親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

『現代と親鸞』第48号

越部良一 掲載Contents

■研究論文

伊藤  真 「佐々木月樵の弥勒信仰論 ―兜率天往生と西方浄土往生との関連から― 」

■ 清沢満之研究会

中西 直樹 「「近代仏教」再生の可能性と限界 ―新仏教と俗人登用の試みと挫折 ―

■ 親鸞と中世被差別民に関する研究会

原田 信男 「肉食の始原と否定・工程の論理」

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

本多 弘之 「 浄土を求めさせたもの ――『大無量寿経』を読む ―― (34)」

コラム・エッセイ
講座・イベント

刊行物のご案内

研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

今との出会い第239回「Aの報酬がAであるという事態」

越部良一

親鸞仏教センター嘱託研究員

越部 良一

(KOSHIBE Ryoichi)

 私はいったいいつから哲学し出したのか、という問いに、私はこう考えることにしている。それは12歳の時、ビートルズの「A Day in the Life」に出会った時であると。

 大学教授であったカール・ヤスパースが、高齢になって大学を退職した後、自身の仕事場とした大学というものを回顧してこう述べている。「大学の理念というものを、大学入学以来、真剣に受け止めてきた一人の男が、この理念がほとんど通用していなかったドイツの大学企業体に入り込んだのだった」(ヤスパース『運命と意志』)。

 精神的なものを求めて動いてゆきながら、精神を窒息させる状況に入り込む。精神の開放を求めて動いたのか、精神を閉じ込めるために動いたのか、わけがわからない。どこにでもあることだ。だから人は、その動いた初心を忘れないようにしなければならない。

 次の表現は、こうした初心を示そうとしているのだと、私は見る。

「状況の中で状況と共に絶えず流転しながら、私がまだ存在しなかった暗闇からもはや存在しない暗闇へと、私は流れ落ちていく。[中略]流れ落ちてゆくにまかせながら、何かを掴まなければ、その何かは永遠に失われてしまうと考えて私は脅えるが、その何かが何であるのかがわからない。私は単に消滅するのでない存在を求める」

(ヤスパース『哲学』)

 単に消滅するのではない存在、つまり永遠的なるものに遭遇する在り方を、ロック・ギタリストのロバート・フィリップ(キング・クリムゾン)は、音楽家にふさわしく、次のように表現する。

「音楽家が得る唯一の報酬は音楽である。音楽がわれわれを覆い、われわれにその秘密をあかすとき、音楽の現前のただ中に立つという恩典である。同じことが聴衆にも言える。この瞬間に、他のすべての物事は色あせ、力を失う。音楽の中にいるこの者たちにとって、これこそ、人生が現実になる瞬間である」

(キング・クリムゾンの4枚組ライブCD『The Great Deceiver』の

ブックレット中のフィリップの文章)

 初心とは、形式的に表せば、自らにとってAの報酬がAである、そうしたAに出会った心である。だが、こうした心をもってしても、人は、Bの報酬がCである、Cの報酬がDである、Dの報酬がEである…、というきりのない状況に、相変わらず絡めとられる。だからこの持続する状況を、Aの報酬がAであるという事態でもって突破してゆくこと、それが「希哲学」(philosophyの最初の訳語)たる哲学の、不断の課題となるのである。

(2023年6月1日)

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キルケゴールとニーチェの何が同じなのか――ヤスパース『理性と実存』を読む一視点

キルケゴールとニーチェの何が同じなのか

―ヤスパース『理性と実存』を読む一視点―

親鸞仏教センター属託研究員

越部 良一

(KOSHIBE Ryoichi)

 ヤスパースの『理性と実存』は、5つの講義から成り、その最初の講義でキルケゴールとニーチェをいわば同じ仲間として論ずる。しかし、この2人の何を同じだとしているのか、捉えるのは易しくない。ヤスパースの見る、2人を結び付けるものは、言葉を越えてゆくものなのだから。

 

 ニーチェの思想を見る場合、永遠回帰とか超人とか力への意志とかに、キルケゴールでは、実存の三段階や絶望や不安などに眼をつけて、彼らの思想を捉えようとする、そうした仕方は普通にある。ヤスパースはここで、そうしたことへ深入りするそぶりが全くない。驚くべきことである。だがこの姿勢は、この2人の根本思考に厳密に忠実なのである。

 

 「どこにも、有限性にも、意識的に把捉される根源にも、規定的に捉えられる超越者にも、歴史的な由来にも、最終的な支えは、彼らにとってはない」(ヤスパース『理性と実存』、越部良一訳、リベルタス出版、2023年。以下、引用はすべてこの拙訳から)。

 

 ヤスパースが心底、眼を奪われているのは、彼らの規定されうるような諸思想ではなく、それらを越え包む何ものかである。

 

 だから彼らの思考のいわば形、形式に、彼らの生き方、生きた形に眼をつける。例えばこうである。

 「彼らにとって、ここでまた驚くべきことは、まさに彼らのできそこないの在り様それ自身が、彼ら特有の偉大さの条件であるということである。というのも、この偉大さは、彼らにとって、偉大さそのものではなく、時代状況に、その状況に固有なものとして属する、一回きりの偉大さなのであるから。注目すべきことは、いかに両者が、彼らの本質のこの側面に対しても、似たような比喩に思い至っているかである。ニーチェは自らをこう譬える、「でたらめな文字、見知らぬ力が、新しいペンを試すために紙の上に書く」。彼の病気の積極的な価値は、彼の絶えざる問題である。キルケゴールはしばしば思う、「神の暴力的な手によって抹消され、失敗した試みのように消し去られる」。彼は自らをまるで缶のふちに当って押し潰されるいわしのように感じる。彼に次のような思いが浮かぶ。「いつの代にも、他の人々の犠牲になり、ひどい苦悩のうちで他の人々に役立つものを……発見せねばならない2、3の人間がいるものだ」」。

 

 この2人は現代ヨーロッパという時代と場所の「いわば代表的運命であり、犠牲者」なのである。しかも自ら進んで。「そのような犠牲なしでは決して気づくことはなかったであろう何ものか」、その前面には「何か途方もないこと」がある。ヤスパースは言う、「今の人は、過去の教説の全てを、書冊の意味では、以前の大哲学者たちの或る者が識っていたであろう以上に、ひょっとすると識っているかもしれない。しかし、教説に関する、そして歴史に関する、単なる知に変貌しているという意識、生それ自身から、そして事実信じられていた真理から解き放たれているという意識は、この伝統がいかに偉大であり、そして大きな満足を作り出してきたし、今も作り出していようとも、この伝統を、その究極的な意味において疑わしいものにしてきたのである。[中略]というのも、西洋の人間の現実のうちに、ひそかに、何か途方もないことが起っているからである。すなわち、あらゆる権威の崩壊、理性に対する溌剌たる信頼の徹底的な消滅、すべてを、全くもってすべてを可能にするように見える、結び付きの解消」。

 

 実際上の無信仰のうちで、見かけ上何かを信じている風にすごしているという現代の状況、この状況の内にあって、「一方はキリスト教の信仰性をもち、他方は無神性を強調するという、まさに見かけ上は完全な本質相違性をもつから、それだけに彼らの思考の類似性は、ますます際立つものとなる。あたかもすべての過去のものがなおも存立しているかのような見かけのもと、実際は無信仰に生きているこの反省の時代において、信仰の拒否と自己を信仰へ強制することとは互いに属し合うものとなる。神なき者が信仰的に見え、信仰者が無信仰的に見えうる。両者は同じ弁証法のうちに立っている」。

 

 現代の状況に沿いながら、その実、彼らが目指すものは、その状況がもつ、見かけ上の信仰と実際上の無信仰を、突破することなのである。この突破は、時代を超え、世界を超える。彼らは共に命がけの人間である。「彼らは一つの道を行くが、この道は、彼らにとっては、超越的な支えなくしては歩み通され得ない。というのも、彼らが反省するのは、平均的な現代性がするように、生命欲と生命関心という自明の限界をもってしてではないから。すべてか、しからずんば無か、それが問題である彼らは、限界のないことを敢えて行う。しかし、このことを彼らが行うことができるのは、ひとえに、彼らがはじめからあのものに根ざしているがゆえであり、それは、彼らにとっては同時に隠れているのである。すなわち、両名とも彼らの青年時代に、知られぬ神について言及している」。

 「彼らの現存在の孤立無援、できそこなってあるものにして偶然的なもの、そうしたものと、彼らのもとで大きな対照をなしているのは、彼らを見舞うあらゆる出来事の意味、意義、必然性についての、人生が進むにつれ深まりゆく彼らの意識である。キルケゴールはそれを摂理と呼ぶ。彼は次のような神的なものをそこに認識する。「ここで起き、言われ、進行する等々すべてのことは、前兆であるということ、事実的なものは、それが何かはるかに高いものを意味するように、いつでも変貌するということ」」。

 

 だからヤスパースは、彼ら自身では意識することが不可能な事実的なもの、彼らが40代でもう彼らの人生の突然の終りを迎えたこと等の、彼らの人生行路の共通性を指摘する。「まったく理解の無い反響に面するという運命も、彼らに共通であった」。彼らは、「この時代にとって、単に一つのセンセーションにすぎなかった」。「こうして彼らの影響力は、彼らの本質の、そして思考の意味に反して、限界なく崩壊させるものとなった」。彼らの交わりの追求は、だから、生前においてのみならず、死後もその趨勢において挫折した。

 

 ヤスパースが見ようとするのは、彼らを包んでいる、知られぬあるものである。普通の、つまり、ただの人間的な見方では、例えば病気が「偉大さの条件」とされたりはしない。ここでは人間的視点を越えるものこそが、大なるものなのである。それが彼らを真に結び付ける。彼らが同じであることに驚くということは、そうしたものに、その者がふれているということであり、その知られぬものから問いかけられ、返答を迫られるということなのである。『理性と実存』という書物は、その返答の試みの書である。

 

 この試みは、彼らの、掴みうるようにされた思想に従うことではあり得ない。彼ら自身がそのことをはねつける。「彼らは我々を立ち去らせる。我々にいかなる目標も与えず、いかなる規定された課題も立てはしない。個々の誰もが、彼らによって、自分自身であるものに成れるだけである」。

 

 彼らを読むとは、そして彼らに対峙するこの書を読むこともまた、根本的に、その知られぬものに、自分自身が向かうということである。

(こしべ りょういち・親鸞仏教センター嘱託研究員)

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『親鸞仏教センター通信』第84号

越部良一 掲載Contents

巻頭言

宮部  峻 「みてこさる」

■ 連続講座「親鸞思想の解明」報告

講師 本多 弘之 「究極的関心

報告 越部 良一

■ 清沢満之研究会報告

谷釜 智洋 「『精神界』誌上にみる「浩々洞註」という名のり」

■ 近現代『教行信証』研究検証プロジェクト報告

講師 伊藤 顕慈 「真宗教学史における慶秀の位置と教学理解」

報告 青柳 英司

■ 聖典の試訳(現代語化)『尊号真像銘文』末巻

菊池 弘宣 「聖覚和尚の銘文」①

■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」

長谷川琢哉 「江村秀山(1845〜1903)」

コラム・エッセイ
講座・イベント

刊行物のご案内

研究会・Interview

「親鸞仏教センター通信」第82号

越部良一 掲載Contents

巻頭言

加来 雄之 「思想の「場」」

■ 連続講座「親鸞思想の解明」報告

講師 本多 弘之 「涅槃、本当に生きることができる場所に立つ」

報告 越部 良一

■ 連続講座「親鸞思想の解明」報告

講師 木村 哲也 「忘れられた存在を語り直す/忘れられた存在と出会い直す―ハンセン病問題と駐在保健婦―」

報告 菊池 弘宣

■ 第7回清沢満之研究交流会報告

テーマ:近代の宗門教育制度と清沢満之

江島 尚俊 「明治前期・真宗大谷派における教育制度の特徴—他宗派との比較から考える―」

川口  淳 「メディアにみる大谷派教育と改革運動 —明治20年代の一考察」

藤原  智 「清沢満之と真宗大学(東京)の運営」

林   淳(コメンテーター)

東  真行(司会)

長谷川琢哉(開催趣旨・報告)

■ 聖典の試訳(現代語化)『尊号真像銘文』末巻

菊池 弘宣 「源空聖人の真像の銘文( 『選択集』 に関する銘文)③」

■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」

田村 晃徳 「寺川俊昭(1928〜2021)」

コラム・エッセイ
講座・イベント

刊行物のご案内

研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

越部 良一

研究員の紹介

KOSHIBE Ryoichi
(嘱託研究員)

プロフィール

専門領域
実存思想(ヤスパース)、浄土教思想(法然、親鸞、証空)、日本思想(伊藤仁斎、清沢満之、小林秀雄)
略歴
1961年大阪府生まれ。
一橋大学社会学部卒業。
早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了。
同研究科博士課程単位取得満期退学。
現在、親鸞仏教センター嘱託研究員、法政大学・日本大学・立正大学、各非常勤講師。
所属学会
日本宗教学会、「宗教と社会」学会、戦争社会学研究会、関東社会学会、社会学理論学会

当センター刊行物への執筆

『現代と親鸞』第48号
『現代と親鸞』第39号
『現代と親鸞』第33号(清沢満之研究の軌跡と展望)
『現代と親鸞』第30号
『現代と親鸞』第26号
『現代と親鸞』第22号
『現代と親鸞』第18号
『現代と親鸞』第7号
『アンジャリ』第41号
『アンジャリ』第17号
『アンジャリ』第4号
『親鸞仏教センター通信』第84号
「親鸞仏教センター通信」第82号
「親鸞仏教センター通信」第74号
「親鸞仏教センター通信」第73号
「親鸞仏教センター通信」第72号
『親鸞仏教センター通信』第71号
「親鸞仏教センター通信」第69号
「親鸞仏教センター通信」第68号
「親鸞仏教センター通信」第67号
「親鸞仏教センター通信」第66号
「親鸞仏教センター通信」第65号
「親鸞仏教センター通信」第64号
「親鸞仏教センター通信」第63号
「親鸞仏教センター通信」第62号
「親鸞仏教センター通信」第61号
「親鸞仏教センター通信」第60号
「親鸞仏教センター通信」第59号
「親鸞仏教センター通信」第58号
「親鸞仏教センター通信」第57号
「親鸞仏教センター通信」第56号
「親鸞仏教センター通信」第55号
「親鸞仏教センター通信」第54号
『親鸞仏教センター通信』第53号
「親鸞仏教センター通信」第52回
「親鸞仏教センター通信」第51号
「親鸞仏教センター通信」第49号
「親鸞仏教センター通信」第48号
「親鸞仏教センター通信」第47号
「親鸞仏教センター通信」第46号
「親鸞仏教センター通信」第45号
「親鸞仏教センター通信」第44号
「親鸞仏教センター通信」第43号
「親鸞仏教センター通信」第42回

WEBコンテンツの執筆

今との出会い第239回「Aの報酬がAであるという事態」
今との出会い 第229回「哲学者とは何者か」
今との出会い 第219回「浄土教の現生成仏ということ」
今との出会い 第208回「超越すること――もしくは、調子が外れること」
今との出会い 第197回「親鸞の「変成男子」の「男子」とは法蔵菩薩のことである」
今との出会い 第187回「「彼女」はやって来て、そして去っていく――または、生きている終り」
今との出会い 第177回「念仏の奥義、もしくは真宗の簡要」
今との出会い 第167回「真に願うことは生まれること」
『アンジャリ』WEB版(2023年5月1日更新号)
コラム・エッセイ
講座・イベント

刊行物のご案内

研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

今との出会い 第229回「哲学者とは何者か」

越部良一

親鸞仏教センター嘱託研究員

越部 良一

(KOSHIBE Ryoichi)

 今、ヤスパースの『理性と実存』を訳しているので、なぜ自分がこうしたことをしているのかを書いて見よう。

 小林秀雄は言う、「本当にいい音楽とか、いい絵とかには、何か非常にやさしい[易しい]、当り前なものがあります。真理というものも、ほんとうは大変やさしく、単純なものではないでしょうか。現代の絵や音楽には、その単純なものが抜け落ちています。そしてそれは現代人の知恵にも抜けていることを、私は強く感じます」(国民文化研究会・新潮社編『小林秀雄 学生との対話』〔新潮社、2014〕 ※[ ]は引用者補足、以下同様)。

 本当の哲学思想もおそろしく単純なものである。その単純なものを表現するのは難しい。否定的に表現する方が簡単である。例えば、法然流に言えば、哲学者(勿論、私のことではない)とは、「名聞・利養・勝他」によって動くことはない人のことである。複雑なものとは、ただ人に向う動きである。だから法然は「人にすぎたる往生のあた[仇(あだ)]はなし」(『法然上人絵伝』)と言う。だからといって、名聞、利養、勝他から遠ざかれば、そのおそろしく単純なやさしいものに近づくのかというと、そうとは限らない。それが単なる人の動きであれば同じことである。

 だから、このおそろしく単純な事態を肯定的に表現すると、例えば、「自己自身に関わり、そのことによって己(おのれ)の超越者に関わる」(ヤスパース『哲学』)。しかし、どんな肯定的な表現も、また延々と説明できる。この表現でも「超越者」について。肯定的にして否定的に表現すると、例えばこうである。「[哲学の]語りにおいて、いつでも何か向け変えるものが存在し、その結果、存在の根拠が触れられるのは、むしろ、私がその根拠を捉えることのうちで、その根拠を名づけないことによってである。しかしこのことは再び、ただ次のときにのみある。私がその[名づける]ことを意図的に回避する――それは人為的な、単なる修辞的な文章技術である――のでなく、[この名づけないことを]全くもって意図されないものとして経験するときである。私が何に依って存在し、そして生きるのか、その何ものかを、私はただ次のようにしてのみ語ることができる。語られたものにおいて把握できる在り様ではそのものを逸し、そして、逸することによってそのものを間接的にまさに顕(あき)らかにする、というように」(『理性と実存』)。「向け変える」とは、魂を向け変えることである。名づけられるものから名づけられないものへ向け変えるのである。

 大学院(早稲田大学)での恩師、伴博(ばん・ひろし)先生は、なぜ自分がヤスパースを好んで読むのかについて、哲学思想の力というものは、論理展開の厳密さや深さといったものでは測り切れないものだ、という意味のことを言っておられた。自分も又、ただひたすら、その測り知れぬ、単純なやさしいものに関わることを願うばかりである。

(2022年5月1日)

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今との出会い第241回「「菩薩皇帝」と「宇宙大将軍」」
今との出会い第241回「「菩薩皇帝」と「宇宙大将軍」」 親鸞仏教センター嘱託研究員 青柳 英司 (AOYAGI Eishi) 本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼 (本師、曇鸞は、梁の天子 常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる) (「正信偈」『聖典』206頁)  「正信偈」の曇鸞章に登場する「梁天子」は、中国の南朝梁の初代皇帝、武帝・蕭衍(しょうえん、在位502~549)のことを指している。武帝は、その半世紀近くにも及ぶ治世の中で律令や礼制を整備し、学問を奨励し、何より仏教を篤く敬った。臣下は彼のことを「皇帝菩薩」と褒めそやしている。南朝文化の最盛期は間違いなく、この武帝の時代であった。  その治世の末期に登場したのが、侯景(こうけい、503~552)という人物である。武帝は彼を助けるのだが、すぐ彼に背かれ、最後は彼に餓死させられる。梁が滅亡するのは、武帝の死から、わずか8年後のことだった。  では、どうして侯景は、梁と武帝を破局に導くことになったのだろうか。このあたりの顛末を、少しく紹介してみたい。  梁の武帝が生きた時代は、「南北朝時代」と呼ばれている。中華の地が、華北を支配する王朝(北朝)と華南を支配する王朝(南朝)によって、二分された時代である。当時、華北の人口は華南よりも多く、梁は成立当初、華北の王朝である北魏に対して、軍事的に劣勢であった。しかし、六鎮(りくちん)の乱を端緒に、北魏が東魏と西魏に分裂すると、パワー・バランスは徐々に変化し、梁が北朝に対して優位に立つようになっていった。  そして、問題の人物である侯景は、この六鎮の乱で頭角を現した人物である。彼は、東魏の事実上の指導者である高歓(こうかん、496〜547)に重用され、黄河の南岸に大きな勢力を築いた。しかし、高歓の死後、その子・高澄(こうちょう、521〜549)が権臣の排除に動くと、侯景は身の危険を感じて反乱を起こし、西魏や梁の支援を求めた。  これを好機と見たのが、梁の武帝である。彼は、侯景を河南王に封じると、甥の蕭淵明(しょうえんめい、?〜556)に十万の大軍を与えて華北に派遣した。ただ、結論から言うと、この選択は完全な失敗だった。梁軍は東魏軍に大敗。蕭淵明も捕虜となってしまう。侯景も東魏軍に敗れ、梁への亡命を余儀なくされた。  さて、侯景に勝利した高澄だったが、東魏には梁との戦争を続ける余力は無かった。そこで高澄は、蕭淵明の返還を条件に梁との講和を提案。武帝は、これを受け入れることになる。  すると、微妙な立場になったのが侯景だった。彼は、蕭淵明と引き換えに東魏へ送還されることを恐れ、武帝に反感を持つ皇族や豪族を味方に付けて、挙兵に踏み切ったのである。  彼の軍は瞬く間に数万に膨れ上がり、凄惨な戦いの末に、梁の都・建康(現在の南京)を攻略。武帝を幽閉して、ろくに食事も与えず、ついに死に致らしめた。  その後、侯景は武帝の子を皇帝(簡文帝、在位549〜551)に擁立し、自身は「宇宙大将軍」を称する。この時代の「宇宙」は、時間と空間の全てを意味する言葉である。前例の無い、極めて尊大な将軍号であった。  しかし、実際に侯景が掌握していたのは、建康周辺のごく限られた地域に過ぎなかった。その他の地域では梁の勢力が健在であり、侯景はそれらを制することが出来ないばかりか、敗退を重ねてゆく結果となる。そして552年、侯景は建康を失って逃走する最中、部下の裏切りに遭って殺される。梁を混乱の底に突き落とした梟雄(きょうゆう)は、こうして滅んだのであった。  侯景に対する後世の評価は、概して非常に悪い。  ただ、彼の行動を見ていると、最初は「保身」が目的だったことに気付く。東魏の高澄は、侯景の忠誠を疑い、彼を排除しようとしたが、それに対する侯景の動きからは、彼が反乱の準備を進めていたようには見えない。侯景自身は高澄に仕え続けるつもりでいたのだが、高澄の側は侯景の握る軍事力を恐れ、一方的に彼を粛清しようとしたのだろう。そこで侯景は止む無く、挙兵に踏み切ったものと思われる。  また、梁の武帝に対する反乱も、侯景が最初から考えていたものではないだろう。侯景は華北の出身であり、南朝には何の地盤も持たない。そんな彼が、最初から王朝の乗っ取りを企んで、梁に亡命してきたとは思われない。先に述べたように、梁の武帝が彼を高澄に引き渡すことを恐れて、一か八かの反乱に踏み切ったのだろう。  この反乱は予想以上の成功を収め、侯景は「宇宙大将軍」を号するまでに増長する。彼は望んでもいなかった権力を手にしたのであり、それに舞い上がってしまったのだろうか。  では、どうして侯景の挙兵は、こうも呆気なく成功してしまったのだろうか。  梁の武帝は、仏教を重んじた皇帝として名高い。彼は高名な僧侶を招いて仏典を学び、自ら菩薩戒を受け、それに従った生活を送っている。彼の仏教信仰が、単なるファッションでなかったことは事実である。  武帝は、菩薩として自己を規定し、慈悲を重視して、国政にも関わっていった皇帝だった。彼は殺生を嫌って恩赦を連発し、皇族が罪を犯しても寛大な処置に留めている。  ただ、彼は、慈悲を極めるができなかった。それが、彼の悲劇であったと思う。恩赦の連発は国の風紀を乱す結果となり、問題のある皇族を処分しなかったことも、他の皇族や民衆の反発を買うことになった。  その結果、侯景の反乱に与(くみ)する皇族も現われ、最後は梁と武帝に破滅を齎(もたら)すこととなる。  悪を望んでいたのではないにも関わらず、結果として梁に反旗を翻した侯景と、菩薩としてあろうとしたにも関わらず、結果として梁を衰退させた武帝。彼らの生涯を、同時代人である曇鸞は、どのように見ていたのだろうか。残念ながら、史料は何も語っていない。 最近の投稿を読む...
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今との出会い第240回「真宗の学びの原風景」
今との出会い第240回「真宗の学びの原風景」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi)  今、私は、親鸞が浄土真宗と名づけた伝統の中に身を置いて、その伝統を学んでいる。そして、その伝統の中で命を終えるだろう。    この伝統を生きる者として私は、ときおり、みずからの浄土真宗の学びの原風景は何だったのかと考えることがある。    幼い頃の死への戦きであろうか。それは自我への問いの始まりであっても、真宗の学びの始まりではない。転校先の小学校でいじめにあったことや、高校時代、好きだった人の死を経験したことなどをきっかけとして、宗教書や哲学書などに目を通すようになったことが、真宗の学びの原風景であろうか。それは、確かにそれなりの切実さを伴う経験あったが、やはり学びという質のものではなかった。    では、大学での仏教の研究が私の学びの原風景なのだろうか。もちろん研究を通していささか知識も得たし、感動もなかったわけではない。しかしそれらの経験も真宗の学びの本質ではないように感じる。    あらためて考えると、私の学びの出発点は、十九歳の時から通うことになった安田理深(1900〜1982)という仏者の私塾・相応学舎での講義の場に立ち会ったことであった。その小さな道場には、さまざまな背景をもつ人たちが集まっていた。学生が、教員が、門徒が、僧侶が、他宗の人が、真剣な人もそうでない人も、講義に耳を傾けていた。そのときは意識していなかったが、今思えば各人それぞれの属性や関心を包みこんで、ともに真実に向き合っているのだという質感をもった場所が、確かに、この世に、存在していた。    親鸞の妻・恵信尼の手紙のよく知られた一節に、親鸞が法然に出遇ったときの情景が次のように伝えられている。   後世の助からんずる縁にあいまいらせんと、たずねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、又、六角堂に百日こもらせ給いて候いけるように、又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに、ただ、後世の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候いしをうけ給わりさだめて候いしば…… (『真宗聖典』616〜617頁)    親鸞にとっての「真宗」の学びの原風景は、法然上人のもとに実現していた集いであった。親鸞の目撃した集いは、麗しい仲良しサークルでも、教義や理念で均一化された集団でもなかったはずである。そこに集まった貴賤・老若・男女は、さまざまな不安、困難、悲しみを抱える人びとであったろう。また興味本位で訪れてきた人や疑念をもっている人びともいただろう。その集まりを仏法の集いたらしめていたのはなにか。それは、その場が、「ただ……善き人にも悪しきにも、同じように」語るという平等性と、「同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に」語るという根源性とに立った場所であったという事実である。そうなのだ、平等性と根源性に根差した語りが実現している場所においてこそ、「真宗」の学びが成り立つ。    このささやかな集いが仏教の歴史の中でもつ意義深さは、やがて『教行信証』の「後序」に記される出来事によって裏づけられることになる。そして、この集いのもつ普遍的な意味が『教行信証』という著作によって如来の往相・還相の二種の回向として証明されていくことになるのである。親鸞の広大な教学の体系の原風景は、このささやかな集いにある。    安田理深は、この集いに、釈尊のもとに実現した共同体をあらわす僧伽(サンガ)の名を与えた。そのことによって、真宗の学びの目的を個人の心境の変化以上のものとして受けとめる視座を提供した。   本当の現実とはどういうものをいうのかというと、漠然たる社会一般でなく、仏法の現実である。仏法の現実は僧伽である。三宝のあるところ、仏法が僧伽を以てはじめて、そこに歴史的社会的現実がある。その僧伽のないところに教学はない。『選択集』『教行信証』は、僧伽の実践である。   (安田理深師述『僧伽の実践——『教行信証』御撰述の機縁——』 遍崇寺、2003年、66頁)    「教学は僧伽の実践である」、このことがはっきりすると、私たちの学びの課題は、この平等性と根源性の語りを担保する集いを実現することであることが分かる。また、この集いを権力や権威で否定し(偽)、人間の関心にすり替える(仮)濁世のシステムが、向き合うべき現代の問題の根底にあることが分かる。そしてこのシステムがどれほど絶望的に巨大で強固であっても、このささやかな集いの実現こそが、それに立ち向かう基点であることが分かる。    私は、今、自分に与えられている学びの場所を、そのような集いを実現する場とすることができているだろうか。 (2023年7月1日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第239回「Aの報酬がAであるという事態」
今との出会い第239回「Aの報酬がAであるという事態」 親鸞仏教センター嘱託研究員 越部 良一 (KOSHIBE Ryoichi)  私はいったいいつから哲学し出したのか、という問いに、私はこう考えることにしている。それは12歳の時、ビートルズの「A...

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『アンジャリ』第41号

越部良一 掲載Contents

『アンジャリ』第41号

(2021年12月)

■ 特集「〈いのち〉という語りを問い直す」

池澤 春菜 「ヒトのイノチの先に」

岩田 文昭 「いのちの否定と肯定」

大谷 由香 「日本仏教における「慈悲殺生」の許容」

■ 連載
■ Eassais(エッセイズ)

天畠 大輔 「「あ、か、さ、た、な」で能力を考える」

宮本 ゆき 「核兵器と「悪」」

山田由香里 「祈りの造形を削り出す――鉄川与助の手仕事が生んだ聖なる空間」

■ 交差点

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今との出会い 第219回「浄土教の現生成仏ということ」

越部良一

親鸞仏教センター嘱託研究員

越部 良一

(KOSHIBE Ryoichi)

 「向(さき)に観察荘厳(しょうごん)仏土功徳成就と荘厳仏功徳成就と荘厳菩薩功徳成就を説きつ。この三種の成就は願心をして荘厳せりと、知るべし。略説して一法句に入るが故に。一法句とは、いはく清浄句なり。清浄句とは、いはく真実の智慧無為法身なるが故に」(天親『浄土論』)。浄土が「願心」であること、それが「仏」「菩薩」と「清浄」と「真実」「智慧」「無為」「法身」と「一」つであることが分かる。ところで法身とは仏の在り方のことで、「彼仏国土無為自然(じねん)」(『無量寿経』)であるから、「無為法身」とは阿弥陀仏のことである。「願生安楽国といふは、この一句はこれ作願門なり。天親菩薩の帰命の意なり」(曇鸞『浄土論註』)。この「作願」は「本願力回向」(『浄土論』)であるから、「帰命」(南無)は弥陀の願心である。願心は真実智慧であるから、「真実智慧無為法身」とは南無阿弥陀仏のことである。つまり、浄土とは南無阿弥陀仏である。何故に『浄土論』は著されたのか。「彼の安楽世界を観じて、阿弥陀如来を見たてまつり、彼の国に生まれんと願ずることを示現するが故なり。いかんが観じ、いかんが信心を生ずる」(同上)。これで願生の心が「信心」であると分かるから、「真実」は信心である。


 以上、親鸞『顕浄土真実教行証文類』の「浄土真実」とは「願心」であり、「帰命」であり、「信心」である。すべて阿弥陀仏である。この『教行信証』の(『涅槃経』からの)引文、「真実といふは即ちこれ如来なり」、「大信心は即ちこれ仏性なり、仏性は即ちこれ如来なり」。『無量寿経』 に言う、法蔵菩薩は「この願を建て已(おわ)りて[中略]妙土を荘厳す。[中略]建立(こんりゅう)常然(じょうねん)にして、衰なく変なし」。法然は言う、「今、二種の信心を建立して、九品の往生を決定するものなり」(『選択集』)。善導は言う、「彼の仏、今、現に世に在(ましま)して成仏したまへり」(『往生礼讃』)。

 浄土教における、この現生往生論にして現生成仏論を、ある種の死後往生、死後成仏論と対照してみよう。


一、前者は成仏を成仏土と捉える。それは一切衆生を体とする。成仏とは根本的には「彼仏今現在世成仏」、弥陀成仏以外にない。後者は成仏を個体に付ける。

二、前者は仏(=浄土)の本体、本性を、南無阿弥陀仏であり信心と捉える。後者は仏及び浄土の本性を、万善万行の円備と捉える。

三、前者は念仏(南無阿弥陀仏)を究極目的とし、万善万行を(その円備すらも)手段とする。後者は念仏を手段とし、万善万行の成就を究極目的とする。

四、前者の個体としての成仏(弥陀成仏中に存在する個体。弥陀の化身、化仏)は、他者に存在し、「自身」(他者から化身と見られる)としては罪悪の自覚である(善導の第一深信)。後者の成仏は、罪悪(煩悩)の完全な消滅、断滅の自覚であって、自身に存在する。

五、前者の仏は、(十劫の昔より)現在仏であると同時に、穢土に対しては本質的に菩薩である(浄土中の個体もそれに同ず)。後者の仏は本質的に菩薩でない。


 浄土の思想は成仏観に革命をもたらし、一切衆生に現生成仏の道を開いてみせた。

(2021年7月1日)

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今との出会い第242回「ネットオークションで出会う、アジアの古切手」
今との出会い第242回 「ネットオークションで出会う、アジアの古切手」 「ネットオークションで出会う、 アジアの古切手」 親鸞仏教センター嘱託研究員 伊藤 真 (ITO...
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今との出会い第241回「「菩薩皇帝」と「宇宙大将軍」」
今との出会い第241回「「菩薩皇帝」と「宇宙大将軍」」 親鸞仏教センター嘱託研究員 青柳 英司 (AOYAGI Eishi) 本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼 (本師、曇鸞は、梁の天子 常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる) (「正信偈」『聖典』206頁)  「正信偈」の曇鸞章に登場する「梁天子」は、中国の南朝梁の初代皇帝、武帝・蕭衍(しょうえん、在位502~549)のことを指している。武帝は、その半世紀近くにも及ぶ治世の中で律令や礼制を整備し、学問を奨励し、何より仏教を篤く敬った。臣下は彼のことを「皇帝菩薩」と褒めそやしている。南朝文化の最盛期は間違いなく、この武帝の時代であった。  その治世の末期に登場したのが、侯景(こうけい、503~552)という人物である。武帝は彼を助けるのだが、すぐ彼に背かれ、最後は彼に餓死させられる。梁が滅亡するのは、武帝の死から、わずか8年後のことだった。  では、どうして侯景は、梁と武帝を破局に導くことになったのだろうか。このあたりの顛末を、少しく紹介してみたい。  梁の武帝が生きた時代は、「南北朝時代」と呼ばれている。中華の地が、華北を支配する王朝(北朝)と華南を支配する王朝(南朝)によって、二分された時代である。当時、華北の人口は華南よりも多く、梁は成立当初、華北の王朝である北魏に対して、軍事的に劣勢であった。しかし、六鎮(りくちん)の乱を端緒に、北魏が東魏と西魏に分裂すると、パワー・バランスは徐々に変化し、梁が北朝に対して優位に立つようになっていった。  そして、問題の人物である侯景は、この六鎮の乱で頭角を現した人物である。彼は、東魏の事実上の指導者である高歓(こうかん、496〜547)に重用され、黄河の南岸に大きな勢力を築いた。しかし、高歓の死後、その子・高澄(こうちょう、521〜549)が権臣の排除に動くと、侯景は身の危険を感じて反乱を起こし、西魏や梁の支援を求めた。  これを好機と見たのが、梁の武帝である。彼は、侯景を河南王に封じると、甥の蕭淵明(しょうえんめい、?〜556)に十万の大軍を与えて華北に派遣した。ただ、結論から言うと、この選択は完全な失敗だった。梁軍は東魏軍に大敗。蕭淵明も捕虜となってしまう。侯景も東魏軍に敗れ、梁への亡命を余儀なくされた。  さて、侯景に勝利した高澄だったが、東魏には梁との戦争を続ける余力は無かった。そこで高澄は、蕭淵明の返還を条件に梁との講和を提案。武帝は、これを受け入れることになる。  すると、微妙な立場になったのが侯景だった。彼は、蕭淵明と引き換えに東魏へ送還されることを恐れ、武帝に反感を持つ皇族や豪族を味方に付けて、挙兵に踏み切ったのである。  彼の軍は瞬く間に数万に膨れ上がり、凄惨な戦いの末に、梁の都・建康(現在の南京)を攻略。武帝を幽閉して、ろくに食事も与えず、ついに死に致らしめた。  その後、侯景は武帝の子を皇帝(簡文帝、在位549〜551)に擁立し、自身は「宇宙大将軍」を称する。この時代の「宇宙」は、時間と空間の全てを意味する言葉である。前例の無い、極めて尊大な将軍号であった。  しかし、実際に侯景が掌握していたのは、建康周辺のごく限られた地域に過ぎなかった。その他の地域では梁の勢力が健在であり、侯景はそれらを制することが出来ないばかりか、敗退を重ねてゆく結果となる。そして552年、侯景は建康を失って逃走する最中、部下の裏切りに遭って殺される。梁を混乱の底に突き落とした梟雄(きょうゆう)は、こうして滅んだのであった。  侯景に対する後世の評価は、概して非常に悪い。  ただ、彼の行動を見ていると、最初は「保身」が目的だったことに気付く。東魏の高澄は、侯景の忠誠を疑い、彼を排除しようとしたが、それに対する侯景の動きからは、彼が反乱の準備を進めていたようには見えない。侯景自身は高澄に仕え続けるつもりでいたのだが、高澄の側は侯景の握る軍事力を恐れ、一方的に彼を粛清しようとしたのだろう。そこで侯景は止む無く、挙兵に踏み切ったものと思われる。  また、梁の武帝に対する反乱も、侯景が最初から考えていたものではないだろう。侯景は華北の出身であり、南朝には何の地盤も持たない。そんな彼が、最初から王朝の乗っ取りを企んで、梁に亡命してきたとは思われない。先に述べたように、梁の武帝が彼を高澄に引き渡すことを恐れて、一か八かの反乱に踏み切ったのだろう。  この反乱は予想以上の成功を収め、侯景は「宇宙大将軍」を号するまでに増長する。彼は望んでもいなかった権力を手にしたのであり、それに舞い上がってしまったのだろうか。  では、どうして侯景の挙兵は、こうも呆気なく成功してしまったのだろうか。  梁の武帝は、仏教を重んじた皇帝として名高い。彼は高名な僧侶を招いて仏典を学び、自ら菩薩戒を受け、それに従った生活を送っている。彼の仏教信仰が、単なるファッションでなかったことは事実である。  武帝は、菩薩として自己を規定し、慈悲を重視して、国政にも関わっていった皇帝だった。彼は殺生を嫌って恩赦を連発し、皇族が罪を犯しても寛大な処置に留めている。  ただ、彼は、慈悲を極めるができなかった。それが、彼の悲劇であったと思う。恩赦の連発は国の風紀を乱す結果となり、問題のある皇族を処分しなかったことも、他の皇族や民衆の反発を買うことになった。  その結果、侯景の反乱に与(くみ)する皇族も現われ、最後は梁と武帝に破滅を齎(もたら)すこととなる。  悪を望んでいたのではないにも関わらず、結果として梁に反旗を翻した侯景と、菩薩としてあろうとしたにも関わらず、結果として梁を衰退させた武帝。彼らの生涯を、同時代人である曇鸞は、どのように見ていたのだろうか。残念ながら、史料は何も語っていない。 最近の投稿を読む...
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今との出会い第240回「真宗の学びの原風景」
今との出会い第240回「真宗の学びの原風景」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi)  今、私は、親鸞が浄土真宗と名づけた伝統の中に身を置いて、その伝統を学んでいる。そして、その伝統の中で命を終えるだろう。    この伝統を生きる者として私は、ときおり、みずからの浄土真宗の学びの原風景は何だったのかと考えることがある。    幼い頃の死への戦きであろうか。それは自我への問いの始まりであっても、真宗の学びの始まりではない。転校先の小学校でいじめにあったことや、高校時代、好きだった人の死を経験したことなどをきっかけとして、宗教書や哲学書などに目を通すようになったことが、真宗の学びの原風景であろうか。それは、確かにそれなりの切実さを伴う経験あったが、やはり学びという質のものではなかった。    では、大学での仏教の研究が私の学びの原風景なのだろうか。もちろん研究を通していささか知識も得たし、感動もなかったわけではない。しかしそれらの経験も真宗の学びの本質ではないように感じる。    あらためて考えると、私の学びの出発点は、十九歳の時から通うことになった安田理深(1900〜1982)という仏者の私塾・相応学舎での講義の場に立ち会ったことであった。その小さな道場には、さまざまな背景をもつ人たちが集まっていた。学生が、教員が、門徒が、僧侶が、他宗の人が、真剣な人もそうでない人も、講義に耳を傾けていた。そのときは意識していなかったが、今思えば各人それぞれの属性や関心を包みこんで、ともに真実に向き合っているのだという質感をもった場所が、確かに、この世に、存在していた。    親鸞の妻・恵信尼の手紙のよく知られた一節に、親鸞が法然に出遇ったときの情景が次のように伝えられている。   後世の助からんずる縁にあいまいらせんと、たずねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、又、六角堂に百日こもらせ給いて候いけるように、又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに、ただ、後世の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候いしをうけ給わりさだめて候いしば…… (『真宗聖典』616〜617頁)    親鸞にとっての「真宗」の学びの原風景は、法然上人のもとに実現していた集いであった。親鸞の目撃した集いは、麗しい仲良しサークルでも、教義や理念で均一化された集団でもなかったはずである。そこに集まった貴賤・老若・男女は、さまざまな不安、困難、悲しみを抱える人びとであったろう。また興味本位で訪れてきた人や疑念をもっている人びともいただろう。その集まりを仏法の集いたらしめていたのはなにか。それは、その場が、「ただ……善き人にも悪しきにも、同じように」語るという平等性と、「同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に」語るという根源性とに立った場所であったという事実である。そうなのだ、平等性と根源性に根差した語りが実現している場所においてこそ、「真宗」の学びが成り立つ。    このささやかな集いが仏教の歴史の中でもつ意義深さは、やがて『教行信証』の「後序」に記される出来事によって裏づけられることになる。そして、この集いのもつ普遍的な意味が『教行信証』という著作によって如来の往相・還相の二種の回向として証明されていくことになるのである。親鸞の広大な教学の体系の原風景は、このささやかな集いにある。    安田理深は、この集いに、釈尊のもとに実現した共同体をあらわす僧伽(サンガ)の名を与えた。そのことによって、真宗の学びの目的を個人の心境の変化以上のものとして受けとめる視座を提供した。   本当の現実とはどういうものをいうのかというと、漠然たる社会一般でなく、仏法の現実である。仏法の現実は僧伽である。三宝のあるところ、仏法が僧伽を以てはじめて、そこに歴史的社会的現実がある。その僧伽のないところに教学はない。『選択集』『教行信証』は、僧伽の実践である。   (安田理深師述『僧伽の実践——『教行信証』御撰述の機縁——』 遍崇寺、2003年、66頁)    「教学は僧伽の実践である」、このことがはっきりすると、私たちの学びの課題は、この平等性と根源性の語りを担保する集いを実現することであることが分かる。また、この集いを権力や権威で否定し(偽)、人間の関心にすり替える(仮)濁世のシステムが、向き合うべき現代の問題の根底にあることが分かる。そしてこのシステムがどれほど絶望的に巨大で強固であっても、このささやかな集いの実現こそが、それに立ち向かう基点であることが分かる。    私は、今、自分に与えられている学びの場所を、そのような集いを実現する場とすることができているだろうか。 (2023年7月1日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第239回「Aの報酬がAであるという事態」
今との出会い第239回「Aの報酬がAであるという事態」 親鸞仏教センター嘱託研究員 越部 良一 (KOSHIBE Ryoichi)  私はいったいいつから哲学し出したのか、という問いに、私はこう考えることにしている。それは12歳の時、ビートルズの「A...

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