとされる。それが、「即得往生」の語で教えられている報土得生という意味でもあるとさえ述べておられるのである。


 摂取の心光を煩悩の身に感受するとき、闇を生きている一面を忘れることなく、しかも摂取の光の暖かさに触れるのだとされるのである。深信の二面を同時に信知することが、如来回向の他力の信であるということ、そして大悲が名号として衆生に呼びかけているところに、この二種の信を同時に成就する作用が我らに恵まれるということなのである。


(2023年12月1日)

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第245回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑯

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

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 先回確認した『一念多念文意』」』のこの了解は、『教行信証』「信巻」において展開されている本願成就文の了解でもある。それは、我らに発起する信心は、本願成就の信心であり、如来回向の信心であるということである。

 

 本願成就の文の中程に「至心回向」(「『無量寿経』、『教行信証』「信巻」引文、『真宗聖典』233頁)という語があるのだが、その「至心」も「回向」も、「信巻」の三一問答において、衆生の側に属する事柄ではなく、大悲の如来の側に属する事柄であることが明らかにされている。そのことを明白にするために、本願成就の文の「至心回向」以下の文を「本願の欲生心成就の文」(『教行信証』「信巻」、『真宗聖典』233頁)と、親鸞は名付けてもいるのである。この「欲生心」は如来の大悲が発起して、衆生に「勅命」として呼びかける心心だというわけである。

 

 その理解をもって、『一念多念文意』の文の「至心回向」以下の段を読んでみよう。

 

「至心回向」というは、「至心」は、真実ということばなり。真実は阿弥陀如来の御こころなり。「回向」は、本願の名号をもって十方の衆生にあたえたまう御のりなり。

(『一念多念文意』、『真宗聖典』535頁)

 

 このように、本願を成就するとは、如来が不実なる凡夫をみそなわして、しかもその不実を超えて真実を恵まんとするこころが現実化する、ということだとされるのである。我らが不実の凡夫であるとは、無明煩悩を取り払うことなどできず、自我に愛着して自己主張や自己の権利要求にのみ生涯を費やしてしまう存在であるということである。愚痴に覆われ欲望が深い存在であることを、徹底的に知らされながら、しかもそういう無明煩悩が満ち満ちている衆生に、如来の大悲がどこまでも寄り添って、そういう執着の深い存在を横ざまに超えて(衆生の側の努力や意志によることなく)真実を恵むのだ、と知らされるところに、大悲願心の超越性を信ずるという教えの構造がある。


 これを善導は『観無量寿経』の三心の深心釈において、信心に「二種あり」(『観無量寿経疏』「散善義」、『教行信証』「信巻」引文、『真宗聖典』215頁)と言って、矛盾するような構造を持つ二種の信が並立していることこそが、「深心」の語で押さえられる信心であることを示されるのである。


 これによって親鸞は、煩悩具足の身の事実は変えることなどできないが、しかし、悲願成就の証しにおいて、現生の正定聚が我らの信心に与えられる利益だとされるのである。それが、「即得往生(すなわち往生を得〔え〕)」(『教行信証』「信巻」、『真宗聖典』233頁)の語で教えられている報土得生という意味でもあるとさえ述べておられるのである。


 摂取の心光を煩悩の身に感受するとき、闇を生きている一面を忘れることなく、しかも摂取の光の暖かさに触れるのだとされるのである。深信の二面を同時に信知することが、如来回向の他力の信であるということであり、つまり大悲が名号として衆生に呼びかけているところにこの二種の信を同時に成就する作用が我らに恵まれるということなのである。


(2023年11月1日)

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今との出会い第242回「ネットオークションで出会う、アジアの古切手」

今との出会い第242回

「ネットオークションで出会う、アジアの古切手」

「ネットオークションで出会う、

アジアの古切手」

親鸞仏教センター嘱託研究員

伊藤 真

(ITO Makoto)

 最近、ネットオークションで古い切手を競り落とすことにはまっている。私はデンマークの思想家キルケゴール(1813–55年)に関する本を読むのが好きで(研究ではなく単なる趣味だ)、関連情報をインターネットで検索することもあるせいか、ある日、パソコンの画面上に、デンマークの雑多な切手を袋詰めした商品の広告が表示された(検索履歴などに基づく「プッシュ型」の広告だ)。普段ならば無視してしまうが、少年時代に切手収集を趣味にしていた私は、何とはなしに広告をクリックしてみた。

キルケゴールの記念切手:[左]没後100年(1955年)、[右]生誕200年(2013年)

 切手収集の初心者がコレクションを始めるのに最初に買うような、文字通り二束三文と思われる古い記念切手や普通切手20〜30枚が袋詰めにされている。ところが広告の画像を拡大して切手を順に見ていくと、なんとそこにキルケゴールの肖像切手が1枚入っているではないか。調べてみると没後100年を記念した1955年の切手だが、普通切手と同じ小さなサイズで、地味なエンジ色の背景に晩年の冴えない肖像が使われている。だがそのみすぼらしい感じのするキルケゴールの切手との出会いに私は心を捉われ、初めてネットオークションに入札。雑多な袋詰め切手を買う人はいないとみえて、無事に落札した(実はその後、苦悶した才気煥発(さいきかんぱつ)な青年思想家時代の肖像を使った、2013年のキルケゴール生誕200周年の記念切手も入手した)。

 それからというもの、長らく休眠していた切手収集という趣味の虫が半世紀ぶりに蠢(うごめ)きだした。だがネットオークションというのはどことなく危うい気もする。リアルな切手店とは異なり、売り手と買い手はネット上のオークション・サイトを通じてのみつながっていて顔も見えないし、オークションという性質上、競争心と購買意欲が——つまり我執や所有欲という煩悩が——煽られる。このため自分で入札は一件いくらまで、ひと月合計いくらまでと上限を設定して自制しつつ楽しんでいる。

仏印(上・中段)と英領ビルマ(下段)の切手。上段はフランス風な意匠の切手(1899–1906年)と、[左]カンボジア女性と[右]ベトナム(安南)女性(1907年)。中段はジャンク船とアンコールワット(1931–41年)。下段はエキゾチックな英国王ジョージ6世の肖像切手(1938年以降)

 さて、最近集めるようになったのは、東アジアや東南アジアのかつて欧米列強や日本の植民地支配を受けた地域の戦前・戦中の切手だ。郵便切手は1840年にビクトリア女王の肖像をデザインして英国で発行されたペニー・ブラックに始まり、まずは欧米から普及したが、アジアでも比較的早くから植民地政府により発行された。英領マレー(現在のマレーシアとシンガポールなど)、オランダ領東インド(蘭印、ほぼ現在のインドネシア)、スペイン領フィリピンなどでは1850–60年代にすでに本国の君主の肖像などをデザインしたものが発行され、フランス領インドシナ(仏印、現ベトナム、ラオス、カンボジア)などでも19世紀のうちに切手が登場している(日本は1871年)。19世紀や20世紀初頭の切手は実にクラシックな意匠や色調が美しく、惚れ惚れとして眺めているだけであっという間に時が過ぎてしまう(私は特に仏印や英領マレー、英領ビルマ[現ミャンマー(ビルマ)]などのエキゾチックな意匠のものが好きだ)。しかし同時に、植民地支配を受けたアジア諸国の歴史に思いを馳せる時、その美しさには悲しみが混じる。切手収集では一般的に未使用(ミントと言う)のものが価値が高いが、私は消印の押された使用済みのものをなるべく集めるようにしている。それは、実際に往時の人々が使った切手であり、人々の生活や時代の一端に触れることができる気がするからだ。だが戦前・戦中のアジア諸国の使用済み切手は、使った人が現地の人か支配者側かを問わず、列強の植民地支配下で営まれた生活の証であるだけに、いっそう複雑な思いを掻き立てるのだ。

 アジア諸国の古切手の中でも、特に人々の運命の変転を感じるのは、「加刷(かさつ)」ものの切手に出会った時だ。「加刷」とは、急激なインフレ時や、特定の単価の切手が不足した時に、額面変更のために既存のデザインの切手に新たな単価などを上から重ねて印刷することだ。だがアジアの植民地時代の切手の場合、新たな支配者が自前の切手を発行できるようになるまでに、既存の切手にバッテン、消し線、その他の印や新たな国名や切手発行の意味合いなどを加刷し、暫定的に流通させたものがある。

フィリピン(上・中段)と英領マレー(下段)の切手。上段は[左]スペイン統治時代(国王アルフォンソ12世肖像、1880年代)、[中]米国統治時代の自治政府(コモンウェルス)による加刷切手(1936年)、[右]日本が勝利の文言を加刷した切手(1942年)、中段は日本統治時代、下段は英領マレー占領後の日本による加刷切手

蘭印の切手。[左上]ウィルヘルミナ女王の肖像切手の日本による加刷例(1942年)、[右]日本統治時代(1942–45年)、[左下]日本統治時代の切手を使ったインドネシア共和国による加刷切手

 例えば1942年に日本が占領した米領フィリピンでは、米国当局発行の切手に「祝バターン、コレヒドール陥落、1942」という何とも散文的な英文文字が加刷された(翌年には勇ましげな意匠に「フィリッピン郵便」「バターン、コレヒドール陥落一周年記念」という文言がヘンテコなカタカナの活字で記された切手が新たに発行され、以降「比島郵便」と刷られた各種切手が発行されていく)。英領マレーのイスラム文化の薫るモスクの切手や、支配者である英国王ジョージ6世の肖像に椰子の木をあしらった南国風な切手は、日本がマレー半島を占領した直後、国王の顔やモスクの上に「大日本郵便」という文字が「加刷」されて使用された。蘭印の切手でも、オランダのウィルヘルミナ女王の顔の上に刷られた日本の郵便マークや「大日本帝国郵便」の文字、日本語による地名表記などがまるで焼印のようだ。しかし、世の無常と言うべきか、(欧米列強も日本も)驕れる者は久しからずと言うべきか、蘭印では1945年、戦時中に日本当局が発行した切手の日本語部分を消し線で潰し、独立を宣言したインドネシア共和国がRepoeblik Indonesiaという赤い文字を加刷した切手が現れた。加刷切手は私たちに過去を見つめることを迫るのである。

上段は満州国の切手(1932–34年)で、左端が「通郵」切手。下段は満州帝国の切手(1934–45年)

 一方、アジアの切手といえば、漫画『満州アヘンスクワッド』や昨年の直木賞・山田風太郎賞ダブル受賞作の小説『地図と拳』などで話題の「満州国」(正しくは「満洲国」)も興味深い。1932年、執政の地位に就いた愛新覚羅溥儀の肖像をあしらって「満洲国郵政」と刻した切手が発行された。その溥儀は、かつての清朝皇帝という仰々しいイメージではなく、洋装で現代風ではあるが、なぜかどこか心ここにあらずといった弱々しい風貌である。1934年に溥儀が満州国皇帝に即位すると、同じ意匠の切手に新たに「満洲国郵政」と記されるが、溥儀の肖像はそのままである。満州国の切手には別に「通郵」切手というものがある。国章の花がデザインされているが、満州国の「ま」の字も刷られていない。これは実は、満州国を承認しなかった中華民国宛の郵便専用に発行された切手だ。実務上、両国間の郵便を維持するための、苦肉の策だったのだろう。「五族協和」の「王道楽土」建設を標榜した満州国の通郵切手を見る時、私たちは何をどう思う(べき)だろうか。

 アジアの珍しく、多くは美しい古切手との出会いには、歴史に触れる楽しみがあるが、それだけでなく、今を考えさせられることもある。例えば先述した蘭印のウィルヘルミナ女王の肖像切手。オランダ王国女王として1890–1948年と半世紀以上も王座にあったウィルヘルミナは(植民地主義国の君主ということの当否はともかくとして)、実はユリアナ、ベアトリクスと、2013年まで3代・125年近く続いたオランダの女王の時代の幕開けを飾った女性なのだ。この女王の肖像の頰に郵便マークを加刷した当時の大日本帝国は、言うまでもなく男性である裕仁(昭和)天皇の御世である。それから80年になろうとする今日の日本は、世界の男女平等度ランキングでひどく低迷したままで(国の順位の問題というより、実際は私たちが属する各種集団・組織のあり方や価値観が問われるのだが)、女性天皇をめぐる議論もいつの間にやら立ち消えになってしまったようである。アジアの美しくも悲しい古切手は、「今はどうなのか?」と、時には私たちに疑問も投げかけてくるのである。

(2023年10月1日)

 最近、ネットオークションで古い切手を競り落とすことにはまっている。私はデンマークの思想家キルケゴール(1813–55年)に関する本を読むのが好きで(研究ではなく単なる趣味だ)、関連情報をインターネットで検索することもあるせいか、ある日、パソコンの画面上に、デンマークの雑多な切手を袋詰めした商品の広告が表示された(検索履歴などに基づく「プッシュ型」の広告だ)。普段ならば無視してしまうが、少年時代に切手収集を趣味にしていた私は、何とはなしに広告をクリックしてみた。

 切手収集の初心者がコレクションを始めるのに最初に買うような、文字通り二束三文と思われる古い記念切手や普通切手20〜30枚が袋詰めにされている。ところが広告の画像を拡大して切手を順に見ていくと、なんとそこにキルケゴールの肖像切手が1枚入っているではないか。調べてみると没後100年を記念した1955年の切手だが、普通切手と同じ小さなサイズで、地味なエンジ色の背景に晩年の冴えない肖像が使われている。だがそのみすぼらしい感じのするキルケゴールの切手との出会いに私は心を捉われ、初めてネットオークションに入札。雑多な袋詰め切手を買う人はいないとみえて、無事に落札した(実はその後、苦悶した才気煥発(さいきかんぱつ)な青年思想家時代の肖像を使った、2013年のキルケゴール生誕200周年の記念切手も入手した)。

キルケゴールの記念切手:[左]没後100年(1955年)、[右]生誕200年(2013年)

 それからというもの、長らく休眠していた切手収集という趣味の虫が半世紀ぶりに蠢(うごめ)きだした。だがネットオークションというのはどことなく危うい気もする。リアルな切手店とは異なり、売り手と買い手はネット上のオークション・サイトを通じてのみつながっていて顔も見えないし、オークションという性質上、競争心と購買意欲が——つまり我執や所有欲という煩悩が——煽られる。このため自分で入札は一件いくらまで、ひと月合計いくらまでと上限を設定して自制しつつ楽しんでいる。

 さて、最近集めるようになったのは、東アジアや東南アジアのかつて欧米列強や日本の植民地支配を受けた地域の戦前・戦中の切手だ。郵便切手は1840年にビクトリア女王の肖像をデザインして英国で発行されたペニー・ブラックに始まり、まずは欧米から普及したが、アジアでも比較的早くから植民地政府により発行された。英領マレー(現在のマレーシアとシンガポールなど)、オランダ領東インド(蘭印、ほぼ現在のインドネシア)、スペイン領フィリピンなどでは1850–60年代にすでに本国の君主の肖像などをデザインしたものが発行され、フランス領インドシナ(仏印、現ベトナム、ラオス、カンボジア)などでも19世紀のうちに切手が登場している(日本は1871年)。19世紀や20世紀初頭の切手は実にクラシックな意匠や色調が美しく、惚れ惚れとして眺めているだけであっという間に時が過ぎてしまう(私は特に仏印や英領マレー、英領ビルマ[現ミャンマー(ビルマ)]などのエキゾチックな意匠のものが好きだ)。しかし同時に、植民地支配を受けたアジア諸国の歴史に思いを馳せる時、その美しさには悲しみが混じる。切手収集では一般的に未使用(ミントと言う)のものが価値が高いが、私は消印の押された使用済みのものをなるべく集めるようにしている。それは、実際に往時の人々が使った切手であり、人々の生活や時代の一端に触れることができる気がするからだ。だが戦前・戦中のアジア諸国の使用済み切手は、使った人が現地の人か支配者側かを問わず、列強の植民地支配下で営まれた生活の証であるだけに、いっそう複雑な思いを掻き立てるのだ。

仏印(上・中段)と英領ビルマ(下段)の切手。上段はフランス風な意匠の切手(1899–1906年)と、[左]カンボジア女性と[右]ベトナム(安南)女性(1907年)。中段はジャンク船とアンコールワット(1931–41年)。下段はエキゾチックな英国王ジョージ6世の肖像切手(1938年以降)

 アジア諸国の古切手の中でも、特に人々の運命の変転を感じるのは、「加刷(かさつ)」ものの切手に出会った時だ。「加刷」とは、急激なインフレ時や、特定の単価の切手が不足した時に、額面変更のために既存のデザインの切手に新たな単価などを上から重ねて印刷することだ。だがアジアの植民地時代の切手の場合、新たな支配者が自前の切手を発行できるようになるまでに、既存の切手にバッテン、消し線、その他の印や新たな国名や切手発行の意味合いなどを加刷し、暫定的に流通させたものがある。

フィリピン(上・中段)と英領マレー(下段)の切手。上段は[左]スペイン統治時代(国王アルフォンソ12世肖像、1880年代)、[中]米国統治時代の自治政府(コモンウェルス)による加刷切手(1936年)、[右]日本が勝利の文言を加刷した切手(1942年)、中段は日本統治時代、下段は英領マレー占領後の日本による加刷切手


 例えば1942年に日本が占領した米領フィリピンでは、米国当局発行の切手に「祝バターン、コレヒドール陥落、1942」という何とも散文的な英文文字が加刷された(翌年には勇ましげな意匠に「フィリッピン郵便」「バターン、コレヒドール陥落一周年記念」という文言がヘンテコなカタカナの活字で記された切手が新たに発行され、以降「比島郵便」と刷られた各種切手が発行されていく)。英領マレーのイスラム文化の薫るモスクの切手や、支配者である英国王ジョージ6世の肖像に椰子の木をあしらった南国風な切手は、日本がマレー半島を占領した直後、国王の顔やモスクの上に「大日本郵便」という文字が「加刷」されて使用された。蘭印の切手でも、オランダのウィルヘルミナ女王の顔の上に刷られた日本の郵便マークや「大日本帝国郵便」の文字、日本語による地名表記などがまるで焼印のようだ。しかし、世の無常と言うべきか、(欧米列強も日本も)驕れる者は久しからずと言うべきか、蘭印では1945年、戦時中に日本当局が発行した切手の日本語部分を消し線で潰し、独立を宣言したインドネシア共和国がRepoeblik Indonesiaという赤い文字を加刷した切手が現れた。加刷切手は私たちに過去を見つめることを迫るのである。

蘭印の切手。[左上]ウィルヘルミナ女王の肖像切手の日本による加刷例(1942年)、[右]日本統治時代(1942–45年)、[左下]日本統治時代の切手を使ったインドネシア共和国による加刷切手

 一方、アジアの切手といえば、漫画『満州アヘンスクワッド』や昨年の直木賞・山田風太郎賞ダブル受賞作の小説『地図と拳』などで話題の「満州国」(正しくは「満洲国」)も興味深い。1932年、執政の地位に就いた愛新覚羅溥儀の肖像をあしらって「満洲国郵政」と刻した切手が発行された。その溥儀は、かつての清朝皇帝という仰々しいイメージではなく、洋装で現代風ではあるが、なぜかどこか心ここにあらずといった弱々しい風貌である。1934年に溥儀が満州国皇帝に即位すると、同じ意匠の切手に新たに「満洲国郵政」と記されるが、溥儀の肖像はそのままである。満州国の切手には別に「通郵」切手というものがある。国章の花がデザインされているが、満州国の「ま」の字も刷られていない。これは実は、満州国を承認しなかった中華民国宛の郵便専用に発行された切手だ。実務上、両国間の郵便を維持するための、苦肉の策だったのだろう。「五族協和」の「王道楽土」建設を標榜した満州国の通郵切手を見る時、私たちは何をどう思う(べき)だろうか。

上段は満州国の切手(1932–34年)で、左端が「通郵」切手。下段は満州帝国の切手(1934–45年)

 アジアの珍しく、多くは美しい古切手との出会いには、歴史に触れる楽しみがあるが、それだけでなく、今を考えさせられることもある。例えば先述した蘭印のウィルヘルミナ女王の肖像切手。オランダ王国女王として1890–1948年と半世紀以上も王座にあったウィルヘルミナは(植民地主義国の君主ということの当否はともかくとして)、実はユリアナ、ベアトリクスと、2013年まで3代・125年近く続いたオランダの女王の時代の幕開けを飾った女性なのだ。この女王の肖像の頰に郵便マークを加刷した当時の大日本帝国は、言うまでもなく男性である裕仁(昭和)天皇の御世である。それから80年になろうとする今日の日本は、世界の男女平等度ランキングでひどく低迷したままで(国の順位の問題というより、実際は私たちが属する各種集団・組織のあり方や価値観が問われるのだが)、女性天皇をめぐる議論もいつの間にやら立ち消えになってしまったようである。アジアの美しくも悲しい古切手は、「今はどうなのか?」と、時には私たちに疑問も投げかけてくるのである。

(2023年10月1日)

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第244回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑮

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

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 本願の信心においては、現生の正定聚、すなわち必定して仏果に至りうるという不退転の信念を、現生の有限なる生存状態において実現できる、と親鸞は述べている。この正定聚の課題についてであるが、釈尊在世の頃には、仏弟子に「必ず成仏するであろう」と予言することが、仏陀釈尊によって為されていたとされている。しかしその後、時を経て、仏陀無き時代になって、成仏の必然性を確信することが仏道の過程において、どのようにして確保されるかということが問題になっていったのである。

 

 法蔵願心は、この問題を衆生の根本問題であるとして、十方衆生を必ず成仏させようと誓うのである。そのことを示しているのが第十一願である。そして、『無量寿経』下巻の始めに第十一願の成就が説き出されてくるのである。その第十一願成就文には、

 

それ衆生ありてかの国に生ずれば、みなことごとく正定の聚に住す。所以は何ん。かの仏国の中には、もろもろの邪聚および不定聚なければなり。

(『真宗聖典』44頁)

 

とある。「かの国に生ずれば」とあるので、この文は明らかに此土ではなく彼土のことを述べたものとして読むべきなのであろう。法蔵願心が、自己の国土の持つ大テーマとして、一切衆生の成仏の必然性を誓っているのであるから。

 

 ところが、親鸞は晩年の『一念多念文意』において、

 

釈迦如来、五濁のわれらがためにときたまえる文のこころは、「それ衆生あって、かのくににうまれんとするものは、みなことごとく正定の聚に住す。

(『真宗聖典』536頁)

 

と、原文の「生者」を「生ずれば」ではなく、「うまれんとするものは」と訓んで、本願の果である報土に生まれようとする因位、すなわち願生の位の利益として考察しておられるのである。

 

 そこでは第十一願の因果を語り出すに先立って、第十八願の成就文を解釈されている。そこに「至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」(『真宗聖典』44頁)という文を、独自の読経眼で読み解いている。詳細は『一念多念文意』に譲るが、そこでは「願生彼国 即得往生 住不退転」について、

 

「即得往生」というは、「即」は、すなわちという、ときをへず、日をもへだてぬなり。また即は、つくという。そのくらいにさだまりつくということばなり。「得」は、うべきことをえたりという。真実信心をうれば、すなわち、無碍光仏の御こころのうちに摂取して、すてたまわざるなり。「摂」は、おさめたまう、「取」は、むかえとると、もうすなり。おさめとりたまうとき、すなわち、とき・日をもへだてず、正定聚のくらいにつきさだまるを、往生をうとはのたまえるなり。

(『真宗聖典』535頁)

 

と述べて、願生と得生を「即」の言で結んであるところに、本願の信心に「住不退転」の利益が存することを明白に説き出されている。

 

(2023年10月1日)

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本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

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 法蔵菩薩の誓願が一如宝海から発起するということを、『大無量寿経』では「超発」(『真宗聖典』14頁)と表現している。それは、煩悩具足の凡夫に普遍的に与えられている仏性の成就、すなわち『大般涅槃経』が言うところの「一切衆生悉有仏性」(『教行信証』「信巻」、「師子吼菩薩品」引文、『真宗聖典』229頁)の成就たる成仏には、凡夫自身にはその可能性が全くないにもかかわらず、それを必ず成就させようとする大悲の必然があるのだということである。先回触れたように、ここで「超発」とされてくることを、親鸞は一如宝海より形を現し御名を示してくることとして了解した。それは曇鸞が、「法性法身に由って方便法身を生ず。方便法身に由って法性法身を出だす」(『教行信証』「証巻」、『浄土論註』引文、『真宗聖典』290頁)と注釈しているからであると拝察する。

 

 法蔵願心が、誓願を超発するということは、文字や分別に執着してやまない凡夫に、その執着を突破した存在の本来性たる法性に帰らしめんがための方便を与えようということである。寂静なる法性と虚妄分別してやまない凡夫の執着との間を直接つなぐ橋は架けられない。虚妄というあり方で分別する以外には、我ら凡夫の存在了解は成り立ち得ないのである。

 

 そのことを明瞭に知りながら、それを超えて彼方から橋を架けるがごとくに、法蔵願心は本願を超発するという。そのことを菩薩として受け止めるとはどういうことなのか。龍樹が『十住毘婆沙論』で、軟心の菩薩のために難易二道を示して、大乗の菩薩に課せられた、不退転地に至るという課題に応えようとするところには、このような不可能を可能にするべく大悲の願心が超発しているということが見通されていなければならないのであろう。

 

 菩薩十地の初地は、「歓喜地」(『教行信証』「行巻」、『十住毘婆沙論』引文、『真宗聖典』162頁)と名付けられている。その歓喜の意味とは、仏道に入門し仏法を聞思してきた菩薩が、仏道の究極にある「大菩提」を、自分において「必ず成就することができる」と確信し得た喜びであるとされている。菩薩道の成就を確信する歓喜なのである。そこに「初」と言われているのは、仏道成就の確信が、「初めて」成り立ったことを表し、また『華厳経』(六十華厳)に「初発心時便成正覚」(「梵行品」、『大正新脩大蔵経』第9449頁下段)と説かれているように、初めて発心したとき、正覚を必ず成就できることとして見通されていることを示している。その可能性として表明された信念を、確実なものとする道を龍樹は求めた。「十地品」(『華厳経』)の釈論である『十住毘婆沙論』では、難易二道とされて、あたかも相対的な選びが可能であるかのごとく表現されているが、親鸞にあっては、難行は陸上の隘路のごとく、易行は水上の乗船の大道のごとくに了解されているのである。

 

 こういう展開を下敷きにして本願の意図をいただいてみるなら、曇鸞が第十一願に着目したことも、もっともだと思う。さらには、親鸞がこの願によって正定聚・不退転を真実信心の利益として、現生に「正定聚に入る」(『教行信証』「信巻」、『真宗聖典』241頁)と確信されたことも了解できるのである。

 

(2023年9月1日)

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今との出会い第241回「「菩薩皇帝」と「宇宙大将軍」」

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親鸞仏教センター嘱託研究員

青柳 英司

(AOYAGI Eishi)

本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼 (本師、曇鸞は、梁の天子 常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる)

(「正信偈」『聖典』206頁)


 「正信偈」の曇鸞章に登場する「梁天子」は、中国の南朝梁の初代皇帝、武帝・蕭衍(しょうえん、在位502~549)のことを指している。武帝は、その半世紀近くにも及ぶ治世の中で律令や礼制を整備し、学問を奨励し、何より仏教を篤く敬った。臣下は彼のことを「皇帝菩薩」と褒めそやしている。南朝文化の最盛期は間違いなく、この武帝の時代であった。


 その治世の末期に登場したのが、侯景(こうけい、503~552)という人物である。武帝は彼を助けるのだが、すぐ彼に背かれ、最後は彼に餓死させられる。梁が滅亡するのは、武帝の死から、わずか8年後のことだった。

 では、どうして侯景は、梁と武帝を破局に導くことになったのだろうか。このあたりの顛末を、少しく紹介してみたい。


 梁の武帝が生きた時代は、「南北朝時代」と呼ばれている。中華の地が、華北を支配する王朝(北朝)と華南を支配する王朝(南朝)によって、二分された時代である。当時、華北の人口は華南よりも多く、梁は成立当初、華北の王朝である北魏に対して、軍事的に劣勢であった。しかし、六鎮(りくちん)の乱を端緒に、北魏が東魏と西魏に分裂すると、パワー・バランスは徐々に変化し、梁が北朝に対して優位に立つようになっていった。


 そして、問題の人物である侯景は、この六鎮の乱で頭角を現した人物である。彼は、東魏の事実上の指導者である高歓(こうかん、496〜547)に重用され、黄河の南岸に大きな勢力を築いた。しかし、高歓の死後、その子・高澄(こうちょう、521〜549)が権臣の排除に動くと、侯景は身の危険を感じて反乱を起こし、西魏や梁の支援を求めた。


 これを好機と見たのが、梁の武帝である。彼は、侯景を河南王に封じると、甥の蕭淵明(しょうえんめい、?〜556)に十万の大軍を与えて華北に派遣した。ただ、結論から言うと、この選択は完全な失敗だった。梁軍は東魏軍に大敗。蕭淵明も捕虜となってしまう。侯景も東魏軍に敗れ、梁への亡命を余儀なくされた。


 さて、侯景に勝利した高澄だったが、東魏には梁との戦争を続ける余力は無かった。そこで高澄は、蕭淵明の返還を条件に梁との講和を提案。武帝は、これを受け入れることになる。

 すると、微妙な立場になったのが侯景だった。彼は、蕭淵明と引き換えに東魏へ送還されることを恐れ、武帝に反感を持つ皇族や豪族を味方に付けて、挙兵に踏み切ったのである。


 彼の軍は瞬く間に数万に膨れ上がり、凄惨な戦いの末に、梁の都・建康(現在の南京)を攻略。武帝を幽閉して、ろくに食事も与えず、ついに死に致らしめた。


 その後、侯景は武帝の子を皇帝(簡文帝、在位549〜551)に擁立し、自身は「宇宙大将軍」を称する。この時代の「宇宙」は、時間と空間の全てを意味する言葉である。前例の無い、極めて尊大な将軍号であった。


 しかし、実際に侯景が掌握していたのは、建康周辺のごく限られた地域に過ぎなかった。その他の地域では梁の勢力が健在であり、侯景はそれらを制することが出来ないばかりか、敗退を重ねてゆく結果となる。そして552年、侯景は建康を失って逃走する最中、部下の裏切りに遭って殺される。梁を混乱の底に突き落とした梟雄(きょうゆう)は、こうして滅んだのであった。


 侯景に対する後世の評価は、概して非常に悪い。


 ただ、彼の行動を見ていると、最初は「保身」が目的だったことに気付く。東魏の高澄は、侯景の忠誠を疑い、彼を排除しようとしたが、それに対する侯景の動きからは、彼が反乱の準備を進めていたようには見えない。侯景自身は高澄に仕え続けるつもりでいたのだが、高澄の側は侯景の握る軍事力を恐れ、一方的に彼を粛清しようとしたのだろう。そこで侯景は止む無く、挙兵に踏み切ったものと思われる。


 また、梁の武帝に対する反乱も、侯景が最初から考えていたものではないだろう。侯景は華北の出身であり、南朝には何の地盤も持たない。そんな彼が、最初から王朝の乗っ取りを企んで、梁に亡命してきたとは思われない。先に述べたように、梁の武帝が彼を高澄に引き渡すことを恐れて、一か八かの反乱に踏み切ったのだろう。


 この反乱は予想以上の成功を収め、侯景は「宇宙大将軍」を号するまでに増長する。彼は望んでもいなかった権力を手にしたのであり、それに舞い上がってしまったのだろうか。


 では、どうして侯景の挙兵は、こうも呆気なく成功してしまったのだろうか。


 梁の武帝は、仏教を重んじた皇帝として名高い。彼は高名な僧侶を招いて仏典を学び、自ら菩薩戒を受け、それに従った生活を送っている。彼の仏教信仰が、単なるファッションでなかったことは事実である。


 武帝は、菩薩として自己を規定し、慈悲を重視して、国政にも関わっていった皇帝だった。彼は殺生を嫌って恩赦を連発し、皇族が罪を犯しても寛大な処置に留めている。


 ただ、彼は、慈悲を極めるができなかった。それが、彼の悲劇であったと思う。恩赦の連発は国の風紀を乱す結果となり、問題のある皇族を処分しなかったことも、他の皇族や民衆の反発を買うことになった。


 その結果、侯景の反乱に与(くみ)する皇族も現われ、最後は梁と武帝に破滅を齎(もたら)すこととなる。


 悪を望んでいたのではないにも関わらず、結果として梁に反旗を翻した侯景と、菩薩としてあろうとしたにも関わらず、結果として梁を衰退させた武帝。彼らの生涯を、同時代人である曇鸞は、どのように見ていたのだろうか。残念ながら、史料は何も語っていない。

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第242回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑬

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

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 法蔵菩薩の願心は、「本願海」として展開された大菩提心である。この大菩提心の立ち上がる根底には、「一如宝海」があるとされる。そのことを親鸞は「この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)と語るのである。一如とは菩提の内容であり、大乗仏教では大涅槃とも言う。それ自体は「いろもなし、かたちもましまさず」(『唯信鈔文意』、『真宗聖典』554頁)とされ、凡夫の認識の対象や感覚の内容としてはまったく見当もつかず、無内容な事柄のごとくに見えてしまう。つまり、われら凡夫には捉えようがないということなのである。もっと積極的に言うなら、仏陀の覚(さと)りの内容は、凡夫の妄念ではまったく了解し得ないということである。


 この落差というか断絶というか、手がかりさえつかめない状態を捉えて、仏陀の側から慈悲の心によって敢(あ)えて「かたち」や「いろ」のごとくに象徴的にあらわすことにより、この断絶を突破させる方法(方便)を案じ出した。その「かたち」が『無量寿経』の本願の主体たる法蔵菩薩であり、大菩提心の行相だということである。それを曇鸞は、「法性法身に由って方便法身を生ず。方便法身に由って法性法身を出だす」『浄土論註』『教行信証』「証巻」引文、『真宗聖典』290頁)と了解し表現した。法性法身とは一如宝海であり、方便法身はそこから姿をあらわした法蔵菩薩だということである。そして、『大無量寿経』の語る因願・成就は、まさに「方便法身」の展開する内容だということになる。


 したがって、法蔵菩薩の果である阿弥陀仏が方便法身の相であるからには、仏土として表現される「報土」も方便法身の相であるに相違ない、ということである。「願心の荘厳」同前289頁)という『浄土論』の言葉とその内容を、『大無量寿経』の本願の因果に返して解釈した曇鸞のこの視座は、親鸞にしっかりと受け継がれているのである。


 このように本願の成り立ちを、一如宝海から「かたち」をあらわし御名を示した法蔵菩薩に返してみると、浄土の荘厳功徳を『無量寿経』の本願の言葉に照らして了解する曇鸞の意図は、確かに龍樹の『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』の方向と重なってくるのである。龍樹は、難行易行の相対を通しながら、菩薩の中には「軟心(なんしん)」のものもあり、その要求に応えるかたちで、方便して易行を開示したのである。その易行を説き出す場は、菩薩十地の初地において「阿惟越致(あゆいおっち:不退転)」の確信を開くためのものであった。


 その初地は「歓喜地(かんぎじ)」と名付けられているのだが、不退転の確信を得た喜びである「歓喜」を、法蔵願心は「諸有の衆生」に「聞其名号、信心歓喜」(『無量寿経』、『真宗聖典』44頁)として広く開示しようとしたのだ、と親鸞は見られたのである。


(2023年8月1日)

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『親鸞仏教センター通信』第86号

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巻頭言

「私にとっての「現場」」

主任研究員 加来 雄之

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

「『一念多念文意』の拝読を始めるに当たって」

講師 本多 弘之

■ 親鸞と中世被差別民に関する研究会

「中世の狩猟文化と「野生の価値」」

講師 中澤 克明

■ 第69回現代と親鸞の研究会

「安田理深と現代―その思想の独自性をめぐって―」

講師 ポール.B.ワット

■ 第70回現代と親鸞の研究会

「核をめぐる罪と悪」

講師 西村 明

講師 宮本 ゆき

■ 第4回現代と親鸞公開シンポジウム

「宗教者にとって「現場」とは何か?」

提題Ⅰ 吉水 岳彦

提題Ⅱ 田村 晃徳

提題Ⅲ 小原 克博

■ リレーコラム

鈴木 慧淳(?〜1886)

嘱託研究員 古畑 侑亮

コラム・エッセイ
講座・イベント

刊行物のご案内

研究会・Interview
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今との出会い第240回「真宗の学びの原風景」

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親鸞仏教センター主任研究員

加来 雄之

(KAKU Takeshi)

 今、私は、親鸞が浄土真宗と名づけた伝統の中に身を置いて、その伝統を学んでいる。そして、その伝統の中で命を終えるだろう。

 

 この伝統を生きる者として私は、ときおり、みずからの浄土真宗の学びの原風景は何だったのかと考えることがある。

 

 幼い頃の死への戦きであろうか。それは自我への問いの始まりであっても、真宗の学びの始まりではない。転校先の小学校でいじめにあったことや、高校時代、好きだった人の死を経験したことなどをきっかけとして、宗教書や哲学書などに目を通すようになったことが、真宗の学びの原風景であろうか。それは、確かにそれなりの切実さを伴う経験あったが、やはり学びという質のものではなかった。

 

 では、大学での仏教の研究が私の学びの原風景なのだろうか。もちろん研究を通していささか知識も得たし、感動もなかったわけではない。しかしそれらの経験も真宗の学びの本質ではないように感じる。

 

 あらためて考えると、私の学びの出発点は、十九歳の時から通うことになった安田理深(1900〜1982)という仏者の私塾・相応学舎での講義の場に立ち会ったことであった。その小さな道場には、さまざまな背景をもつ人たちが集まっていた。学生が、教員が、門徒が、僧侶が、他宗の人が、真剣な人もそうでない人も、講義に耳を傾けていた。そのときは意識していなかったが、今思えば各人それぞれの属性や関心を包みこんで、ともに真実に向き合っているのだという質感をもった場所が、確かに、この世に、存在していた。

 

 親鸞の妻・恵信尼の手紙のよく知られた一節に、親鸞が法然に出遇ったときの情景が次のように伝えられている。

 

後世の助からんずる縁にあいまいらせんと、たずねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、又、六角堂に百日こもらせ給いて候いけるように、又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに、ただ、後世の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候いしをうけ給わりさだめて候いしば……

『真宗聖典』616〜617頁

 

 親鸞にとっての「真宗」の学びの原風景は、法然上人のもとに実現していた集いであった。親鸞の目撃した集いは、麗しい仲良しサークルでも、教義や理念で均一化された集団でもなかったはずである。そこに集まった貴賤・老若・男女は、さまざまな不安、困難、悲しみを抱える人びとであったろう。また興味本位で訪れてきた人や疑念をもっている人びともいただろう。その集まりを仏法の集いたらしめていたのはなにか。それは、その場が、「ただ……善き人にも悪しきにも、同じように」語るという平等性と、「同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に」語るという根源性とに立った場所であったという事実である。そうなのだ、平等性と根源性に根差した語りが実現している場所においてこそ、「真宗」の学びが成り立つ。

 

 このささやかな集いが仏教の歴史の中でもつ意義深さは、やがて『教行信証』の「後序」に記される出来事によって裏づけられることになる。そして、この集いのもつ普遍的な意味が『教行信証』という著作によって如来の往相・還相の二種の回向として証明されていくことになるのである。親鸞の広大な教学の体系の原風景は、このささやかな集いにある。

 

 安田理深は、この集いに、釈尊のもとに実現した共同体をあらわす僧伽(サンガ)の名を与えた。そのことによって、真宗の学びの目的を個人の心境の変化以上のものとして受けとめる視座を提供した。

 

本当の現実とはどういうものをいうのかというと、漠然たる社会一般でなく、仏法の現実である。仏法の現実は僧伽である。三宝のあるところ、仏法が僧伽を以てはじめて、そこに歴史的社会的現実がある。その僧伽のないところに教学はない。『選択集』『教行信証』は、僧伽の実践である。

 

(安田理深師述『僧伽の実践——『教行信証』御撰述の機縁——』

遍崇寺、2003年、66頁)

 

 「教学は僧伽の実践である」、このことがはっきりすると、私たちの学びの課題は、この平等性と根源性の語りを担保する集いを実現することであることが分かる。また、この集いを権力や権威で否定し(偽)、人間の関心にすり替える(仮)濁世のシステムが、向き合うべき現代の問題の根底にあることが分かる。そしてこのシステムがどれほど絶望的に巨大で強固であっても、このささやかな集いの実現こそが、それに立ち向かう基点であることが分かる。

 

 私は、今、自分に与えられている学びの場所を、そのような集いを実現する場とすることができているだろうか。

(2023年7月1日)

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第241回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑫

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

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 大乗仏教運動と呼ばれる大きなうねりは、果たる覚りを求める因位(いんに)の菩薩を語りだす方向と、覚りの証果を解明しあらゆる衆生に平等に届けようとする方向を生み出した。それは一方では、求道心を限りなく展開する『華厳経』となる。その場合、因分は説くことができるが果分は不可説だと見ることになる。そして、他方では果の涅槃を釈尊の個人体験に留めるのでなく衆生の獲得すべき究極の課題であるとし、また一切衆生に施与された可能性として論究していく方向を取ろうとする。それは大乗の『涅槃経』となって僧伽(さんが)の課題を究明していくことになった。

 

 この二つの方向を展望しながら、大乗仏教を代表する僧である龍樹の名で中国に伝えられたものがある。鳩摩羅什(くまらじゅう)によって翻訳された『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』(以下『十住論』と略す)である。この論は『華厳経』に組み込まれた「十地品」の解釈である。その初地の釈のなかに「易行品」があり、易行として諸仏の称名が出され、そのなかに阿弥陀の名もあり、その阿弥陀の名には本願があるとして特別に取り上げられているのである。

 

 この論に曇鸞が注目し、天親の『無量寿経優婆提舎願生偈(むりょうじゅきょううばだいしゃがんしょうげ)』(『浄土論』)の注釈をするにあたり、龍樹の『十住論』を通して五難(外道の相善・声聞の自利・無顧の悪人・ 顚倒の善果・自力のみで他力を知らない)を示し、それまでの仏道が時代の課題(五濁・無仏の世界)に対応していないことを指摘して他力の易行を表してきたことを語っている(『真宗聖典』167~168頁、『教行信証』「行巻」・『論註』引文参照)

 

 親鸞が判明に見出したことは、この大乗仏道のテーマの背景に『涅槃経』で取り上げられる五逆・謗法・一闡提を摂するべきという僧伽の課題があり、それらを包んで一切衆生を平等に救済しうる道が求められているということである。阿弥陀の因位の本願には様々の課題が語られており、その中心に一切衆生に開かれるべき「大涅槃」についての願(第十一願)があり、その成就のための道として称名を諸仏が勧める願(第十七願)があり、その願に応答して行者に信心が施与される(第十八願)のだが、それらの願を総合する願心の主体としての「法蔵菩薩」なる菩提心の永劫修行が語られる。いわば『華厳経』で取り上げられる菩提心の課題を受け継ぎ、その菩薩の願心のなかに『涅槃経』の課題たる三病人の救済を成就すべく、大悲の第十八願に「唯除五逆誹謗正法」と示されているのである。

(2023年7月1日)

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