親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

第252回「存在の故郷」⑦

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

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 「難中之難 無過此難」(『無量寿経』下巻、『真宗聖典』初版〔以下、『聖典』〕87頁)とされる他力の信は、真実報土への往生を必然とする。親鸞は、その内実を釈迦如来の名で説かれる『無量寿経』の願心とその成就との文に見出された。その必然性を確保する力は、「他力と言うは、如来の本願力なり」(『教行信証』「行巻」、『聖典』193頁)と押さえられていて、阿弥陀如来の大悲の力だとされる。法蔵願心の成就(果)たる阿弥陀如来の力なのである。この力について曇鸞は、因位法蔵菩薩の本願の力と成就した阿弥陀仏の仏力が、願力成就として信心の行者にはたらくのだと注釈される。それによって、阿弥陀如来の浄土の功徳に必ず値遇できるのだとされるのである。


 この願力成就の功徳が、大乗仏教の「大涅槃」であり「一如」でもあることを、親鸞は「仮名聖教」で明らかにしている。この大乗仏教の至極である大涅槃こそが、いま筆者がここに表現しようとする「存在の故郷」なのである。大乗仏教の大涅槃を、親鸞は大乗の『涅槃経』によってさまざまな観点から取り上げているが、その課題として阿弥陀の本願力を信受するところに、我ら罪業深重の衆生に大涅槃が必ず成就するのだと論じておられるのである。


 しかし、ここに大きな難問が生ずる。この「本願成就」の事実は、現実の生存のなかにいる我らのうえに、何時・どこで生起しうるのか、という問いである。我らの生存は、煩悩の身を離脱できないから、この生起は各人の「臨終」を待たねばならないのか。しかし、阿弥陀如来の別号たる無碍光は、いかなるものにも妨げられないはたらきであることを告げているのではないか。煩悩の身が摂取されることこそ、私たちがこの願心をいただくということではないか。


 臨終を待って本願が成就すると誓うのは、第十九・第二十の願の意になる。第十八願は、成就文に「願生・即生」とあり、その「即」の文字に、親鸞は時・日を隔てないことだと注釈しておられる。そして、我らの身は本願を信じたからと言って、煩悩がなくなるわけではない。そのことは、「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」(『悲歎述懐和讃』、『聖典』508頁)、と言っている。しかし同時に「無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまう」(『同』、『聖典』509頁)とも言っておられるのである。ここに、難信の奧義があるようだが、これを突破するのが容易ではないことを、親鸞は「信巻」(『教行信証』)の三一問答「信楽」釈で、衆生のいかなる努力をもってしても「往生は不可能だ」と言われているのである。

(2024年7月1日)

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第251回「存在の故郷」⑥

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本多 弘之

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 仏教一般の了解は、人間の常識にもかなっている自力の次第を是とするから理解しやすいが、他力の次第を信受することは「難中の難」だとされている。それは、生き様の差異を超えてあらゆる衆生が等しく抱える愚かさを見通した、如来の智見によってなされた指摘である。


 衆生は有限であり、大悲に背いて自我に執着(我執・法執)し、差別相の表層にこだわり続けている。如来は、大悲の心をもってそのように衆生を見通している。仏陀は、『大無量寿経』や『阿弥陀経』の結びにおいて、そのように見通す如来の智見に衆生が気づくことは困難至極だと注意しているのである。


 人間は人の間に生まれ落ち、人間として共同体を生きている。そこに生存が成り立っているのだが、人間として生きるとき、我執によって他人を蹴落としてでも自己の欲望を成就したいというような野心を発(おこ)すのである。仏教では、我執(による欲)は菩提心を碍(さまた)げる罪であり、そういう欲望を極力避けるべきだと教える。


 そもそも仏教における罪悪とは、菩提心を碍げるあり方を示す言葉である。その意識作用を「煩悩」と名付けているのである。大乗の仏弟子たちは、菩提心を自己として生活することが求められるのであるから、それを妨げる煩悩に苛まれた自己を克服することが求められる。だから、仏教とは、基本的に「自力」でそのことを実現することであると教えられているのである。


 しかし、この自己克服の生活における戦いは、限りなく続くことになる。自己が共同体の中に生存している限り、他を意識せざるをえないし、そこに起こる様々な生活意識には、我執を意識せざるを得ない事態が常に興起するからである。


 しかも大乗仏教においては、この我執を完全に克服するのみでなく、さらに利他救済の志願を自己とする存在たることが求められる。それが表現されている。この要求を満足した存在が仏陀であり、すなわち仏陀とは大乗仏教思想が要求した人間の究極的理想像であるとも言えよう。そしてこの仏陀たちが開示する場所が「浄土」として荘厳されている。それが諸仏の浄土である。その諸仏の浄土に対し、一切の衆生を平等にすくい上げる誓願を立てて、その願心を成就する名告りが阿弥陀如来であり、安楽浄土である。その因位の位を「法蔵菩薩」と名付け、その発起してくる起源を、一如宝海であると表現するのである。


 法蔵菩薩の願心の前に、個としての自己は、愚かで無能で罪業深重であると懺悔せざるを得ないのである。限りなく我執が発ってしまうことが、人間として生涯にわたって生活することの実態であるからである。しかし、これを見通し、自覚することは困難だと『大無量寿経』や『阿弥陀経』では注意されているのである。

(2024年6月1日)

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第250回「存在の故郷」⑤

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本多 弘之

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 大乗仏教では、大涅槃を浄土として荘厳・象徴することによって、とらえがたい大涅槃なるものをイメージとして具体化してきた。また浄土教ではそのイメージに基づいて、浄土往生を実現することが浄土教徒にとっての最終目的のように受けとめられてきた経緯があるわけだが、親鸞は本願の思想に返すことでその考え方を改め、浄土の意味を根本的に考察し直した。


 その考察の道筋をたどることは、浄土を実体的な「あの世」とみなし、それを常識としてきた立場からすると受けとめにくいことかもしれない。しかしながら、我々はいま、親鸞が浄土を一如宝海と示して考察した道筋を、『教行信証』の説き方に則しながら考察してみようと思う。


 『教行信証』の正式な題名は『顕浄土真実教行証文類』という。この題が示すように、「浄土」を顕(あきら)かにすることが、衆生にとっての根本的な課題なのである。そこで親鸞は、真実の「教行証」という仏道の次第を見出して論じ、その課題に応答している。そして、本願に依って衆生に呼びかける大涅槃への道筋が、「行信」の次第であることを示している。


 この次第は、いわゆる仏教一般の受けとめ方とは異なっている。仏教一般で言われる「行」は、信解した教えに基づき自力で涅槃を求めてなされる修行の方法であり、各々その行の功徳によって果である涅槃への道筋が開かれるという理解である。つまり仏道の教を信じて行じた結果が証だという次第になる。この次第は「信・解・行・証」あるいは「教・理・行・果」とも表されるが、これは、この世の一般的な時間における因果の次第と同様の流れであるから、人間の常識からすると理解しやすい。


 これに対し、親鸞が出遇った仏道は、本願に依って誓われ一切衆生に平等に開かれる「証大涅槃」の道である。だからして、衆生にとってだれであろうと行ずることができるような「行」、すなわち「易行」が本願によって選び取られているのであり、本願力に依ることによって、個々の衆生の条件によらず、平等に涅槃への必然性が確保されると親鸞は理解する。この本願力を「他力」と言い、衆生がこの他力の次第を信受することが待たれているというわけである。親鸞は、この他力の次第を行から信が開かれてくると了解したのだ。


 この他力を信ずるのは、衆生にとっては難中の難であるとされる。それは、各々の衆生の生には、それぞれ異なる多様な縁が絡み付き、その事態に各々が個別に対処しているということがあるからである。だからして、この事態を打破するには、各々の出会う縁に対し、各自がそれぞれ努力するべきだという「自力」の教えが伝承されてしまうのである。

(2024年5月1日)

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第249回「存在の故郷」④

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本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

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 菩提心が菩提を成就するということを、仏教では因果の転換と表現している。そして大乗仏教では、因が果を必然としてはらむ状態を「正定聚」や「不退転」と表現し、阿弥陀如来はその果を確保する手がかりとして、それらを一切の衆生に与えんと、大悲をもって誓っている。阿弥陀如来は、衆生の存在の故郷として仏土を建立するのだが、この国土において衆生に涅槃の超証を必定とする正定聚の位を与えようと誓うのは、菩提という課題を成就するためだとされるのである。


 ところで、阿弥陀如来の願心に不退転が誓われていることは、大涅槃に至るという究極的な目的から再考してみると、いかなる意味を持つと言えるだろうか。親鸞はこの内実を、凡夫である自己にとってどのようなことと受けとめたのであろうか。そして、大涅槃が存在の故郷であることは、それが衆生という存在にとって究極の目的であるということにとどまるのであろうか。


 ここに、親鸞が『大無量寿経』を「真実の教 浄土真宗」(『教行信証』「総序」、『真宗聖典』初版〔以下、『聖典』〕150頁)と捉えて顕示されたことの意味をしっかり確認しなければなるまい。その問いに向き合う時、親鸞が法蔵菩薩の意味について「この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて、無碍のちかいをおこしたまうをたねとして、阿弥陀仏と、なりたまうがゆえに、報身如来ともうすなり」(『一念多念文意』、『聖典』543頁)と了解されていることが思い合わされる。『大無量寿経』は、「如来の本願を説きて、経の宗致とす」(『教行信証』「教巻」、『聖典』152頁)と押さえられているように、法蔵菩薩の本願を説き表している。その経説が「一如」から出発している教言であると言うのである。一如は、法性や仏性など、大涅槃と同質・同義であるとも注釈されている(『唯信鈔文意』、『聖典』554頁参照)


 法蔵菩薩がこの一如からかたちをあらわした菩薩であるということは、大涅槃が究極の終点ではなく、菩薩道の出発点であるということを暗示していると見ることもできよう。


 そもそも我らの生存は、時間的にも空間的にも重々無尽(じゅうじゅうむじん)の因縁関係の中に与えられているのではないか。そして仏陀の教意には、このことを衆生に気づかせようとすることがあるのではないか。釈迦如来が五濁悪世に降誕し無我の覚りを開いた背景には、すでに無窮というもいうべき菩提心の歴史的な歩みがあったと、仏陀自ら聞き当て衆生にもそのように説いてきた。このことは、『大無量寿経』における法蔵菩薩の求道の歩みの、背景が五十三仏の伝承として押さえられていることにも窺うことができる。


 かくして、仏法においては無始以来の生命の歴史とも言えるような求道心が教えられ、その教えをしかと受けとめた時、その者は三世諸仏の伝承に入れしめられるとして語られるのであろう。

(2024年4月1日)

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【特集趣旨】仏教と現代文化―新しい仏像からマンガやゲーム、ネット空間の最新表現まで―

【特集趣旨】

仏教と現代文化

―新しい仏像からマンガやゲーム、ネット空間の最新表現まで―

――新しい仏像からマンガやゲーム、ネット空間の最新表現まで

嘱託研究員

青柳 英司

(AOYAGI Eishi)

 現代の多くの日本人にとって、仏教は縁遠いものに感じられるかもしれません。ですが、博物館で開催される仏像の展覧会はとても人気が高く、マンガやゲーム、音楽やYouTubeといったものの中に、仏教的な要素が見られることも決して珍しいことではありません。現代の日本人が、仏教的な「何か」に魅かれることがあるのは確かなようです。また、様々な現代文化のコンテンツを通して、仏教を少しでも身近に感じてもらおうとする実践も、積極的に行われています。

 そこで今回の特集では、現代の文化的事象の中に見られる仏教的な要素と、現代文化を通した仏教の発信について、様々な立場の方々からご論考・エッセイをお寄せいただきました。

 長い歴史と伝統があり、ともすると古いものと思われがちな仏教と、最先端の現代文化との接点について、改めて考えてみたいと思います。

(あおやぎ えいし・嘱託研究員)

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とんちと風狂の「虚実皮膜」―現代にあらわれ続ける一休像―

とんちと風狂の「虚実皮膜」

―現代にあらわれ続ける一休像―

嘱託研究員

飯島 孝良

(IIJIMA Takayoshi)

 一休宗純(1394~1481)は、知名度という点では群を抜いている。たとえば、「一休さん、一休さん、はなおかの一休さん、ともしび灯す心~」という仏壇店のCMソングに耳馴染みのある方が、信州あたりにはおられるのではないだろうか。このテレビCMは長野県に展開する「はなおか」がはじめのようであるが、それ以外にも、米永(石川県)、かじそ(福井県)、ほこだて仏光堂(宮城県)、大黒堂(福島県)、開運堂(山梨県)などの仏壇店も、一休とタヌキ・ウサギが登場する同じフォーマットでCMを展開している。一見すると不思議な現象であるが、はなおかは「一休さん」の商標登録権を所有しており、同じCMを各社も利用しているということのようである。この一休のCMを用いている各社は、社名に「一休さんの○○」と冠するほど、そのイメージを定着させている。

 

 一休は、やはり「とんち坊主」の親しみやすいイメージが強いようである。「あわてない、あわてない」のセリフで一世を風靡したアニメ『一休さん』は、中国やタイでも人気が高い。とはいえ、放送されていたのは1975年~1982年のことであり、いまの世代は絵本などで触れることが多いようだ。このため、最近の講義で一休のことを取り上げると、受講者の感想に「一休が実在したとはじめて知りました」というものが、年を追うごとに増えている気もする。

 

 こうした現象は、歴史上で著名な存在をめぐってしばしばみられるものでもある。つまり、いつともしれず逸話や俗伝の類が追補されていき、或る部分が極大化することもあれば、或る部分が曲解されて伝わっていくこともある。そうして、虚像がどんどん拡大し多層化するのである。ときには、その実在すらわからなくなる、というわけである。

 

 その一例として興味深いのは、真宗において、一休が本願寺中興の祖・蓮如(1415~1499)と親しく交流していたと伝えられてきたことである。これは、一休が修行した祥瑞寺と、蓮如が一時期活動拠点としていた本福寺とが、ともに堅田(滋賀県大津市)で向かい合う位置にあったことにも起因するものに思われる。ただ、これが単に逸話として伝わるのみならず、真宗教学でも言及されるようになっていく。その一例が、敬信『浄土真宗流義問答』(正徳六年[1716]刊)である。その巻三下には、徳川期の儒学者・永田善斎(ながた・ぜんさい、1597~1664)の漢文随筆『膾餘雑録』(かいよざつろく、承応二年[1653]刊)を引用しつつ、一休について言及している。永田が一休を「実に大悟明眼の一異人」であると評価していることに追補する形で、一休にはその世話をしていた尼の森侍者(森女)がおり、その師である華叟宗曇(かそう・そうどん、1352~1428)は大津堅田の祥瑞寺に蟄居して尼と漁業を営んでいたことから、華叟と一休はともに肉食妻帯していたと記している。そして、その肉食妻帯について今も昔も誰ひとり批判する者がなかったのは、その徳が高かったゆえである、と述べるのである。この記述が示すのは、大津堅田で真宗門徒に近いところにいた華叟や一休も肉食妻帯をしており、有徳であることから誰も咎めることがなかったことを強調する意図である。それは翻って、親鸞や蓮如以来、肉食妻帯をいとわぬ教えを受け継いできた真宗の在り方を改めて意識させるものといえる。ただし、華叟は正長元年[1428]に示寂していることから、応仁の乱(1467~1477)のときまで堅田に蟄居していたということは誤りであり、尼僧が傍らにいたかもはっきりとはしない。こうした一休像を提示するのは、ことによると、真宗側の牽強付会ともみえてくる。

 

 もうひとつ興味深い事例は、徳川期の戯作である。山東京伝『本朝酔菩提全伝』(ほんちょうすいぼだいぜんでん、文化六年[1809]成立)には、一休が楽器を演奏する骸骨とともに酒宴を楽しみ、遊女との一夜を味わう姿が描かれる。「風狂」一休の面目躍如というべき場面であるが、その着想の源のひとつとなっているのは、『一休骸骨』(奥付は康正三年[1457])である。一休と思しき僧が墓場に迷い込み、そこで骸骨どもが呑めや歌えの大騒ぎを楽しむところから始まる本書では、人間が欲望におぼれ最後は虚しく没していくさまが、一貫して骸骨の姿で描かれる。内容的には「空」の思想など仏教の基本的な考えを示すものである(が、一休自身の真筆というわけではなく、一休の名を冠した入門書といった性格がある)。ここに描かれる骸骨の姿は、まさに『本朝酔菩提全伝』に描かれるものと重なる。この場面のもうひとつの典拠というべき徳川期の『一休関東咄』(いっきゅうかんとうばなし)第七「堺の浦にて遊女と歌問答の事」には、一休が「地獄といえる遊女」と歌の応酬をする逸話が伝わる。地獄太夫の姿を前に、一休は「聞きしより見て怖ろしき地獄かな」と上の句を示すと、地獄太夫は「しにくる人のおちざるはなし」と返すのである。己の生そのものを「地獄」と認識している太夫は、欲望のままに――つまり肉欲にあふれて――自分の元にやってくる男どもなど、空の何たるか、仏の何たるかがわかるまい、と批判するかのように挑みかかって来る。しかし、地獄太夫はそうした自身の生こそ、男どもを自らの煩悩に向き合わせる仏道そのものと捉えていたようにもみえる。ただし、地獄太夫の逸話は一休自身の手で書かれた漢詩集の『狂雲集』や『自戒集』、或いは一休の弟子たちによる『一休和尚年譜』などにはみられない。一休の「風狂」と相まって、そうした強烈なキャラクターが後代に創作されたものと考えられる。

 

 いま、真宗での言及と山東京伝の描出を例にとったが、これらが全くの捏造であると言いたいのではない。むしろ、そうした像は一休が『狂雲集』『自戒集』といった著作類で述べる考え方に何らかの形で重なり、どこかで実像を髣髴とさせるものでもある。先ほど『浄土真宗流義問答』で言及のあった森侍者(森女)にしても、『狂雲集』で森女との純愛を詠い、生々しいまでのエロスを赤裸々に描いているのである。これは室町禅林文学ではもちろん、それまでの漢文学でも類をみないものとなっている。また『狂雲集』によれば、文明二年[1470]11月14日、一休77歳のときに住吉神社の薬師堂で森女と出逢ってその艶歌を聴き、翌年春に住吉の雲門庵で再会して、互いの思いを確認したという。また、『真珠庵文書』の「祖心紹越酬恩庵根本次第聞書案」には、文明七年[1475]、一休82歳の時に酬恩庵内に敷地を買い取ることになったが、資金の一部を森侍者の衣服を売って用立てた、などと記載がある。森女が、一休の周辺にいたのは確かなのである。

 

 こうして、一休は虚と実が入り乱れつつ、その魅力と毒気(!)を現代にまで伝えているように感じられてくる。いわば、一休像の虚と実が連鎖していきながら、我々にさまざまなことを考えさせもするのである。近松門左衛門は、「虚実皮膜論」(きょじつひにくのろん)といわれる次のような一節を開陳している。

 

芸といふものは実(じつ)と虚(うそ)との皮膜の間にあるもの也。成程今の世、実事によくうつすをこのむ故、家老は真の家老の身ぶり口上をうつすとはいへ共、さらばとて真の大名の家老などが、立役(たちやく)のごとく顔に紅脂(べに)白粉(おしろい)をぬる事ありや。又真の家老は顏をかざらぬとて立役がむしやむしやと髭は生(はえ)なり、あたまは剝(はげ)なりに、舞台へ出て芸をせば慰になるべきや。皮膜の間といふが此(ここ)也。虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰が有たもの也。【中略】それ故に画そらごとゝて、其像(すがた)をゑがくにも又木にきざむにも、正真の形を似する内に又大まかなる所あるが、結句人の愛する種とはなる也。趣向も此ごとく、本の事に似る内に又大まかなる所あるが、結句芸になりて人の心のなぐさみとなる。

(穂積以貫「難波土産」発端に所収)

 

 つまり、ウソとマコトが紙一重のような表現を以て、舞台上の演出は迫真のものとなるという。言い得て妙である。

 

 どうやら一休の像も、虚と実が「皮膜」のようになって、我々の前にあらわれ続けているようである。最近は、可愛らしい小坊主ではない一休を描き出そうと『オトナの一休さん』(Eテレ、2016~2017)が制作され、本作の作画を担当した伊野孝行氏の『となりの一休さん』(春陽堂書店、2021)が刊行されるなど、「風狂」「破戒」というべき一休の実像がより一層着目されてきている。こうした破天荒な一休の姿を知ったとき、受け手のリアクションは「そんな姿に却って興味をそそられた」というものと「可愛らしい一休さんとのギャップにがっかりした」という真逆のものになりもするのである。一休像にどのような反応を示すかで、自らが重んじる価値観に気づかされることもあろう。いわば、一休像は自己の「合わせ鏡」として機能するものでもあるのかもしれない。

 

 室町期の在世当時から、同時代の形骸化を批判しつつ女犯も厭わぬ言動で世をアッと言わせた一休は、果たして今なお「なやましい」存在といえよう。

(いいじま たかよし・嘱託研究員、花園大学国際禅学研究所副所長)

著書に、『語られ続ける一休像―戦後思想史からみる禅文化の諸相』(ぺりかん社、2021)など。

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飯島 孝良(IIJIMA Takayoshi) 嘱託研究員/花園大学国際禅学研究所副所長
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サイケデリック・ブッダ——ロックと仏教の歴史・序
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【特集趣旨】仏教と現代文化―新しい仏像からマンガやゲーム、ネット空間の最新表現まで―
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今との出会い第244回「罪と罰と私たち」

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親鸞仏教センター嘱託研究員

繁田 真爾

(SHIGETA Shinji)

 2023年10月、秋も深まってきたある日。岩手県の盛岡市に出かけた。目当ては、もりおか歴史文化館で開催された企画展「罪と罰:犯罪記録に見る江戸時代の盛岡」。同館前の広場では、赤や黄の丸々としたリンゴが積まれ、物産展でにぎわっていた。マスコミでも紹介され話題を呼んだ企画展に、会期ぎりぎりで何とか滑り込んだ。

 

 実はこれまで、同館では盛岡藩の「罪と罰」をテーマとした展示会が三度ほど開催されてきた。小さな展示室での企画だったが、監獄の歴史を研究している関心から、私も足を運んできた。いずれの回も好評だったようで、今回は「テーマ展」から「企画展」へ格上げ(?)したらしい。今回は瀟洒な図録も販売されたが、会期末を待たずに完売。若い来訪者も多く、「罪と罰」に対する人びとの関心の高さに驚かされた。

 

 展示をじっくり観覧して、とくに印象的だったのは、現在の刑罰観との違いだ。火刑や磔や斬首など、江戸時代には苛酷な身体刑が存在したことはよく知られている。だがその他にも、(被害者やその親族、寺院などからの)「助命嘆願」が、現在よりもはるかに大きく判決を左右したこと。「酒狂」(酩酊状態)による犯罪は、そうでない場合の同じ犯罪よりも減刑される規定があったこと。などなど、今日の刑罰との違いはかなり大きい。

 

 現在の刑罰観との違いということでは、もちろん近世の盛岡藩に限らない。たとえば中世日本の一部村落や神社のなかには、夜間に農作業や稲刈りをしてはならないという法令があった。「昼」にはない「夜の法」なるものが存在したのだ(網野善彦・石井進・笠松宏至・勝俣鎭夫『中世の罪と罰』)。そして現代でもケニアのある農村では、共同体や人間関係のトラブルの解決に、即断・即決を求めない。とにかく「待つ」ことで、自己―他者関係の変化を期待するのだという。この慣習は、人が人を裁くことに由来するさまざまな困難を乗り越える一つの英知として、注目されている(石田慎一郎『人を知る法、待つことを知る正義:東アフリカ農村からの法人類学』)。

 

 「罪と罰」をめぐる観念は、このように時代や場所によって大きな違いがみられる。まさに“所変われば品変わる”で、今ある刑罰観が、確固とした揺るぎない真理に基づいているわけではないのだ。

 

 だとすれば私たちは、いったい人間の所行の何を「罪」とし、それを何のために、どのように「罰する」のだろうか。そして罰を与えることで、私たちはその人に何を求めるのだろうか(報復?それとも改善?)。そのことがあらためて問われるに違いない。そして「罪と罰」は、おそらく刑罰に限らず、社会規範・教育・団体規則・子育てなど、私たちの社会や日常生活のさまざまな場面にわたる問題でもあるだろう。

 

 それにしても江戸時代の盛岡では、なぜ酒狂の悪事に対して現代よりも寛容だったのだろうか。帰宅後に土産の地酒を舐めながら、そんなことに思いをはせた。

 

(2024年3月1日)

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第248回「存在の故郷」③

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

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 流転する生命の在り方は生死流転という熟語となり、私たちに現実に変化してやまない日常意識を抱え、状況に流されて生きているのだと教えている。その日常的な在り方が、いわば異郷に流離する旅人のようなものだと喩えられているのである。

 それに対して「存在の故郷」を求めようとする意欲を、仏教は求道心と言い、菩提(さとり)を求める心だから菩提心とも言う。その意欲によって、日常の意識に映る存在は、迷いの情念(無明)によって闇の中に在るのだと教えられる。その闇は無明の黒闇とも言われ、その存在は闇の中で藻掻いているような状態だとされる。その暗中模索の状態を求道心によって突破して、光明海中に浮かぶような生き方をしようと求めることを、菩提心の目的として大涅槃を開くまで努力せよと教えるのである。

 求道心によっていわば存在の本来性を回復することが、無明に覆われた存在を転じて明るみを生きる存在へと転換するというわけである。その転換された在り方を、「存在の故郷」に帰るのだと表現するのである。そして、その故郷とは、生死流転を超えた一如であり、大涅槃であるとされる。衆生が迷える意識を翻転することができるなら、その生存の在り方が、光明海と表現される明るみとなり、その存在はそこを場として立ち上がるのだとも教えられる。

 存在の故郷とは一如宝海と教えられ、その一如が涅槃でもあると、親鸞は『涅槃経』によって押さえている。その究極である一如、すなわち大涅槃と、それを求める菩提心とは因果であるとされるが、因位にあることは、果位に対して常に待ち望む状態にあるということである。それが、異郷にあって故郷を渇望し、帰りたいという意欲に喩えられる在り方である。

 我ら衆生が自らの意欲で帰郷を果たすことを望む場合、流転を真に突破することは難しい。有限なる衆生は、状況に巻き込まれ流転していて、因から果へ、状況を超えて一如・涅槃へは、とてもたどり着くことができないであろう。そこに呼びかけてくるものがある。本来からの呼び声が、迷える我らの現存在に、「存在の故郷」へ帰れと呼びかけていると教えられているのである。

 この呼び声が、阿弥陀の大悲本願の呼びかけとして示され、その本願の呼びかけを信ずるなら、その信心は因でありながら、果を必然としてはらむのだと語られている。その場合の信は、衆生から起こるのではなく、如来の大悲より発起するところだとされる。親鸞はそれが如来の回向によって、衆生の上に成就するのだと、教えているのである。だからして、その信は如来の質を保持しているとされる。その信が因でありながら果を必然とすることができるのは、如来回向の信心だからだ、というわけである。

(2024年3月1日)

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サイケデリック・ブッダ——ロックと仏教の歴史・序

サイケデリック・ブッダ

――ロックと仏教の歴史・序――

嘱託研究員

宮部 峻

(MIYABE Takashi)

 「どんなジャンルの音楽を聴くのか」と問われたら、「ロック、とくにUKロック」と答える。どこか屈折した歌詞と哀愁漂う曲調に惹かれる。

 

 曲だけを楽しんでいるというよりもバンドやミュージシャンの態度が好きなのかもしれない。インタビューや人前でのパフォーマンスでは挑発的な姿勢を見せながら、書き上げた曲はアイロニカルでありながらも繊細であり、社会のなかでもがき苦しむ自我の葛藤を描き出す。私が理解するUKロックの歴史とは、素直に自己を表現できず、社会に対して皮肉めいた発言を繰り返しながら悩み苦しみ続けている、捻(ひね)くれ者の表現の歴史である。ザ・スミスのボーカリスト、モリッシーがその極北だ。

 

 そんなこともあり、CDやレコード集めだけでなく、ロックに関する雑誌記事や本を読むのが日課である。そうすると、断片的にロックと仏教に関するエピソードを読んだりする。

 ファンのあいだでは有名なエピソードだが、ビートルズの代表曲の一つである「Tomorrow Never Knows」にも仏教に関する逸話が残されている。『Rolling Stone』誌の記事を踏まえつつ紹介しておこう。

 

 ビートルズは活動前半期、ライブバンドとして世界各地でアイドル的な人気を誇った。しかし、やがて熱狂ゆえの混乱・暴動に巻き込まれる。その苦悩ゆえか、ラブソングが中心であった初期の歌詞・曲調が一転し、哲学的・文学的表現を取り入れた歌詞や高度な芸術表現を追求する。その象徴的な曲の一つが1966年発表のアルバム『Revolver』に収録される「Tomorrow Never Knows」である。

 

 「Tomorrow Never Knows」の歌詞は抽象的で難解である。その歌詞に影響を与えたとされるのが、『チベットの死者の書——サイケデリックバージョン』(ティモシー・リアリー、ラルフ・メツナー、リチャード・アルパート著、1964年刊行、1994年邦訳)である。この書では、8世紀の仏教書をもとに、ドラッグによる自我の喪失と再生の理論が説かれている。この時期、ビートルズがLSDを使用していたことはよく知られているが、ジョン・レノンは、LSDで得た体験とこの書で説かれる理論を結びつけ、曲作りをしたとされる。

 

 曲調も多くのテープループ素材やそれを逆再生したものが用いられており、幻想的な世界観が表現されている。ジョン・レノンは、プロデューサーのジョージ・マーティンに曲作りに際して抽象的な要望を出すことが多かったと言われているが、この曲についても、「ダライ・ラマが最も高い山頂から歌っている」ようなサウンドに、「たくさんの僧侶がお経を唱えているようなイメージで」とチベット仏教の世界観を表現しようとしていたとされている。

 

 こうしたエピソードからわかるように、サイケデリック期のビートルズを象徴する曲に、ジョン・レノンが理解した仏教的世界観が影響している。自我の喪失と再生を説くものとしてジョン・レノンは仏教にインスパイアされたのであろう。どうやらロックの世界には、自我の再生のためにドラッグの使用を勧める「サイケデリック・ブッダ」と呼ぶべきブッダがいるらしい。しかし、仏教の歴史は、ドラッグの使用による救済を説いてはいない。どうもロックの世界に生きる仏教は、現代に再創造されたもののようである。

 

 自我の喪失と再生を説く、ロックの世界に存在するブッダ——謎多き存在である。ロックの歴史には、たびたびこのような再創造された仏教が登場する。仏教の哲学には納得がいくと言う無神論者を標榜するロックスターもいれば、内気な仏教徒と大量虐殺の比喩を用いて自分が抱えた痛みがいかに大きなものであったのかを歌い上げるロックの詩人もいる。さらには、響きがいいからという理由でバンド名を涅槃とした者もいる…ロックスターに仏教解釈のことについて尋ねれば、きっとこう答えるのであろう——「かくのごとく、我聞けり」と。ロックスターたちが体得した仏教の教えとは何なのか。その歴史を辿るにはまだまだ謎が多いので、「序」として留めておくことにしよう。

(みやべ たかし・嘱託研究員、立命館アジア太平洋大学助教)

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