親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

第52回「場について」㉒

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「真実報土は、求めずして与えられる」と曽我量深はいう。しかし、これは何もせずに与えられる、という意味ではない。衆生の要求のごとくに与えられるものではない、というのであって、与えられるためには、必要不可欠の条件がある。それは、衆生が作り出すことを要求するのではなく、衆生自身の有限であることの徹底的な自覚、これが要求されているのである。無限のなかにあって、有限であることを自覚できていない、という構造、これを『歎異抄』は「自力作善(さぜん)のひと」(『真宗聖典』627頁)というのであるが、この構造を破って悪人でしかないという自覚、あるいはまったく無力であり、全面的に本願他力のなかにあるという自覚、この自覚において、「しらず、もとめざるに、功徳の大宝、そのみにみちみつ」(『一念多念文意』、『真宗聖典』544頁)という心眼を恵まれるのである。

 だから、浄土を場として自覚するとは、いわば見えざる無限の大用(だいゆう)、これは自分の意識としては知り得ないのであるが、向こうからは無碍(むげ)にはたらき続けている、このことを信知することなのである。これを、「正信偈」には「煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我(煩悩、眼〈まなこ〉障〈さ〉えて見たてまつらずといえども、大悲倦〈ものう〉きことなく、常に我〈われ〉を照したもう)」(『真宗聖典』207頁)というのである。大悲のはたらきたる本願は、浄土という広大な環境となって衆生を支えようとする。それは『浄土論』の主功徳(しゅくどく)にいわれるように、阿弥陀法王の善住持の力であり、無限なる大悲のはたらきであるから、それを信知する身に、十分に不朽薬のごとき力を与えて信心の身を守るというのである。

 この大悲のはたらきたる場所を、本願力から切り離して、いのちの向こうに表象した場を「方便化身土」というのではないか。だから、「求めて、得られない」ものなのである。「見ることができない」という事実から、自己の有限の自覚を徹底せずに、「得られない」から、死んだ後にきっとあるに相違ないと、「邪定(じゃじょう)」(よこしまに決める)か、「不定(ふじょう)」、つまり決めるわけにもいかずに不安なままに求め続けるか、ということになるのであろう。それに対する「無量光明土」は、直接に見ることができたというような神秘体験ではない。たすかるべき必然性を自己の能力に頼ることを捨てて、大自然の治癒力のごとき大悲願力に帰託するなら、本願力の必然として、向こうからはたらき続け、愚(おろ)かなるわれらにも摂取の光明として感受されてくるものだというのであろう。

(2007年9月1日)

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第239回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑩
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第239回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑩  我らの意識のあり方は、意識する作用と意識される内容とによって常に二分されている。このことを仏教では、意識は「分別(ふんべつ)」であると言い当てている。分別は、常に対象を内容とする作用なのである。しかもそれは虚しく妄りに分別しているから、虚妄分別(こもうふんべつ)であるとも言う。意識の分別のあり方そのものに、妄念が付いているのだというのである。  その虚妄を晴らすべく唯識思想の教えが表されてくるのであるが、その唯識思想の展開についてはここでは触れない。問題となるのは、その対象とされる意識内容が人間にとって常に興味を引く対象にのみ一切の頭脳活動を集中させていくという近代以降の発想方法のあり方である。その結果として、科学的な知識とそれを応用する技術は現代の文明社会の便利さを生み出したが、競争が過熱する社会をも現出してきているということなのである。  仏陀釈尊が無我の体験を言葉によって表すことを躊躇したという伝説が伝えられているのは、意識の二分化を前提にして言葉が成り立っているということ、そのことに釈尊が気づいていたからであろう。意識内容を言葉で表現することにより、自己の意識生活を他己に伝えることができる。それが言葉の持つ勝れた機能ではあるのだが、そこには限界がある。だから、自己の無我の体験を言葉にすることの困難さを前に、釈尊はひとまず沈黙された。しかし、その困難さを超えて、あえて言葉による共通体験の方向を信頼して、さとりの体験を言葉にして説き表すという決断をした。人間の現世の言葉による意識生活には、意識の対象界のみではなく、意識する作用それ自体によって起こってくる底知れぬ不安感や、生存自身の危機感がある。釈尊の決断の背景には、釈尊がそういった不安感・危機感から出家求道をせざるを得なかったという自己自身の求道過程があった。  それにより、衆生の持つ根本問題を見通した仏陀釈尊は、その問題を解き明かすべく、言葉の限界を超えて如来の教言を紡ぎ出していったのではないかと思う。  初期の仏弟子たちが出遇った如来の教えは、果である無我の体験、すなわち「さとり」と言われる内容を言葉によって表現しようとする教えであった。それは後に起こった大乗の教義了解からするなら、果たる証から教えが始められているということである。証から教が出てきている。因から果に到るという次第で、その果が説き出されたのである。  ところが仏陀の覚りに近づくために、虚妄分別から出発して果を求める道程を歩む者には、悪戦苦闘の努力をもってしても、その達成は困難であった。だからこそ大乗の志願は、如来の無限なる慈悲において、一切の衆生に普遍的な証果をもたらす教えを要求して止まなかったのである。 (2023年6月1日) 最近の投稿を読む...
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第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨  有限なる存在を、浄土教の歴史的な表現では「凡夫」という。凡夫とは一般用語であるが、この語において、仏教に出遇っている自分の存在の意味を、無限なる如来の大悲の眼に照らし出されたあり方として、表現しているのである。そうすると、善導が押さえているように、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(『真宗聖典』215頁)と深く信じるところにあるのが凡夫である。この自覚において親鸞は、「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』〔『真宗聖典』545頁〕)と言われているのである。  浄土教の自覚に表れてくる罪障の自覚とか罪業の身の重さということは、有限という語には現れてはいないのであるが、浄土教の求道における自覚的な表現とは、こういう罪障の自覚を通した有限なる自己の表現であると言える。その対照である無限という語にも、仏道の無為法ということで求められてくるような永劫に変わらない真実という性格はさしあたってないのであるが、求道の問題として無限という語を使う場合は、仏智の大きさや広大な涅槃ということも含まれてくると言うべきなのである。  この広大無辺の無限は、法蔵願心の果であり、因位の菩薩として法蔵菩薩は、果たる一如・涅槃から立ち上がったのだと言われる(『一念多念文意』〔『真宗聖典』543頁〕及び『唯信鈔文意』〔『真宗聖典』554頁〕参照)。その因位の修行は、大悲によって我ら衆生を済度せんがために、「兆載永劫」の時を貫く菩薩行であるとされている。兆載の時間をかけて、虚妄分別する我らに真実信を成就させようというのだと、親鸞は受けとめられているのである。  有限なる我らは、どこまでも煩悩具足の身を離れないから、決してそのまま無限に成ることはできない。しかし、無限の無限たる所以(ゆえん)は、一切の有限を包んでいるところにある。親鸞はこの道理について、善導が法蔵菩薩の果たる如来(阿弥陀如来)を「摂取不捨」として示していることに着眼している(「摂取して捨てざるがゆえに、阿弥陀と名づく」と善導が釈しているのを『教行信証』「行巻」で取り上げている〔『真宗聖典』174頁参照〕)。すなわち、無限大悲の光明は、たとえ我らが忘れようとも常に照らしていてくださるのだという。この道理にうなずくことにおいて、有限なる我らに無限のはたらきが具足する。親鸞は、このことを「如来回向」の信心として表されたのである。 (2023年5月1日) 最近の投稿を読む...
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第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧  親鸞の示す「金剛の信心」とは、大悲の不可思議なるはたらきによって、われら有限なる存在がどういう状態であるかを問わず、大いなる光明(無限大悲)が常に我等を包み摂していると信じることであるとされる。ここに有限・無限という言葉を出しているので、この二項(有限・無限)の関係を考察してみよう。    仏教語の一般的表現で「無為法」と言われる場合は、対応する言葉は「有為法」である。この有為法とは、我等有限の一切の事象が、すべて時間とともにあり、時を超えて永続する物事は存在しないということであり、「諸行無常」(あらゆる存在は永続しない)であるとされている。この諸行(一切の現象)が「有限」に相当する。そこから言うなら、無為法は「無限」と言われることの内容に当たるわけである。移りゆき変わりゆく一切の現象に対し、時間的な要素を交えず、いわば永久不変なることを示す概念が、「無為法」である。    この無為法という概念に相当する語が、一如・真如・涅槃・法性などと教えられ、さらには法身・実相・常楽などと転釈されていく。これらの教学用語は、それぞれに微妙な差異を生じてはいる。しかし親鸞は、それらを『涅槃経』などを依り処として、すべて同等の意味を示す概念であると了解している。これらの用語をすべて無為法なる概念の内容であるとするなら、いま考察している無限は、仏教的理念で言うと「涅槃」に相当するということになる。    親鸞が、『大無量寿経』に語られている「法蔵菩薩」とは、「一如宝海よりかたちをあらわして」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)きたと了解していることは、いかなる意味になるのであろうか。文字通りであれば、時間を超越した無限であるはずの一如が、有限の生存上の名告り(これは時間的に消滅する存在になる)に成ることである。このことは普通には、矛盾そのものである。しかしながら、法蔵菩薩が大悲の心の示現であるから、矛盾を超えて、無限が有限に展現するという表現であるとされている。    無限とは、内に有限の一切を包んでいる。しかるに、有限から無限を考究しようとするなら、無限なる事態は、自己の外に、いかにしても到達することなどできない極限の様態として考えられることになる。無限の立場からは、「内」とされるありかたが、その内の有限からは、「外」であるということになる。この内・外の矛盾を、清沢満之は有限と無限との「根本的撞着」と言われるのである。この矛盾が一致することを求めることこそ、宗教的実存の要求であるというわけである。 (2023年4月1日) 最近の投稿を読む...

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第51回「場について」㉑

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 有限なる衆生(しゅじょう)に、限りなき慈愛をもって呼びかけ、待ち続けるはたらきを、ここに生きているわれら凡愚(ぼんぐ)の存在の深みに感ずることがある。この深層からの信頼を、未来からの慈悲(じひ)の眼(まなこ)として教えの形に表(あらわ)してきたのが、阿弥陀如来の本願なのであろう。だから、この深みを有形の言葉にするところに、大きな慈悲のはたらきとしての「大悲方便」があるとされているのである。

 すなわち、深層からの大悲を、あたかも他界からの呼びかけとして語るから方便なのである。内なる深みを、外に表象しないことには、われらの意識には判然としないからである。しかし、いったん表現された他界には、この愚かな自己にはとうてい届かない不透明で不可解なものが蓄積されてくる。そこが、あたかも大悲の呼びかけるわれら衆生の到着点であると思わせられると、文字どおり無能な存在が、死後に救済を任せるしかないような、なにか不本意なものを残した「信心」の強制となるのではないか。

 親鸞は、そういう人間にとって不透明な場所を大悲の根底とすることに、徹底的に逆(さか)らったのではないか、と思う。それで、単なる人間の外であるような他界を、「浄土」と教える場合、「方便化身土(けしんど)」と名づけた。それに対して、「真実報土(ほうど)」と名づけられた浄土は、「無量光明」の「土」(世界)であるというのだ。どこまでも「明るみ」にするはたらきの動いている場所だというのである。光なる如来が、黒闇の衆生界を明るみに転じ続けるはたらきの場所だというのである。そういうふうに、光明土たる大悲の浄土を仰ぐとき、方便化身土も限りなく愚かな衆生を導く過程となって、衆生の自覚を育てる意味をもってくるのである。だから、他界的な浄土をも包んで、大いなる大悲方便のはたらきを仰いでいこうとされたのであろう。

 真実報土は、「われらが求めずして賜(たまわ)る大悲摂化(せっけ)のところにある」。それに対して、方便化身土は、「われらが求めても、決して得ることのない、妄念(もうねん)の世界である」、というのが亡き曽我量深(そがりょうじん:1875~1971)先生の教えである。

(2007年8月1日)

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第239回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑩
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第239回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑩  我らの意識のあり方は、意識する作用と意識される内容とによって常に二分されている。このことを仏教では、意識は「分別(ふんべつ)」であると言い当てている。分別は、常に対象を内容とする作用なのである。しかもそれは虚しく妄りに分別しているから、虚妄分別(こもうふんべつ)であるとも言う。意識の分別のあり方そのものに、妄念が付いているのだというのである。  その虚妄を晴らすべく唯識思想の教えが表されてくるのであるが、その唯識思想の展開についてはここでは触れない。問題となるのは、その対象とされる意識内容が人間にとって常に興味を引く対象にのみ一切の頭脳活動を集中させていくという近代以降の発想方法のあり方である。その結果として、科学的な知識とそれを応用する技術は現代の文明社会の便利さを生み出したが、競争が過熱する社会をも現出してきているということなのである。  仏陀釈尊が無我の体験を言葉によって表すことを躊躇したという伝説が伝えられているのは、意識の二分化を前提にして言葉が成り立っているということ、そのことに釈尊が気づいていたからであろう。意識内容を言葉で表現することにより、自己の意識生活を他己に伝えることができる。それが言葉の持つ勝れた機能ではあるのだが、そこには限界がある。だから、自己の無我の体験を言葉にすることの困難さを前に、釈尊はひとまず沈黙された。しかし、その困難さを超えて、あえて言葉による共通体験の方向を信頼して、さとりの体験を言葉にして説き表すという決断をした。人間の現世の言葉による意識生活には、意識の対象界のみではなく、意識する作用それ自体によって起こってくる底知れぬ不安感や、生存自身の危機感がある。釈尊の決断の背景には、釈尊がそういった不安感・危機感から出家求道をせざるを得なかったという自己自身の求道過程があった。  それにより、衆生の持つ根本問題を見通した仏陀釈尊は、その問題を解き明かすべく、言葉の限界を超えて如来の教言を紡ぎ出していったのではないかと思う。  初期の仏弟子たちが出遇った如来の教えは、果である無我の体験、すなわち「さとり」と言われる内容を言葉によって表現しようとする教えであった。それは後に起こった大乗の教義了解からするなら、果たる証から教えが始められているということである。証から教が出てきている。因から果に到るという次第で、その果が説き出されたのである。  ところが仏陀の覚りに近づくために、虚妄分別から出発して果を求める道程を歩む者には、悪戦苦闘の努力をもってしても、その達成は困難であった。だからこそ大乗の志願は、如来の無限なる慈悲において、一切の衆生に普遍的な証果をもたらす教えを要求して止まなかったのである。 (2023年6月1日) 最近の投稿を読む...
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第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨  有限なる存在を、浄土教の歴史的な表現では「凡夫」という。凡夫とは一般用語であるが、この語において、仏教に出遇っている自分の存在の意味を、無限なる如来の大悲の眼に照らし出されたあり方として、表現しているのである。そうすると、善導が押さえているように、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(『真宗聖典』215頁)と深く信じるところにあるのが凡夫である。この自覚において親鸞は、「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』〔『真宗聖典』545頁〕)と言われているのである。  浄土教の自覚に表れてくる罪障の自覚とか罪業の身の重さということは、有限という語には現れてはいないのであるが、浄土教の求道における自覚的な表現とは、こういう罪障の自覚を通した有限なる自己の表現であると言える。その対照である無限という語にも、仏道の無為法ということで求められてくるような永劫に変わらない真実という性格はさしあたってないのであるが、求道の問題として無限という語を使う場合は、仏智の大きさや広大な涅槃ということも含まれてくると言うべきなのである。  この広大無辺の無限は、法蔵願心の果であり、因位の菩薩として法蔵菩薩は、果たる一如・涅槃から立ち上がったのだと言われる(『一念多念文意』〔『真宗聖典』543頁〕及び『唯信鈔文意』〔『真宗聖典』554頁〕参照)。その因位の修行は、大悲によって我ら衆生を済度せんがために、「兆載永劫」の時を貫く菩薩行であるとされている。兆載の時間をかけて、虚妄分別する我らに真実信を成就させようというのだと、親鸞は受けとめられているのである。  有限なる我らは、どこまでも煩悩具足の身を離れないから、決してそのまま無限に成ることはできない。しかし、無限の無限たる所以(ゆえん)は、一切の有限を包んでいるところにある。親鸞はこの道理について、善導が法蔵菩薩の果たる如来(阿弥陀如来)を「摂取不捨」として示していることに着眼している(「摂取して捨てざるがゆえに、阿弥陀と名づく」と善導が釈しているのを『教行信証』「行巻」で取り上げている〔『真宗聖典』174頁参照〕)。すなわち、無限大悲の光明は、たとえ我らが忘れようとも常に照らしていてくださるのだという。この道理にうなずくことにおいて、有限なる我らに無限のはたらきが具足する。親鸞は、このことを「如来回向」の信心として表されたのである。 (2023年5月1日) 最近の投稿を読む...
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第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧  親鸞の示す「金剛の信心」とは、大悲の不可思議なるはたらきによって、われら有限なる存在がどういう状態であるかを問わず、大いなる光明(無限大悲)が常に我等を包み摂していると信じることであるとされる。ここに有限・無限という言葉を出しているので、この二項(有限・無限)の関係を考察してみよう。    仏教語の一般的表現で「無為法」と言われる場合は、対応する言葉は「有為法」である。この有為法とは、我等有限の一切の事象が、すべて時間とともにあり、時を超えて永続する物事は存在しないということであり、「諸行無常」(あらゆる存在は永続しない)であるとされている。この諸行(一切の現象)が「有限」に相当する。そこから言うなら、無為法は「無限」と言われることの内容に当たるわけである。移りゆき変わりゆく一切の現象に対し、時間的な要素を交えず、いわば永久不変なることを示す概念が、「無為法」である。    この無為法という概念に相当する語が、一如・真如・涅槃・法性などと教えられ、さらには法身・実相・常楽などと転釈されていく。これらの教学用語は、それぞれに微妙な差異を生じてはいる。しかし親鸞は、それらを『涅槃経』などを依り処として、すべて同等の意味を示す概念であると了解している。これらの用語をすべて無為法なる概念の内容であるとするなら、いま考察している無限は、仏教的理念で言うと「涅槃」に相当するということになる。    親鸞が、『大無量寿経』に語られている「法蔵菩薩」とは、「一如宝海よりかたちをあらわして」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)きたと了解していることは、いかなる意味になるのであろうか。文字通りであれば、時間を超越した無限であるはずの一如が、有限の生存上の名告り(これは時間的に消滅する存在になる)に成ることである。このことは普通には、矛盾そのものである。しかしながら、法蔵菩薩が大悲の心の示現であるから、矛盾を超えて、無限が有限に展現するという表現であるとされている。    無限とは、内に有限の一切を包んでいる。しかるに、有限から無限を考究しようとするなら、無限なる事態は、自己の外に、いかにしても到達することなどできない極限の様態として考えられることになる。無限の立場からは、「内」とされるありかたが、その内の有限からは、「外」であるということになる。この内・外の矛盾を、清沢満之は有限と無限との「根本的撞着」と言われるのである。この矛盾が一致することを求めることこそ、宗教的実存の要求であるというわけである。 (2023年4月1日) 最近の投稿を読む...

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第50回「場について」⑳

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 そもそも浄土は、第一に「罪悪の衆生(しゅじょう)を摂取(せっしゅ)するための大悲の場」であり、第二に「愚(おろ)かなる衆生に仏法の救いを具体化するための場」である、と言った。

 そして、第一の点について、一切衆生を摂取しようとする大悲が、特に、罪業の衆生たる阿闍世(あじゃせ)に一切の「煩悩等を具足(ぐそく)せる者」であると呼びかける『涅槃経(ねはんぎょう)』のことを出した。これはいうまでもなく、親鸞聖人が取り上げているものである。『涅槃経』の教説の意味は、阿闍世だけが罪業の身なのでなく、一切衆生は宿業(しゅくごう)因縁の深みに、同じ罪業の背景を担(にな)っていると見通している大悲の眼がある、というのであろう。その一切の衆生を摂(おさ)め取ろうという願心が、選択(せんじゃく)摂取して、浄土の教法を生み出した、ということである。

 第二の点について考えてみたい。特に、この浄土の教説は、「本為(ほんに)凡夫、兼為聖人(けんにしょうにん)」と言われている。こう言うと、人間に二類あって、その一方に重点がかかるというようだが、それはさておいて、「本為凡夫」ということの意味を押さえておきたい。

 親鸞は「凡夫というは、無明(むみょう)煩悩われらがみにみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』、『真宗聖典』545頁)と言われている。朝から晩まで、起きてから寝るまで、いな、眠っていても夢の中にまで、煩悩と共に生きているのが、われら衆生であるというのである。「煩悩具足」「煩悩成就」の衆生と言われる所以(ゆえん)である。この凡夫を目的として開示されたものが、浄土の教えである、というのである。智慧も浅く、心は煩悩で汚(よご)れており、広大で清浄(しょうじょう)な仏陀の功徳には、まったく触れることさえできない、という深い慙愧(ざんき)の自覚が、一切の煩悩等を具足せる凡夫よ、と呼びかけている如来の言葉に震撼したのである。「一切善悪の凡夫人」(「正信偈」、『真宗聖典』205頁)という言葉もある。凡夫にも、「善・悪」の機類がないわけではない。しかし、表面の生き様には差違があっても、深い宿業の因縁に気づくとき、「罪業深重」の意味は衆生の普遍性だと頷(うなず)けるのである。悲しくも、愚かにして罪のこころを拭(ぬぐ)うこともできない、有限なる生き物なのである。この愚かなる衆生に開示されたものが、浄土の教えであるというのである。

(2007年7月1日)

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第239回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑩
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第239回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑩  我らの意識のあり方は、意識する作用と意識される内容とによって常に二分されている。このことを仏教では、意識は「分別(ふんべつ)」であると言い当てている。分別は、常に対象を内容とする作用なのである。しかもそれは虚しく妄りに分別しているから、虚妄分別(こもうふんべつ)であるとも言う。意識の分別のあり方そのものに、妄念が付いているのだというのである。  その虚妄を晴らすべく唯識思想の教えが表されてくるのであるが、その唯識思想の展開についてはここでは触れない。問題となるのは、その対象とされる意識内容が人間にとって常に興味を引く対象にのみ一切の頭脳活動を集中させていくという近代以降の発想方法のあり方である。その結果として、科学的な知識とそれを応用する技術は現代の文明社会の便利さを生み出したが、競争が過熱する社会をも現出してきているということなのである。  仏陀釈尊が無我の体験を言葉によって表すことを躊躇したという伝説が伝えられているのは、意識の二分化を前提にして言葉が成り立っているということ、そのことに釈尊が気づいていたからであろう。意識内容を言葉で表現することにより、自己の意識生活を他己に伝えることができる。それが言葉の持つ勝れた機能ではあるのだが、そこには限界がある。だから、自己の無我の体験を言葉にすることの困難さを前に、釈尊はひとまず沈黙された。しかし、その困難さを超えて、あえて言葉による共通体験の方向を信頼して、さとりの体験を言葉にして説き表すという決断をした。人間の現世の言葉による意識生活には、意識の対象界のみではなく、意識する作用それ自体によって起こってくる底知れぬ不安感や、生存自身の危機感がある。釈尊の決断の背景には、釈尊がそういった不安感・危機感から出家求道をせざるを得なかったという自己自身の求道過程があった。  それにより、衆生の持つ根本問題を見通した仏陀釈尊は、その問題を解き明かすべく、言葉の限界を超えて如来の教言を紡ぎ出していったのではないかと思う。  初期の仏弟子たちが出遇った如来の教えは、果である無我の体験、すなわち「さとり」と言われる内容を言葉によって表現しようとする教えであった。それは後に起こった大乗の教義了解からするなら、果たる証から教えが始められているということである。証から教が出てきている。因から果に到るという次第で、その果が説き出されたのである。  ところが仏陀の覚りに近づくために、虚妄分別から出発して果を求める道程を歩む者には、悪戦苦闘の努力をもってしても、その達成は困難であった。だからこそ大乗の志願は、如来の無限なる慈悲において、一切の衆生に普遍的な証果をもたらす教えを要求して止まなかったのである。 (2023年6月1日) 最近の投稿を読む...
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第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨  有限なる存在を、浄土教の歴史的な表現では「凡夫」という。凡夫とは一般用語であるが、この語において、仏教に出遇っている自分の存在の意味を、無限なる如来の大悲の眼に照らし出されたあり方として、表現しているのである。そうすると、善導が押さえているように、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(『真宗聖典』215頁)と深く信じるところにあるのが凡夫である。この自覚において親鸞は、「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』〔『真宗聖典』545頁〕)と言われているのである。  浄土教の自覚に表れてくる罪障の自覚とか罪業の身の重さということは、有限という語には現れてはいないのであるが、浄土教の求道における自覚的な表現とは、こういう罪障の自覚を通した有限なる自己の表現であると言える。その対照である無限という語にも、仏道の無為法ということで求められてくるような永劫に変わらない真実という性格はさしあたってないのであるが、求道の問題として無限という語を使う場合は、仏智の大きさや広大な涅槃ということも含まれてくると言うべきなのである。  この広大無辺の無限は、法蔵願心の果であり、因位の菩薩として法蔵菩薩は、果たる一如・涅槃から立ち上がったのだと言われる(『一念多念文意』〔『真宗聖典』543頁〕及び『唯信鈔文意』〔『真宗聖典』554頁〕参照)。その因位の修行は、大悲によって我ら衆生を済度せんがために、「兆載永劫」の時を貫く菩薩行であるとされている。兆載の時間をかけて、虚妄分別する我らに真実信を成就させようというのだと、親鸞は受けとめられているのである。  有限なる我らは、どこまでも煩悩具足の身を離れないから、決してそのまま無限に成ることはできない。しかし、無限の無限たる所以(ゆえん)は、一切の有限を包んでいるところにある。親鸞はこの道理について、善導が法蔵菩薩の果たる如来(阿弥陀如来)を「摂取不捨」として示していることに着眼している(「摂取して捨てざるがゆえに、阿弥陀と名づく」と善導が釈しているのを『教行信証』「行巻」で取り上げている〔『真宗聖典』174頁参照〕)。すなわち、無限大悲の光明は、たとえ我らが忘れようとも常に照らしていてくださるのだという。この道理にうなずくことにおいて、有限なる我らに無限のはたらきが具足する。親鸞は、このことを「如来回向」の信心として表されたのである。 (2023年5月1日) 最近の投稿を読む...
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第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧  親鸞の示す「金剛の信心」とは、大悲の不可思議なるはたらきによって、われら有限なる存在がどういう状態であるかを問わず、大いなる光明(無限大悲)が常に我等を包み摂していると信じることであるとされる。ここに有限・無限という言葉を出しているので、この二項(有限・無限)の関係を考察してみよう。    仏教語の一般的表現で「無為法」と言われる場合は、対応する言葉は「有為法」である。この有為法とは、我等有限の一切の事象が、すべて時間とともにあり、時を超えて永続する物事は存在しないということであり、「諸行無常」(あらゆる存在は永続しない)であるとされている。この諸行(一切の現象)が「有限」に相当する。そこから言うなら、無為法は「無限」と言われることの内容に当たるわけである。移りゆき変わりゆく一切の現象に対し、時間的な要素を交えず、いわば永久不変なることを示す概念が、「無為法」である。    この無為法という概念に相当する語が、一如・真如・涅槃・法性などと教えられ、さらには法身・実相・常楽などと転釈されていく。これらの教学用語は、それぞれに微妙な差異を生じてはいる。しかし親鸞は、それらを『涅槃経』などを依り処として、すべて同等の意味を示す概念であると了解している。これらの用語をすべて無為法なる概念の内容であるとするなら、いま考察している無限は、仏教的理念で言うと「涅槃」に相当するということになる。    親鸞が、『大無量寿経』に語られている「法蔵菩薩」とは、「一如宝海よりかたちをあらわして」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)きたと了解していることは、いかなる意味になるのであろうか。文字通りであれば、時間を超越した無限であるはずの一如が、有限の生存上の名告り(これは時間的に消滅する存在になる)に成ることである。このことは普通には、矛盾そのものである。しかしながら、法蔵菩薩が大悲の心の示現であるから、矛盾を超えて、無限が有限に展現するという表現であるとされている。    無限とは、内に有限の一切を包んでいる。しかるに、有限から無限を考究しようとするなら、無限なる事態は、自己の外に、いかにしても到達することなどできない極限の様態として考えられることになる。無限の立場からは、「内」とされるありかたが、その内の有限からは、「外」であるということになる。この内・外の矛盾を、清沢満之は有限と無限との「根本的撞着」と言われるのである。この矛盾が一致することを求めることこそ、宗教的実存の要求であるというわけである。 (2023年4月1日) 最近の投稿を読む...

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第49回「場について」 ⑲

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「純粋未来」とは、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)が一切衆生(いっさいしゅじょう)に大悲の願心(がんしん)を呼びかけるために、「真仏土(しんぶつど)」、すなわち「真実の仏身と仏土」を建立して、その「場所」からのはたらきを、現世の苦悩にあえぐ衆生に与えるときの「現実と大悲」の関係をあらわす時間的表現である。この関係を、次元の差違を超えて現実のほうに引っ張り込もうとすると、有限と無限の混乱を引き起こすので、有限な人生が終結して初めてこの関わりが充足する、と語りかけるしかない。それが、「浄土」は死後にしか関わりがもてない場所だ、と了解されてきた所以(ゆえん)であろう。この間のことを、もう少し考察させていただきたい。

 そもそも「浄土」は、第一に罪悪の衆生を摂取(せっしゅ)するための大悲の場である。そして、第二に愚(おろ)かなる衆生に仏法の救いを具体化するための場である。

 この第一の課題は、実は現実の一個の生存のもつ「宿業(しゅくごう)因縁」からの解放という問題にからんでいる。具体的な実存は、この一個の身体を厳粛に規定され、生きる状況をあたかも運命的に与えられて、投げ出されたごとくに存在するのである。その厳粛性の極(きわ)みは、『涅槃経(ねはんぎょう)』における釈尊の「阿闍世(あじゃせ)」に対する呼びかけの言葉に窺(うかが)うことができよう。仏陀が、「阿闍世は煩悩等を具足(ぐそく)せる者」なのである、と語りかけるのは、衆生の実存は必ず身動きならない限定を受けており、衆生としての生存には「煩悩(ぼんのう)」「罪業(ざいごう)」を逃れるすべがないことを見通しているのである。阿闍世だけが、たまたま父親を殺した罪悪人だということでなく、一切の衆生が、運命的に与えられてくる状況に翻弄(ほんろう)される、苦悩の実存である、ということである。この身動きならない有限の存在に、絶対の解放を与える場所が、光明無量の智慧界たる「浄土」なのである。つまり、無限の大悲がどのような罪悪の因縁に苦しむものをも、救い上げずにはおかないと、摂取のはたらきを恵む場所なのである。

 このことを端的に語るものが、『歎異抄』第三条の「善人(ぜんにん)なおもて往生をとぐ、いわんや悪人(あくにん)をや」(『真宗聖典』627頁)という、いわゆる「悪人正機(しょうき)」の表現である。この善悪は、一応相対的に語られるのだが、本当は一切の衆生は「悪人」、すなわち思うままに生存状況を生きるのでなく、状況に巻き込まれて「宿業」の因縁を生きている悲しき存在たるを自覚せよ、ということなのである。

(2007年6月1日)

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第239回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑩
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第239回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑩  我らの意識のあり方は、意識する作用と意識される内容とによって常に二分されている。このことを仏教では、意識は「分別(ふんべつ)」であると言い当てている。分別は、常に対象を内容とする作用なのである。しかもそれは虚しく妄りに分別しているから、虚妄分別(こもうふんべつ)であるとも言う。意識の分別のあり方そのものに、妄念が付いているのだというのである。  その虚妄を晴らすべく唯識思想の教えが表されてくるのであるが、その唯識思想の展開についてはここでは触れない。問題となるのは、その対象とされる意識内容が人間にとって常に興味を引く対象にのみ一切の頭脳活動を集中させていくという近代以降の発想方法のあり方である。その結果として、科学的な知識とそれを応用する技術は現代の文明社会の便利さを生み出したが、競争が過熱する社会をも現出してきているということなのである。  仏陀釈尊が無我の体験を言葉によって表すことを躊躇したという伝説が伝えられているのは、意識の二分化を前提にして言葉が成り立っているということ、そのことに釈尊が気づいていたからであろう。意識内容を言葉で表現することにより、自己の意識生活を他己に伝えることができる。それが言葉の持つ勝れた機能ではあるのだが、そこには限界がある。だから、自己の無我の体験を言葉にすることの困難さを前に、釈尊はひとまず沈黙された。しかし、その困難さを超えて、あえて言葉による共通体験の方向を信頼して、さとりの体験を言葉にして説き表すという決断をした。人間の現世の言葉による意識生活には、意識の対象界のみではなく、意識する作用それ自体によって起こってくる底知れぬ不安感や、生存自身の危機感がある。釈尊の決断の背景には、釈尊がそういった不安感・危機感から出家求道をせざるを得なかったという自己自身の求道過程があった。  それにより、衆生の持つ根本問題を見通した仏陀釈尊は、その問題を解き明かすべく、言葉の限界を超えて如来の教言を紡ぎ出していったのではないかと思う。  初期の仏弟子たちが出遇った如来の教えは、果である無我の体験、すなわち「さとり」と言われる内容を言葉によって表現しようとする教えであった。それは後に起こった大乗の教義了解からするなら、果たる証から教えが始められているということである。証から教が出てきている。因から果に到るという次第で、その果が説き出されたのである。  ところが仏陀の覚りに近づくために、虚妄分別から出発して果を求める道程を歩む者には、悪戦苦闘の努力をもってしても、その達成は困難であった。だからこそ大乗の志願は、如来の無限なる慈悲において、一切の衆生に普遍的な証果をもたらす教えを要求して止まなかったのである。 (2023年6月1日) 最近の投稿を読む...
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第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨  有限なる存在を、浄土教の歴史的な表現では「凡夫」という。凡夫とは一般用語であるが、この語において、仏教に出遇っている自分の存在の意味を、無限なる如来の大悲の眼に照らし出されたあり方として、表現しているのである。そうすると、善導が押さえているように、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(『真宗聖典』215頁)と深く信じるところにあるのが凡夫である。この自覚において親鸞は、「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』〔『真宗聖典』545頁〕)と言われているのである。  浄土教の自覚に表れてくる罪障の自覚とか罪業の身の重さということは、有限という語には現れてはいないのであるが、浄土教の求道における自覚的な表現とは、こういう罪障の自覚を通した有限なる自己の表現であると言える。その対照である無限という語にも、仏道の無為法ということで求められてくるような永劫に変わらない真実という性格はさしあたってないのであるが、求道の問題として無限という語を使う場合は、仏智の大きさや広大な涅槃ということも含まれてくると言うべきなのである。  この広大無辺の無限は、法蔵願心の果であり、因位の菩薩として法蔵菩薩は、果たる一如・涅槃から立ち上がったのだと言われる(『一念多念文意』〔『真宗聖典』543頁〕及び『唯信鈔文意』〔『真宗聖典』554頁〕参照)。その因位の修行は、大悲によって我ら衆生を済度せんがために、「兆載永劫」の時を貫く菩薩行であるとされている。兆載の時間をかけて、虚妄分別する我らに真実信を成就させようというのだと、親鸞は受けとめられているのである。  有限なる我らは、どこまでも煩悩具足の身を離れないから、決してそのまま無限に成ることはできない。しかし、無限の無限たる所以(ゆえん)は、一切の有限を包んでいるところにある。親鸞はこの道理について、善導が法蔵菩薩の果たる如来(阿弥陀如来)を「摂取不捨」として示していることに着眼している(「摂取して捨てざるがゆえに、阿弥陀と名づく」と善導が釈しているのを『教行信証』「行巻」で取り上げている〔『真宗聖典』174頁参照〕)。すなわち、無限大悲の光明は、たとえ我らが忘れようとも常に照らしていてくださるのだという。この道理にうなずくことにおいて、有限なる我らに無限のはたらきが具足する。親鸞は、このことを「如来回向」の信心として表されたのである。 (2023年5月1日) 最近の投稿を読む...
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第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧  親鸞の示す「金剛の信心」とは、大悲の不可思議なるはたらきによって、われら有限なる存在がどういう状態であるかを問わず、大いなる光明(無限大悲)が常に我等を包み摂していると信じることであるとされる。ここに有限・無限という言葉を出しているので、この二項(有限・無限)の関係を考察してみよう。    仏教語の一般的表現で「無為法」と言われる場合は、対応する言葉は「有為法」である。この有為法とは、我等有限の一切の事象が、すべて時間とともにあり、時を超えて永続する物事は存在しないということであり、「諸行無常」(あらゆる存在は永続しない)であるとされている。この諸行(一切の現象)が「有限」に相当する。そこから言うなら、無為法は「無限」と言われることの内容に当たるわけである。移りゆき変わりゆく一切の現象に対し、時間的な要素を交えず、いわば永久不変なることを示す概念が、「無為法」である。    この無為法という概念に相当する語が、一如・真如・涅槃・法性などと教えられ、さらには法身・実相・常楽などと転釈されていく。これらの教学用語は、それぞれに微妙な差異を生じてはいる。しかし親鸞は、それらを『涅槃経』などを依り処として、すべて同等の意味を示す概念であると了解している。これらの用語をすべて無為法なる概念の内容であるとするなら、いま考察している無限は、仏教的理念で言うと「涅槃」に相当するということになる。    親鸞が、『大無量寿経』に語られている「法蔵菩薩」とは、「一如宝海よりかたちをあらわして」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)きたと了解していることは、いかなる意味になるのであろうか。文字通りであれば、時間を超越した無限であるはずの一如が、有限の生存上の名告り(これは時間的に消滅する存在になる)に成ることである。このことは普通には、矛盾そのものである。しかしながら、法蔵菩薩が大悲の心の示現であるから、矛盾を超えて、無限が有限に展現するという表現であるとされている。    無限とは、内に有限の一切を包んでいる。しかるに、有限から無限を考究しようとするなら、無限なる事態は、自己の外に、いかにしても到達することなどできない極限の様態として考えられることになる。無限の立場からは、「内」とされるありかたが、その内の有限からは、「外」であるということになる。この内・外の矛盾を、清沢満之は有限と無限との「根本的撞着」と言われるのである。この矛盾が一致することを求めることこそ、宗教的実存の要求であるというわけである。 (2023年4月1日) 最近の投稿を読む...

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第48回「場について」⑱

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「純粋未来」からのはたらきを、本願は「浄土」をとおして具体化する。このことを、生命存在にとっての広い意味での環境たる「場」との関わりとして、涅槃(ねはん)のはたらきを表現するものが「彼岸(ひがん)の浄土」の生命論的意味である、と押さえ直すことにしよう。換言するなら、浄土という形で荘厳された大悲のはたらきは、苦悩の衆生(しゅじょう)を完全円満に救済しようとして、常に一念の未来から、その純粋なる大悲の温かさを煩悩の坩堝(るつぼ)に吹きかけているのだ、とも言えよう。

 大涅槃を「場」として表現することの深層に、衆生を摂化(せっけ)せんがための善巧(ぜんぎょう)があるとは、すでに指摘されてはいるのだが、その意図に生命論的な背景があったということが、いまごろになってわれわれに見えてきた、ということなのである。仏の大悲の善巧が、巧(たく)まずして実に深遠な生命存在の本質を把握しているということなのである。

 しかしここに、忘れてはならない問題が潜(ひそ)んでいる。それは、この純粋未来からのはたらきを表現されたものが「大涅槃」だということである。大涅槃を象徴して、「浄土」として表現しようというのが、阿弥陀の本願なのである。だから、天親菩薩は国土荘厳の一番初めに「清浄(しょうじょう)功徳」を置き、「勝過三界道(しょうがさんがいどう〈『真宗聖典』135頁〉)」と語る。「三界」(衆生が生死流転〈しょうじるてん〉する迷いの世界)を超えるとは、われらの経験界を超越しているということである。つまり、われらの意識の範囲たる「時間」「空間」のなかには、収(おさ)まらないのである。三界を超えた清浄性が、空間のごとくに象徴されるということなのである。空間ならざる空間に、時間ならざる時間を語ろうというので、浄土を「純粋」なる未来と言うのである。

 親鸞の『教行信証』「真仏土巻(しんぶつどのまき)」に「仏性未来」(『真宗聖典』308頁)ということが出ているが、そこに「仏性は、虚空(こくう)のごと」きものだから、過去でも現在でも未来でもないのだが、あえて「未来」と言うのだ、とある。つまり、われわれ煩悩の衆生の意識の対象においては、「有る」とは言えないのだが、仏陀の智見にとっては、一切の衆生に常在していると見通される。そういう仏陀への可能性を仏性未来と言う。こういう超越的な智見からのはたらきを、われら苦悩の実存に呼びかける「場」は、まさに未来から来ると表現される、ということである。

(2007年5月1日)

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第239回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑩
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第239回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑩  我らの意識のあり方は、意識する作用と意識される内容とによって常に二分されている。このことを仏教では、意識は「分別(ふんべつ)」であると言い当てている。分別は、常に対象を内容とする作用なのである。しかもそれは虚しく妄りに分別しているから、虚妄分別(こもうふんべつ)であるとも言う。意識の分別のあり方そのものに、妄念が付いているのだというのである。  その虚妄を晴らすべく唯識思想の教えが表されてくるのであるが、その唯識思想の展開についてはここでは触れない。問題となるのは、その対象とされる意識内容が人間にとって常に興味を引く対象にのみ一切の頭脳活動を集中させていくという近代以降の発想方法のあり方である。その結果として、科学的な知識とそれを応用する技術は現代の文明社会の便利さを生み出したが、競争が過熱する社会をも現出してきているということなのである。  仏陀釈尊が無我の体験を言葉によって表すことを躊躇したという伝説が伝えられているのは、意識の二分化を前提にして言葉が成り立っているということ、そのことに釈尊が気づいていたからであろう。意識内容を言葉で表現することにより、自己の意識生活を他己に伝えることができる。それが言葉の持つ勝れた機能ではあるのだが、そこには限界がある。だから、自己の無我の体験を言葉にすることの困難さを前に、釈尊はひとまず沈黙された。しかし、その困難さを超えて、あえて言葉による共通体験の方向を信頼して、さとりの体験を言葉にして説き表すという決断をした。人間の現世の言葉による意識生活には、意識の対象界のみではなく、意識する作用それ自体によって起こってくる底知れぬ不安感や、生存自身の危機感がある。釈尊の決断の背景には、釈尊がそういった不安感・危機感から出家求道をせざるを得なかったという自己自身の求道過程があった。  それにより、衆生の持つ根本問題を見通した仏陀釈尊は、その問題を解き明かすべく、言葉の限界を超えて如来の教言を紡ぎ出していったのではないかと思う。  初期の仏弟子たちが出遇った如来の教えは、果である無我の体験、すなわち「さとり」と言われる内容を言葉によって表現しようとする教えであった。それは後に起こった大乗の教義了解からするなら、果たる証から教えが始められているということである。証から教が出てきている。因から果に到るという次第で、その果が説き出されたのである。  ところが仏陀の覚りに近づくために、虚妄分別から出発して果を求める道程を歩む者には、悪戦苦闘の努力をもってしても、その達成は困難であった。だからこそ大乗の志願は、如来の無限なる慈悲において、一切の衆生に普遍的な証果をもたらす教えを要求して止まなかったのである。 (2023年6月1日) 最近の投稿を読む...
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第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨  有限なる存在を、浄土教の歴史的な表現では「凡夫」という。凡夫とは一般用語であるが、この語において、仏教に出遇っている自分の存在の意味を、無限なる如来の大悲の眼に照らし出されたあり方として、表現しているのである。そうすると、善導が押さえているように、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(『真宗聖典』215頁)と深く信じるところにあるのが凡夫である。この自覚において親鸞は、「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』〔『真宗聖典』545頁〕)と言われているのである。  浄土教の自覚に表れてくる罪障の自覚とか罪業の身の重さということは、有限という語には現れてはいないのであるが、浄土教の求道における自覚的な表現とは、こういう罪障の自覚を通した有限なる自己の表現であると言える。その対照である無限という語にも、仏道の無為法ということで求められてくるような永劫に変わらない真実という性格はさしあたってないのであるが、求道の問題として無限という語を使う場合は、仏智の大きさや広大な涅槃ということも含まれてくると言うべきなのである。  この広大無辺の無限は、法蔵願心の果であり、因位の菩薩として法蔵菩薩は、果たる一如・涅槃から立ち上がったのだと言われる(『一念多念文意』〔『真宗聖典』543頁〕及び『唯信鈔文意』〔『真宗聖典』554頁〕参照)。その因位の修行は、大悲によって我ら衆生を済度せんがために、「兆載永劫」の時を貫く菩薩行であるとされている。兆載の時間をかけて、虚妄分別する我らに真実信を成就させようというのだと、親鸞は受けとめられているのである。  有限なる我らは、どこまでも煩悩具足の身を離れないから、決してそのまま無限に成ることはできない。しかし、無限の無限たる所以(ゆえん)は、一切の有限を包んでいるところにある。親鸞はこの道理について、善導が法蔵菩薩の果たる如来(阿弥陀如来)を「摂取不捨」として示していることに着眼している(「摂取して捨てざるがゆえに、阿弥陀と名づく」と善導が釈しているのを『教行信証』「行巻」で取り上げている〔『真宗聖典』174頁参照〕)。すなわち、無限大悲の光明は、たとえ我らが忘れようとも常に照らしていてくださるのだという。この道理にうなずくことにおいて、有限なる我らに無限のはたらきが具足する。親鸞は、このことを「如来回向」の信心として表されたのである。 (2023年5月1日) 最近の投稿を読む...
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第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧  親鸞の示す「金剛の信心」とは、大悲の不可思議なるはたらきによって、われら有限なる存在がどういう状態であるかを問わず、大いなる光明(無限大悲)が常に我等を包み摂していると信じることであるとされる。ここに有限・無限という言葉を出しているので、この二項(有限・無限)の関係を考察してみよう。    仏教語の一般的表現で「無為法」と言われる場合は、対応する言葉は「有為法」である。この有為法とは、我等有限の一切の事象が、すべて時間とともにあり、時を超えて永続する物事は存在しないということであり、「諸行無常」(あらゆる存在は永続しない)であるとされている。この諸行(一切の現象)が「有限」に相当する。そこから言うなら、無為法は「無限」と言われることの内容に当たるわけである。移りゆき変わりゆく一切の現象に対し、時間的な要素を交えず、いわば永久不変なることを示す概念が、「無為法」である。    この無為法という概念に相当する語が、一如・真如・涅槃・法性などと教えられ、さらには法身・実相・常楽などと転釈されていく。これらの教学用語は、それぞれに微妙な差異を生じてはいる。しかし親鸞は、それらを『涅槃経』などを依り処として、すべて同等の意味を示す概念であると了解している。これらの用語をすべて無為法なる概念の内容であるとするなら、いま考察している無限は、仏教的理念で言うと「涅槃」に相当するということになる。    親鸞が、『大無量寿経』に語られている「法蔵菩薩」とは、「一如宝海よりかたちをあらわして」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)きたと了解していることは、いかなる意味になるのであろうか。文字通りであれば、時間を超越した無限であるはずの一如が、有限の生存上の名告り(これは時間的に消滅する存在になる)に成ることである。このことは普通には、矛盾そのものである。しかしながら、法蔵菩薩が大悲の心の示現であるから、矛盾を超えて、無限が有限に展現するという表現であるとされている。    無限とは、内に有限の一切を包んでいる。しかるに、有限から無限を考究しようとするなら、無限なる事態は、自己の外に、いかにしても到達することなどできない極限の様態として考えられることになる。無限の立場からは、「内」とされるありかたが、その内の有限からは、「外」であるということになる。この内・外の矛盾を、清沢満之は有限と無限との「根本的撞着」と言われるのである。この矛盾が一致することを求めることこそ、宗教的実存の要求であるというわけである。 (2023年4月1日) 最近の投稿を読む...

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第47回「場について」⑰

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「場の研究所」所長・東京大学名誉教授の清水博先生が、昨年(2006年)春の親鸞仏教センター主催の「つどい」にご出席くださり、「場」という言葉が話題になっていた折に、「場は未来から来る」という不思議な言葉をお残しになって、さっとお帰りになった。次のお約束があったからである。われわれはそのあとで清水先生のご著書を読ませていただき、お話をうかがう機会を与えられた。そして、生命のもつ二重構造(例えば、身体において無数の細胞が、生き死にを繰り返しながら一つの生命を成り立たせているというような構造)とか、それを成り立たせるはたらきを、「場」として解明されてきたのが、先生のお仕事であり、「場は未来から来る」という表現が、そこから出てきた必然的な言葉であったということを知った。

 浄土教の教えとは、まったく方向が違う科学的関心から、存在の事実を論理化しようとされて、時間が生命に関わるあり方が、「場」という言葉で押さえようとされる問題において、「未来」からはたらくのだ、と言われていたのであった。この言葉が、私たちには、あたかも真の場所は未来にあると語られている「浄土教」の教えと響き合うように思われたのである。

 「大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが〈『真宗聖典』207頁〉)」(大悲倦〈ものう〉きことなく、常に我を照したまう)という「正信偈」の言葉には、本願を信ずるものに、如来の大悲が「常に」われら衆生を包んで見捨てず忘れることなく、「無倦」にはたらいているのだという呼びかけがある。その包摂的なはたらきが、時間的にはただ現在の情念的な温かさということではなく、未だ来たらざる純粋なる如来の光明界からのはたらきなのだ、と考えられたのが曽我量深先生の「純粋未来」という表現であろう。大涅槃(だいねはん)との関わりは、われらの煩悩の次元に対して、純粋未来からの如来の回向によってのみ開けうるということである。大涅槃(一如〈いちにょ〉・法性〈ほっしょう〉・寂滅〈じゃくめつ〉等)から立ち上がって、愚かなるわれらを包み取るべくはたらこうとする大悲の本願は、個々の実存状況の差違を超えて、つまり宿業(しゅくごう)因縁の過去の纏縛(てんばく)を突き破って、平等に純粋なる未来からはたらいて来ようとするのだと言うのである。

(2007年4月1日)

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第239回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑩
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第239回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑩  我らの意識のあり方は、意識する作用と意識される内容とによって常に二分されている。このことを仏教では、意識は「分別(ふんべつ)」であると言い当てている。分別は、常に対象を内容とする作用なのである。しかもそれは虚しく妄りに分別しているから、虚妄分別(こもうふんべつ)であるとも言う。意識の分別のあり方そのものに、妄念が付いているのだというのである。  その虚妄を晴らすべく唯識思想の教えが表されてくるのであるが、その唯識思想の展開についてはここでは触れない。問題となるのは、その対象とされる意識内容が人間にとって常に興味を引く対象にのみ一切の頭脳活動を集中させていくという近代以降の発想方法のあり方である。その結果として、科学的な知識とそれを応用する技術は現代の文明社会の便利さを生み出したが、競争が過熱する社会をも現出してきているということなのである。  仏陀釈尊が無我の体験を言葉によって表すことを躊躇したという伝説が伝えられているのは、意識の二分化を前提にして言葉が成り立っているということ、そのことに釈尊が気づいていたからであろう。意識内容を言葉で表現することにより、自己の意識生活を他己に伝えることができる。それが言葉の持つ勝れた機能ではあるのだが、そこには限界がある。だから、自己の無我の体験を言葉にすることの困難さを前に、釈尊はひとまず沈黙された。しかし、その困難さを超えて、あえて言葉による共通体験の方向を信頼して、さとりの体験を言葉にして説き表すという決断をした。人間の現世の言葉による意識生活には、意識の対象界のみではなく、意識する作用それ自体によって起こってくる底知れぬ不安感や、生存自身の危機感がある。釈尊の決断の背景には、釈尊がそういった不安感・危機感から出家求道をせざるを得なかったという自己自身の求道過程があった。  それにより、衆生の持つ根本問題を見通した仏陀釈尊は、その問題を解き明かすべく、言葉の限界を超えて如来の教言を紡ぎ出していったのではないかと思う。  初期の仏弟子たちが出遇った如来の教えは、果である無我の体験、すなわち「さとり」と言われる内容を言葉によって表現しようとする教えであった。それは後に起こった大乗の教義了解からするなら、果たる証から教えが始められているということである。証から教が出てきている。因から果に到るという次第で、その果が説き出されたのである。  ところが仏陀の覚りに近づくために、虚妄分別から出発して果を求める道程を歩む者には、悪戦苦闘の努力をもってしても、その達成は困難であった。だからこそ大乗の志願は、如来の無限なる慈悲において、一切の衆生に普遍的な証果をもたらす教えを要求して止まなかったのである。 (2023年6月1日) 最近の投稿を読む...
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第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨  有限なる存在を、浄土教の歴史的な表現では「凡夫」という。凡夫とは一般用語であるが、この語において、仏教に出遇っている自分の存在の意味を、無限なる如来の大悲の眼に照らし出されたあり方として、表現しているのである。そうすると、善導が押さえているように、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(『真宗聖典』215頁)と深く信じるところにあるのが凡夫である。この自覚において親鸞は、「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』〔『真宗聖典』545頁〕)と言われているのである。  浄土教の自覚に表れてくる罪障の自覚とか罪業の身の重さということは、有限という語には現れてはいないのであるが、浄土教の求道における自覚的な表現とは、こういう罪障の自覚を通した有限なる自己の表現であると言える。その対照である無限という語にも、仏道の無為法ということで求められてくるような永劫に変わらない真実という性格はさしあたってないのであるが、求道の問題として無限という語を使う場合は、仏智の大きさや広大な涅槃ということも含まれてくると言うべきなのである。  この広大無辺の無限は、法蔵願心の果であり、因位の菩薩として法蔵菩薩は、果たる一如・涅槃から立ち上がったのだと言われる(『一念多念文意』〔『真宗聖典』543頁〕及び『唯信鈔文意』〔『真宗聖典』554頁〕参照)。その因位の修行は、大悲によって我ら衆生を済度せんがために、「兆載永劫」の時を貫く菩薩行であるとされている。兆載の時間をかけて、虚妄分別する我らに真実信を成就させようというのだと、親鸞は受けとめられているのである。  有限なる我らは、どこまでも煩悩具足の身を離れないから、決してそのまま無限に成ることはできない。しかし、無限の無限たる所以(ゆえん)は、一切の有限を包んでいるところにある。親鸞はこの道理について、善導が法蔵菩薩の果たる如来(阿弥陀如来)を「摂取不捨」として示していることに着眼している(「摂取して捨てざるがゆえに、阿弥陀と名づく」と善導が釈しているのを『教行信証』「行巻」で取り上げている〔『真宗聖典』174頁参照〕)。すなわち、無限大悲の光明は、たとえ我らが忘れようとも常に照らしていてくださるのだという。この道理にうなずくことにおいて、有限なる我らに無限のはたらきが具足する。親鸞は、このことを「如来回向」の信心として表されたのである。 (2023年5月1日) 最近の投稿を読む...
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第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧  親鸞の示す「金剛の信心」とは、大悲の不可思議なるはたらきによって、われら有限なる存在がどういう状態であるかを問わず、大いなる光明(無限大悲)が常に我等を包み摂していると信じることであるとされる。ここに有限・無限という言葉を出しているので、この二項(有限・無限)の関係を考察してみよう。    仏教語の一般的表現で「無為法」と言われる場合は、対応する言葉は「有為法」である。この有為法とは、我等有限の一切の事象が、すべて時間とともにあり、時を超えて永続する物事は存在しないということであり、「諸行無常」(あらゆる存在は永続しない)であるとされている。この諸行(一切の現象)が「有限」に相当する。そこから言うなら、無為法は「無限」と言われることの内容に当たるわけである。移りゆき変わりゆく一切の現象に対し、時間的な要素を交えず、いわば永久不変なることを示す概念が、「無為法」である。    この無為法という概念に相当する語が、一如・真如・涅槃・法性などと教えられ、さらには法身・実相・常楽などと転釈されていく。これらの教学用語は、それぞれに微妙な差異を生じてはいる。しかし親鸞は、それらを『涅槃経』などを依り処として、すべて同等の意味を示す概念であると了解している。これらの用語をすべて無為法なる概念の内容であるとするなら、いま考察している無限は、仏教的理念で言うと「涅槃」に相当するということになる。    親鸞が、『大無量寿経』に語られている「法蔵菩薩」とは、「一如宝海よりかたちをあらわして」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)きたと了解していることは、いかなる意味になるのであろうか。文字通りであれば、時間を超越した無限であるはずの一如が、有限の生存上の名告り(これは時間的に消滅する存在になる)に成ることである。このことは普通には、矛盾そのものである。しかしながら、法蔵菩薩が大悲の心の示現であるから、矛盾を超えて、無限が有限に展現するという表現であるとされている。    無限とは、内に有限の一切を包んでいる。しかるに、有限から無限を考究しようとするなら、無限なる事態は、自己の外に、いかにしても到達することなどできない極限の様態として考えられることになる。無限の立場からは、「内」とされるありかたが、その内の有限からは、「外」であるということになる。この内・外の矛盾を、清沢満之は有限と無限との「根本的撞着」と言われるのである。この矛盾が一致することを求めることこそ、宗教的実存の要求であるというわけである。 (2023年4月1日) 最近の投稿を読む...

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第46回「場について」⑯

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)が「浄土を建設する」ということを自己の根本的な願(がん)として、世自在王仏(せじざいおうぶつ)の前で宣言し、あらゆる諸仏の国土の善悪を覩見(とけん)して、その善なるところを選び取り、悪なるところを択(えら)び捨てて、極善の形を作ろうとする(『仏説無量寿経〈ぶっせつむりょうじゅきょう〉』)。そういう物語の表そうとする意味について、人間の歴史が本当の「国」を求めて、しかも現実には真実の国を見いだすことができなかったということがあるからだ、と言われたのが安田理深(1900〜1982)師であった。

 現実には建設したくとも、権力の固定が始まるやいなや、虚偽と堕落に見舞われて、決して真実の国にはなりえないということが、この世の悲しき歴史なのだ。けれども、人間はこの国土建立の願いを放棄するわけにはいかない。だから、衆生(しゅじょう)の根源の願いを掘り下げて、未来の涅槃界(ねはんがい)を象徴し、一切衆生を救済する場とするのだ、と言われるのである。国土の建設を自己の正覚(しょうがく)のための条件とするということを、法蔵菩薩の誓願(せいがん)が表現している意味の大切さについて、この安田先生の言葉には、なるほどと頷(うなず)かされるところがある。そして、環境としての国土ということは、生命体にとっての絶対必要な条件であるのみならず、ことに人間が社会的な存在であるからには、これを真実の場所として要求せずにはおれないのだということも、あらためて思われるのである。

 しかし、国土ほど人間をたぶらかすものもない。深く人間がその存在の根底に、求めて止(や)まないものがあるからこそ、それを利用して大きく歴史を動かすほどの規模で人間をたぶらかすこともあるのである。それが、近代の国家の為(な)してきた罪悪となったのではなかろうか。だから、この国土建設の願を利用する罪を真から自覚するということは、自己の根底を相対化するつらさに耐えることでもある。そして、この罪に目をつぶることは、自己の根源の深い要求の本質を自覚できないということなのである。

 現在のわれわれは、状況の困難さに目を奪われることなく、この自己の根源の深い要求を自覚することと、その深い要求が方向を変えさせられて犯してきた罪悪の歴史を自覚することを忘れてはなるまい。衆生のそれぞれの本国への要求を、国土建立の悲願として、宿業(しゅくごう)の源泉を洗うがごとくに呼びかけ続ける法蔵菩薩の願心を聞き当てたいものである。

(2007年3月1日)

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第239回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑩
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第239回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑩  我らの意識のあり方は、意識する作用と意識される内容とによって常に二分されている。このことを仏教では、意識は「分別(ふんべつ)」であると言い当てている。分別は、常に対象を内容とする作用なのである。しかもそれは虚しく妄りに分別しているから、虚妄分別(こもうふんべつ)であるとも言う。意識の分別のあり方そのものに、妄念が付いているのだというのである。  その虚妄を晴らすべく唯識思想の教えが表されてくるのであるが、その唯識思想の展開についてはここでは触れない。問題となるのは、その対象とされる意識内容が人間にとって常に興味を引く対象にのみ一切の頭脳活動を集中させていくという近代以降の発想方法のあり方である。その結果として、科学的な知識とそれを応用する技術は現代の文明社会の便利さを生み出したが、競争が過熱する社会をも現出してきているということなのである。  仏陀釈尊が無我の体験を言葉によって表すことを躊躇したという伝説が伝えられているのは、意識の二分化を前提にして言葉が成り立っているということ、そのことに釈尊が気づいていたからであろう。意識内容を言葉で表現することにより、自己の意識生活を他己に伝えることができる。それが言葉の持つ勝れた機能ではあるのだが、そこには限界がある。だから、自己の無我の体験を言葉にすることの困難さを前に、釈尊はひとまず沈黙された。しかし、その困難さを超えて、あえて言葉による共通体験の方向を信頼して、さとりの体験を言葉にして説き表すという決断をした。人間の現世の言葉による意識生活には、意識の対象界のみではなく、意識する作用それ自体によって起こってくる底知れぬ不安感や、生存自身の危機感がある。釈尊の決断の背景には、釈尊がそういった不安感・危機感から出家求道をせざるを得なかったという自己自身の求道過程があった。  それにより、衆生の持つ根本問題を見通した仏陀釈尊は、その問題を解き明かすべく、言葉の限界を超えて如来の教言を紡ぎ出していったのではないかと思う。  初期の仏弟子たちが出遇った如来の教えは、果である無我の体験、すなわち「さとり」と言われる内容を言葉によって表現しようとする教えであった。それは後に起こった大乗の教義了解からするなら、果たる証から教えが始められているということである。証から教が出てきている。因から果に到るという次第で、その果が説き出されたのである。  ところが仏陀の覚りに近づくために、虚妄分別から出発して果を求める道程を歩む者には、悪戦苦闘の努力をもってしても、その達成は困難であった。だからこそ大乗の志願は、如来の無限なる慈悲において、一切の衆生に普遍的な証果をもたらす教えを要求して止まなかったのである。 (2023年6月1日) 最近の投稿を読む...
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第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨  有限なる存在を、浄土教の歴史的な表現では「凡夫」という。凡夫とは一般用語であるが、この語において、仏教に出遇っている自分の存在の意味を、無限なる如来の大悲の眼に照らし出されたあり方として、表現しているのである。そうすると、善導が押さえているように、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(『真宗聖典』215頁)と深く信じるところにあるのが凡夫である。この自覚において親鸞は、「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』〔『真宗聖典』545頁〕)と言われているのである。  浄土教の自覚に表れてくる罪障の自覚とか罪業の身の重さということは、有限という語には現れてはいないのであるが、浄土教の求道における自覚的な表現とは、こういう罪障の自覚を通した有限なる自己の表現であると言える。その対照である無限という語にも、仏道の無為法ということで求められてくるような永劫に変わらない真実という性格はさしあたってないのであるが、求道の問題として無限という語を使う場合は、仏智の大きさや広大な涅槃ということも含まれてくると言うべきなのである。  この広大無辺の無限は、法蔵願心の果であり、因位の菩薩として法蔵菩薩は、果たる一如・涅槃から立ち上がったのだと言われる(『一念多念文意』〔『真宗聖典』543頁〕及び『唯信鈔文意』〔『真宗聖典』554頁〕参照)。その因位の修行は、大悲によって我ら衆生を済度せんがために、「兆載永劫」の時を貫く菩薩行であるとされている。兆載の時間をかけて、虚妄分別する我らに真実信を成就させようというのだと、親鸞は受けとめられているのである。  有限なる我らは、どこまでも煩悩具足の身を離れないから、決してそのまま無限に成ることはできない。しかし、無限の無限たる所以(ゆえん)は、一切の有限を包んでいるところにある。親鸞はこの道理について、善導が法蔵菩薩の果たる如来(阿弥陀如来)を「摂取不捨」として示していることに着眼している(「摂取して捨てざるがゆえに、阿弥陀と名づく」と善導が釈しているのを『教行信証』「行巻」で取り上げている〔『真宗聖典』174頁参照〕)。すなわち、無限大悲の光明は、たとえ我らが忘れようとも常に照らしていてくださるのだという。この道理にうなずくことにおいて、有限なる我らに無限のはたらきが具足する。親鸞は、このことを「如来回向」の信心として表されたのである。 (2023年5月1日) 最近の投稿を読む...
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第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧  親鸞の示す「金剛の信心」とは、大悲の不可思議なるはたらきによって、われら有限なる存在がどういう状態であるかを問わず、大いなる光明(無限大悲)が常に我等を包み摂していると信じることであるとされる。ここに有限・無限という言葉を出しているので、この二項(有限・無限)の関係を考察してみよう。    仏教語の一般的表現で「無為法」と言われる場合は、対応する言葉は「有為法」である。この有為法とは、我等有限の一切の事象が、すべて時間とともにあり、時を超えて永続する物事は存在しないということであり、「諸行無常」(あらゆる存在は永続しない)であるとされている。この諸行(一切の現象)が「有限」に相当する。そこから言うなら、無為法は「無限」と言われることの内容に当たるわけである。移りゆき変わりゆく一切の現象に対し、時間的な要素を交えず、いわば永久不変なることを示す概念が、「無為法」である。    この無為法という概念に相当する語が、一如・真如・涅槃・法性などと教えられ、さらには法身・実相・常楽などと転釈されていく。これらの教学用語は、それぞれに微妙な差異を生じてはいる。しかし親鸞は、それらを『涅槃経』などを依り処として、すべて同等の意味を示す概念であると了解している。これらの用語をすべて無為法なる概念の内容であるとするなら、いま考察している無限は、仏教的理念で言うと「涅槃」に相当するということになる。    親鸞が、『大無量寿経』に語られている「法蔵菩薩」とは、「一如宝海よりかたちをあらわして」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)きたと了解していることは、いかなる意味になるのであろうか。文字通りであれば、時間を超越した無限であるはずの一如が、有限の生存上の名告り(これは時間的に消滅する存在になる)に成ることである。このことは普通には、矛盾そのものである。しかしながら、法蔵菩薩が大悲の心の示現であるから、矛盾を超えて、無限が有限に展現するという表現であるとされている。    無限とは、内に有限の一切を包んでいる。しかるに、有限から無限を考究しようとするなら、無限なる事態は、自己の外に、いかにしても到達することなどできない極限の様態として考えられることになる。無限の立場からは、「内」とされるありかたが、その内の有限からは、「外」であるということになる。この内・外の矛盾を、清沢満之は有限と無限との「根本的撞着」と言われるのである。この矛盾が一致することを求めることこそ、宗教的実存の要求であるというわけである。 (2023年4月1日) 最近の投稿を読む...

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第45回「場について」⑮

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 昨年(2006年)10月に行われた親鸞仏教センターの「親鸞思想の解明」シンポジウムでは、「場の研究所」を主催しておられる清水博先生(東京大学名誉教授)をお招きして、科学と宗教の接点を探る試みをした。清水先生は、現代の文明の状況をもたらした科学技術の現状と将来の展望には、そのまま座視しておくことができない危機を感じておられる。いままでの科学の論理を、「認識論的論理」であるというなら、これからはこれに「存在論的論理」を組み込む必要がある、もしそれをしないなら、人類は地球もろとも、滅亡を速めていくしかないのではないか、と言われるのである。

 この存在論的論理と「宗教的自覚の論理」とに、深い関係があるに相違(そうい)ないと睨(にら)んでおられるようである。認識論的論理とは、人間の意識の対象を合理的に分析したり、そこから人間に都合がよい部分を取り出して利用したりする発想であろう。実際の存在の事実は、人間を包んではたらく大自然の営みであり、合理化され、対象化される以前の大きなはたらきである。人間に解釈されうる部分はそのほんの一部であり、人間がその一部を操作しすぎることによって、大自然の営みにひずみが生じ、自然の時間が存在の大きな成り立ちを修正し、回復していくよりも、それを崩壊してしまう程度にまで、技術の応用が進展してしまっているのではないかということなのであろう。

 仏教では、人間の理性の営みに、無条件の信頼を置くことはなかった。人間の思考には「無明(むみょう)」が蔽(おお)っている、と自覚するように教えてきた。この無明とは、真実の存在を自覚させないはたらきである。その正体を「自我の執心(しゅうしん)」であると押さえたのが、仏陀の智慧(ちえ)であった。いかに勝れた人間の合理性であっても、人間的な偏頗(へんぱ)性を逃れられないのである、と。

 人間の合理性があらゆる事象を対象化することを前提にするものが、科学的方法なのであろう。それ自身の危険性をいかにして乗り越えられるのか。これが清水先生の「場」への提言であり、宗教とも接点を求めようとする激しい情念なのではなかろうか。先生の思索の根源には、未来の人類への愛情と現在の状況への深い危機意識があり、ひとたびこれに触れると、論理の難解さを超えた同感を感じるのは、愚生だけではあるまい。

(2007年2月1日)

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第239回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑩
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第239回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑩  我らの意識のあり方は、意識する作用と意識される内容とによって常に二分されている。このことを仏教では、意識は「分別(ふんべつ)」であると言い当てている。分別は、常に対象を内容とする作用なのである。しかもそれは虚しく妄りに分別しているから、虚妄分別(こもうふんべつ)であるとも言う。意識の分別のあり方そのものに、妄念が付いているのだというのである。  その虚妄を晴らすべく唯識思想の教えが表されてくるのであるが、その唯識思想の展開についてはここでは触れない。問題となるのは、その対象とされる意識内容が人間にとって常に興味を引く対象にのみ一切の頭脳活動を集中させていくという近代以降の発想方法のあり方である。その結果として、科学的な知識とそれを応用する技術は現代の文明社会の便利さを生み出したが、競争が過熱する社会をも現出してきているということなのである。  仏陀釈尊が無我の体験を言葉によって表すことを躊躇したという伝説が伝えられているのは、意識の二分化を前提にして言葉が成り立っているということ、そのことに釈尊が気づいていたからであろう。意識内容を言葉で表現することにより、自己の意識生活を他己に伝えることができる。それが言葉の持つ勝れた機能ではあるのだが、そこには限界がある。だから、自己の無我の体験を言葉にすることの困難さを前に、釈尊はひとまず沈黙された。しかし、その困難さを超えて、あえて言葉による共通体験の方向を信頼して、さとりの体験を言葉にして説き表すという決断をした。人間の現世の言葉による意識生活には、意識の対象界のみではなく、意識する作用それ自体によって起こってくる底知れぬ不安感や、生存自身の危機感がある。釈尊の決断の背景には、釈尊がそういった不安感・危機感から出家求道をせざるを得なかったという自己自身の求道過程があった。  それにより、衆生の持つ根本問題を見通した仏陀釈尊は、その問題を解き明かすべく、言葉の限界を超えて如来の教言を紡ぎ出していったのではないかと思う。  初期の仏弟子たちが出遇った如来の教えは、果である無我の体験、すなわち「さとり」と言われる内容を言葉によって表現しようとする教えであった。それは後に起こった大乗の教義了解からするなら、果たる証から教えが始められているということである。証から教が出てきている。因から果に到るという次第で、その果が説き出されたのである。  ところが仏陀の覚りに近づくために、虚妄分別から出発して果を求める道程を歩む者には、悪戦苦闘の努力をもってしても、その達成は困難であった。だからこそ大乗の志願は、如来の無限なる慈悲において、一切の衆生に普遍的な証果をもたらす教えを要求して止まなかったのである。 (2023年6月1日) 最近の投稿を読む...
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第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨  有限なる存在を、浄土教の歴史的な表現では「凡夫」という。凡夫とは一般用語であるが、この語において、仏教に出遇っている自分の存在の意味を、無限なる如来の大悲の眼に照らし出されたあり方として、表現しているのである。そうすると、善導が押さえているように、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(『真宗聖典』215頁)と深く信じるところにあるのが凡夫である。この自覚において親鸞は、「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』〔『真宗聖典』545頁〕)と言われているのである。  浄土教の自覚に表れてくる罪障の自覚とか罪業の身の重さということは、有限という語には現れてはいないのであるが、浄土教の求道における自覚的な表現とは、こういう罪障の自覚を通した有限なる自己の表現であると言える。その対照である無限という語にも、仏道の無為法ということで求められてくるような永劫に変わらない真実という性格はさしあたってないのであるが、求道の問題として無限という語を使う場合は、仏智の大きさや広大な涅槃ということも含まれてくると言うべきなのである。  この広大無辺の無限は、法蔵願心の果であり、因位の菩薩として法蔵菩薩は、果たる一如・涅槃から立ち上がったのだと言われる(『一念多念文意』〔『真宗聖典』543頁〕及び『唯信鈔文意』〔『真宗聖典』554頁〕参照)。その因位の修行は、大悲によって我ら衆生を済度せんがために、「兆載永劫」の時を貫く菩薩行であるとされている。兆載の時間をかけて、虚妄分別する我らに真実信を成就させようというのだと、親鸞は受けとめられているのである。  有限なる我らは、どこまでも煩悩具足の身を離れないから、決してそのまま無限に成ることはできない。しかし、無限の無限たる所以(ゆえん)は、一切の有限を包んでいるところにある。親鸞はこの道理について、善導が法蔵菩薩の果たる如来(阿弥陀如来)を「摂取不捨」として示していることに着眼している(「摂取して捨てざるがゆえに、阿弥陀と名づく」と善導が釈しているのを『教行信証』「行巻」で取り上げている〔『真宗聖典』174頁参照〕)。すなわち、無限大悲の光明は、たとえ我らが忘れようとも常に照らしていてくださるのだという。この道理にうなずくことにおいて、有限なる我らに無限のはたらきが具足する。親鸞は、このことを「如来回向」の信心として表されたのである。 (2023年5月1日) 最近の投稿を読む...
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第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧  親鸞の示す「金剛の信心」とは、大悲の不可思議なるはたらきによって、われら有限なる存在がどういう状態であるかを問わず、大いなる光明(無限大悲)が常に我等を包み摂していると信じることであるとされる。ここに有限・無限という言葉を出しているので、この二項(有限・無限)の関係を考察してみよう。    仏教語の一般的表現で「無為法」と言われる場合は、対応する言葉は「有為法」である。この有為法とは、我等有限の一切の事象が、すべて時間とともにあり、時を超えて永続する物事は存在しないということであり、「諸行無常」(あらゆる存在は永続しない)であるとされている。この諸行(一切の現象)が「有限」に相当する。そこから言うなら、無為法は「無限」と言われることの内容に当たるわけである。移りゆき変わりゆく一切の現象に対し、時間的な要素を交えず、いわば永久不変なることを示す概念が、「無為法」である。    この無為法という概念に相当する語が、一如・真如・涅槃・法性などと教えられ、さらには法身・実相・常楽などと転釈されていく。これらの教学用語は、それぞれに微妙な差異を生じてはいる。しかし親鸞は、それらを『涅槃経』などを依り処として、すべて同等の意味を示す概念であると了解している。これらの用語をすべて無為法なる概念の内容であるとするなら、いま考察している無限は、仏教的理念で言うと「涅槃」に相当するということになる。    親鸞が、『大無量寿経』に語られている「法蔵菩薩」とは、「一如宝海よりかたちをあらわして」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)きたと了解していることは、いかなる意味になるのであろうか。文字通りであれば、時間を超越した無限であるはずの一如が、有限の生存上の名告り(これは時間的に消滅する存在になる)に成ることである。このことは普通には、矛盾そのものである。しかしながら、法蔵菩薩が大悲の心の示現であるから、矛盾を超えて、無限が有限に展現するという表現であるとされている。    無限とは、内に有限の一切を包んでいる。しかるに、有限から無限を考究しようとするなら、無限なる事態は、自己の外に、いかにしても到達することなどできない極限の様態として考えられることになる。無限の立場からは、「内」とされるありかたが、その内の有限からは、「外」であるということになる。この内・外の矛盾を、清沢満之は有限と無限との「根本的撞着」と言われるのである。この矛盾が一致することを求めることこそ、宗教的実存の要求であるというわけである。 (2023年4月1日) 最近の投稿を読む...

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第44回「場について」⑭

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 根源にある場を不可思議なる存在の背景と自覚する、ということ。この場は、静止的な地下水の滞留(たいりゅう)のごときものではなく、われらの表層の意識生活へとささやき続ける。いわば、地下のマグマが地層の裂け目を抜けて吹き出すごとく、われらの煩悩生活の隙間を潜(くぐ)って、宗教的要求となって現れ出る。有限なる人間に、無限が自覚されるということは、この不可思議なる噴出に気づくということなのである。

 われらにとっての真の場所とは、このマグマのような力をはらんで、意識生活の根底に静かに燃えている深層の意欲だ、と言えるのではないか。これを、『大無量寿経』を説き出そうとする釈尊は、「本願」として見いだしてきたのであるに相違ない。この根源の場は、一切衆生を平等に摂(せっ)する大地である。この大地が表層の生活に疲れた凡夫に積極的にはたらくことを、「如来の回向(えこう)」という言葉で自覚したのが、親鸞であるということなのだ。親鸞は、凡夫に自覚される一切の宗教的な目覚めの事実を、この根源からのはたらきである回向に由来するものであると見抜いた。修道(しゅうどう)の過程も、その結果である証(あかし)も、この本願の衆生への表現たる回向によって、愚かなわれらに現前することがあり得るのだ。

 大悲の回向によって凡夫に起こる宗教現象を、本願の因果による物語をとおして一切衆生に成り立つ本願成就の救済であるという。その宗教的自覚は、有限なるわれらの努力や意欲のレベルからは決して届くことのない、無限の深みと大いなる力を備えている。それを自覚することを「如来回向の信心」という。われらに起こる自覚ではあっても、われら凡夫の表層意識から涌(わ)いたものではない。存在の根源からの表出なのである。だから、マグマの作用の結果、この地上に現出したもっとも堅い物質〈ダイヤモンド〉に比肩(ひけん)し得るような意識だというのであろう。如来回向の信心は金剛心であると、繰り返して親鸞は確認する。それは、この大地のごとき願心を、動き行く日常の状況に在(あ)りながらしっかりと自覚できるからである、と思うのである。

(2007年1月1日)

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第239回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑩
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第239回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑩  我らの意識のあり方は、意識する作用と意識される内容とによって常に二分されている。このことを仏教では、意識は「分別(ふんべつ)」であると言い当てている。分別は、常に対象を内容とする作用なのである。しかもそれは虚しく妄りに分別しているから、虚妄分別(こもうふんべつ)であるとも言う。意識の分別のあり方そのものに、妄念が付いているのだというのである。  その虚妄を晴らすべく唯識思想の教えが表されてくるのであるが、その唯識思想の展開についてはここでは触れない。問題となるのは、その対象とされる意識内容が人間にとって常に興味を引く対象にのみ一切の頭脳活動を集中させていくという近代以降の発想方法のあり方である。その結果として、科学的な知識とそれを応用する技術は現代の文明社会の便利さを生み出したが、競争が過熱する社会をも現出してきているということなのである。  仏陀釈尊が無我の体験を言葉によって表すことを躊躇したという伝説が伝えられているのは、意識の二分化を前提にして言葉が成り立っているということ、そのことに釈尊が気づいていたからであろう。意識内容を言葉で表現することにより、自己の意識生活を他己に伝えることができる。それが言葉の持つ勝れた機能ではあるのだが、そこには限界がある。だから、自己の無我の体験を言葉にすることの困難さを前に、釈尊はひとまず沈黙された。しかし、その困難さを超えて、あえて言葉による共通体験の方向を信頼して、さとりの体験を言葉にして説き表すという決断をした。人間の現世の言葉による意識生活には、意識の対象界のみではなく、意識する作用それ自体によって起こってくる底知れぬ不安感や、生存自身の危機感がある。釈尊の決断の背景には、釈尊がそういった不安感・危機感から出家求道をせざるを得なかったという自己自身の求道過程があった。  それにより、衆生の持つ根本問題を見通した仏陀釈尊は、その問題を解き明かすべく、言葉の限界を超えて如来の教言を紡ぎ出していったのではないかと思う。  初期の仏弟子たちが出遇った如来の教えは、果である無我の体験、すなわち「さとり」と言われる内容を言葉によって表現しようとする教えであった。それは後に起こった大乗の教義了解からするなら、果たる証から教えが始められているということである。証から教が出てきている。因から果に到るという次第で、その果が説き出されたのである。  ところが仏陀の覚りに近づくために、虚妄分別から出発して果を求める道程を歩む者には、悪戦苦闘の努力をもってしても、その達成は困難であった。だからこそ大乗の志願は、如来の無限なる慈悲において、一切の衆生に普遍的な証果をもたらす教えを要求して止まなかったのである。 (2023年6月1日) 最近の投稿を読む...
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第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨  有限なる存在を、浄土教の歴史的な表現では「凡夫」という。凡夫とは一般用語であるが、この語において、仏教に出遇っている自分の存在の意味を、無限なる如来の大悲の眼に照らし出されたあり方として、表現しているのである。そうすると、善導が押さえているように、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(『真宗聖典』215頁)と深く信じるところにあるのが凡夫である。この自覚において親鸞は、「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』〔『真宗聖典』545頁〕)と言われているのである。  浄土教の自覚に表れてくる罪障の自覚とか罪業の身の重さということは、有限という語には現れてはいないのであるが、浄土教の求道における自覚的な表現とは、こういう罪障の自覚を通した有限なる自己の表現であると言える。その対照である無限という語にも、仏道の無為法ということで求められてくるような永劫に変わらない真実という性格はさしあたってないのであるが、求道の問題として無限という語を使う場合は、仏智の大きさや広大な涅槃ということも含まれてくると言うべきなのである。  この広大無辺の無限は、法蔵願心の果であり、因位の菩薩として法蔵菩薩は、果たる一如・涅槃から立ち上がったのだと言われる(『一念多念文意』〔『真宗聖典』543頁〕及び『唯信鈔文意』〔『真宗聖典』554頁〕参照)。その因位の修行は、大悲によって我ら衆生を済度せんがために、「兆載永劫」の時を貫く菩薩行であるとされている。兆載の時間をかけて、虚妄分別する我らに真実信を成就させようというのだと、親鸞は受けとめられているのである。  有限なる我らは、どこまでも煩悩具足の身を離れないから、決してそのまま無限に成ることはできない。しかし、無限の無限たる所以(ゆえん)は、一切の有限を包んでいるところにある。親鸞はこの道理について、善導が法蔵菩薩の果たる如来(阿弥陀如来)を「摂取不捨」として示していることに着眼している(「摂取して捨てざるがゆえに、阿弥陀と名づく」と善導が釈しているのを『教行信証』「行巻」で取り上げている〔『真宗聖典』174頁参照〕)。すなわち、無限大悲の光明は、たとえ我らが忘れようとも常に照らしていてくださるのだという。この道理にうなずくことにおいて、有限なる我らに無限のはたらきが具足する。親鸞は、このことを「如来回向」の信心として表されたのである。 (2023年5月1日) 最近の投稿を読む...
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第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧  親鸞の示す「金剛の信心」とは、大悲の不可思議なるはたらきによって、われら有限なる存在がどういう状態であるかを問わず、大いなる光明(無限大悲)が常に我等を包み摂していると信じることであるとされる。ここに有限・無限という言葉を出しているので、この二項(有限・無限)の関係を考察してみよう。    仏教語の一般的表現で「無為法」と言われる場合は、対応する言葉は「有為法」である。この有為法とは、我等有限の一切の事象が、すべて時間とともにあり、時を超えて永続する物事は存在しないということであり、「諸行無常」(あらゆる存在は永続しない)であるとされている。この諸行(一切の現象)が「有限」に相当する。そこから言うなら、無為法は「無限」と言われることの内容に当たるわけである。移りゆき変わりゆく一切の現象に対し、時間的な要素を交えず、いわば永久不変なることを示す概念が、「無為法」である。    この無為法という概念に相当する語が、一如・真如・涅槃・法性などと教えられ、さらには法身・実相・常楽などと転釈されていく。これらの教学用語は、それぞれに微妙な差異を生じてはいる。しかし親鸞は、それらを『涅槃経』などを依り処として、すべて同等の意味を示す概念であると了解している。これらの用語をすべて無為法なる概念の内容であるとするなら、いま考察している無限は、仏教的理念で言うと「涅槃」に相当するということになる。    親鸞が、『大無量寿経』に語られている「法蔵菩薩」とは、「一如宝海よりかたちをあらわして」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)きたと了解していることは、いかなる意味になるのであろうか。文字通りであれば、時間を超越した無限であるはずの一如が、有限の生存上の名告り(これは時間的に消滅する存在になる)に成ることである。このことは普通には、矛盾そのものである。しかしながら、法蔵菩薩が大悲の心の示現であるから、矛盾を超えて、無限が有限に展現するという表現であるとされている。    無限とは、内に有限の一切を包んでいる。しかるに、有限から無限を考究しようとするなら、無限なる事態は、自己の外に、いかにしても到達することなどできない極限の様態として考えられることになる。無限の立場からは、「内」とされるありかたが、その内の有限からは、「外」であるということになる。この内・外の矛盾を、清沢満之は有限と無限との「根本的撞着」と言われるのである。この矛盾が一致することを求めることこそ、宗教的実存の要求であるというわけである。 (2023年4月1日) 最近の投稿を読む...