親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

第52回「場について」㉒

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「真実報土は、求めずして与えられる」と曽我量深はいう。しかし、これは何もせずに与えられる、という意味ではない。衆生の要求のごとくに与えられるものではない、というのであって、与えられるためには、必要不可欠の条件がある。それは、衆生が作り出すことを要求するのではなく、衆生自身の有限であることの徹底的な自覚、これが要求されているのである。無限のなかにあって、有限であることを自覚できていない、という構造、これを『歎異抄』は「自力作善(さぜん)のひと」(『真宗聖典』627頁)というのであるが、この構造を破って悪人でしかないという自覚、あるいはまったく無力であり、全面的に本願他力のなかにあるという自覚、この自覚において、「しらず、もとめざるに、功徳の大宝、そのみにみちみつ」(『一念多念文意』、『真宗聖典』544頁)という心眼を恵まれるのである。

 だから、浄土を場として自覚するとは、いわば見えざる無限の大用(だいゆう)、これは自分の意識としては知り得ないのであるが、向こうからは無碍(むげ)にはたらき続けている、このことを信知することなのである。これを、「正信偈」には「煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我(煩悩、眼〈まなこ〉障〈さ〉えて見たてまつらずといえども、大悲倦〈ものう〉きことなく、常に我〈われ〉を照したもう)」(『真宗聖典』207頁)というのである。大悲のはたらきたる本願は、浄土という広大な環境となって衆生を支えようとする。それは『浄土論』の主功徳(しゅくどく)にいわれるように、阿弥陀法王の善住持の力であり、無限なる大悲のはたらきであるから、それを信知する身に、十分に不朽薬のごとき力を与えて信心の身を守るというのである。

 この大悲のはたらきたる場所を、本願力から切り離して、いのちの向こうに表象した場を「方便化身土」というのではないか。だから、「求めて、得られない」ものなのである。「見ることができない」という事実から、自己の有限の自覚を徹底せずに、「得られない」から、死んだ後にきっとあるに相違ないと、「邪定(じゃじょう)」(よこしまに決める)か、「不定(ふじょう)」、つまり決めるわけにもいかずに不安なままに求め続けるか、ということになるのであろう。それに対する「無量光明土」は、直接に見ることができたというような神秘体験ではない。たすかるべき必然性を自己の能力に頼ることを捨てて、大自然の治癒力のごとき大悲願力に帰託するなら、本願力の必然として、向こうからはたらき続け、愚(おろ)かなるわれらにも摂取の光明として感受されてくるものだというのであろう。

(2007年9月1日)

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202305
第251回「存在の故郷」⑥
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第251回「存在の故郷」⑥  仏教一般の了解は、人間の常識にもかなっている自力の次第を是とするから理解しやすいが、他力の次第を信受することは「難中の難」だとされている。それは、生き様の差異を超えてあらゆる衆生が等しく抱える愚かさを見通した、如来の智見によってなされた指摘である。  衆生は有限であり、大悲に背いて自我に執着(我執・法執)し、差別相の表層にこだわり続けている。如来は、大悲の心をもってそのように衆生を見通している。仏陀は、『大無量寿経』や『阿弥陀経』の結びにおいて、そのように見通す如来の智見に衆生が気づくことは困難至極だと注意しているのである。  人間は人の間に生まれ落ち、人間として共同体を生きている。そこに生存が成り立っているのだが、人間として生きるとき、我執によって他人を蹴落としてでも自己の欲望を成就したいというような野心を発(おこ)すのである。仏教では、我執(による欲)は菩提心を碍(さまた)げる罪であり、そういう欲望を極力避けるべきだと教える。  そもそも仏教における罪悪とは、菩提心を碍げるあり方を示す言葉である。その意識作用を「煩悩」と名付けているのである。大乗の仏弟子たちは、菩提心を自己として生活することが求められるのであるから、それを妨げる煩悩に苛まれた自己を克服することが求められる。だから、仏教とは、基本的に「自力」でそのことを実現することであると教えられているのである。  しかし、この自己克服の生活における戦いは、限りなく続くことになる。自己が共同体の中に生存している限り、他を意識せざるをえないし、そこに起こる様々な生活意識には、我執を意識せざるを得ない事態が常に興起するからである。  しかも大乗仏教においては、この我執を完全に克服するのみでなく、さらに利他救済の志願を自己とする存在たることが求められる。それが表現されている。この要求を満足した存在が仏陀であり、すなわち仏陀とは大乗仏教思想が要求した人間の究極的理想像であるとも言えよう。そしてこの仏陀たちが開示する場所が「浄土」として荘厳されている。それが諸仏の浄土である。その諸仏の浄土に対し、一切の衆生を平等にすくい上げる誓願を立てて、その願心を成就する名告りが阿弥陀如来であり、安楽浄土である。その因位の位を「法蔵菩薩」と名付け、その発起してくる起源を、一如宝海であると表現するのである。  法蔵菩薩の願心の前に、個としての自己は、愚かで無能で罪業深重であると懺悔せざるを得ないのである。限りなく我執が発ってしまうことが、人間として生涯にわたって生活することの実態であるからである。しかし、これを見通し、自覚することは困難だと『大無量寿経』や『阿弥陀経』では注意されているのである。 (2024年6月1日) 最近の投稿を読む...
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第250回「存在の故郷」⑤
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第250回「存在の故郷」⑤  大乗仏教では、大涅槃を浄土として荘厳・象徴することによって、とらえがたい大涅槃なるものをイメージとして具体化してきた。また浄土教ではそのイメージに基づいて、浄土往生を実現することが浄土教徒にとっての最終目的のように受けとめられてきた経緯があるわけだが、親鸞は本願の思想に返すことでその考え方を改め、浄土の意味を根本的に考察し直した。  その考察の道筋をたどることは、浄土を実体的な「あの世」とみなし、それを常識としてきた立場からすると受けとめにくいことかもしれない。しかしながら、我々はいま、親鸞が浄土を一如宝海と示して考察した道筋を、『教行信証』の説き方に則しながら考察してみようと思う。  『教行信証』の正式な題名は『顕浄土真実教行証文類』という。この題が示すように、「浄土」を顕(あきら)かにすることが、衆生にとっての根本的な課題なのである。そこで親鸞は、真実の「教行証」という仏道の次第を見出して論じ、その課題に応答している。そして、本願に依って衆生に呼びかける大涅槃への道筋が、「行信」の次第であることを示している。  この次第は、いわゆる仏教一般の受けとめ方とは異なっている。仏教一般で言われる「行」は、信解した教えに基づき自力で涅槃を求めてなされる修行の方法であり、各々その行の功徳によって果である涅槃への道筋が開かれるという理解である。つまり仏道の教を信じて行じた結果が証だという次第になる。この次第は「信・解・行・証」あるいは「教・理・行・果」とも表されるが、これは、この世の一般的な時間における因果の次第と同様の流れであるから、人間の常識からすると理解しやすい。  これに対し、親鸞が出遇った仏道は、本願に依って誓われ一切衆生に平等に開かれる「証大涅槃」の道である。だからして、衆生にとってだれであろうと行ずることができるような「行」、すなわち「易行」が本願によって選び取られているのであり、本願力に依ることによって、個々の衆生の条件によらず、平等に涅槃への必然性が確保されると親鸞は理解する。この本願力を「他力」と言い、衆生がこの他力の次第を信受することが待たれているというわけである。親鸞は、この他力の次第を行から信が開かれてくると了解したのだ。  この他力を信ずるのは、衆生にとっては難中の難であるとされる。それは、各々の衆生の生には、それぞれ異なる多様な縁が絡み付き、その事態に各々が個別に対処しているということがあるからである。だからして、この事態を打破するには、各々の出会う縁に対し、各自がそれぞれ努力するべきだという「自力」の教えが伝承されてしまうのである。 (2024年5月1日) 最近の投稿を読む...
202305
第249回「存在の故郷」④
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第249回「存在の故郷」④  菩提心が菩提を成就するということを、仏教では因果の転換と表現している。そして大乗仏教では、因が果を必然としてはらむ状態を「正定聚」や「不退転」と表現し、阿弥陀如来はその果を確保する手がかりとして、それらを一切の衆生に与えんと、大悲をもって誓っている。阿弥陀如来は、衆生の存在の故郷として仏土を建立するのだが、この国土において衆生に涅槃の超証を必定とする正定聚の位を与えようと誓うのは、菩提という課題を成就するためだとされるのである。  ところで、阿弥陀如来の願心に不退転が誓われていることは、大涅槃に至るという究極的な目的から再考してみると、いかなる意味を持つと言えるだろうか。親鸞はこの内実を、凡夫である自己にとってどのようなことと受けとめたのであろうか。そして、大涅槃が存在の故郷であることは、それが衆生という存在にとって究極の目的であるということにとどまるのであろうか。  ここに、親鸞が『大無量寿経』を「真実の教 浄土真宗」(『教行信証』「総序」、『真宗聖典』初版〔以下、『聖典』〕150頁)と捉えて顕示されたことの意味をしっかり確認しなければなるまい。その問いに向き合う時、親鸞が法蔵菩薩の意味について「この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて、無碍のちかいをおこしたまうをたねとして、阿弥陀仏と、なりたまうがゆえに、報身如来ともうすなり」(『一念多念文意』、『聖典』543頁)と了解されていることが思い合わされる。『大無量寿経』は、「如来の本願を説きて、経の宗致とす」(『教行信証』「教巻」、『聖典』152頁)と押さえられているように、法蔵菩薩の本願を説き表している。その経説が「一如」から出発している教言であると言うのである。一如は、法性や仏性など、大涅槃と同質・同義であるとも注釈されている(『唯信鈔文意』、『聖典』554頁参照)。  法蔵菩薩がこの一如からかたちをあらわした菩薩であるということは、大涅槃が究極の終点ではなく、菩薩道の出発点であるということを暗示していると見ることもできよう。  そもそも我らの生存は、時間的にも空間的にも重々無尽(じゅうじゅうむじん)の因縁関係の中に与えられているのではないか。そして仏陀の教意には、このことを衆生に気づかせようとすることがあるのではないか。釈迦如来が五濁悪世に降誕し無我の覚りを開いた背景には、すでに無窮というもいうべき菩提心の歴史的な歩みがあったと、仏陀自ら聞き当て衆生にもそのように説いてきた。このことは、『大無量寿経』における法蔵菩薩の求道の歩みの、背景が五十三仏の伝承として押さえられていることにも窺うことができる。  かくして、仏法においては無始以来の生命の歴史とも言えるような求道心が教えられ、その教えをしかと受けとめた時、その者は三世諸仏の伝承に入れしめられるとして語られるのであろう。 (2024年4月1日) 最近の投稿を読む...

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第51回「場について」㉑

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 有限なる衆生(しゅじょう)に、限りなき慈愛をもって呼びかけ、待ち続けるはたらきを、ここに生きているわれら凡愚(ぼんぐ)の存在の深みに感ずることがある。この深層からの信頼を、未来からの慈悲(じひ)の眼(まなこ)として教えの形に表(あらわ)してきたのが、阿弥陀如来の本願なのであろう。だから、この深みを有形の言葉にするところに、大きな慈悲のはたらきとしての「大悲方便」があるとされているのである。

 すなわち、深層からの大悲を、あたかも他界からの呼びかけとして語るから方便なのである。内なる深みを、外に表象しないことには、われらの意識には判然としないからである。しかし、いったん表現された他界には、この愚かな自己にはとうてい届かない不透明で不可解なものが蓄積されてくる。そこが、あたかも大悲の呼びかけるわれら衆生の到着点であると思わせられると、文字どおり無能な存在が、死後に救済を任せるしかないような、なにか不本意なものを残した「信心」の強制となるのではないか。

 親鸞は、そういう人間にとって不透明な場所を大悲の根底とすることに、徹底的に逆(さか)らったのではないか、と思う。それで、単なる人間の外であるような他界を、「浄土」と教える場合、「方便化身土(けしんど)」と名づけた。それに対して、「真実報土(ほうど)」と名づけられた浄土は、「無量光明」の「土」(世界)であるというのだ。どこまでも「明るみ」にするはたらきの動いている場所だというのである。光なる如来が、黒闇の衆生界を明るみに転じ続けるはたらきの場所だというのである。そういうふうに、光明土たる大悲の浄土を仰ぐとき、方便化身土も限りなく愚かな衆生を導く過程となって、衆生の自覚を育てる意味をもってくるのである。だから、他界的な浄土をも包んで、大いなる大悲方便のはたらきを仰いでいこうとされたのであろう。

 真実報土は、「われらが求めずして賜(たまわ)る大悲摂化(せっけ)のところにある」。それに対して、方便化身土は、「われらが求めても、決して得ることのない、妄念(もうねん)の世界である」、というのが亡き曽我量深(そがりょうじん:1875~1971)先生の教えである。

(2007年8月1日)

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202305
第251回「存在の故郷」⑥
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第251回「存在の故郷」⑥  仏教一般の了解は、人間の常識にもかなっている自力の次第を是とするから理解しやすいが、他力の次第を信受することは「難中の難」だとされている。それは、生き様の差異を超えてあらゆる衆生が等しく抱える愚かさを見通した、如来の智見によってなされた指摘である。  衆生は有限であり、大悲に背いて自我に執着(我執・法執)し、差別相の表層にこだわり続けている。如来は、大悲の心をもってそのように衆生を見通している。仏陀は、『大無量寿経』や『阿弥陀経』の結びにおいて、そのように見通す如来の智見に衆生が気づくことは困難至極だと注意しているのである。  人間は人の間に生まれ落ち、人間として共同体を生きている。そこに生存が成り立っているのだが、人間として生きるとき、我執によって他人を蹴落としてでも自己の欲望を成就したいというような野心を発(おこ)すのである。仏教では、我執(による欲)は菩提心を碍(さまた)げる罪であり、そういう欲望を極力避けるべきだと教える。  そもそも仏教における罪悪とは、菩提心を碍げるあり方を示す言葉である。その意識作用を「煩悩」と名付けているのである。大乗の仏弟子たちは、菩提心を自己として生活することが求められるのであるから、それを妨げる煩悩に苛まれた自己を克服することが求められる。だから、仏教とは、基本的に「自力」でそのことを実現することであると教えられているのである。  しかし、この自己克服の生活における戦いは、限りなく続くことになる。自己が共同体の中に生存している限り、他を意識せざるをえないし、そこに起こる様々な生活意識には、我執を意識せざるを得ない事態が常に興起するからである。  しかも大乗仏教においては、この我執を完全に克服するのみでなく、さらに利他救済の志願を自己とする存在たることが求められる。それが表現されている。この要求を満足した存在が仏陀であり、すなわち仏陀とは大乗仏教思想が要求した人間の究極的理想像であるとも言えよう。そしてこの仏陀たちが開示する場所が「浄土」として荘厳されている。それが諸仏の浄土である。その諸仏の浄土に対し、一切の衆生を平等にすくい上げる誓願を立てて、その願心を成就する名告りが阿弥陀如来であり、安楽浄土である。その因位の位を「法蔵菩薩」と名付け、その発起してくる起源を、一如宝海であると表現するのである。  法蔵菩薩の願心の前に、個としての自己は、愚かで無能で罪業深重であると懺悔せざるを得ないのである。限りなく我執が発ってしまうことが、人間として生涯にわたって生活することの実態であるからである。しかし、これを見通し、自覚することは困難だと『大無量寿経』や『阿弥陀経』では注意されているのである。 (2024年6月1日) 最近の投稿を読む...
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第250回「存在の故郷」⑤
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第250回「存在の故郷」⑤  大乗仏教では、大涅槃を浄土として荘厳・象徴することによって、とらえがたい大涅槃なるものをイメージとして具体化してきた。また浄土教ではそのイメージに基づいて、浄土往生を実現することが浄土教徒にとっての最終目的のように受けとめられてきた経緯があるわけだが、親鸞は本願の思想に返すことでその考え方を改め、浄土の意味を根本的に考察し直した。  その考察の道筋をたどることは、浄土を実体的な「あの世」とみなし、それを常識としてきた立場からすると受けとめにくいことかもしれない。しかしながら、我々はいま、親鸞が浄土を一如宝海と示して考察した道筋を、『教行信証』の説き方に則しながら考察してみようと思う。  『教行信証』の正式な題名は『顕浄土真実教行証文類』という。この題が示すように、「浄土」を顕(あきら)かにすることが、衆生にとっての根本的な課題なのである。そこで親鸞は、真実の「教行証」という仏道の次第を見出して論じ、その課題に応答している。そして、本願に依って衆生に呼びかける大涅槃への道筋が、「行信」の次第であることを示している。  この次第は、いわゆる仏教一般の受けとめ方とは異なっている。仏教一般で言われる「行」は、信解した教えに基づき自力で涅槃を求めてなされる修行の方法であり、各々その行の功徳によって果である涅槃への道筋が開かれるという理解である。つまり仏道の教を信じて行じた結果が証だという次第になる。この次第は「信・解・行・証」あるいは「教・理・行・果」とも表されるが、これは、この世の一般的な時間における因果の次第と同様の流れであるから、人間の常識からすると理解しやすい。  これに対し、親鸞が出遇った仏道は、本願に依って誓われ一切衆生に平等に開かれる「証大涅槃」の道である。だからして、衆生にとってだれであろうと行ずることができるような「行」、すなわち「易行」が本願によって選び取られているのであり、本願力に依ることによって、個々の衆生の条件によらず、平等に涅槃への必然性が確保されると親鸞は理解する。この本願力を「他力」と言い、衆生がこの他力の次第を信受することが待たれているというわけである。親鸞は、この他力の次第を行から信が開かれてくると了解したのだ。  この他力を信ずるのは、衆生にとっては難中の難であるとされる。それは、各々の衆生の生には、それぞれ異なる多様な縁が絡み付き、その事態に各々が個別に対処しているということがあるからである。だからして、この事態を打破するには、各々の出会う縁に対し、各自がそれぞれ努力するべきだという「自力」の教えが伝承されてしまうのである。 (2024年5月1日) 最近の投稿を読む...
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第249回「存在の故郷」④
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第249回「存在の故郷」④  菩提心が菩提を成就するということを、仏教では因果の転換と表現している。そして大乗仏教では、因が果を必然としてはらむ状態を「正定聚」や「不退転」と表現し、阿弥陀如来はその果を確保する手がかりとして、それらを一切の衆生に与えんと、大悲をもって誓っている。阿弥陀如来は、衆生の存在の故郷として仏土を建立するのだが、この国土において衆生に涅槃の超証を必定とする正定聚の位を与えようと誓うのは、菩提という課題を成就するためだとされるのである。  ところで、阿弥陀如来の願心に不退転が誓われていることは、大涅槃に至るという究極的な目的から再考してみると、いかなる意味を持つと言えるだろうか。親鸞はこの内実を、凡夫である自己にとってどのようなことと受けとめたのであろうか。そして、大涅槃が存在の故郷であることは、それが衆生という存在にとって究極の目的であるということにとどまるのであろうか。  ここに、親鸞が『大無量寿経』を「真実の教 浄土真宗」(『教行信証』「総序」、『真宗聖典』初版〔以下、『聖典』〕150頁)と捉えて顕示されたことの意味をしっかり確認しなければなるまい。その問いに向き合う時、親鸞が法蔵菩薩の意味について「この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて、無碍のちかいをおこしたまうをたねとして、阿弥陀仏と、なりたまうがゆえに、報身如来ともうすなり」(『一念多念文意』、『聖典』543頁)と了解されていることが思い合わされる。『大無量寿経』は、「如来の本願を説きて、経の宗致とす」(『教行信証』「教巻」、『聖典』152頁)と押さえられているように、法蔵菩薩の本願を説き表している。その経説が「一如」から出発している教言であると言うのである。一如は、法性や仏性など、大涅槃と同質・同義であるとも注釈されている(『唯信鈔文意』、『聖典』554頁参照)。  法蔵菩薩がこの一如からかたちをあらわした菩薩であるということは、大涅槃が究極の終点ではなく、菩薩道の出発点であるということを暗示していると見ることもできよう。  そもそも我らの生存は、時間的にも空間的にも重々無尽(じゅうじゅうむじん)の因縁関係の中に与えられているのではないか。そして仏陀の教意には、このことを衆生に気づかせようとすることがあるのではないか。釈迦如来が五濁悪世に降誕し無我の覚りを開いた背景には、すでに無窮というもいうべき菩提心の歴史的な歩みがあったと、仏陀自ら聞き当て衆生にもそのように説いてきた。このことは、『大無量寿経』における法蔵菩薩の求道の歩みの、背景が五十三仏の伝承として押さえられていることにも窺うことができる。  かくして、仏法においては無始以来の生命の歴史とも言えるような求道心が教えられ、その教えをしかと受けとめた時、その者は三世諸仏の伝承に入れしめられるとして語られるのであろう。 (2024年4月1日) 最近の投稿を読む...

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第50回「場について」⑳

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 そもそも浄土は、第一に「罪悪の衆生(しゅじょう)を摂取(せっしゅ)するための大悲の場」であり、第二に「愚(おろ)かなる衆生に仏法の救いを具体化するための場」である、と言った。

 そして、第一の点について、一切衆生を摂取しようとする大悲が、特に、罪業の衆生たる阿闍世(あじゃせ)に一切の「煩悩等を具足(ぐそく)せる者」であると呼びかける『涅槃経(ねはんぎょう)』のことを出した。これはいうまでもなく、親鸞聖人が取り上げているものである。『涅槃経』の教説の意味は、阿闍世だけが罪業の身なのでなく、一切衆生は宿業(しゅくごう)因縁の深みに、同じ罪業の背景を担(にな)っていると見通している大悲の眼がある、というのであろう。その一切の衆生を摂(おさ)め取ろうという願心が、選択(せんじゃく)摂取して、浄土の教法を生み出した、ということである。

 第二の点について考えてみたい。特に、この浄土の教説は、「本為(ほんに)凡夫、兼為聖人(けんにしょうにん)」と言われている。こう言うと、人間に二類あって、その一方に重点がかかるというようだが、それはさておいて、「本為凡夫」ということの意味を押さえておきたい。

 親鸞は「凡夫というは、無明(むみょう)煩悩われらがみにみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』、『真宗聖典』545頁)と言われている。朝から晩まで、起きてから寝るまで、いな、眠っていても夢の中にまで、煩悩と共に生きているのが、われら衆生であるというのである。「煩悩具足」「煩悩成就」の衆生と言われる所以(ゆえん)である。この凡夫を目的として開示されたものが、浄土の教えである、というのである。智慧も浅く、心は煩悩で汚(よご)れており、広大で清浄(しょうじょう)な仏陀の功徳には、まったく触れることさえできない、という深い慙愧(ざんき)の自覚が、一切の煩悩等を具足せる凡夫よ、と呼びかけている如来の言葉に震撼したのである。「一切善悪の凡夫人」(「正信偈」、『真宗聖典』205頁)という言葉もある。凡夫にも、「善・悪」の機類がないわけではない。しかし、表面の生き様には差違があっても、深い宿業の因縁に気づくとき、「罪業深重」の意味は衆生の普遍性だと頷(うなず)けるのである。悲しくも、愚かにして罪のこころを拭(ぬぐ)うこともできない、有限なる生き物なのである。この愚かなる衆生に開示されたものが、浄土の教えであるというのである。

(2007年7月1日)

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第251回「存在の故郷」⑥
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第251回「存在の故郷」⑥  仏教一般の了解は、人間の常識にもかなっている自力の次第を是とするから理解しやすいが、他力の次第を信受することは「難中の難」だとされている。それは、生き様の差異を超えてあらゆる衆生が等しく抱える愚かさを見通した、如来の智見によってなされた指摘である。  衆生は有限であり、大悲に背いて自我に執着(我執・法執)し、差別相の表層にこだわり続けている。如来は、大悲の心をもってそのように衆生を見通している。仏陀は、『大無量寿経』や『阿弥陀経』の結びにおいて、そのように見通す如来の智見に衆生が気づくことは困難至極だと注意しているのである。  人間は人の間に生まれ落ち、人間として共同体を生きている。そこに生存が成り立っているのだが、人間として生きるとき、我執によって他人を蹴落としてでも自己の欲望を成就したいというような野心を発(おこ)すのである。仏教では、我執(による欲)は菩提心を碍(さまた)げる罪であり、そういう欲望を極力避けるべきだと教える。  そもそも仏教における罪悪とは、菩提心を碍げるあり方を示す言葉である。その意識作用を「煩悩」と名付けているのである。大乗の仏弟子たちは、菩提心を自己として生活することが求められるのであるから、それを妨げる煩悩に苛まれた自己を克服することが求められる。だから、仏教とは、基本的に「自力」でそのことを実現することであると教えられているのである。  しかし、この自己克服の生活における戦いは、限りなく続くことになる。自己が共同体の中に生存している限り、他を意識せざるをえないし、そこに起こる様々な生活意識には、我執を意識せざるを得ない事態が常に興起するからである。  しかも大乗仏教においては、この我執を完全に克服するのみでなく、さらに利他救済の志願を自己とする存在たることが求められる。それが表現されている。この要求を満足した存在が仏陀であり、すなわち仏陀とは大乗仏教思想が要求した人間の究極的理想像であるとも言えよう。そしてこの仏陀たちが開示する場所が「浄土」として荘厳されている。それが諸仏の浄土である。その諸仏の浄土に対し、一切の衆生を平等にすくい上げる誓願を立てて、その願心を成就する名告りが阿弥陀如来であり、安楽浄土である。その因位の位を「法蔵菩薩」と名付け、その発起してくる起源を、一如宝海であると表現するのである。  法蔵菩薩の願心の前に、個としての自己は、愚かで無能で罪業深重であると懺悔せざるを得ないのである。限りなく我執が発ってしまうことが、人間として生涯にわたって生活することの実態であるからである。しかし、これを見通し、自覚することは困難だと『大無量寿経』や『阿弥陀経』では注意されているのである。 (2024年6月1日) 最近の投稿を読む...
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第250回「存在の故郷」⑤
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第250回「存在の故郷」⑤  大乗仏教では、大涅槃を浄土として荘厳・象徴することによって、とらえがたい大涅槃なるものをイメージとして具体化してきた。また浄土教ではそのイメージに基づいて、浄土往生を実現することが浄土教徒にとっての最終目的のように受けとめられてきた経緯があるわけだが、親鸞は本願の思想に返すことでその考え方を改め、浄土の意味を根本的に考察し直した。  その考察の道筋をたどることは、浄土を実体的な「あの世」とみなし、それを常識としてきた立場からすると受けとめにくいことかもしれない。しかしながら、我々はいま、親鸞が浄土を一如宝海と示して考察した道筋を、『教行信証』の説き方に則しながら考察してみようと思う。  『教行信証』の正式な題名は『顕浄土真実教行証文類』という。この題が示すように、「浄土」を顕(あきら)かにすることが、衆生にとっての根本的な課題なのである。そこで親鸞は、真実の「教行証」という仏道の次第を見出して論じ、その課題に応答している。そして、本願に依って衆生に呼びかける大涅槃への道筋が、「行信」の次第であることを示している。  この次第は、いわゆる仏教一般の受けとめ方とは異なっている。仏教一般で言われる「行」は、信解した教えに基づき自力で涅槃を求めてなされる修行の方法であり、各々その行の功徳によって果である涅槃への道筋が開かれるという理解である。つまり仏道の教を信じて行じた結果が証だという次第になる。この次第は「信・解・行・証」あるいは「教・理・行・果」とも表されるが、これは、この世の一般的な時間における因果の次第と同様の流れであるから、人間の常識からすると理解しやすい。  これに対し、親鸞が出遇った仏道は、本願に依って誓われ一切衆生に平等に開かれる「証大涅槃」の道である。だからして、衆生にとってだれであろうと行ずることができるような「行」、すなわち「易行」が本願によって選び取られているのであり、本願力に依ることによって、個々の衆生の条件によらず、平等に涅槃への必然性が確保されると親鸞は理解する。この本願力を「他力」と言い、衆生がこの他力の次第を信受することが待たれているというわけである。親鸞は、この他力の次第を行から信が開かれてくると了解したのだ。  この他力を信ずるのは、衆生にとっては難中の難であるとされる。それは、各々の衆生の生には、それぞれ異なる多様な縁が絡み付き、その事態に各々が個別に対処しているということがあるからである。だからして、この事態を打破するには、各々の出会う縁に対し、各自がそれぞれ努力するべきだという「自力」の教えが伝承されてしまうのである。 (2024年5月1日) 最近の投稿を読む...
202305
第249回「存在の故郷」④
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第249回「存在の故郷」④  菩提心が菩提を成就するということを、仏教では因果の転換と表現している。そして大乗仏教では、因が果を必然としてはらむ状態を「正定聚」や「不退転」と表現し、阿弥陀如来はその果を確保する手がかりとして、それらを一切の衆生に与えんと、大悲をもって誓っている。阿弥陀如来は、衆生の存在の故郷として仏土を建立するのだが、この国土において衆生に涅槃の超証を必定とする正定聚の位を与えようと誓うのは、菩提という課題を成就するためだとされるのである。  ところで、阿弥陀如来の願心に不退転が誓われていることは、大涅槃に至るという究極的な目的から再考してみると、いかなる意味を持つと言えるだろうか。親鸞はこの内実を、凡夫である自己にとってどのようなことと受けとめたのであろうか。そして、大涅槃が存在の故郷であることは、それが衆生という存在にとって究極の目的であるということにとどまるのであろうか。  ここに、親鸞が『大無量寿経』を「真実の教 浄土真宗」(『教行信証』「総序」、『真宗聖典』初版〔以下、『聖典』〕150頁)と捉えて顕示されたことの意味をしっかり確認しなければなるまい。その問いに向き合う時、親鸞が法蔵菩薩の意味について「この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて、無碍のちかいをおこしたまうをたねとして、阿弥陀仏と、なりたまうがゆえに、報身如来ともうすなり」(『一念多念文意』、『聖典』543頁)と了解されていることが思い合わされる。『大無量寿経』は、「如来の本願を説きて、経の宗致とす」(『教行信証』「教巻」、『聖典』152頁)と押さえられているように、法蔵菩薩の本願を説き表している。その経説が「一如」から出発している教言であると言うのである。一如は、法性や仏性など、大涅槃と同質・同義であるとも注釈されている(『唯信鈔文意』、『聖典』554頁参照)。  法蔵菩薩がこの一如からかたちをあらわした菩薩であるということは、大涅槃が究極の終点ではなく、菩薩道の出発点であるということを暗示していると見ることもできよう。  そもそも我らの生存は、時間的にも空間的にも重々無尽(じゅうじゅうむじん)の因縁関係の中に与えられているのではないか。そして仏陀の教意には、このことを衆生に気づかせようとすることがあるのではないか。釈迦如来が五濁悪世に降誕し無我の覚りを開いた背景には、すでに無窮というもいうべき菩提心の歴史的な歩みがあったと、仏陀自ら聞き当て衆生にもそのように説いてきた。このことは、『大無量寿経』における法蔵菩薩の求道の歩みの、背景が五十三仏の伝承として押さえられていることにも窺うことができる。  かくして、仏法においては無始以来の生命の歴史とも言えるような求道心が教えられ、その教えをしかと受けとめた時、その者は三世諸仏の伝承に入れしめられるとして語られるのであろう。 (2024年4月1日) 最近の投稿を読む...

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第49回「場について」 ⑲

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「純粋未来」とは、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)が一切衆生(いっさいしゅじょう)に大悲の願心(がんしん)を呼びかけるために、「真仏土(しんぶつど)」、すなわち「真実の仏身と仏土」を建立して、その「場所」からのはたらきを、現世の苦悩にあえぐ衆生に与えるときの「現実と大悲」の関係をあらわす時間的表現である。この関係を、次元の差違を超えて現実のほうに引っ張り込もうとすると、有限と無限の混乱を引き起こすので、有限な人生が終結して初めてこの関わりが充足する、と語りかけるしかない。それが、「浄土」は死後にしか関わりがもてない場所だ、と了解されてきた所以(ゆえん)であろう。この間のことを、もう少し考察させていただきたい。

 そもそも「浄土」は、第一に罪悪の衆生を摂取(せっしゅ)するための大悲の場である。そして、第二に愚(おろ)かなる衆生に仏法の救いを具体化するための場である。

 この第一の課題は、実は現実の一個の生存のもつ「宿業(しゅくごう)因縁」からの解放という問題にからんでいる。具体的な実存は、この一個の身体を厳粛に規定され、生きる状況をあたかも運命的に与えられて、投げ出されたごとくに存在するのである。その厳粛性の極(きわ)みは、『涅槃経(ねはんぎょう)』における釈尊の「阿闍世(あじゃせ)」に対する呼びかけの言葉に窺(うかが)うことができよう。仏陀が、「阿闍世は煩悩等を具足(ぐそく)せる者」なのである、と語りかけるのは、衆生の実存は必ず身動きならない限定を受けており、衆生としての生存には「煩悩(ぼんのう)」「罪業(ざいごう)」を逃れるすべがないことを見通しているのである。阿闍世だけが、たまたま父親を殺した罪悪人だということでなく、一切の衆生が、運命的に与えられてくる状況に翻弄(ほんろう)される、苦悩の実存である、ということである。この身動きならない有限の存在に、絶対の解放を与える場所が、光明無量の智慧界たる「浄土」なのである。つまり、無限の大悲がどのような罪悪の因縁に苦しむものをも、救い上げずにはおかないと、摂取のはたらきを恵む場所なのである。

 このことを端的に語るものが、『歎異抄』第三条の「善人(ぜんにん)なおもて往生をとぐ、いわんや悪人(あくにん)をや」(『真宗聖典』627頁)という、いわゆる「悪人正機(しょうき)」の表現である。この善悪は、一応相対的に語られるのだが、本当は一切の衆生は「悪人」、すなわち思うままに生存状況を生きるのでなく、状況に巻き込まれて「宿業」の因縁を生きている悲しき存在たるを自覚せよ、ということなのである。

(2007年6月1日)

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202305
第251回「存在の故郷」⑥
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第251回「存在の故郷」⑥  仏教一般の了解は、人間の常識にもかなっている自力の次第を是とするから理解しやすいが、他力の次第を信受することは「難中の難」だとされている。それは、生き様の差異を超えてあらゆる衆生が等しく抱える愚かさを見通した、如来の智見によってなされた指摘である。  衆生は有限であり、大悲に背いて自我に執着(我執・法執)し、差別相の表層にこだわり続けている。如来は、大悲の心をもってそのように衆生を見通している。仏陀は、『大無量寿経』や『阿弥陀経』の結びにおいて、そのように見通す如来の智見に衆生が気づくことは困難至極だと注意しているのである。  人間は人の間に生まれ落ち、人間として共同体を生きている。そこに生存が成り立っているのだが、人間として生きるとき、我執によって他人を蹴落としてでも自己の欲望を成就したいというような野心を発(おこ)すのである。仏教では、我執(による欲)は菩提心を碍(さまた)げる罪であり、そういう欲望を極力避けるべきだと教える。  そもそも仏教における罪悪とは、菩提心を碍げるあり方を示す言葉である。その意識作用を「煩悩」と名付けているのである。大乗の仏弟子たちは、菩提心を自己として生活することが求められるのであるから、それを妨げる煩悩に苛まれた自己を克服することが求められる。だから、仏教とは、基本的に「自力」でそのことを実現することであると教えられているのである。  しかし、この自己克服の生活における戦いは、限りなく続くことになる。自己が共同体の中に生存している限り、他を意識せざるをえないし、そこに起こる様々な生活意識には、我執を意識せざるを得ない事態が常に興起するからである。  しかも大乗仏教においては、この我執を完全に克服するのみでなく、さらに利他救済の志願を自己とする存在たることが求められる。それが表現されている。この要求を満足した存在が仏陀であり、すなわち仏陀とは大乗仏教思想が要求した人間の究極的理想像であるとも言えよう。そしてこの仏陀たちが開示する場所が「浄土」として荘厳されている。それが諸仏の浄土である。その諸仏の浄土に対し、一切の衆生を平等にすくい上げる誓願を立てて、その願心を成就する名告りが阿弥陀如来であり、安楽浄土である。その因位の位を「法蔵菩薩」と名付け、その発起してくる起源を、一如宝海であると表現するのである。  法蔵菩薩の願心の前に、個としての自己は、愚かで無能で罪業深重であると懺悔せざるを得ないのである。限りなく我執が発ってしまうことが、人間として生涯にわたって生活することの実態であるからである。しかし、これを見通し、自覚することは困難だと『大無量寿経』や『阿弥陀経』では注意されているのである。 (2024年6月1日) 最近の投稿を読む...
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第250回「存在の故郷」⑤
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第250回「存在の故郷」⑤  大乗仏教では、大涅槃を浄土として荘厳・象徴することによって、とらえがたい大涅槃なるものをイメージとして具体化してきた。また浄土教ではそのイメージに基づいて、浄土往生を実現することが浄土教徒にとっての最終目的のように受けとめられてきた経緯があるわけだが、親鸞は本願の思想に返すことでその考え方を改め、浄土の意味を根本的に考察し直した。  その考察の道筋をたどることは、浄土を実体的な「あの世」とみなし、それを常識としてきた立場からすると受けとめにくいことかもしれない。しかしながら、我々はいま、親鸞が浄土を一如宝海と示して考察した道筋を、『教行信証』の説き方に則しながら考察してみようと思う。  『教行信証』の正式な題名は『顕浄土真実教行証文類』という。この題が示すように、「浄土」を顕(あきら)かにすることが、衆生にとっての根本的な課題なのである。そこで親鸞は、真実の「教行証」という仏道の次第を見出して論じ、その課題に応答している。そして、本願に依って衆生に呼びかける大涅槃への道筋が、「行信」の次第であることを示している。  この次第は、いわゆる仏教一般の受けとめ方とは異なっている。仏教一般で言われる「行」は、信解した教えに基づき自力で涅槃を求めてなされる修行の方法であり、各々その行の功徳によって果である涅槃への道筋が開かれるという理解である。つまり仏道の教を信じて行じた結果が証だという次第になる。この次第は「信・解・行・証」あるいは「教・理・行・果」とも表されるが、これは、この世の一般的な時間における因果の次第と同様の流れであるから、人間の常識からすると理解しやすい。  これに対し、親鸞が出遇った仏道は、本願に依って誓われ一切衆生に平等に開かれる「証大涅槃」の道である。だからして、衆生にとってだれであろうと行ずることができるような「行」、すなわち「易行」が本願によって選び取られているのであり、本願力に依ることによって、個々の衆生の条件によらず、平等に涅槃への必然性が確保されると親鸞は理解する。この本願力を「他力」と言い、衆生がこの他力の次第を信受することが待たれているというわけである。親鸞は、この他力の次第を行から信が開かれてくると了解したのだ。  この他力を信ずるのは、衆生にとっては難中の難であるとされる。それは、各々の衆生の生には、それぞれ異なる多様な縁が絡み付き、その事態に各々が個別に対処しているということがあるからである。だからして、この事態を打破するには、各々の出会う縁に対し、各自がそれぞれ努力するべきだという「自力」の教えが伝承されてしまうのである。 (2024年5月1日) 最近の投稿を読む...
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第249回「存在の故郷」④
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第249回「存在の故郷」④  菩提心が菩提を成就するということを、仏教では因果の転換と表現している。そして大乗仏教では、因が果を必然としてはらむ状態を「正定聚」や「不退転」と表現し、阿弥陀如来はその果を確保する手がかりとして、それらを一切の衆生に与えんと、大悲をもって誓っている。阿弥陀如来は、衆生の存在の故郷として仏土を建立するのだが、この国土において衆生に涅槃の超証を必定とする正定聚の位を与えようと誓うのは、菩提という課題を成就するためだとされるのである。  ところで、阿弥陀如来の願心に不退転が誓われていることは、大涅槃に至るという究極的な目的から再考してみると、いかなる意味を持つと言えるだろうか。親鸞はこの内実を、凡夫である自己にとってどのようなことと受けとめたのであろうか。そして、大涅槃が存在の故郷であることは、それが衆生という存在にとって究極の目的であるということにとどまるのであろうか。  ここに、親鸞が『大無量寿経』を「真実の教 浄土真宗」(『教行信証』「総序」、『真宗聖典』初版〔以下、『聖典』〕150頁)と捉えて顕示されたことの意味をしっかり確認しなければなるまい。その問いに向き合う時、親鸞が法蔵菩薩の意味について「この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて、無碍のちかいをおこしたまうをたねとして、阿弥陀仏と、なりたまうがゆえに、報身如来ともうすなり」(『一念多念文意』、『聖典』543頁)と了解されていることが思い合わされる。『大無量寿経』は、「如来の本願を説きて、経の宗致とす」(『教行信証』「教巻」、『聖典』152頁)と押さえられているように、法蔵菩薩の本願を説き表している。その経説が「一如」から出発している教言であると言うのである。一如は、法性や仏性など、大涅槃と同質・同義であるとも注釈されている(『唯信鈔文意』、『聖典』554頁参照)。  法蔵菩薩がこの一如からかたちをあらわした菩薩であるということは、大涅槃が究極の終点ではなく、菩薩道の出発点であるということを暗示していると見ることもできよう。  そもそも我らの生存は、時間的にも空間的にも重々無尽(じゅうじゅうむじん)の因縁関係の中に与えられているのではないか。そして仏陀の教意には、このことを衆生に気づかせようとすることがあるのではないか。釈迦如来が五濁悪世に降誕し無我の覚りを開いた背景には、すでに無窮というもいうべき菩提心の歴史的な歩みがあったと、仏陀自ら聞き当て衆生にもそのように説いてきた。このことは、『大無量寿経』における法蔵菩薩の求道の歩みの、背景が五十三仏の伝承として押さえられていることにも窺うことができる。  かくして、仏法においては無始以来の生命の歴史とも言えるような求道心が教えられ、その教えをしかと受けとめた時、その者は三世諸仏の伝承に入れしめられるとして語られるのであろう。 (2024年4月1日) 最近の投稿を読む...

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第48回「場について」⑱

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「純粋未来」からのはたらきを、本願は「浄土」をとおして具体化する。このことを、生命存在にとっての広い意味での環境たる「場」との関わりとして、涅槃(ねはん)のはたらきを表現するものが「彼岸(ひがん)の浄土」の生命論的意味である、と押さえ直すことにしよう。換言するなら、浄土という形で荘厳された大悲のはたらきは、苦悩の衆生(しゅじょう)を完全円満に救済しようとして、常に一念の未来から、その純粋なる大悲の温かさを煩悩の坩堝(るつぼ)に吹きかけているのだ、とも言えよう。

 大涅槃を「場」として表現することの深層に、衆生を摂化(せっけ)せんがための善巧(ぜんぎょう)があるとは、すでに指摘されてはいるのだが、その意図に生命論的な背景があったということが、いまごろになってわれわれに見えてきた、ということなのである。仏の大悲の善巧が、巧(たく)まずして実に深遠な生命存在の本質を把握しているということなのである。

 しかしここに、忘れてはならない問題が潜(ひそ)んでいる。それは、この純粋未来からのはたらきを表現されたものが「大涅槃」だということである。大涅槃を象徴して、「浄土」として表現しようというのが、阿弥陀の本願なのである。だから、天親菩薩は国土荘厳の一番初めに「清浄(しょうじょう)功徳」を置き、「勝過三界道(しょうがさんがいどう〈『真宗聖典』135頁〉)」と語る。「三界」(衆生が生死流転〈しょうじるてん〉する迷いの世界)を超えるとは、われらの経験界を超越しているということである。つまり、われらの意識の範囲たる「時間」「空間」のなかには、収(おさ)まらないのである。三界を超えた清浄性が、空間のごとくに象徴されるということなのである。空間ならざる空間に、時間ならざる時間を語ろうというので、浄土を「純粋」なる未来と言うのである。

 親鸞の『教行信証』「真仏土巻(しんぶつどのまき)」に「仏性未来」(『真宗聖典』308頁)ということが出ているが、そこに「仏性は、虚空(こくう)のごと」きものだから、過去でも現在でも未来でもないのだが、あえて「未来」と言うのだ、とある。つまり、われわれ煩悩の衆生の意識の対象においては、「有る」とは言えないのだが、仏陀の智見にとっては、一切の衆生に常在していると見通される。そういう仏陀への可能性を仏性未来と言う。こういう超越的な智見からのはたらきを、われら苦悩の実存に呼びかける「場」は、まさに未来から来ると表現される、ということである。

(2007年5月1日)

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202305
第251回「存在の故郷」⑥
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第251回「存在の故郷」⑥  仏教一般の了解は、人間の常識にもかなっている自力の次第を是とするから理解しやすいが、他力の次第を信受することは「難中の難」だとされている。それは、生き様の差異を超えてあらゆる衆生が等しく抱える愚かさを見通した、如来の智見によってなされた指摘である。  衆生は有限であり、大悲に背いて自我に執着(我執・法執)し、差別相の表層にこだわり続けている。如来は、大悲の心をもってそのように衆生を見通している。仏陀は、『大無量寿経』や『阿弥陀経』の結びにおいて、そのように見通す如来の智見に衆生が気づくことは困難至極だと注意しているのである。  人間は人の間に生まれ落ち、人間として共同体を生きている。そこに生存が成り立っているのだが、人間として生きるとき、我執によって他人を蹴落としてでも自己の欲望を成就したいというような野心を発(おこ)すのである。仏教では、我執(による欲)は菩提心を碍(さまた)げる罪であり、そういう欲望を極力避けるべきだと教える。  そもそも仏教における罪悪とは、菩提心を碍げるあり方を示す言葉である。その意識作用を「煩悩」と名付けているのである。大乗の仏弟子たちは、菩提心を自己として生活することが求められるのであるから、それを妨げる煩悩に苛まれた自己を克服することが求められる。だから、仏教とは、基本的に「自力」でそのことを実現することであると教えられているのである。  しかし、この自己克服の生活における戦いは、限りなく続くことになる。自己が共同体の中に生存している限り、他を意識せざるをえないし、そこに起こる様々な生活意識には、我執を意識せざるを得ない事態が常に興起するからである。  しかも大乗仏教においては、この我執を完全に克服するのみでなく、さらに利他救済の志願を自己とする存在たることが求められる。それが表現されている。この要求を満足した存在が仏陀であり、すなわち仏陀とは大乗仏教思想が要求した人間の究極的理想像であるとも言えよう。そしてこの仏陀たちが開示する場所が「浄土」として荘厳されている。それが諸仏の浄土である。その諸仏の浄土に対し、一切の衆生を平等にすくい上げる誓願を立てて、その願心を成就する名告りが阿弥陀如来であり、安楽浄土である。その因位の位を「法蔵菩薩」と名付け、その発起してくる起源を、一如宝海であると表現するのである。  法蔵菩薩の願心の前に、個としての自己は、愚かで無能で罪業深重であると懺悔せざるを得ないのである。限りなく我執が発ってしまうことが、人間として生涯にわたって生活することの実態であるからである。しかし、これを見通し、自覚することは困難だと『大無量寿経』や『阿弥陀経』では注意されているのである。 (2024年6月1日) 最近の投稿を読む...
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第250回「存在の故郷」⑤
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第250回「存在の故郷」⑤  大乗仏教では、大涅槃を浄土として荘厳・象徴することによって、とらえがたい大涅槃なるものをイメージとして具体化してきた。また浄土教ではそのイメージに基づいて、浄土往生を実現することが浄土教徒にとっての最終目的のように受けとめられてきた経緯があるわけだが、親鸞は本願の思想に返すことでその考え方を改め、浄土の意味を根本的に考察し直した。  その考察の道筋をたどることは、浄土を実体的な「あの世」とみなし、それを常識としてきた立場からすると受けとめにくいことかもしれない。しかしながら、我々はいま、親鸞が浄土を一如宝海と示して考察した道筋を、『教行信証』の説き方に則しながら考察してみようと思う。  『教行信証』の正式な題名は『顕浄土真実教行証文類』という。この題が示すように、「浄土」を顕(あきら)かにすることが、衆生にとっての根本的な課題なのである。そこで親鸞は、真実の「教行証」という仏道の次第を見出して論じ、その課題に応答している。そして、本願に依って衆生に呼びかける大涅槃への道筋が、「行信」の次第であることを示している。  この次第は、いわゆる仏教一般の受けとめ方とは異なっている。仏教一般で言われる「行」は、信解した教えに基づき自力で涅槃を求めてなされる修行の方法であり、各々その行の功徳によって果である涅槃への道筋が開かれるという理解である。つまり仏道の教を信じて行じた結果が証だという次第になる。この次第は「信・解・行・証」あるいは「教・理・行・果」とも表されるが、これは、この世の一般的な時間における因果の次第と同様の流れであるから、人間の常識からすると理解しやすい。  これに対し、親鸞が出遇った仏道は、本願に依って誓われ一切衆生に平等に開かれる「証大涅槃」の道である。だからして、衆生にとってだれであろうと行ずることができるような「行」、すなわち「易行」が本願によって選び取られているのであり、本願力に依ることによって、個々の衆生の条件によらず、平等に涅槃への必然性が確保されると親鸞は理解する。この本願力を「他力」と言い、衆生がこの他力の次第を信受することが待たれているというわけである。親鸞は、この他力の次第を行から信が開かれてくると了解したのだ。  この他力を信ずるのは、衆生にとっては難中の難であるとされる。それは、各々の衆生の生には、それぞれ異なる多様な縁が絡み付き、その事態に各々が個別に対処しているということがあるからである。だからして、この事態を打破するには、各々の出会う縁に対し、各自がそれぞれ努力するべきだという「自力」の教えが伝承されてしまうのである。 (2024年5月1日) 最近の投稿を読む...
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第249回「存在の故郷」④
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第249回「存在の故郷」④  菩提心が菩提を成就するということを、仏教では因果の転換と表現している。そして大乗仏教では、因が果を必然としてはらむ状態を「正定聚」や「不退転」と表現し、阿弥陀如来はその果を確保する手がかりとして、それらを一切の衆生に与えんと、大悲をもって誓っている。阿弥陀如来は、衆生の存在の故郷として仏土を建立するのだが、この国土において衆生に涅槃の超証を必定とする正定聚の位を与えようと誓うのは、菩提という課題を成就するためだとされるのである。  ところで、阿弥陀如来の願心に不退転が誓われていることは、大涅槃に至るという究極的な目的から再考してみると、いかなる意味を持つと言えるだろうか。親鸞はこの内実を、凡夫である自己にとってどのようなことと受けとめたのであろうか。そして、大涅槃が存在の故郷であることは、それが衆生という存在にとって究極の目的であるということにとどまるのであろうか。  ここに、親鸞が『大無量寿経』を「真実の教 浄土真宗」(『教行信証』「総序」、『真宗聖典』初版〔以下、『聖典』〕150頁)と捉えて顕示されたことの意味をしっかり確認しなければなるまい。その問いに向き合う時、親鸞が法蔵菩薩の意味について「この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて、無碍のちかいをおこしたまうをたねとして、阿弥陀仏と、なりたまうがゆえに、報身如来ともうすなり」(『一念多念文意』、『聖典』543頁)と了解されていることが思い合わされる。『大無量寿経』は、「如来の本願を説きて、経の宗致とす」(『教行信証』「教巻」、『聖典』152頁)と押さえられているように、法蔵菩薩の本願を説き表している。その経説が「一如」から出発している教言であると言うのである。一如は、法性や仏性など、大涅槃と同質・同義であるとも注釈されている(『唯信鈔文意』、『聖典』554頁参照)。  法蔵菩薩がこの一如からかたちをあらわした菩薩であるということは、大涅槃が究極の終点ではなく、菩薩道の出発点であるということを暗示していると見ることもできよう。  そもそも我らの生存は、時間的にも空間的にも重々無尽(じゅうじゅうむじん)の因縁関係の中に与えられているのではないか。そして仏陀の教意には、このことを衆生に気づかせようとすることがあるのではないか。釈迦如来が五濁悪世に降誕し無我の覚りを開いた背景には、すでに無窮というもいうべき菩提心の歴史的な歩みがあったと、仏陀自ら聞き当て衆生にもそのように説いてきた。このことは、『大無量寿経』における法蔵菩薩の求道の歩みの、背景が五十三仏の伝承として押さえられていることにも窺うことができる。  かくして、仏法においては無始以来の生命の歴史とも言えるような求道心が教えられ、その教えをしかと受けとめた時、その者は三世諸仏の伝承に入れしめられるとして語られるのであろう。 (2024年4月1日) 最近の投稿を読む...

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第47回「場について」⑰

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「場の研究所」所長・東京大学名誉教授の清水博先生が、昨年(2006年)春の親鸞仏教センター主催の「つどい」にご出席くださり、「場」という言葉が話題になっていた折に、「場は未来から来る」という不思議な言葉をお残しになって、さっとお帰りになった。次のお約束があったからである。われわれはそのあとで清水先生のご著書を読ませていただき、お話をうかがう機会を与えられた。そして、生命のもつ二重構造(例えば、身体において無数の細胞が、生き死にを繰り返しながら一つの生命を成り立たせているというような構造)とか、それを成り立たせるはたらきを、「場」として解明されてきたのが、先生のお仕事であり、「場は未来から来る」という表現が、そこから出てきた必然的な言葉であったということを知った。

 浄土教の教えとは、まったく方向が違う科学的関心から、存在の事実を論理化しようとされて、時間が生命に関わるあり方が、「場」という言葉で押さえようとされる問題において、「未来」からはたらくのだ、と言われていたのであった。この言葉が、私たちには、あたかも真の場所は未来にあると語られている「浄土教」の教えと響き合うように思われたのである。

 「大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが〈『真宗聖典』207頁〉)」(大悲倦〈ものう〉きことなく、常に我を照したまう)という「正信偈」の言葉には、本願を信ずるものに、如来の大悲が「常に」われら衆生を包んで見捨てず忘れることなく、「無倦」にはたらいているのだという呼びかけがある。その包摂的なはたらきが、時間的にはただ現在の情念的な温かさということではなく、未だ来たらざる純粋なる如来の光明界からのはたらきなのだ、と考えられたのが曽我量深先生の「純粋未来」という表現であろう。大涅槃(だいねはん)との関わりは、われらの煩悩の次元に対して、純粋未来からの如来の回向によってのみ開けうるということである。大涅槃(一如〈いちにょ〉・法性〈ほっしょう〉・寂滅〈じゃくめつ〉等)から立ち上がって、愚かなるわれらを包み取るべくはたらこうとする大悲の本願は、個々の実存状況の差違を超えて、つまり宿業(しゅくごう)因縁の過去の纏縛(てんばく)を突き破って、平等に純粋なる未来からはたらいて来ようとするのだと言うのである。

(2007年4月1日)

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202305
第251回「存在の故郷」⑥
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第251回「存在の故郷」⑥  仏教一般の了解は、人間の常識にもかなっている自力の次第を是とするから理解しやすいが、他力の次第を信受することは「難中の難」だとされている。それは、生き様の差異を超えてあらゆる衆生が等しく抱える愚かさを見通した、如来の智見によってなされた指摘である。  衆生は有限であり、大悲に背いて自我に執着(我執・法執)し、差別相の表層にこだわり続けている。如来は、大悲の心をもってそのように衆生を見通している。仏陀は、『大無量寿経』や『阿弥陀経』の結びにおいて、そのように見通す如来の智見に衆生が気づくことは困難至極だと注意しているのである。  人間は人の間に生まれ落ち、人間として共同体を生きている。そこに生存が成り立っているのだが、人間として生きるとき、我執によって他人を蹴落としてでも自己の欲望を成就したいというような野心を発(おこ)すのである。仏教では、我執(による欲)は菩提心を碍(さまた)げる罪であり、そういう欲望を極力避けるべきだと教える。  そもそも仏教における罪悪とは、菩提心を碍げるあり方を示す言葉である。その意識作用を「煩悩」と名付けているのである。大乗の仏弟子たちは、菩提心を自己として生活することが求められるのであるから、それを妨げる煩悩に苛まれた自己を克服することが求められる。だから、仏教とは、基本的に「自力」でそのことを実現することであると教えられているのである。  しかし、この自己克服の生活における戦いは、限りなく続くことになる。自己が共同体の中に生存している限り、他を意識せざるをえないし、そこに起こる様々な生活意識には、我執を意識せざるを得ない事態が常に興起するからである。  しかも大乗仏教においては、この我執を完全に克服するのみでなく、さらに利他救済の志願を自己とする存在たることが求められる。それが表現されている。この要求を満足した存在が仏陀であり、すなわち仏陀とは大乗仏教思想が要求した人間の究極的理想像であるとも言えよう。そしてこの仏陀たちが開示する場所が「浄土」として荘厳されている。それが諸仏の浄土である。その諸仏の浄土に対し、一切の衆生を平等にすくい上げる誓願を立てて、その願心を成就する名告りが阿弥陀如来であり、安楽浄土である。その因位の位を「法蔵菩薩」と名付け、その発起してくる起源を、一如宝海であると表現するのである。  法蔵菩薩の願心の前に、個としての自己は、愚かで無能で罪業深重であると懺悔せざるを得ないのである。限りなく我執が発ってしまうことが、人間として生涯にわたって生活することの実態であるからである。しかし、これを見通し、自覚することは困難だと『大無量寿経』や『阿弥陀経』では注意されているのである。 (2024年6月1日) 最近の投稿を読む...
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第250回「存在の故郷」⑤
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第250回「存在の故郷」⑤  大乗仏教では、大涅槃を浄土として荘厳・象徴することによって、とらえがたい大涅槃なるものをイメージとして具体化してきた。また浄土教ではそのイメージに基づいて、浄土往生を実現することが浄土教徒にとっての最終目的のように受けとめられてきた経緯があるわけだが、親鸞は本願の思想に返すことでその考え方を改め、浄土の意味を根本的に考察し直した。  その考察の道筋をたどることは、浄土を実体的な「あの世」とみなし、それを常識としてきた立場からすると受けとめにくいことかもしれない。しかしながら、我々はいま、親鸞が浄土を一如宝海と示して考察した道筋を、『教行信証』の説き方に則しながら考察してみようと思う。  『教行信証』の正式な題名は『顕浄土真実教行証文類』という。この題が示すように、「浄土」を顕(あきら)かにすることが、衆生にとっての根本的な課題なのである。そこで親鸞は、真実の「教行証」という仏道の次第を見出して論じ、その課題に応答している。そして、本願に依って衆生に呼びかける大涅槃への道筋が、「行信」の次第であることを示している。  この次第は、いわゆる仏教一般の受けとめ方とは異なっている。仏教一般で言われる「行」は、信解した教えに基づき自力で涅槃を求めてなされる修行の方法であり、各々その行の功徳によって果である涅槃への道筋が開かれるという理解である。つまり仏道の教を信じて行じた結果が証だという次第になる。この次第は「信・解・行・証」あるいは「教・理・行・果」とも表されるが、これは、この世の一般的な時間における因果の次第と同様の流れであるから、人間の常識からすると理解しやすい。  これに対し、親鸞が出遇った仏道は、本願に依って誓われ一切衆生に平等に開かれる「証大涅槃」の道である。だからして、衆生にとってだれであろうと行ずることができるような「行」、すなわち「易行」が本願によって選び取られているのであり、本願力に依ることによって、個々の衆生の条件によらず、平等に涅槃への必然性が確保されると親鸞は理解する。この本願力を「他力」と言い、衆生がこの他力の次第を信受することが待たれているというわけである。親鸞は、この他力の次第を行から信が開かれてくると了解したのだ。  この他力を信ずるのは、衆生にとっては難中の難であるとされる。それは、各々の衆生の生には、それぞれ異なる多様な縁が絡み付き、その事態に各々が個別に対処しているということがあるからである。だからして、この事態を打破するには、各々の出会う縁に対し、各自がそれぞれ努力するべきだという「自力」の教えが伝承されてしまうのである。 (2024年5月1日) 最近の投稿を読む...
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第249回「存在の故郷」④
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第249回「存在の故郷」④  菩提心が菩提を成就するということを、仏教では因果の転換と表現している。そして大乗仏教では、因が果を必然としてはらむ状態を「正定聚」や「不退転」と表現し、阿弥陀如来はその果を確保する手がかりとして、それらを一切の衆生に与えんと、大悲をもって誓っている。阿弥陀如来は、衆生の存在の故郷として仏土を建立するのだが、この国土において衆生に涅槃の超証を必定とする正定聚の位を与えようと誓うのは、菩提という課題を成就するためだとされるのである。  ところで、阿弥陀如来の願心に不退転が誓われていることは、大涅槃に至るという究極的な目的から再考してみると、いかなる意味を持つと言えるだろうか。親鸞はこの内実を、凡夫である自己にとってどのようなことと受けとめたのであろうか。そして、大涅槃が存在の故郷であることは、それが衆生という存在にとって究極の目的であるということにとどまるのであろうか。  ここに、親鸞が『大無量寿経』を「真実の教 浄土真宗」(『教行信証』「総序」、『真宗聖典』初版〔以下、『聖典』〕150頁)と捉えて顕示されたことの意味をしっかり確認しなければなるまい。その問いに向き合う時、親鸞が法蔵菩薩の意味について「この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて、無碍のちかいをおこしたまうをたねとして、阿弥陀仏と、なりたまうがゆえに、報身如来ともうすなり」(『一念多念文意』、『聖典』543頁)と了解されていることが思い合わされる。『大無量寿経』は、「如来の本願を説きて、経の宗致とす」(『教行信証』「教巻」、『聖典』152頁)と押さえられているように、法蔵菩薩の本願を説き表している。その経説が「一如」から出発している教言であると言うのである。一如は、法性や仏性など、大涅槃と同質・同義であるとも注釈されている(『唯信鈔文意』、『聖典』554頁参照)。  法蔵菩薩がこの一如からかたちをあらわした菩薩であるということは、大涅槃が究極の終点ではなく、菩薩道の出発点であるということを暗示していると見ることもできよう。  そもそも我らの生存は、時間的にも空間的にも重々無尽(じゅうじゅうむじん)の因縁関係の中に与えられているのではないか。そして仏陀の教意には、このことを衆生に気づかせようとすることがあるのではないか。釈迦如来が五濁悪世に降誕し無我の覚りを開いた背景には、すでに無窮というもいうべき菩提心の歴史的な歩みがあったと、仏陀自ら聞き当て衆生にもそのように説いてきた。このことは、『大無量寿経』における法蔵菩薩の求道の歩みの、背景が五十三仏の伝承として押さえられていることにも窺うことができる。  かくして、仏法においては無始以来の生命の歴史とも言えるような求道心が教えられ、その教えをしかと受けとめた時、その者は三世諸仏の伝承に入れしめられるとして語られるのであろう。 (2024年4月1日) 最近の投稿を読む...

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第46回「場について」⑯

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)が「浄土を建設する」ということを自己の根本的な願(がん)として、世自在王仏(せじざいおうぶつ)の前で宣言し、あらゆる諸仏の国土の善悪を覩見(とけん)して、その善なるところを選び取り、悪なるところを択(えら)び捨てて、極善の形を作ろうとする(『仏説無量寿経〈ぶっせつむりょうじゅきょう〉』)。そういう物語の表そうとする意味について、人間の歴史が本当の「国」を求めて、しかも現実には真実の国を見いだすことができなかったということがあるからだ、と言われたのが安田理深(1900〜1982)師であった。

 現実には建設したくとも、権力の固定が始まるやいなや、虚偽と堕落に見舞われて、決して真実の国にはなりえないということが、この世の悲しき歴史なのだ。けれども、人間はこの国土建立の願いを放棄するわけにはいかない。だから、衆生(しゅじょう)の根源の願いを掘り下げて、未来の涅槃界(ねはんがい)を象徴し、一切衆生を救済する場とするのだ、と言われるのである。国土の建設を自己の正覚(しょうがく)のための条件とするということを、法蔵菩薩の誓願(せいがん)が表現している意味の大切さについて、この安田先生の言葉には、なるほどと頷(うなず)かされるところがある。そして、環境としての国土ということは、生命体にとっての絶対必要な条件であるのみならず、ことに人間が社会的な存在であるからには、これを真実の場所として要求せずにはおれないのだということも、あらためて思われるのである。

 しかし、国土ほど人間をたぶらかすものもない。深く人間がその存在の根底に、求めて止(や)まないものがあるからこそ、それを利用して大きく歴史を動かすほどの規模で人間をたぶらかすこともあるのである。それが、近代の国家の為(な)してきた罪悪となったのではなかろうか。だから、この国土建設の願を利用する罪を真から自覚するということは、自己の根底を相対化するつらさに耐えることでもある。そして、この罪に目をつぶることは、自己の根源の深い要求の本質を自覚できないということなのである。

 現在のわれわれは、状況の困難さに目を奪われることなく、この自己の根源の深い要求を自覚することと、その深い要求が方向を変えさせられて犯してきた罪悪の歴史を自覚することを忘れてはなるまい。衆生のそれぞれの本国への要求を、国土建立の悲願として、宿業(しゅくごう)の源泉を洗うがごとくに呼びかけ続ける法蔵菩薩の願心を聞き当てたいものである。

(2007年3月1日)

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第251回「存在の故郷」⑥
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第251回「存在の故郷」⑥  仏教一般の了解は、人間の常識にもかなっている自力の次第を是とするから理解しやすいが、他力の次第を信受することは「難中の難」だとされている。それは、生き様の差異を超えてあらゆる衆生が等しく抱える愚かさを見通した、如来の智見によってなされた指摘である。  衆生は有限であり、大悲に背いて自我に執着(我執・法執)し、差別相の表層にこだわり続けている。如来は、大悲の心をもってそのように衆生を見通している。仏陀は、『大無量寿経』や『阿弥陀経』の結びにおいて、そのように見通す如来の智見に衆生が気づくことは困難至極だと注意しているのである。  人間は人の間に生まれ落ち、人間として共同体を生きている。そこに生存が成り立っているのだが、人間として生きるとき、我執によって他人を蹴落としてでも自己の欲望を成就したいというような野心を発(おこ)すのである。仏教では、我執(による欲)は菩提心を碍(さまた)げる罪であり、そういう欲望を極力避けるべきだと教える。  そもそも仏教における罪悪とは、菩提心を碍げるあり方を示す言葉である。その意識作用を「煩悩」と名付けているのである。大乗の仏弟子たちは、菩提心を自己として生活することが求められるのであるから、それを妨げる煩悩に苛まれた自己を克服することが求められる。だから、仏教とは、基本的に「自力」でそのことを実現することであると教えられているのである。  しかし、この自己克服の生活における戦いは、限りなく続くことになる。自己が共同体の中に生存している限り、他を意識せざるをえないし、そこに起こる様々な生活意識には、我執を意識せざるを得ない事態が常に興起するからである。  しかも大乗仏教においては、この我執を完全に克服するのみでなく、さらに利他救済の志願を自己とする存在たることが求められる。それが表現されている。この要求を満足した存在が仏陀であり、すなわち仏陀とは大乗仏教思想が要求した人間の究極的理想像であるとも言えよう。そしてこの仏陀たちが開示する場所が「浄土」として荘厳されている。それが諸仏の浄土である。その諸仏の浄土に対し、一切の衆生を平等にすくい上げる誓願を立てて、その願心を成就する名告りが阿弥陀如来であり、安楽浄土である。その因位の位を「法蔵菩薩」と名付け、その発起してくる起源を、一如宝海であると表現するのである。  法蔵菩薩の願心の前に、個としての自己は、愚かで無能で罪業深重であると懺悔せざるを得ないのである。限りなく我執が発ってしまうことが、人間として生涯にわたって生活することの実態であるからである。しかし、これを見通し、自覚することは困難だと『大無量寿経』や『阿弥陀経』では注意されているのである。 (2024年6月1日) 最近の投稿を読む...
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第250回「存在の故郷」⑤
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第250回「存在の故郷」⑤  大乗仏教では、大涅槃を浄土として荘厳・象徴することによって、とらえがたい大涅槃なるものをイメージとして具体化してきた。また浄土教ではそのイメージに基づいて、浄土往生を実現することが浄土教徒にとっての最終目的のように受けとめられてきた経緯があるわけだが、親鸞は本願の思想に返すことでその考え方を改め、浄土の意味を根本的に考察し直した。  その考察の道筋をたどることは、浄土を実体的な「あの世」とみなし、それを常識としてきた立場からすると受けとめにくいことかもしれない。しかしながら、我々はいま、親鸞が浄土を一如宝海と示して考察した道筋を、『教行信証』の説き方に則しながら考察してみようと思う。  『教行信証』の正式な題名は『顕浄土真実教行証文類』という。この題が示すように、「浄土」を顕(あきら)かにすることが、衆生にとっての根本的な課題なのである。そこで親鸞は、真実の「教行証」という仏道の次第を見出して論じ、その課題に応答している。そして、本願に依って衆生に呼びかける大涅槃への道筋が、「行信」の次第であることを示している。  この次第は、いわゆる仏教一般の受けとめ方とは異なっている。仏教一般で言われる「行」は、信解した教えに基づき自力で涅槃を求めてなされる修行の方法であり、各々その行の功徳によって果である涅槃への道筋が開かれるという理解である。つまり仏道の教を信じて行じた結果が証だという次第になる。この次第は「信・解・行・証」あるいは「教・理・行・果」とも表されるが、これは、この世の一般的な時間における因果の次第と同様の流れであるから、人間の常識からすると理解しやすい。  これに対し、親鸞が出遇った仏道は、本願に依って誓われ一切衆生に平等に開かれる「証大涅槃」の道である。だからして、衆生にとってだれであろうと行ずることができるような「行」、すなわち「易行」が本願によって選び取られているのであり、本願力に依ることによって、個々の衆生の条件によらず、平等に涅槃への必然性が確保されると親鸞は理解する。この本願力を「他力」と言い、衆生がこの他力の次第を信受することが待たれているというわけである。親鸞は、この他力の次第を行から信が開かれてくると了解したのだ。  この他力を信ずるのは、衆生にとっては難中の難であるとされる。それは、各々の衆生の生には、それぞれ異なる多様な縁が絡み付き、その事態に各々が個別に対処しているということがあるからである。だからして、この事態を打破するには、各々の出会う縁に対し、各自がそれぞれ努力するべきだという「自力」の教えが伝承されてしまうのである。 (2024年5月1日) 最近の投稿を読む...
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第249回「存在の故郷」④
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第249回「存在の故郷」④  菩提心が菩提を成就するということを、仏教では因果の転換と表現している。そして大乗仏教では、因が果を必然としてはらむ状態を「正定聚」や「不退転」と表現し、阿弥陀如来はその果を確保する手がかりとして、それらを一切の衆生に与えんと、大悲をもって誓っている。阿弥陀如来は、衆生の存在の故郷として仏土を建立するのだが、この国土において衆生に涅槃の超証を必定とする正定聚の位を与えようと誓うのは、菩提という課題を成就するためだとされるのである。  ところで、阿弥陀如来の願心に不退転が誓われていることは、大涅槃に至るという究極的な目的から再考してみると、いかなる意味を持つと言えるだろうか。親鸞はこの内実を、凡夫である自己にとってどのようなことと受けとめたのであろうか。そして、大涅槃が存在の故郷であることは、それが衆生という存在にとって究極の目的であるということにとどまるのであろうか。  ここに、親鸞が『大無量寿経』を「真実の教 浄土真宗」(『教行信証』「総序」、『真宗聖典』初版〔以下、『聖典』〕150頁)と捉えて顕示されたことの意味をしっかり確認しなければなるまい。その問いに向き合う時、親鸞が法蔵菩薩の意味について「この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて、無碍のちかいをおこしたまうをたねとして、阿弥陀仏と、なりたまうがゆえに、報身如来ともうすなり」(『一念多念文意』、『聖典』543頁)と了解されていることが思い合わされる。『大無量寿経』は、「如来の本願を説きて、経の宗致とす」(『教行信証』「教巻」、『聖典』152頁)と押さえられているように、法蔵菩薩の本願を説き表している。その経説が「一如」から出発している教言であると言うのである。一如は、法性や仏性など、大涅槃と同質・同義であるとも注釈されている(『唯信鈔文意』、『聖典』554頁参照)。  法蔵菩薩がこの一如からかたちをあらわした菩薩であるということは、大涅槃が究極の終点ではなく、菩薩道の出発点であるということを暗示していると見ることもできよう。  そもそも我らの生存は、時間的にも空間的にも重々無尽(じゅうじゅうむじん)の因縁関係の中に与えられているのではないか。そして仏陀の教意には、このことを衆生に気づかせようとすることがあるのではないか。釈迦如来が五濁悪世に降誕し無我の覚りを開いた背景には、すでに無窮というもいうべき菩提心の歴史的な歩みがあったと、仏陀自ら聞き当て衆生にもそのように説いてきた。このことは、『大無量寿経』における法蔵菩薩の求道の歩みの、背景が五十三仏の伝承として押さえられていることにも窺うことができる。  かくして、仏法においては無始以来の生命の歴史とも言えるような求道心が教えられ、その教えをしかと受けとめた時、その者は三世諸仏の伝承に入れしめられるとして語られるのであろう。 (2024年4月1日) 最近の投稿を読む...

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第45回「場について」⑮

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 昨年(2006年)10月に行われた親鸞仏教センターの「親鸞思想の解明」シンポジウムでは、「場の研究所」を主催しておられる清水博先生(東京大学名誉教授)をお招きして、科学と宗教の接点を探る試みをした。清水先生は、現代の文明の状況をもたらした科学技術の現状と将来の展望には、そのまま座視しておくことができない危機を感じておられる。いままでの科学の論理を、「認識論的論理」であるというなら、これからはこれに「存在論的論理」を組み込む必要がある、もしそれをしないなら、人類は地球もろとも、滅亡を速めていくしかないのではないか、と言われるのである。

 この存在論的論理と「宗教的自覚の論理」とに、深い関係があるに相違(そうい)ないと睨(にら)んでおられるようである。認識論的論理とは、人間の意識の対象を合理的に分析したり、そこから人間に都合がよい部分を取り出して利用したりする発想であろう。実際の存在の事実は、人間を包んではたらく大自然の営みであり、合理化され、対象化される以前の大きなはたらきである。人間に解釈されうる部分はそのほんの一部であり、人間がその一部を操作しすぎることによって、大自然の営みにひずみが生じ、自然の時間が存在の大きな成り立ちを修正し、回復していくよりも、それを崩壊してしまう程度にまで、技術の応用が進展してしまっているのではないかということなのであろう。

 仏教では、人間の理性の営みに、無条件の信頼を置くことはなかった。人間の思考には「無明(むみょう)」が蔽(おお)っている、と自覚するように教えてきた。この無明とは、真実の存在を自覚させないはたらきである。その正体を「自我の執心(しゅうしん)」であると押さえたのが、仏陀の智慧(ちえ)であった。いかに勝れた人間の合理性であっても、人間的な偏頗(へんぱ)性を逃れられないのである、と。

 人間の合理性があらゆる事象を対象化することを前提にするものが、科学的方法なのであろう。それ自身の危険性をいかにして乗り越えられるのか。これが清水先生の「場」への提言であり、宗教とも接点を求めようとする激しい情念なのではなかろうか。先生の思索の根源には、未来の人類への愛情と現在の状況への深い危機意識があり、ひとたびこれに触れると、論理の難解さを超えた同感を感じるのは、愚生だけではあるまい。

(2007年2月1日)

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第251回「存在の故郷」⑥
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第251回「存在の故郷」⑥  仏教一般の了解は、人間の常識にもかなっている自力の次第を是とするから理解しやすいが、他力の次第を信受することは「難中の難」だとされている。それは、生き様の差異を超えてあらゆる衆生が等しく抱える愚かさを見通した、如来の智見によってなされた指摘である。  衆生は有限であり、大悲に背いて自我に執着(我執・法執)し、差別相の表層にこだわり続けている。如来は、大悲の心をもってそのように衆生を見通している。仏陀は、『大無量寿経』や『阿弥陀経』の結びにおいて、そのように見通す如来の智見に衆生が気づくことは困難至極だと注意しているのである。  人間は人の間に生まれ落ち、人間として共同体を生きている。そこに生存が成り立っているのだが、人間として生きるとき、我執によって他人を蹴落としてでも自己の欲望を成就したいというような野心を発(おこ)すのである。仏教では、我執(による欲)は菩提心を碍(さまた)げる罪であり、そういう欲望を極力避けるべきだと教える。  そもそも仏教における罪悪とは、菩提心を碍げるあり方を示す言葉である。その意識作用を「煩悩」と名付けているのである。大乗の仏弟子たちは、菩提心を自己として生活することが求められるのであるから、それを妨げる煩悩に苛まれた自己を克服することが求められる。だから、仏教とは、基本的に「自力」でそのことを実現することであると教えられているのである。  しかし、この自己克服の生活における戦いは、限りなく続くことになる。自己が共同体の中に生存している限り、他を意識せざるをえないし、そこに起こる様々な生活意識には、我執を意識せざるを得ない事態が常に興起するからである。  しかも大乗仏教においては、この我執を完全に克服するのみでなく、さらに利他救済の志願を自己とする存在たることが求められる。それが表現されている。この要求を満足した存在が仏陀であり、すなわち仏陀とは大乗仏教思想が要求した人間の究極的理想像であるとも言えよう。そしてこの仏陀たちが開示する場所が「浄土」として荘厳されている。それが諸仏の浄土である。その諸仏の浄土に対し、一切の衆生を平等にすくい上げる誓願を立てて、その願心を成就する名告りが阿弥陀如来であり、安楽浄土である。その因位の位を「法蔵菩薩」と名付け、その発起してくる起源を、一如宝海であると表現するのである。  法蔵菩薩の願心の前に、個としての自己は、愚かで無能で罪業深重であると懺悔せざるを得ないのである。限りなく我執が発ってしまうことが、人間として生涯にわたって生活することの実態であるからである。しかし、これを見通し、自覚することは困難だと『大無量寿経』や『阿弥陀経』では注意されているのである。 (2024年6月1日) 最近の投稿を読む...
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第250回「存在の故郷」⑤
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第250回「存在の故郷」⑤  大乗仏教では、大涅槃を浄土として荘厳・象徴することによって、とらえがたい大涅槃なるものをイメージとして具体化してきた。また浄土教ではそのイメージに基づいて、浄土往生を実現することが浄土教徒にとっての最終目的のように受けとめられてきた経緯があるわけだが、親鸞は本願の思想に返すことでその考え方を改め、浄土の意味を根本的に考察し直した。  その考察の道筋をたどることは、浄土を実体的な「あの世」とみなし、それを常識としてきた立場からすると受けとめにくいことかもしれない。しかしながら、我々はいま、親鸞が浄土を一如宝海と示して考察した道筋を、『教行信証』の説き方に則しながら考察してみようと思う。  『教行信証』の正式な題名は『顕浄土真実教行証文類』という。この題が示すように、「浄土」を顕(あきら)かにすることが、衆生にとっての根本的な課題なのである。そこで親鸞は、真実の「教行証」という仏道の次第を見出して論じ、その課題に応答している。そして、本願に依って衆生に呼びかける大涅槃への道筋が、「行信」の次第であることを示している。  この次第は、いわゆる仏教一般の受けとめ方とは異なっている。仏教一般で言われる「行」は、信解した教えに基づき自力で涅槃を求めてなされる修行の方法であり、各々その行の功徳によって果である涅槃への道筋が開かれるという理解である。つまり仏道の教を信じて行じた結果が証だという次第になる。この次第は「信・解・行・証」あるいは「教・理・行・果」とも表されるが、これは、この世の一般的な時間における因果の次第と同様の流れであるから、人間の常識からすると理解しやすい。  これに対し、親鸞が出遇った仏道は、本願に依って誓われ一切衆生に平等に開かれる「証大涅槃」の道である。だからして、衆生にとってだれであろうと行ずることができるような「行」、すなわち「易行」が本願によって選び取られているのであり、本願力に依ることによって、個々の衆生の条件によらず、平等に涅槃への必然性が確保されると親鸞は理解する。この本願力を「他力」と言い、衆生がこの他力の次第を信受することが待たれているというわけである。親鸞は、この他力の次第を行から信が開かれてくると了解したのだ。  この他力を信ずるのは、衆生にとっては難中の難であるとされる。それは、各々の衆生の生には、それぞれ異なる多様な縁が絡み付き、その事態に各々が個別に対処しているということがあるからである。だからして、この事態を打破するには、各々の出会う縁に対し、各自がそれぞれ努力するべきだという「自力」の教えが伝承されてしまうのである。 (2024年5月1日) 最近の投稿を読む...
202305
第249回「存在の故郷」④
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第249回「存在の故郷」④  菩提心が菩提を成就するということを、仏教では因果の転換と表現している。そして大乗仏教では、因が果を必然としてはらむ状態を「正定聚」や「不退転」と表現し、阿弥陀如来はその果を確保する手がかりとして、それらを一切の衆生に与えんと、大悲をもって誓っている。阿弥陀如来は、衆生の存在の故郷として仏土を建立するのだが、この国土において衆生に涅槃の超証を必定とする正定聚の位を与えようと誓うのは、菩提という課題を成就するためだとされるのである。  ところで、阿弥陀如来の願心に不退転が誓われていることは、大涅槃に至るという究極的な目的から再考してみると、いかなる意味を持つと言えるだろうか。親鸞はこの内実を、凡夫である自己にとってどのようなことと受けとめたのであろうか。そして、大涅槃が存在の故郷であることは、それが衆生という存在にとって究極の目的であるということにとどまるのであろうか。  ここに、親鸞が『大無量寿経』を「真実の教 浄土真宗」(『教行信証』「総序」、『真宗聖典』初版〔以下、『聖典』〕150頁)と捉えて顕示されたことの意味をしっかり確認しなければなるまい。その問いに向き合う時、親鸞が法蔵菩薩の意味について「この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて、無碍のちかいをおこしたまうをたねとして、阿弥陀仏と、なりたまうがゆえに、報身如来ともうすなり」(『一念多念文意』、『聖典』543頁)と了解されていることが思い合わされる。『大無量寿経』は、「如来の本願を説きて、経の宗致とす」(『教行信証』「教巻」、『聖典』152頁)と押さえられているように、法蔵菩薩の本願を説き表している。その経説が「一如」から出発している教言であると言うのである。一如は、法性や仏性など、大涅槃と同質・同義であるとも注釈されている(『唯信鈔文意』、『聖典』554頁参照)。  法蔵菩薩がこの一如からかたちをあらわした菩薩であるということは、大涅槃が究極の終点ではなく、菩薩道の出発点であるということを暗示していると見ることもできよう。  そもそも我らの生存は、時間的にも空間的にも重々無尽(じゅうじゅうむじん)の因縁関係の中に与えられているのではないか。そして仏陀の教意には、このことを衆生に気づかせようとすることがあるのではないか。釈迦如来が五濁悪世に降誕し無我の覚りを開いた背景には、すでに無窮というもいうべき菩提心の歴史的な歩みがあったと、仏陀自ら聞き当て衆生にもそのように説いてきた。このことは、『大無量寿経』における法蔵菩薩の求道の歩みの、背景が五十三仏の伝承として押さえられていることにも窺うことができる。  かくして、仏法においては無始以来の生命の歴史とも言えるような求道心が教えられ、その教えをしかと受けとめた時、その者は三世諸仏の伝承に入れしめられるとして語られるのであろう。 (2024年4月1日) 最近の投稿を読む...

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第44回「場について」⑭

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 根源にある場を不可思議なる存在の背景と自覚する、ということ。この場は、静止的な地下水の滞留(たいりゅう)のごときものではなく、われらの表層の意識生活へとささやき続ける。いわば、地下のマグマが地層の裂け目を抜けて吹き出すごとく、われらの煩悩生活の隙間を潜(くぐ)って、宗教的要求となって現れ出る。有限なる人間に、無限が自覚されるということは、この不可思議なる噴出に気づくということなのである。

 われらにとっての真の場所とは、このマグマのような力をはらんで、意識生活の根底に静かに燃えている深層の意欲だ、と言えるのではないか。これを、『大無量寿経』を説き出そうとする釈尊は、「本願」として見いだしてきたのであるに相違ない。この根源の場は、一切衆生を平等に摂(せっ)する大地である。この大地が表層の生活に疲れた凡夫に積極的にはたらくことを、「如来の回向(えこう)」という言葉で自覚したのが、親鸞であるということなのだ。親鸞は、凡夫に自覚される一切の宗教的な目覚めの事実を、この根源からのはたらきである回向に由来するものであると見抜いた。修道(しゅうどう)の過程も、その結果である証(あかし)も、この本願の衆生への表現たる回向によって、愚かなわれらに現前することがあり得るのだ。

 大悲の回向によって凡夫に起こる宗教現象を、本願の因果による物語をとおして一切衆生に成り立つ本願成就の救済であるという。その宗教的自覚は、有限なるわれらの努力や意欲のレベルからは決して届くことのない、無限の深みと大いなる力を備えている。それを自覚することを「如来回向の信心」という。われらに起こる自覚ではあっても、われら凡夫の表層意識から涌(わ)いたものではない。存在の根源からの表出なのである。だから、マグマの作用の結果、この地上に現出したもっとも堅い物質〈ダイヤモンド〉に比肩(ひけん)し得るような意識だというのであろう。如来回向の信心は金剛心であると、繰り返して親鸞は確認する。それは、この大地のごとき願心を、動き行く日常の状況に在(あ)りながらしっかりと自覚できるからである、と思うのである。

(2007年1月1日)

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202305
第251回「存在の故郷」⑥
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第251回「存在の故郷」⑥  仏教一般の了解は、人間の常識にもかなっている自力の次第を是とするから理解しやすいが、他力の次第を信受することは「難中の難」だとされている。それは、生き様の差異を超えてあらゆる衆生が等しく抱える愚かさを見通した、如来の智見によってなされた指摘である。  衆生は有限であり、大悲に背いて自我に執着(我執・法執)し、差別相の表層にこだわり続けている。如来は、大悲の心をもってそのように衆生を見通している。仏陀は、『大無量寿経』や『阿弥陀経』の結びにおいて、そのように見通す如来の智見に衆生が気づくことは困難至極だと注意しているのである。  人間は人の間に生まれ落ち、人間として共同体を生きている。そこに生存が成り立っているのだが、人間として生きるとき、我執によって他人を蹴落としてでも自己の欲望を成就したいというような野心を発(おこ)すのである。仏教では、我執(による欲)は菩提心を碍(さまた)げる罪であり、そういう欲望を極力避けるべきだと教える。  そもそも仏教における罪悪とは、菩提心を碍げるあり方を示す言葉である。その意識作用を「煩悩」と名付けているのである。大乗の仏弟子たちは、菩提心を自己として生活することが求められるのであるから、それを妨げる煩悩に苛まれた自己を克服することが求められる。だから、仏教とは、基本的に「自力」でそのことを実現することであると教えられているのである。  しかし、この自己克服の生活における戦いは、限りなく続くことになる。自己が共同体の中に生存している限り、他を意識せざるをえないし、そこに起こる様々な生活意識には、我執を意識せざるを得ない事態が常に興起するからである。  しかも大乗仏教においては、この我執を完全に克服するのみでなく、さらに利他救済の志願を自己とする存在たることが求められる。それが表現されている。この要求を満足した存在が仏陀であり、すなわち仏陀とは大乗仏教思想が要求した人間の究極的理想像であるとも言えよう。そしてこの仏陀たちが開示する場所が「浄土」として荘厳されている。それが諸仏の浄土である。その諸仏の浄土に対し、一切の衆生を平等にすくい上げる誓願を立てて、その願心を成就する名告りが阿弥陀如来であり、安楽浄土である。その因位の位を「法蔵菩薩」と名付け、その発起してくる起源を、一如宝海であると表現するのである。  法蔵菩薩の願心の前に、個としての自己は、愚かで無能で罪業深重であると懺悔せざるを得ないのである。限りなく我執が発ってしまうことが、人間として生涯にわたって生活することの実態であるからである。しかし、これを見通し、自覚することは困難だと『大無量寿経』や『阿弥陀経』では注意されているのである。 (2024年6月1日) 最近の投稿を読む...
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第250回「存在の故郷」⑤
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第250回「存在の故郷」⑤  大乗仏教では、大涅槃を浄土として荘厳・象徴することによって、とらえがたい大涅槃なるものをイメージとして具体化してきた。また浄土教ではそのイメージに基づいて、浄土往生を実現することが浄土教徒にとっての最終目的のように受けとめられてきた経緯があるわけだが、親鸞は本願の思想に返すことでその考え方を改め、浄土の意味を根本的に考察し直した。  その考察の道筋をたどることは、浄土を実体的な「あの世」とみなし、それを常識としてきた立場からすると受けとめにくいことかもしれない。しかしながら、我々はいま、親鸞が浄土を一如宝海と示して考察した道筋を、『教行信証』の説き方に則しながら考察してみようと思う。  『教行信証』の正式な題名は『顕浄土真実教行証文類』という。この題が示すように、「浄土」を顕(あきら)かにすることが、衆生にとっての根本的な課題なのである。そこで親鸞は、真実の「教行証」という仏道の次第を見出して論じ、その課題に応答している。そして、本願に依って衆生に呼びかける大涅槃への道筋が、「行信」の次第であることを示している。  この次第は、いわゆる仏教一般の受けとめ方とは異なっている。仏教一般で言われる「行」は、信解した教えに基づき自力で涅槃を求めてなされる修行の方法であり、各々その行の功徳によって果である涅槃への道筋が開かれるという理解である。つまり仏道の教を信じて行じた結果が証だという次第になる。この次第は「信・解・行・証」あるいは「教・理・行・果」とも表されるが、これは、この世の一般的な時間における因果の次第と同様の流れであるから、人間の常識からすると理解しやすい。  これに対し、親鸞が出遇った仏道は、本願に依って誓われ一切衆生に平等に開かれる「証大涅槃」の道である。だからして、衆生にとってだれであろうと行ずることができるような「行」、すなわち「易行」が本願によって選び取られているのであり、本願力に依ることによって、個々の衆生の条件によらず、平等に涅槃への必然性が確保されると親鸞は理解する。この本願力を「他力」と言い、衆生がこの他力の次第を信受することが待たれているというわけである。親鸞は、この他力の次第を行から信が開かれてくると了解したのだ。  この他力を信ずるのは、衆生にとっては難中の難であるとされる。それは、各々の衆生の生には、それぞれ異なる多様な縁が絡み付き、その事態に各々が個別に対処しているということがあるからである。だからして、この事態を打破するには、各々の出会う縁に対し、各自がそれぞれ努力するべきだという「自力」の教えが伝承されてしまうのである。 (2024年5月1日) 最近の投稿を読む...
202305
第249回「存在の故郷」④
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第249回「存在の故郷」④  菩提心が菩提を成就するということを、仏教では因果の転換と表現している。そして大乗仏教では、因が果を必然としてはらむ状態を「正定聚」や「不退転」と表現し、阿弥陀如来はその果を確保する手がかりとして、それらを一切の衆生に与えんと、大悲をもって誓っている。阿弥陀如来は、衆生の存在の故郷として仏土を建立するのだが、この国土において衆生に涅槃の超証を必定とする正定聚の位を与えようと誓うのは、菩提という課題を成就するためだとされるのである。  ところで、阿弥陀如来の願心に不退転が誓われていることは、大涅槃に至るという究極的な目的から再考してみると、いかなる意味を持つと言えるだろうか。親鸞はこの内実を、凡夫である自己にとってどのようなことと受けとめたのであろうか。そして、大涅槃が存在の故郷であることは、それが衆生という存在にとって究極の目的であるということにとどまるのであろうか。  ここに、親鸞が『大無量寿経』を「真実の教 浄土真宗」(『教行信証』「総序」、『真宗聖典』初版〔以下、『聖典』〕150頁)と捉えて顕示されたことの意味をしっかり確認しなければなるまい。その問いに向き合う時、親鸞が法蔵菩薩の意味について「この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて、無碍のちかいをおこしたまうをたねとして、阿弥陀仏と、なりたまうがゆえに、報身如来ともうすなり」(『一念多念文意』、『聖典』543頁)と了解されていることが思い合わされる。『大無量寿経』は、「如来の本願を説きて、経の宗致とす」(『教行信証』「教巻」、『聖典』152頁)と押さえられているように、法蔵菩薩の本願を説き表している。その経説が「一如」から出発している教言であると言うのである。一如は、法性や仏性など、大涅槃と同質・同義であるとも注釈されている(『唯信鈔文意』、『聖典』554頁参照)。  法蔵菩薩がこの一如からかたちをあらわした菩薩であるということは、大涅槃が究極の終点ではなく、菩薩道の出発点であるということを暗示していると見ることもできよう。  そもそも我らの生存は、時間的にも空間的にも重々無尽(じゅうじゅうむじん)の因縁関係の中に与えられているのではないか。そして仏陀の教意には、このことを衆生に気づかせようとすることがあるのではないか。釈迦如来が五濁悪世に降誕し無我の覚りを開いた背景には、すでに無窮というもいうべき菩提心の歴史的な歩みがあったと、仏陀自ら聞き当て衆生にもそのように説いてきた。このことは、『大無量寿経』における法蔵菩薩の求道の歩みの、背景が五十三仏の伝承として押さえられていることにも窺うことができる。  かくして、仏法においては無始以来の生命の歴史とも言えるような求道心が教えられ、その教えをしかと受けとめた時、その者は三世諸仏の伝承に入れしめられるとして語られるのであろう。 (2024年4月1日) 最近の投稿を読む...

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第43回「場について」⑬

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 大悲とは、「如来の無縁の慈悲」であるという。しかし親鸞は、天親菩薩の『浄土論』の「回向為首得成就大悲心故」(回向を首〈しゅ〉として大悲心を成就することを得るがゆえに)という「回向門」の言葉に着目した。この大悲心は、『浄土論』の展開として一応は、五念門(ごねんもん)を修行して浄土に生まれて往(い)こうとする存在に課せられた問題である。しかし、大悲とあるのだから、曇鸞の教示をくぐったからには、「衆生縁」しか感受できないような衆生、つまり善男子善女人(ぜんなんしぜんにょにん)の起こし得る心とは言えない、と親鸞はいただいた。一切の善男子善女人を浄土の功徳に触れしめようとする「大悲回向」の心、それは如来の分限にのみ可能な心に相違ないのだ。それを『無量寿経』には法蔵菩薩の永劫(ようごう)の修行と語っているのである、と。

 五念門の第五番目の回向門を天親菩薩は「利他」であり、それに先立つ四門は「自利」であるという。しかし、自利を成就して利他が成り立つし、同時に利他を成就してのみ自利が成り立つのだと、繰り返して押さえられている。だから五念門は、一歩一歩、未成熟の菩提心を、時間をかけて成熟させていくということを表すものではない。曇鸞が言っているように、菩薩道の十地(じゅうじ)の展開は、この世の人間に教えるために、一歩一歩進展するように説いているにすぎないのだ。

 ところが、このことをわれらはとても理解しがたい。われらの日常は、時のなかに少しずつ変化したり、熟成したりすることを生活内容としている。一気に、時を破って大木が出てくるなどという『浄土論註』の譬喩(ひゆ)は、ほとんど神話としてしか理解できない。これを如来が果上の功徳を因位(いんに)のわれらに付与することを表すのだということは、いったい何を語ろうというのか。無縁の慈悲にしろ、他力の回向にしろ、この世の因果しか体験できないわれらには、とても考察不可能なのではないか。

 ここに、親鸞が出遇(であ)った他力の救済の不可思議さがある。実はこれは、われらのこの日常の経験の根底にある「不可思議」なる事実に目覚(めざ)めよと、いうことなのである。これを空間的に表現するから、この世の時間空間ではない「彼(か)の土」というほかないし、これを生み出す力を努力として語るから、法蔵菩薩の永劫の修行というしかないのである。だから、浄土の荘厳(しょうごん)とは、われらの存在の背景ともいうべきことを、われらの根源の場所として、表現しようということだったのではないか。

(2006年12月1日)

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202305
第251回「存在の故郷」⑥
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第251回「存在の故郷」⑥  仏教一般の了解は、人間の常識にもかなっている自力の次第を是とするから理解しやすいが、他力の次第を信受することは「難中の難」だとされている。それは、生き様の差異を超えてあらゆる衆生が等しく抱える愚かさを見通した、如来の智見によってなされた指摘である。  衆生は有限であり、大悲に背いて自我に執着(我執・法執)し、差別相の表層にこだわり続けている。如来は、大悲の心をもってそのように衆生を見通している。仏陀は、『大無量寿経』や『阿弥陀経』の結びにおいて、そのように見通す如来の智見に衆生が気づくことは困難至極だと注意しているのである。  人間は人の間に生まれ落ち、人間として共同体を生きている。そこに生存が成り立っているのだが、人間として生きるとき、我執によって他人を蹴落としてでも自己の欲望を成就したいというような野心を発(おこ)すのである。仏教では、我執(による欲)は菩提心を碍(さまた)げる罪であり、そういう欲望を極力避けるべきだと教える。  そもそも仏教における罪悪とは、菩提心を碍げるあり方を示す言葉である。その意識作用を「煩悩」と名付けているのである。大乗の仏弟子たちは、菩提心を自己として生活することが求められるのであるから、それを妨げる煩悩に苛まれた自己を克服することが求められる。だから、仏教とは、基本的に「自力」でそのことを実現することであると教えられているのである。  しかし、この自己克服の生活における戦いは、限りなく続くことになる。自己が共同体の中に生存している限り、他を意識せざるをえないし、そこに起こる様々な生活意識には、我執を意識せざるを得ない事態が常に興起するからである。  しかも大乗仏教においては、この我執を完全に克服するのみでなく、さらに利他救済の志願を自己とする存在たることが求められる。それが表現されている。この要求を満足した存在が仏陀であり、すなわち仏陀とは大乗仏教思想が要求した人間の究極的理想像であるとも言えよう。そしてこの仏陀たちが開示する場所が「浄土」として荘厳されている。それが諸仏の浄土である。その諸仏の浄土に対し、一切の衆生を平等にすくい上げる誓願を立てて、その願心を成就する名告りが阿弥陀如来であり、安楽浄土である。その因位の位を「法蔵菩薩」と名付け、その発起してくる起源を、一如宝海であると表現するのである。  法蔵菩薩の願心の前に、個としての自己は、愚かで無能で罪業深重であると懺悔せざるを得ないのである。限りなく我執が発ってしまうことが、人間として生涯にわたって生活することの実態であるからである。しかし、これを見通し、自覚することは困難だと『大無量寿経』や『阿弥陀経』では注意されているのである。 (2024年6月1日) 最近の投稿を読む...
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第250回「存在の故郷」⑤
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第250回「存在の故郷」⑤  大乗仏教では、大涅槃を浄土として荘厳・象徴することによって、とらえがたい大涅槃なるものをイメージとして具体化してきた。また浄土教ではそのイメージに基づいて、浄土往生を実現することが浄土教徒にとっての最終目的のように受けとめられてきた経緯があるわけだが、親鸞は本願の思想に返すことでその考え方を改め、浄土の意味を根本的に考察し直した。  その考察の道筋をたどることは、浄土を実体的な「あの世」とみなし、それを常識としてきた立場からすると受けとめにくいことかもしれない。しかしながら、我々はいま、親鸞が浄土を一如宝海と示して考察した道筋を、『教行信証』の説き方に則しながら考察してみようと思う。  『教行信証』の正式な題名は『顕浄土真実教行証文類』という。この題が示すように、「浄土」を顕(あきら)かにすることが、衆生にとっての根本的な課題なのである。そこで親鸞は、真実の「教行証」という仏道の次第を見出して論じ、その課題に応答している。そして、本願に依って衆生に呼びかける大涅槃への道筋が、「行信」の次第であることを示している。  この次第は、いわゆる仏教一般の受けとめ方とは異なっている。仏教一般で言われる「行」は、信解した教えに基づき自力で涅槃を求めてなされる修行の方法であり、各々その行の功徳によって果である涅槃への道筋が開かれるという理解である。つまり仏道の教を信じて行じた結果が証だという次第になる。この次第は「信・解・行・証」あるいは「教・理・行・果」とも表されるが、これは、この世の一般的な時間における因果の次第と同様の流れであるから、人間の常識からすると理解しやすい。  これに対し、親鸞が出遇った仏道は、本願に依って誓われ一切衆生に平等に開かれる「証大涅槃」の道である。だからして、衆生にとってだれであろうと行ずることができるような「行」、すなわち「易行」が本願によって選び取られているのであり、本願力に依ることによって、個々の衆生の条件によらず、平等に涅槃への必然性が確保されると親鸞は理解する。この本願力を「他力」と言い、衆生がこの他力の次第を信受することが待たれているというわけである。親鸞は、この他力の次第を行から信が開かれてくると了解したのだ。  この他力を信ずるのは、衆生にとっては難中の難であるとされる。それは、各々の衆生の生には、それぞれ異なる多様な縁が絡み付き、その事態に各々が個別に対処しているということがあるからである。だからして、この事態を打破するには、各々の出会う縁に対し、各自がそれぞれ努力するべきだという「自力」の教えが伝承されてしまうのである。 (2024年5月1日) 最近の投稿を読む...
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第249回「存在の故郷」④
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第249回「存在の故郷」④  菩提心が菩提を成就するということを、仏教では因果の転換と表現している。そして大乗仏教では、因が果を必然としてはらむ状態を「正定聚」や「不退転」と表現し、阿弥陀如来はその果を確保する手がかりとして、それらを一切の衆生に与えんと、大悲をもって誓っている。阿弥陀如来は、衆生の存在の故郷として仏土を建立するのだが、この国土において衆生に涅槃の超証を必定とする正定聚の位を与えようと誓うのは、菩提という課題を成就するためだとされるのである。  ところで、阿弥陀如来の願心に不退転が誓われていることは、大涅槃に至るという究極的な目的から再考してみると、いかなる意味を持つと言えるだろうか。親鸞はこの内実を、凡夫である自己にとってどのようなことと受けとめたのであろうか。そして、大涅槃が存在の故郷であることは、それが衆生という存在にとって究極の目的であるということにとどまるのであろうか。  ここに、親鸞が『大無量寿経』を「真実の教 浄土真宗」(『教行信証』「総序」、『真宗聖典』初版〔以下、『聖典』〕150頁)と捉えて顕示されたことの意味をしっかり確認しなければなるまい。その問いに向き合う時、親鸞が法蔵菩薩の意味について「この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて、無碍のちかいをおこしたまうをたねとして、阿弥陀仏と、なりたまうがゆえに、報身如来ともうすなり」(『一念多念文意』、『聖典』543頁)と了解されていることが思い合わされる。『大無量寿経』は、「如来の本願を説きて、経の宗致とす」(『教行信証』「教巻」、『聖典』152頁)と押さえられているように、法蔵菩薩の本願を説き表している。その経説が「一如」から出発している教言であると言うのである。一如は、法性や仏性など、大涅槃と同質・同義であるとも注釈されている(『唯信鈔文意』、『聖典』554頁参照)。  法蔵菩薩がこの一如からかたちをあらわした菩薩であるということは、大涅槃が究極の終点ではなく、菩薩道の出発点であるということを暗示していると見ることもできよう。  そもそも我らの生存は、時間的にも空間的にも重々無尽(じゅうじゅうむじん)の因縁関係の中に与えられているのではないか。そして仏陀の教意には、このことを衆生に気づかせようとすることがあるのではないか。釈迦如来が五濁悪世に降誕し無我の覚りを開いた背景には、すでに無窮というもいうべき菩提心の歴史的な歩みがあったと、仏陀自ら聞き当て衆生にもそのように説いてきた。このことは、『大無量寿経』における法蔵菩薩の求道の歩みの、背景が五十三仏の伝承として押さえられていることにも窺うことができる。  かくして、仏法においては無始以来の生命の歴史とも言えるような求道心が教えられ、その教えをしかと受けとめた時、その者は三世諸仏の伝承に入れしめられるとして語られるのであろう。 (2024年4月1日) 最近の投稿を読む...

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