親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

第84回「生きている〈場〉の展開」⑫

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 大悲の場所が、求道する者に「正定聚(しょうじょうじゅ)」を確保するという本願の教えの意味を、親鸞は願生する行者が名号を念ずる時、その即時に正定聚に住するのだと了解した。『大無量寿経』の「願生彼国(がんしょうひこく) 即得往生(そくとくおうじょう)」(『真宗聖典』44頁)という成就文の意味を、信心の生活に獲得する利益と了解したのである。

 これは彼岸に荘厳(しょうごん)した報土が、個人の「願生」の結果、時間の彼方にあこがれる場所に止まるのでなく、大悲の必然として衆生にはたらきかけずにはおかないということ。つまり利他の回向が、一切の功徳を衆生にもたらすべくはたらき続けるのだから、その大悲のはたらきを信受するなら、その時に願心のはたらきの中にあるということ、つまり場所のはたらきがそれを受け入れる衆生を支えるのだということ。憧れではあっても、決して現実にははたらいてこなかった死後の浄土が、現生の信心の行者を支える大地となって来るのであるということ、これを「現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)」という。親鸞はそれを「心を弘誓の仏地に樹(た)て、念を難思の法海に流す」(『教行信証』、『真宗聖典』400頁)という。

 報土はその「大悲回向」を生み出す未来からの場所でありつつ、回向としてはたらく行(名号)を生み出すなら、その行に乗って場所のはたらきが衆生に来たる。それを「至心回向(ししんえこう) 願生彼国 即得往生」という。この場所には、「本願酬報(ほんがんしゅうほう)」という意味が込められる。それは、この世の時間と異なり、未来から現在に一切の時間を包んで、はたらきかけが来るということ、未来の功徳が現在の信念を支えるはたらきをする、ということである。

 報土への必然性が「必至無量光明土(ひっしむりょうこうみょうど)」(『教行信証』『真宗聖典』206頁)と表現されている。この「必」は「金剛心成就の貌(かおばせ)」(『真宗聖典』178頁)と「行巻」では言われている。未来に絶対必然を確証することを表すというのである。この未来は、我ら衆生がこの世で一般的にいう未来と異なり、不確定な要素が絡まない。我らの時間としての「未来」は必ず不確定の要素が絡む。動き行くことが時間なのであるから、未来は確定したといったとしても、不確定の要素が含まれることが当然なのである。「諸行無常」の時間たる未来は、動くものなのである。それなら、未来に「金剛」の形容詞を使うことは無理であろう。

 だから、親鸞はこの不確定要素のない「未来」を獲得するとは、「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」という無限の側からのはたらきがあるからであり、そこに「金剛」が成り立つのだという。摂して捨てない「大悲」のはたらきによって、動かない「未来」が来るのだ、という。その大悲を場所として荘厳・象徴するのが、「真実報土」なのである。その場所の功徳を「大悲回向」として我らは現生の大地として信受しよう、と呼びかけているのである。

(2010年5月1日)

最近の投稿を読む

公開講座画像
第231回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」②
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第231回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」②  諸仏の国土とは、大乗仏道の歴史が見出した大いなる法界(大乗無上の菩提の内容)に、僧伽を支えてきた無数の求道者が値遇したことを現わそうとしているのであろう。そこには、果徳の平等性と共に、因位の差異を表している様々の名前によって、諸仏それぞれの因位の過程や求道課題の差異が認められているのである。...
公開講座画像
第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①  親鸞聖人のお言葉には、人間存在のもつ実相への深い洞察とそこから染み出てくるような懺悔の心が感じられる。このことには、その背後に『大無量寿経』にまで煮詰められた大乗仏道の菩提心の歴史があるのであろう。総願から別願を開示して、この大乗の菩提心を掘り下げるべく歩みを進めるところに、「法蔵菩薩」なる人間像が生み出されてきている。...
公開講座画像
第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬  本願によって衆生に開かれる「宗教的実存」とは、いかなる構造として表現し得るものであろうか。その構造解明の手がかりを、横と竪という菩提心のありかたから探ってみた。そして我らに開かれる信心の意味に、この世での生き方に対して、超越的で立体的な空間として本願の信仰空間と言うべきありかたが、教えられていることを了解した。...

テーマ別アーカイブ

投稿者:shinran-bc 投稿日時:

第83回「生きている〈場〉の展開」⑪

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 大きな場のはたらきを、今たしかに受けているという感覚を取り戻すことが、現代に浄土教の信念を回復するために、大切なのではないか、と思う。仏願が荘厳(しょうごん)する報土を、『観無量寿経』では行者の観察(かんざつ)の対象として教えるが、それを親鸞は自力のこころに対する方便の道であり、「定心(じょうしん)修しがたし、息慮凝心(そくりょぎょうしん)のゆえに(こころを集中していくことはむずかしい)、散心行じがたし、廃悪修善のゆえに(散善の行で、悪をやめて善を積んでいくことはできない)」(『教行信証』、『真宗聖典』430頁)と、自己の本質を見極めて本願他力に帰していくことを教えているのだ、といただいていった。

 自力の行で、大悲の本願の世界に行けるのなら、初めから自力でのさとりを求めていけば良いのだろうが、やはりそれは成り立たないと感じて、如来のはたらきの世界である浄土を求めることになるのであろう。無限を有限が自分で取ろうとする、その矛盾に気付いて、無限なる如来からの呼びかけに耳を澄ませば、本願は「我が名を念じてほしい」と願っているのだから、それに随順しよう、ということが、自力から他力への回心(えしん)ということである。他力といっても、有限の外の他の有限の力ではなく、有限全体を包越している無限の力だというのである。

 そういう大きな場の中に包まれた自己を発見するとき、その自己の意味を「正定聚(しょうじょうじゅ)」という言葉で教えている。「正しく定まったともがら」とは、間違いなく仏地にいたることができる人々の位ということである。これは求道者に釈尊が「授記」をされたことに由来する事柄のようである。求める立場のものは、本当に最後の到着点に行けるかどうかが分からないと、現在の位置に安心して立てないものである。果たしてこのまま歩んで山頂に行けるのかと、山道で今立っている位置に自信がなくなれば、先に歩む力がなくなる。そのように、求道の途上での自己にそれで大丈夫なのだよと、未来を保証して求道を励ますのが、釈迦如来の授記であったのであろう。

 菩薩道において「自利利他」の課題を担って成仏道を歩むとき、その歩みは「三千大千世界を挙ぐるより重し」(『十住毘婆沙論』)といわれることであるから、いかに強靱な菩提心の持ち主であろうとも、自己の求道の途中でへこたれることがあるのである。「自力には必ず魔種あり」という言葉があるが、自分のこころは有限の状況を移して動きゆくものであるから、変質の危機が必ず襲うことになる。その危機からの脱出には、山道で山頂が見えるようなことがあれば、可能となろう。それを「正定聚」として確保しようということが、浄土の利益を「正定聚」として呼びかける意味なのではなかろうか。

(2010年4月1日)

最近の投稿を読む

公開講座画像
第231回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」②
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第231回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」②  諸仏の国土とは、大乗仏道の歴史が見出した大いなる法界(大乗無上の菩提の内容)に、僧伽を支えてきた無数の求道者が値遇したことを現わそうとしているのであろう。そこには、果徳の平等性と共に、因位の差異を表している様々の名前によって、諸仏それぞれの因位の過程や求道課題の差異が認められているのである。...
公開講座画像
第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①  親鸞聖人のお言葉には、人間存在のもつ実相への深い洞察とそこから染み出てくるような懺悔の心が感じられる。このことには、その背後に『大無量寿経』にまで煮詰められた大乗仏道の菩提心の歴史があるのであろう。総願から別願を開示して、この大乗の菩提心を掘り下げるべく歩みを進めるところに、「法蔵菩薩」なる人間像が生み出されてきている。...
公開講座画像
第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬  本願によって衆生に開かれる「宗教的実存」とは、いかなる構造として表現し得るものであろうか。その構造解明の手がかりを、横と竪という菩提心のありかたから探ってみた。そして我らに開かれる信心の意味に、この世での生き方に対して、超越的で立体的な空間として本願の信仰空間と言うべきありかたが、教えられていることを了解した。...

テーマ別アーカイブ

投稿者:shinran-bc 投稿日時:

第82回「生きている〈場〉の展開」⑩

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「場」ということで「浄土」のもつ現代的な意味を考えようとしているのだが、もともと『大無量寿経』の浄土は、法蔵願心が衆生救済の悲願を成就すべく「五劫思惟(ごこうしゆい)」し「兆載永劫(ちょうさいようこう)」に修行して積み上げた功徳によって「荘厳(しょうごん)」した場所である。その物語の意味を、衆生にはたらくものとして仏の名を案じ出し、その名によって衆生に届けようとするのだ、といただいたのが親鸞の回向の理解だったのではないか。大悲が「回向を首として」衆生にはたらくのだということは、悲願が荘厳した功徳を、名の意義に包含して衆生に回向を通して届けるのだ、ということであろう。

 その届けられる場が、本当に我らの場になってこない、というのが現代の我らの問題である。名がその意味を現代生活に対して十分に表現していないのか、意味発信はしていても受け止める側の受信装置に波長が合わないのか。この問いは、たぶん両面に問題があるとしか言えないのだろうと思う。音は出ていても、聞く耳にその波長が聞こえない時代なのであれば、やはり聞こえるような波長を発信すべきなのではないか。

 死後の異次元空間として一般に定着してしまった「あの世」としての浄土を、「化身土(けしんど)」として批判しそれを超えさせて、本願力に信託するなら名号の信心に浄土の功徳たる「真如一実の功徳大宝海」を身心に満ちあふれるようにいただけるのだ、と親鸞は言われた。この意味を真に現代人の精神のふるさととしての「真実報土」として開示していきたいと思うのである。そのために、「はたらく場」としての浄土ということを、生命科学的な「場所」との対応を通して、考えているのである。

 凡夫が生きているこの濁世は、確かにいかに掃除をしてみても純粋な場所にはならない。だからといって、真実の救済の場を死後にもって行ってしまうのは、無為法(むいほう)とか一如とかを死後の話に追いやることでもある。我らのいのちは諸行無常で有為転変(ういてんぺん)の「いのち」ではあるけれども、その本来のあり方は仏陀の智見から見るなら一如だというところに、正覚から教法が説き出されるとされる意味がある。だから、有為と無為は同次元でぶつかる矛盾概念ではない。いわば、有限と無限の関係の如く、低次元を高次元が包んでいるのであって、それを低次元の延長上に取ってこようとするなら、有限の延長上に(つまり死後に)夢見るしかなくなるのである。

 宗教的な時間とは、この有為と無為の矛盾を同時に一念に立体的に体感することなのではないか。だから、「死して生まれる」とか「前念命終(ぜんねんみょうじゅう)・後念即生(ごねんそくしょう)」という表現も、実体的に身が死ぬことをいうものではないのである。

(2010年3月1日)

最近の投稿を読む

公開講座画像
第231回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」②
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第231回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」②  諸仏の国土とは、大乗仏道の歴史が見出した大いなる法界(大乗無上の菩提の内容)に、僧伽を支えてきた無数の求道者が値遇したことを現わそうとしているのであろう。そこには、果徳の平等性と共に、因位の差異を表している様々の名前によって、諸仏それぞれの因位の過程や求道課題の差異が認められているのである。...
公開講座画像
第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①  親鸞聖人のお言葉には、人間存在のもつ実相への深い洞察とそこから染み出てくるような懺悔の心が感じられる。このことには、その背後に『大無量寿経』にまで煮詰められた大乗仏道の菩提心の歴史があるのであろう。総願から別願を開示して、この大乗の菩提心を掘り下げるべく歩みを進めるところに、「法蔵菩薩」なる人間像が生み出されてきている。...
公開講座画像
第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬  本願によって衆生に開かれる「宗教的実存」とは、いかなる構造として表現し得るものであろうか。その構造解明の手がかりを、横と竪という菩提心のありかたから探ってみた。そして我らに開かれる信心の意味に、この世での生き方に対して、超越的で立体的な空間として本願の信仰空間と言うべきありかたが、教えられていることを了解した。...

テーマ別アーカイブ

投稿者:shinran-bc 投稿日時:

第81回「生きている〈場〉の展開」⑨

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 生きている場ということで考えているのだが、それは人間の精神生活にとって、生きていることを支えている「場所」というものが、いかに大きなはたらきをしているか、ということの捉(とら)え直しの作業でもある。この場合の「場所」とは、いうまでもなく単なる空間的場所や環境的場所にとどまるのでなく、存在を支える作用の全体をも指し示し、さらには論理構造を支えるような次元の意味をも含んでいる。

 西田幾多郎(1870〜1945)に「場所的論理」という発想があるが、主語的論理に対して述語的論理というか、主語を包摂する存在全体としての述語面というか、そういうことをも包みつつ、人間精神の閉鎖性を本当に開放するための自覚契機として、「場所」を通して教えが立てられている浄土教の積極的な意味を掘り起こそうという試みでもある。

 主語がどうしても個我的な殻を破れないのに対し、場所は始めから自他を包んでいるところがある。清水博先生の提出しておられる「卵」のイメージでいえば、いくつかの割られた卵の集合で、黄身が主語的であるのに対し、白身は黄身を包みながら他との境が溶けて入り混じっている、いわば場所なのであるとされる。浄土のイメージもたとえ真実報土の往生人は、いかに「虚無(こむ)之身・無極(むごく)之体」(『大無量寿経』、『真宗聖典』39頁)であると言われていても、なにがしか誰それのはたらきと名付けられてしまう滓(かす)がイメージに残るのだが、場所としての報土には「無量光明土」としての全体性で一切を包摂するはたらきのみが感じられるところである。

 本願が場所を呼びかけ、呼びかけられる我ら凡愚が、「願生」の意欲に立ち上がるのは、「本願を信受するは、前念命終(ぜんねんみょうじゅう)なり」(『真宗聖典』430頁)という個我の命終をくぐってであるとされる。曽我量深(1875〜1971)の「信に死し、願に生きよ」とは、「我信ず」というところに、「我執」に死んで、「本願の場」たる浄土に生命を頂くということだ、ということであろう。「即得往生」の「即」とは「不一不異」を現す大乗的論理の言語である。凡夫が煩悩を消し失わずして、浄土の光明の利益を得る。つまり、無明の黒闇を破して、光明の広海に浮かぶことを得るのである。場がこの時には、限界を持たない明るみであるから、無辺光であり、何ものにも妨げられないから、無碍光なのである。それを無量光明土というのである。

 こういう限界と妨げを突破する場所的はたらきを要求するとき、個我の閉鎖性も邪魔することがないし、現実の諸条件が行く手を拒むこともない。無限に大海原の航海がひろびろと渡っていけるというのである。

(2010年2月1日)

最近の投稿を読む

公開講座画像
第231回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」②
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第231回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」②  諸仏の国土とは、大乗仏道の歴史が見出した大いなる法界(大乗無上の菩提の内容)に、僧伽を支えてきた無数の求道者が値遇したことを現わそうとしているのであろう。そこには、果徳の平等性と共に、因位の差異を表している様々の名前によって、諸仏それぞれの因位の過程や求道課題の差異が認められているのである。...
公開講座画像
第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①  親鸞聖人のお言葉には、人間存在のもつ実相への深い洞察とそこから染み出てくるような懺悔の心が感じられる。このことには、その背後に『大無量寿経』にまで煮詰められた大乗仏道の菩提心の歴史があるのであろう。総願から別願を開示して、この大乗の菩提心を掘り下げるべく歩みを進めるところに、「法蔵菩薩」なる人間像が生み出されてきている。...
公開講座画像
第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬  本願によって衆生に開かれる「宗教的実存」とは、いかなる構造として表現し得るものであろうか。その構造解明の手がかりを、横と竪という菩提心のありかたから探ってみた。そして我らに開かれる信心の意味に、この世での生き方に対して、超越的で立体的な空間として本願の信仰空間と言うべきありかたが、教えられていることを了解した。...

テーマ別アーカイブ

投稿者:shinran-bc 投稿日時:

第80回「生きている〈場〉の展開」⑧

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 この世界に生存を与えられるということは、近くは両親の出遇いによって、子として誕生することである。その両親が出遇うということの背景には、両親のそれぞれの生存もまたその両親の親の出遇いがあって与えられるということがある。それをどこまでもたどっていくなら、「無始以来」といわれるような神話的時間の背景を、われわれの個の実存は与えられているということになる。「無始よりこのかた、乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染(えあくわぜん)にして」(『教行信証』、『真宗聖典』225頁)と親鸞が語る自覚には、かくのごとき自己の背景が付帯しているという感覚があるのであろう。

 その深い背景であるような時間を「竪に」超えるということは、この時間を過去や未来に延長するような方向を、その方向に添って「超越する」ということなのであろうか。だとすると、いわば、自分の時間感覚の延長でありながら、それを超越するということなのではないか。

 それに対して、「よこさま」に超えるということが、「本願力による」超越であるとは、そういう人間的感覚の延長とは異質の方向を示しているのであろう。我らの「罪悪生死の凡夫」としての世代を重ねた時間を超えてみても、またまた「生死流転」の身を受けるのであり、それを超える方向で、いのちの形としての身を受けることはできない。つまり、個として死んでみても、方向を転ずることはできない。そこに、まったく異なる方向からの、つまり「よこさま」の力がはたらくことによってのみ、生死を「よこさま」に超える方向があり得るのだというのが、「横超断四流(おうちょうだんしる)」(『真宗聖典』243頁参照)なのではないか。その「よこさま」の力が凡夫にはたらく場を、大悲の願力は「本願の報土」として呼びかけているのである。願力所成(しょじょう)の報土といわれる所以である。一切衆生を平等に助けたいという願が、「よこさま」の力の場を、一切の凡夫を場の力のなかで「機」として成長させ、仏者と成らせようとするのである。その場のはたらきを、本願力として現在に感受するなら、その時に神話的時間をも突破して、現在の一念に無始以来の「永劫」の時に匹敵する「兆載永劫(ちょうさいようごう)」の法藏菩薩の修行の恵みを賜るということが、「絶対不二の機」の自覚なのではないかと思うのである。

(2010年1月1日)

最近の投稿を読む

公開講座画像
第231回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」②
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第231回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」②  諸仏の国土とは、大乗仏道の歴史が見出した大いなる法界(大乗無上の菩提の内容)に、僧伽を支えてきた無数の求道者が値遇したことを現わそうとしているのであろう。そこには、果徳の平等性と共に、因位の差異を表している様々の名前によって、諸仏それぞれの因位の過程や求道課題の差異が認められているのである。...
公開講座画像
第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①  親鸞聖人のお言葉には、人間存在のもつ実相への深い洞察とそこから染み出てくるような懺悔の心が感じられる。このことには、その背後に『大無量寿経』にまで煮詰められた大乗仏道の菩提心の歴史があるのであろう。総願から別願を開示して、この大乗の菩提心を掘り下げるべく歩みを進めるところに、「法蔵菩薩」なる人間像が生み出されてきている。...
公開講座画像
第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬  本願によって衆生に開かれる「宗教的実存」とは、いかなる構造として表現し得るものであろうか。その構造解明の手がかりを、横と竪という菩提心のありかたから探ってみた。そして我らに開かれる信心の意味に、この世での生き方に対して、超越的で立体的な空間として本願の信仰空間と言うべきありかたが、教えられていることを了解した。...

テーマ別アーカイブ

投稿者:shinran-bc 投稿日時:

第79回「生きている〈場〉の展開」⑦

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「信の一念」のことに触れたのだが、『大無量寿経』の本願成就の文に「乃至(ないし)一念」(『真宗聖典』44頁)とあるのを、念仏の行為をたとい一回なりとも行うという意味(行の一念)のみに限定したのでは、先回書いたように、行ずる立場や状態によって行の功徳や意味がどうしても異なりを残して、それを超えることが困難であるということから、誰がいかなる状態であろうとも平等の功徳に与(あずか)るはずの如来の願いを明らかにするために、「一念」に如来の回向による「信の一念」という意味を、親鸞は掘り起こしたのではないか、と思う。

 その信の一念には、善導の「横超断四流(おうちょうだんしる)」(『真宗聖典』243頁)といわれるような意義があることを、「信巻」に明らかにされた。その四流とは「生老病死」の四であり、あるいは欲暴・有暴・見暴・無明暴の四であるとも言う。すなわち我らの迷妄の人生の一切を四流で代表し、それを「横さまに」断絶するような意味が、「信の一念」ということによって、我らに開かれるのだ、と言うのである。

 このことと関連して、「行巻」(『真宗聖典』200頁)に「絶対不二の教」と「絶対不二の機」と書いてあることが注意される。念仏と諸善をさまざまな対応概念で比較相対して、「絶対不二の教」であることを言い、また、人間の機類を相対して、金剛の信心が「絶対不二の機」であることを言う。この対応を、『愚禿鈔』(『真宗聖典』430頁参照)にも出しているのだが、『愚禿鈔』においては絶対不二の教と機との間に、本願成就文の「願生彼国(がんしょうひこく) 即得往生(そくとくおうじょう)」についての独自の了解を挟んでいる。

 人間の能力や努力が常に相対的であるのに対して、本願の教えが、「絶対」の意味をもつことを表すのが「絶対不二の教」ということであろう。教が絶対の意味を表すとき、その教えによってそれに触れた凡愚に、「絶対不二の機」という意味が与えられる、ということを示すのである。その絶対の教と絶対の機との間に「願生・得生」という「往生浄土」を内含する言葉を挟んでいる。これは親鸞が、本願による凡夫の救いである「往生浄土」の事実が、実は信心によって絶対不二の機として成り立つということを明らかにしているのである。この「願生彼国 即得往生」を、善導の「前念命終(ぜんねんみょうじゅう) 後念即生(ごねんそくしょう)」に対応させ、「本願を信受するは、前念命終なり」と言い、「即得往生は後念即生」であると記し、それを上段に書いて、その下段に「即入正定聚之数(すなわち正定聚の数に入る)」「即時入必定(即の時必定に入る)」「又名必定菩薩也(また必定の菩薩と名づくるなり)」と記入している。この上段の信念の内実たる「願生・得生」によって、教が機のうえに成就し、浄土の功徳が凡夫に与えられ、「正定聚・必定菩薩」という位が信心の行者の事実になるのだ、ということを表しているのである。

(2009年12月1日)

最近の投稿を読む

公開講座画像
第231回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」②
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第231回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」②  諸仏の国土とは、大乗仏道の歴史が見出した大いなる法界(大乗無上の菩提の内容)に、僧伽を支えてきた無数の求道者が値遇したことを現わそうとしているのであろう。そこには、果徳の平等性と共に、因位の差異を表している様々の名前によって、諸仏それぞれの因位の過程や求道課題の差異が認められているのである。...
公開講座画像
第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①  親鸞聖人のお言葉には、人間存在のもつ実相への深い洞察とそこから染み出てくるような懺悔の心が感じられる。このことには、その背後に『大無量寿経』にまで煮詰められた大乗仏道の菩提心の歴史があるのであろう。総願から別願を開示して、この大乗の菩提心を掘り下げるべく歩みを進めるところに、「法蔵菩薩」なる人間像が生み出されてきている。...
公開講座画像
第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬  本願によって衆生に開かれる「宗教的実存」とは、いかなる構造として表現し得るものであろうか。その構造解明の手がかりを、横と竪という菩提心のありかたから探ってみた。そして我らに開かれる信心の意味に、この世での生き方に対して、超越的で立体的な空間として本願の信仰空間と言うべきありかたが、教えられていることを了解した。...

テーマ別アーカイブ

投稿者:shinran-bc 投稿日時:

第78回「生きている〈場〉の展開」⑥

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「信の一念」(『真宗聖典』239頁参照)ということは、念仏を行ずる衆生の心に与えられる事柄である。この問題を親鸞が提起したのは、行者が念仏を行ずるということについて、どうしても自分たち衆生の状況についての差違を気にしたり、比較対照して上下差別を付けたりしてしまうからであった。吉水の法然門下には、学問の宗を異にしながらも、同じ念仏に帰して同門の徒となっている人々がいた。だから、行は同じだが、それを修している心は、当然異なっていると感じられていたのであろう。ということは、自力の修行や学問に心を残しながら、念仏を行じているということである。「同一念仏」といいながら、こころはひとつでない、ということの問題が、「一念義」「多念義」とか「有念」「無念」という理解の分かれにもなってきていたのである。

 「こころはひとつにあらねども 雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)これにたり」と和讃に詠(うた)われているが、人間の努力の形ではいかに似たように見えていても、本当にひとつには成り得ないのである。そういう諸種の雑心が混ざっている求道心で、法然上人のご信心と同一の救いを得られるのか、もし得られるなら、どのようにして獲得できるのか。どういう根拠によって自己のこころが、師法然と同じだと言いうるのか。この問いは、親鸞にとっては法然門下への入門の時点で、きっと厳しく自己に問われていたのではなかったかと思う。その根拠を「弥陀の本願に依る」のだ、と確信したのが、「雑行を棄てて、本願に帰す」(『教行信証』、『真宗聖典』399頁)という表現に込められている意味なのではないか、と思う。

 だから、源空上人法然の門下になったからには、上人の信心と入門したばかりの親鸞と、「信心においては同一」であるという確信を、本人としては得ていたのではなかろうか。しかし、それを師からも、また同門の先輩たちからも認めて貰うには、長い確認の時間が必要であった。その過程で提起された問答が「信心同一」の論争であったのではないか。そして、誰にあっても念仏にたまわるこころは平等であるという言明を上人から頂き、それを「本願成就の文」の「至心回向」の解明によって、「信の一念」の内容に確証していったのではなかったかと思うのである。

(2009年11月1日)

最近の投稿を読む

公開講座画像
第231回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」②
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第231回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」②  諸仏の国土とは、大乗仏道の歴史が見出した大いなる法界(大乗無上の菩提の内容)に、僧伽を支えてきた無数の求道者が値遇したことを現わそうとしているのであろう。そこには、果徳の平等性と共に、因位の差異を表している様々の名前によって、諸仏それぞれの因位の過程や求道課題の差異が認められているのである。...
公開講座画像
第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①  親鸞聖人のお言葉には、人間存在のもつ実相への深い洞察とそこから染み出てくるような懺悔の心が感じられる。このことには、その背後に『大無量寿経』にまで煮詰められた大乗仏道の菩提心の歴史があるのであろう。総願から別願を開示して、この大乗の菩提心を掘り下げるべく歩みを進めるところに、「法蔵菩薩」なる人間像が生み出されてきている。...
公開講座画像
第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬  本願によって衆生に開かれる「宗教的実存」とは、いかなる構造として表現し得るものであろうか。その構造解明の手がかりを、横と竪という菩提心のありかたから探ってみた。そして我らに開かれる信心の意味に、この世での生き方に対して、超越的で立体的な空間として本願の信仰空間と言うべきありかたが、教えられていることを了解した。...

テーマ別アーカイブ

投稿者:shinran-bc 投稿日時:

第77回「生きている〈場〉の展開」⑤

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 正定聚(しょうじょうじゅ)に住することを、「住不退転(じゅうふたいてん)」ともいう。退転しないという位に立つということである。これに対して、退転の危機をいつも感じながら生きているのが、我ら凡夫であろう。何かに向かって生きていこうとするとき、時間とともに、また状況の変化とともに、初一念は忘れられていく。ものごとを実行するには、初一念に帰れということが言われるが、その初めの頃のういういしい感動や意欲が、この世の濁流の中を生きる間に雲散霧消してしまうのである。だから、仏道への志願を失うことのない環境を浄土において与えよう、というのが「即得往生(そくとくおうじょう) 住不退転」(『大無量寿経』、『真宗聖典』44頁)の本来の意味であろう。

 ところが、親鸞は現生に本願の信心を得れば、「不退転に住する」ことを得るのだという。だから、住正定聚と住不退転は、同義であるというのである。このことをはっきりと見定めたのは、本願成就の文の「至心回向(ししんえこう) 願生彼国(がんしょうひこく) 即得往生 住不退転」(『真宗聖典』44頁)とある「至心回向」の意味とはたらきとに、自力の回向を破って起こってくる「本願力回向」という根本的な意味を発見したからだったのであろう。

 本願成就の文を、前半は「本願信心の願成就の文」(『教行信証』、『真宗聖典』228頁)といい、後半を「本願の欲生心(よくしょうしん)成就の文」(同、『真宗聖典』233頁)という。「聞其名号 信心歓喜 乃至一念(もんごみょうごう しんじんかんぎ ないしいちねん)」が前半であり、「至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転 唯除五逆・誹謗正法(ゆいじょごぎゃく ひほうしょうぼう)」が後半である。この後半の文の意味を読み解いて、親鸞は「現生(げんしょう)正定聚」ということを明白にしていったのである。欲生心を如来招喚(しょうかん)の勅命であると感受するのは、我らの意欲より深く大悲が歩み続けて、我らの意欲を転換させるまでに成長するということであろう。如来回向の欲生心が成就するとき、我らの聞名の生活には、「願生彼国 即得往生 住不退転」の事実が、一念の信心(信の一念)の中に、すでに成就してきているのだ、と親鸞はいただいたのである。それで、現生に「不退転」が成り立っていると信受することができるのである。 しかしながら、闇夜をさまよう迷没の凡夫に、浄土の功徳である「正定聚」・「不退転」が事実として与えられるということは、教義学として主張するのみではほとんど意味がない。現実の苦悩の生活に、どうして如来の救済が届いていると言えるのか。それには、信の一念の内面の構造を少し掘り下げて考察することが要求されると思うのである。

(2009年10月1日)

最近の投稿を読む

公開講座画像
第231回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」②
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第231回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」②  諸仏の国土とは、大乗仏道の歴史が見出した大いなる法界(大乗無上の菩提の内容)に、僧伽を支えてきた無数の求道者が値遇したことを現わそうとしているのであろう。そこには、果徳の平等性と共に、因位の差異を表している様々の名前によって、諸仏それぞれの因位の過程や求道課題の差異が認められているのである。...
公開講座画像
第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①  親鸞聖人のお言葉には、人間存在のもつ実相への深い洞察とそこから染み出てくるような懺悔の心が感じられる。このことには、その背後に『大無量寿経』にまで煮詰められた大乗仏道の菩提心の歴史があるのであろう。総願から別願を開示して、この大乗の菩提心を掘り下げるべく歩みを進めるところに、「法蔵菩薩」なる人間像が生み出されてきている。...
公開講座画像
第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬  本願によって衆生に開かれる「宗教的実存」とは、いかなる構造として表現し得るものであろうか。その構造解明の手がかりを、横と竪という菩提心のありかたから探ってみた。そして我らに開かれる信心の意味に、この世での生き方に対して、超越的で立体的な空間として本願の信仰空間と言うべきありかたが、教えられていることを了解した。...

テーマ別アーカイブ

投稿者:shinran-bc 投稿日時:

第76回「生きている〈場〉の展開」④

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)が成り立つことを、親鸞は「行巻」(『教行信証』)で語っている。念仏をほめている文章を、歴史の証文として引用し、結びに源空(法然)の『選択集』からの文を置いて、「明らかに知りぬ、これ凡聖自力の行にあらず。かるがゆえに不回向(ふえこう)の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉(ひと)しく選択の大宝海に帰して、念仏成仏すべし」(『真宗聖典』189頁)と押さえた後で、「龍樹大士は『即時入必定(そくじにゅうひつじょう)』と曰えり。曇鸞大師は『入正定聚之数(にゅうしょうじょうじゅししゅ)』と云えり」(『真宗聖典』190頁)と言う。

 凡聖、すなわち一切の求道者、さらには重軽の悪人までも包んで「念仏成仏」が成り立つことを語って、これを成立させる「行」が「不回向の行」であると言い、それによって、「正定聚」が「即時」に、一切の求道者に与えられるのだと言うのである。いうまでもなく、正定聚の利益は、元は浄土の利益であったものを、「念仏」が不回向の行なるがゆえに、さらにいうなら、「大悲回向の行」なるがゆえに、この行を信受するなら、信心の利益として「現生に正定聚に入る」ことができると言われるのである。

 ここにおいて、行ということが、自力から他力へと転換していることを、注目しなければならない。自力ということは、自分の現在置かれている立場や状況から、自分を超えた仏の境地への飛躍を、自分の努力の積み重ねで完成させようとする態度のことである。これは私たちのこの世での生活態度に根ざした、一般常識の立場であるともいえよう。それに対して、「不回向」とか「他力の回向」ということはどういうことなのか。

 こちらから彼方へという方向性で問題を克服しようとするかぎり、「自力」の常識を消すことはできないのではないか。親鸞が「自力」を否定するのは、その方向性自体を反転することを呼びかけているのではないか。つまり、こちらから向こうへという発想ではなくして、向こうからこちらへの大いなるはたらきがあると気付くことが、「他力」なのだということではないか。だから、「回向」はこちらからは「不要」なのであり、向こうから回(めぐ)らし向けて来ていると気づくべきだ、というのであろう。他力の行ということは、人間の努力意識や修行してどうにかなっていこうという発想が、全面的に不要な世界であるということであり、無限なる大行が起こっているのだと目覚めることなのであると思う。

(2009年9月1日)

最近の投稿を読む

公開講座画像
第231回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」②
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第231回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」②  諸仏の国土とは、大乗仏道の歴史が見出した大いなる法界(大乗無上の菩提の内容)に、僧伽を支えてきた無数の求道者が値遇したことを現わそうとしているのであろう。そこには、果徳の平等性と共に、因位の差異を表している様々の名前によって、諸仏それぞれの因位の過程や求道課題の差異が認められているのである。...
公開講座画像
第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①  親鸞聖人のお言葉には、人間存在のもつ実相への深い洞察とそこから染み出てくるような懺悔の心が感じられる。このことには、その背後に『大無量寿経』にまで煮詰められた大乗仏道の菩提心の歴史があるのであろう。総願から別願を開示して、この大乗の菩提心を掘り下げるべく歩みを進めるところに、「法蔵菩薩」なる人間像が生み出されてきている。...
公開講座画像
第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬  本願によって衆生に開かれる「宗教的実存」とは、いかなる構造として表現し得るものであろうか。その構造解明の手がかりを、横と竪という菩提心のありかたから探ってみた。そして我らに開かれる信心の意味に、この世での生き方に対して、超越的で立体的な空間として本願の信仰空間と言うべきありかたが、教えられていることを了解した。...

テーマ別アーカイブ