親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

今との出会い第187回「「彼女」はやって来て、そして去っていく――または、生きている終り」

越部良一

親鸞仏教センター嘱託研究員

越部 良一

(KOSHIBE Ryoichi)

 デヴィッド・ボウイの1973年のアルバム『アラジン・セイン』の最終曲「Lady grinning soul」は、「She’ll come, she’ll go」と歌い出し、「She will be your living end」で終る。


 「She」は、娼婦とロック歌手の両義をもたされている。夜な夜な現れて客の相手をし、一夜の関係をもち、太陽に追われるかのようにどこかへ去って行くのである。

 曲のタイトルにあるgrinを辞書で引くと、歯を見せて笑うこと、親しみを込めるときだけでなく、嘲笑(ちょうしょう)、軽蔑(けいべつ)、嫌悪、敵意、苦痛を示すものでもあることがわかる。これも両義的なのだ。歌の中では「lady from another grinning soul」と表現される。「彼女」は「私」と別のもう一人のgrinning soulであると。もしくは、この世間とは別の世界から来た女性であると。世間を越えたその笑いは、いつでも噛みつく用意をしている。相手が単なる世間に埋没してゆくときには。


 living endは、これも辞書を引くと、最高のもの、と出ている。livingが強烈な、本当のさまを意味し、endは究極を表わすからである。しかし、こんなふうに訳してもほとんど意味をなさない。言うまでもなく、これもまた両義的、矛盾的な表現であって、「生きている」と「死」をくっつけているのである。endは終りであり目的である。この世の命を賭すものに生きる中で出会うこと、これが人間の真の願いだということである。だがこの願い、「She」は長居できない。「彼女」は人間世界に捕えきれないが、「私」は世間のものでもあるから。「彼女」はやって来ては去って行く、ただその刹那(せつな)にliving endはある。


 ボウイはこのころ、ルー・リードとイギー・ポップのアルバムをプロデュースしている。ボウイが心寄せていたシド・バレットが精神状態をおかしくして音楽界から遠ざかって行ったのもこのころのことである。1970年、71年は、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソンが相次いで亡くなっていった。今、名前を挙げた人たちは、ボウイを除いて、60年代半ば過ぎ(66年から69年)のロックという、その後のロック・アーティストの誰も到達し得ない音楽の高みの中に現前し、それを牽引(けんいん)した人たちである。ボウイは遅れてやって来たのだ、この人たちを見やりながら。そのありさまたるや、世間的な命に囚(とら)われることのない、「ロックン・ロールの自殺者」(ボウイの一つ前のアルバムの最終曲)と呼ぶにふさわしい人たち、「She」とはこうした音楽家の魂なのである。


 夜な夜なそうした魂のもとへ、芸術の女神のもとへ馳(は)せ参じながら、これが自らの魂でもあり、この魂を聴衆の面前に現前させることこそ自らの願いでもあるとボウイは確信したにちがいないのだから、「She」はボウイの「I」でもある。だから化粧をして女性の如き衣装を身にまとって舞台に出て行くのだ。そうして歌い出す、「She’ll come, she’ll go. She’ll lay belief on you」。


 その通り、私は信ずる、この曲が、不断に憧憬(しょうけい)と化すliving endを現前させるということを。

(2018年12月1日)

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投稿者:shinran-bc 投稿日時:

「親鸞仏教センター通信」第82号

越部良一 掲載Contents

巻頭言

加来 雄之 「思想の「場」」

■ 連続講座「親鸞思想の解明」報告

講師 本多 弘之 「涅槃、本当に生きることができる場所に立つ」

報告 越部 良一

■ 連続講座「親鸞思想の解明」報告

講師 木村 哲也 「忘れられた存在を語り直す/忘れられた存在と出会い直す―ハンセン病問題と駐在保健婦―」

報告 菊池 弘宣

■ 第7回清沢満之研究交流会報告

テーマ:近代の宗門教育制度と清沢満之

江島 尚俊 「明治前期・真宗大谷派における教育制度の特徴—他宗派との比較から考える―」

川口  淳 「メディアにみる大谷派教育と改革運動 —明治20年代の一考察」

藤原  智 「清沢満之と真宗大学(東京)の運営」

林   淳(コメンテーター)

東  真行(司会)

長谷川琢哉(開催趣旨・報告)

■ 聖典の試訳(現代語化)『尊号真像銘文』末巻

菊池 弘宣 「源空聖人の真像の銘文( 『選択集』 に関する銘文)③」

■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」

田村 晃徳 「寺川俊昭(1928〜2021)」

コラム・エッセイ
講座・イベント
刊行物のご案内

研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

越部 良一

研究員の紹介

KOSHIBE Ryoichi
(嘱託研究員)

プロフィール

専門領域
実存思想(ヤスパース)、浄土教思想(法然、親鸞、証空)、日本思想(伊藤仁斎、清沢満之、小林秀雄)
略歴
1961年大阪府生まれ。
一橋大学社会学部卒業。
早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了。
同研究科博士課程単位取得満期退学。
現在、親鸞仏教センター嘱託研究員、法政大学・日本大学・立正大学、各非常勤講師。
所属学会
日本宗教学会、「宗教と社会」学会、戦争社会学研究会、関東社会学会、社会学理論学会

当センター刊行物への執筆

『現代と親鸞』第39号
『現代と親鸞』第33号(清沢満之研究の軌跡と展望)
『現代と親鸞』第30号
『現代と親鸞』第26号
『現代と親鸞』第22号
『現代と親鸞』第18号
『現代と親鸞』第7号
『アンジャリ』第41号
『アンジャリ』第17号
『アンジャリ』第4号
「親鸞仏教センター通信」第82号
「親鸞仏教センター通信」第74号
「親鸞仏教センター通信」第73号
「親鸞仏教センター通信」第72号
『親鸞仏教センター通信』第71号
「親鸞仏教センター通信」第69号
「親鸞仏教センター通信」第68号
「親鸞仏教センター通信」第67号
「親鸞仏教センター通信」第66号
「親鸞仏教センター通信」第65号
「親鸞仏教センター通信」第64号
「親鸞仏教センター通信」第63号
「親鸞仏教センター通信」第62号
「親鸞仏教センター通信」第61号
「親鸞仏教センター通信」第60号
「親鸞仏教センター通信」第59号
「親鸞仏教センター通信」第58号
「親鸞仏教センター通信」第57号
「親鸞仏教センター通信」第56号
「親鸞仏教センター通信」第55号
「親鸞仏教センター通信」第54号
『親鸞仏教センター通信』第53号
「親鸞仏教センター通信」第52回
「親鸞仏教センター通信」第51号
「親鸞仏教センター通信」第49号
「親鸞仏教センター通信」第48号
「親鸞仏教センター通信」第47号
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「親鸞仏教センター通信」第45号
「親鸞仏教センター通信」第44号
「親鸞仏教センター通信」第43号
「親鸞仏教センター通信」第42回

WEBコンテンツの執筆

今との出会い第187回「「彼女」はやって来て、そして去っていく――または、生きている終り」
今との出会い 第229回「哲学者とは何者か」
今との出会い 第219回「浄土教の現生成仏ということ」
今との出会い 第208回「超越すること――もしくは、調子が外れること」
今との出会い第197回「親鸞の「変成男子」の「男子」とは法蔵菩薩のことである」
コラム・エッセイ
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研究会・Interview

今との出会い 第229回「哲学者とは何者か」

越部良一

親鸞仏教センター嘱託研究員

越部 良一

(KOSHIBE Ryoichi)

 今、ヤスパースの『理性と実存』を訳しているので、なぜ自分がこうしたことをしているのかを書いて見よう。

 小林秀雄は言う、「本当にいい音楽とか、いい絵とかには、何か非常にやさしい[易しい]、当り前なものがあります。真理というものも、ほんとうは大変やさしく、単純なものではないでしょうか。現代の絵や音楽には、その単純なものが抜け落ちています。そしてそれは現代人の知恵にも抜けていることを、私は強く感じます」(国民文化研究会・新潮社編『小林秀雄 学生との対話』〔新潮社、2014〕 ※[ ]は引用者補足、以下同様)。

 本当の哲学思想もおそろしく単純なものである。その単純なものを表現するのは難しい。否定的に表現する方が簡単である。例えば、法然流に言えば、哲学者(勿論、私のことではない)とは、「名聞・利養・勝他」によって動くことはない人のことである。複雑なものとは、ただ人に向う動きである。だから法然は「人にすぎたる往生のあた[仇(あだ)]はなし」(『法然上人絵伝』)と言う。だからといって、名聞、利養、勝他から遠ざかれば、そのおそろしく単純なやさしいものに近づくのかというと、そうとは限らない。それが単なる人の動きであれば同じことである。

 だから、このおそろしく単純な事態を肯定的に表現すると、例えば、「自己自身に関わり、そのことによって己(おのれ)の超越者に関わる」(ヤスパース『哲学』)。しかし、どんな肯定的な表現も、また延々と説明できる。この表現でも「超越者」について。肯定的にして否定的に表現すると、例えばこうである。「[哲学の]語りにおいて、いつでも何か向け変えるものが存在し、その結果、存在の根拠が触れられるのは、むしろ、私がその根拠を捉えることのうちで、その根拠を名づけないことによってである。しかしこのことは再び、ただ次のときにのみある。私がその[名づける]ことを意図的に回避する――それは人為的な、単なる修辞的な文章技術である――のでなく、[この名づけないことを]全くもって意図されないものとして経験するときである。私が何に依って存在し、そして生きるのか、その何ものかを、私はただ次のようにしてのみ語ることができる。語られたものにおいて把握できる在り様ではそのものを逸し、そして、逸することによってそのものを間接的にまさに顕(あき)らかにする、というように」(『理性と実存』)。「向け変える」とは、魂を向け変えることである。名づけられるものから名づけられないものへ向け変えるのである。

 大学院(早稲田大学)での恩師、伴博(ばん・ひろし)先生は、なぜ自分がヤスパースを好んで読むのかについて、哲学思想の力というものは、論理展開の厳密さや深さといったものでは測り切れないものだ、という意味のことを言っておられた。自分も又、ただひたすら、その測り知れぬ、単純なやさしいものに関わることを願うばかりである。

(2022年5月1日)

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今との出会い第187回「「彼女」はやって来て、そして去っていく――または、生きている終り」
今との出会い第187回「「彼女」はやって来て、そして去っていく――または、生きている終り」 親鸞仏教センター嘱託研究員 越部 良一 (KOSHIBE Ryoichi)  デヴィッド・ボウイの1973年のアルバム『アラジン・セイン』の最終曲「Lady...
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『アンジャリ』第41号

越部良一 掲載Contents

『アンジャリ』第41号

(2021年12月)

■ 特集「〈いのち〉という語りを問い直す」

池澤 春菜 「ヒトのイノチの先に」

岩田 文昭 「いのちの否定と肯定」

大谷 由香 「日本仏教における「慈悲殺生」の許容」

■ 連載
■ Eassais(エッセイズ)

天畠 大輔 「「あ、か、さ、た、な」で能力を考える」

宮本 ゆき 「核兵器と「悪」」

山田由香里 「祈りの造形を削り出す――鉄川与助の手仕事が生んだ聖なる空間」

■ 交差点

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今との出会い 第219回「浄土教の現生成仏ということ」

越部良一

親鸞仏教センター嘱託研究員

越部 良一

(KOSHIBE Ryoichi)

 「向(さき)に観察荘厳(しょうごん)仏土功徳成就と荘厳仏功徳成就と荘厳菩薩功徳成就を説きつ。この三種の成就は願心をして荘厳せりと、知るべし。略説して一法句に入るが故に。一法句とは、いはく清浄句なり。清浄句とは、いはく真実の智慧無為法身なるが故に」(天親『浄土論』)。浄土が「願心」であること、それが「仏」「菩薩」と「清浄」と「真実」「智慧」「無為」「法身」と「一」つであることが分かる。ところで法身とは仏の在り方のことで、「彼仏国土無為自然(じねん)」(『無量寿経』)であるから、「無為法身」とは阿弥陀仏のことである。「願生安楽国といふは、この一句はこれ作願門なり。天親菩薩の帰命の意なり」(曇鸞『浄土論註』)。この「作願」は「本願力回向」(『浄土論』)であるから、「帰命」(南無)は弥陀の願心である。願心は真実智慧であるから、「真実智慧無為法身」とは南無阿弥陀仏のことである。つまり、浄土とは南無阿弥陀仏である。何故に『浄土論』は著されたのか。「彼の安楽世界を観じて、阿弥陀如来を見たてまつり、彼の国に生まれんと願ずることを示現するが故なり。いかんが観じ、いかんが信心を生ずる」(同上)。これで願生の心が「信心」であると分かるから、「真実」は信心である。


 以上、親鸞『顕浄土真実教行証文類』の「浄土真実」とは「願心」であり、「帰命」であり、「信心」である。すべて阿弥陀仏である。この『教行信証』の(『涅槃経』からの)引文、「真実といふは即ちこれ如来なり」、「大信心は即ちこれ仏性なり、仏性は即ちこれ如来なり」。『無量寿経』 に言う、法蔵菩薩は「この願を建て已(おわ)りて[中略]妙土を荘厳す。[中略]建立(こんりゅう)常然(じょうねん)にして、衰なく変なし」。法然は言う、「今、二種の信心を建立して、九品の往生を決定するものなり」(『選択集』)。善導は言う、「彼の仏、今、現に世に在(ましま)して成仏したまへり」(『往生礼讃』)。

 浄土教における、この現生往生論にして現生成仏論を、ある種の死後往生、死後成仏論と対照してみよう。


一、前者は成仏を成仏土と捉える。それは一切衆生を体とする。成仏とは根本的には「彼仏今現在世成仏」、弥陀成仏以外にない。後者は成仏を個体に付ける。

二、前者は仏(=浄土)の本体、本性を、南無阿弥陀仏であり信心と捉える。後者は仏及び浄土の本性を、万善万行の円備と捉える。

三、前者は念仏(南無阿弥陀仏)を究極目的とし、万善万行を(その円備すらも)手段とする。後者は念仏を手段とし、万善万行の成就を究極目的とする。

四、前者の個体としての成仏(弥陀成仏中に存在する個体。弥陀の化身、化仏)は、他者に存在し、「自身」(他者から化身と見られる)としては罪悪の自覚である(善導の第一深信)。後者の成仏は、罪悪(煩悩)の完全な消滅、断滅の自覚であって、自身に存在する。

五、前者の仏は、(十劫の昔より)現在仏であると同時に、穢土に対しては本質的に菩薩である(浄土中の個体もそれに同ず)。後者の仏は本質的に菩薩でない。


 浄土の思想は成仏観に革命をもたらし、一切衆生に現生成仏の道を開いてみせた。

(2021年7月1日)

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今との出会い第187回「「彼女」はやって来て、そして去っていく――または、生きている終り」
今との出会い第187回「「彼女」はやって来て、そして去っていく――または、生きている終り」 親鸞仏教センター嘱託研究員 越部 良一 (KOSHIBE Ryoichi)  デヴィッド・ボウイの1973年のアルバム『アラジン・セイン』の最終曲「Lady...
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今との出会い 第232回「漫画の中の南無阿弥陀仏」
今との出会い 第232回「漫画の中の南無阿弥陀仏」 親鸞仏教センター嘱託研究員 青柳 英司 (AOYAGI Eishi)  日本の仏教史において、南無阿弥陀仏という言葉が持った意味は極めて重い。  この六字の中に、法然は阿弥陀仏の「平等の慈悲」を発見し、親鸞は一切衆生を「招喚」する如来の「勅命」を聞いた。彼らの教えは、身分を越えて様々な人の支援を受け、多くの念仏者を生み出すことになる。そして、現代においても南無阿弥陀仏という言葉は僧侶だけが知る特殊な用語ではない。一般的な国語辞典にも載っており、広く人口に膾炙(かいしゃ)したものであると言える。...
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今との出会い 第231回「病に応じて薬を授く」
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今との出会い 第230回「本願成就の「場」」 親鸞仏教センター嘱託研究員 中村 玲太 (NAKAMURA Ryota)  「信仰を得たら何が変わりますか?」――訊ねられる毎に苦悶する難問であり、断続的に考えている問題である。これは自身の研究課題とする西山義祖・證空(1177...

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「親鸞仏教センター通信」第74号

越部良一 掲載Contents

巻頭言

谷釜 智洋 「自分の足跡を消さない」

■ 連続講座「親鸞思想の解明」報告

講師 本多 弘之 「「無慚無愧」ということ

報告 越部 良一

■ 第64回現代と親鸞の研究会報告

講師 伊藤  聡 「「神国日本」という語りの重層性」

報告 飯島 孝良

■ 「正信念仏偈」研究会報告

東  真行 「親鸞にとって七高僧とは」

■ 源信『一乗要決』研究会報告

藤村  潔 「『一乗要決』成立にいたるまでの源信の思想史的検証」

■ 清沢満之研究会報告

長谷川琢哉 「『他力門哲学骸骨試稿』――自筆ノートの調査から見えてくる研究課題――」

■ BOOK OF THE YEAR 2020 

●『こまゆばち』(文・澤口たまみ、絵・舘野鴻)

紹介者:東  真行

●『僕という容れ物』(壇廬影 )

紹介者:谷釜 智洋

●『死の影の谷間』(ロバート・C・オブライエン著、越智道雄訳)

紹介者:伊藤  真

●『リベラリズムはなぜ失敗したのか』(パトリック・J・デニーン著、角敦子訳)

紹介者:宮部  峻

■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」

伊藤  真 「加能作次郎(1885〜1941)」

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投稿者:shinran-bc 投稿日時:

今との出会い 第208回「超越すること――もしくは、調子が外れること」

越部良一

親鸞仏教センター嘱託研究員

越部 良一

(KOSHIBE Ryoichi)

 ヤスパース全集(Schwabe出版)作品第8巻の編者注で、ヤスパースの手紙が紹介されている。学生が質問に来た時のことが書かれている。「超越すること」とは何か。こう答えたと。「とても簡単なことだ。こう言い換える、超越するとは「踏み越える」。我々自身の人間行為に当てはめると、「調子が外れる(überschnappen)」。もしあなたが私自身しているように調子が外れないなら、哲学は決してわからない」。そしてこう言ったと、「いろいろな科学が、何か堅実にして健全なもの、実用に役立つ生活だ」。

 ヤスパースにあっては「科学」は「哲学」とは違うものとして対比される。überschnappenを辞書で引くと「1(錠などが)カチンと音をたてて外れる。2 (a)(声が)調子外れになる、きいきい声になる。(b) 理性を失う」とある(『独和大辞典』小学館)。


 これで学生がわかったかどうか、心もとないから、私が実例で説明してみよう。


【実例その1】

 ジョン・レノンのソロになってからの、つまりビートルズ解散後の最高作は、あまり言う人はいないけれども、小野洋子と一緒に作った『Sometime in New York City』(1972年)である。この中のベストの曲は、誰も言わないかもしれないが、小野洋子の曲である。


「We’re all water」

「私たちはみんな水、違った川から流れ来る。だから出遭うのは簡単。私たちはみんな水、この広い広い海の。いつの日か一緒に蒸発するの」

(越部訳、原歌詞は英語)


 曲の後半はほぼ叫んでいる。私の二枚持っているCDの一つでは、残念なことに途中でフェードアウトする(何てこった!)。もう一つでは(おそらくこれがオリジナル)、天空からこの世のものでない小野洋子の声がキーと響いてきて、最後は演奏が止み、「What’s the difference?」と呟いて終わる。西洋哲学の始源から発し(タレス)、あらゆる凡百の平等表現を踏み越える究極の平等ソングである。

【実例その2】

 ジミ・ヘンドリックス『Are You Experienced? 』(1967年)の中の曲「I don’t live today」。


「明日、生きているだろうか、わかりゃしない。だけど確かにわかる、今日、生きていないということは」。そのあと、言う、「何て恥ずかしい、こんな風に君の時を無駄にしてしまって」。


 この曲の私の比喩的イメージはこうである。戦場で塹壕の中に坐っていると、雨が降ってくる(チャップリンの傑作『担え銃』のように)。そして天を仰ぎ、ギターを手にして(なぜに戦場にギターが?)歌うのだ。「Rainy day, dream away」(ジミ・ヘンドリックス『Electric Ladyland』、1968年)。

 今のありのままを歌うだけである。危うく、傷を負い、利得なき、天を仰ぐ生活。こうして哲学は始まる。正直の報酬は正直である、と新渡戸稲造(『武士道』)は言う。私は言う、正直の報酬は超越することだと。

(2020年8月1日)

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今との出会い第187回「「彼女」はやって来て、そして去っていく――または、生きている終り」
今との出会い第187回「「彼女」はやって来て、そして去っていく――または、生きている終り」 親鸞仏教センター嘱託研究員 越部 良一 (KOSHIBE Ryoichi)  デヴィッド・ボウイの1973年のアルバム『アラジン・セイン』の最終曲「Lady...
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今との出会い 第232回「漫画の中の南無阿弥陀仏」
今との出会い 第232回「漫画の中の南無阿弥陀仏」 親鸞仏教センター嘱託研究員 青柳 英司 (AOYAGI Eishi)  日本の仏教史において、南無阿弥陀仏という言葉が持った意味は極めて重い。  この六字の中に、法然は阿弥陀仏の「平等の慈悲」を発見し、親鸞は一切衆生を「招喚」する如来の「勅命」を聞いた。彼らの教えは、身分を越えて様々な人の支援を受け、多くの念仏者を生み出すことになる。そして、現代においても南無阿弥陀仏という言葉は僧侶だけが知る特殊な用語ではない。一般的な国語辞典にも載っており、広く人口に膾炙(かいしゃ)したものであると言える。...
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今との出会い 第231回「病に応じて薬を授く」
今との出会い 第231回「病に応じて薬を授く」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi) 「また次に善男子、仏および菩薩を大医とするがゆえに、「善知識」と名づく。何をもってのゆえに。病を知りて薬を知る、病に応じて薬を授くるがゆえに。」(『教行信証』化身土巻、『真宗聖典』354頁)...
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今との出会い 第230回「本願成就の「場」」
今との出会い 第230回「本願成就の「場」」 親鸞仏教センター嘱託研究員 中村 玲太 (NAKAMURA Ryota)  「信仰を得たら何が変わりますか?」――訊ねられる毎に苦悶する難問であり、断続的に考えている問題である。これは自身の研究課題とする西山義祖・證空(1177...

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投稿者:shinran-bc 投稿日時:

「親鸞仏教センター通信」第73号

越部良一 掲載Contents

巻頭言

本多 弘之 「「本願を宗とする」ということ」

■ 連続講座「親鸞思想の解明」報告

講師 本多 弘之 「空しく過ぎるひとなし

報告 越部 良一

■ 第63回現代と親鸞の研究会報告

講師 橋本 健二 「現代日本の階級社会とアンダークラス」

報告 大谷 一郎

■ 研究員と学ぶ公開講座2019報告

藤村  潔 「大乗の「信」を起こす— 『大乗起信論』を読む —」

東  真行 「「収容所の親鸞」という問い — ソ連領被抑留者の信仰を読む —」

戸次 顕彰 「般若波羅蜜の信と行— 『大智度論』を読む —」

■ 聖典の試訳(現代語化)『尊号真像銘文』末巻

菊池 弘宣 「「源空聖人の真影の銘文(隆寛による銘文) 」後半

■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」

東  真行 「岡本精一(1924〜1993)」

コラム・エッセイ
講座・イベント
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投稿者:shinran-bc 投稿日時:

「親鸞仏教センター通信」第72号

越部良一 掲載Contents

巻頭言

戸次 顕彰 「三宝としてのサンガ考」

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

講師 本多 弘之 「本当の依り処

報告 越部 良一

■ 第62回現代と親鸞の研究会報告

講師 佐藤 卓己 「「ポスト真実」時代の輿論主義と世論主義」

報告 田村 晃徳

■ 「三宝としてのサンガ論」研究会報告

講師 細川 涼一 「西大寺叡尊と非人―叡尊の自伝『感身学正記』を中心に―」

報告 戸次 顕彰

■ 近現代『教行信証』研究検証プロジェクト

青柳 英司 「第2期への展望」

■ 聖典の試訳(現代語化)『尊号真像銘文』末巻

菊池 弘宣 「源信和尚の銘文」

■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」

速水  馨 「近角常観(1870〜1941)」

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