親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

今との出会い 第169回「哲学堂公園探訪―君は「理想橋」を渡れるか?―」

親鸞仏教センター研究員

長谷川 琢哉

(HASEGAWA Takuya)

 4月某日。「哲学堂桜まつり」を開催中の哲学堂公園を訪れた。現在では東京中野区を代表する観光名所であり、桜の季節には近隣の花見客が数多く集まる哲学堂公園ではあるが、その実、ただの公園ではない。


 この公園を作ったのは、哲学館(現東洋大学)の創始者、井上円了である。明治37年、円了は哲学館が大学として認可されたことを記念して、釈迦、孔子、ソクラテス、カントを祀(まつ)る「四聖堂」を中野の地に建立した。そして、この建物を中心として、1万7千坪の広大な敷地のなかに、さまざまな施設が建設されていった。円了が亡くなる大正8年までに、「哲学堂庭内七十七場」が整備され、世界にも類を見ない哲学を題材とした一種のテーマパークが完成したのである。


 しかしながら、哲学的テーマパークとはいったいどんなものなのか。円了自身が著した『哲学堂案内』によれば、この公園は「精神修養的公園」として設計されたものだという。すなわち、園内にあるさまざまな施設を散策しながら思索をめぐらせることによって、来園者は広大な哲学的領域を一通り体験し、精神を「修養」することが可能となるというのである。先に、哲学堂公園は「四聖堂」を中心に設計されていると述べたが、釈迦、孔子、ソクラテス、カントという「四聖」が哲学堂の「本尊」であるわけではない。円了にとって、彼らは東西を代表する「哲学者」であり、彼らが見いだした「真理」こそが哲学堂の「本尊」に相応しいものだ。「四聖堂」には「宇宙真源の実在」すなわち哲学的真理が「南無絶対無限尊」という名号によって設置されている。「四聖堂」を中心に趣向を凝らせて作られたさまざまな施設は、それゆえすべて哲学的真理へと至るための思考のプロセスを表現したものであり、それらの施設を実際に歩いて思索をめぐらせることによって、来園者は「精神修養」を行うことができるというわけである。


 井上円了研究者でもある私は、これまで何度かこの公園を訪れたことがあった。しかし実際に「精神修養」ができたかどうかというと、なかなか難しい。そこで親鸞仏教センター研究員としても、あらためて4月の哲学堂公園を歩いてみようと考えたのである。


 さて、こうして私たち(この時は2名の同伴者がいた)は、哲学堂公園の入り口にある「常識門」をくぐり抜け、園内に表現された精神世界へと足を踏み入れたのだった。まずは時間空間の拡がりを表現したという平坦な「時空巷」へと出て、奥に鎮座する「四聖堂」を参拝する。そしてそこから坂を下り、園内をぐるりと一巡して帰ってくるというのが、『哲学堂案内』に定められた順路である。私たちはそれに従って下り坂を進んだ。途中にある「懐疑巷」を抜け、「経験坂」をさらに下ると、そこは「唯物園」である。このエリアでは感覚的知識による真理の追求がさまざまな意匠を通して表現されている。そして物質世界をめぐった後は、分岐点である「二元衢(にげんく)」を通過して、心の世界、すなわち「唯心庭」へと歩を進める。ここでは直観や論理的推論を通した真理探求が表現されている。次に私たちは「演繹坂(えんえきざか)」を上り、真理への道を一歩一歩進んでいく。そして坂を上りきると「絶対城」が待ち受けている。そこは唯物・唯心をくぐり抜けた後の絶対的真理を探求する場であり、かつては円了が集めた数多くの書籍を収めた図書館となっていた。ここでさらなる研鑽(けんさん)を積み、「宇宙真源の実在」をとらえることが、哲学堂公園の「精神修養」なのである。


 さて、このように私たちは哲学堂公園を一周したことになるわけだが、しかしこれで終わりではなかった。「絶対城」の隣には「理想橋」と名付けられた橋が架けられていた。その橋を渡ると哲学堂公園は終わる。すなわちその向こうは「外部」である。「理想橋」は、哲学的領域の限界を表す境界でもあるのだ。円了は『哲学堂案内』の中で、「理想橋」の先を「理外の理即ち不可思議」と呼んでいる。つまり「理想橋」を越えた先は、「不可思議」の領域、宗教の領域なのである。宗教は哲学の「彼岸」にあるということだ。


 私たちは「理想橋」の前で立ち止まった。親鸞仏教センター研究員でもある私は、普段宗教について論じる場合でも、あくまでも論理や哲学の領域に留まっている。この「理想橋」を乗り越えて、「理外の理」に踏み込むことができるだろうか。今回哲学堂公園を訪れて、最も深く真剣に思いをめぐらせた瞬間であった。結局その時は「理想橋」を渡らずに帰ったが、私たちは、常識の世界から哲学の領域を経て宗教の領域を垣間見るという、文字どおりの「精神修養」を行ったような気がした。

(2017年6月1日)

最近の投稿を読む

田村晃徳顔写真
今との出会い第238回「寺を預かる」
今との出会い第238回「寺を預かる」 親鸞仏教センター嘱託研究員 田村 晃徳 (TAMURA Akinori)  学ぶ喜びは知識を得ることであるが、学びにより発見されるのは自分の無知であろう。人は無知と言われないように学ぶ面がある。「無知の知」とは古来より伝わる大切な言葉だ。しかし、この言葉には無知である自分を蔑むニュアンスはない。それどころか、無知であることに気づいた自分のことを誇ってさえいるようにも聞こえる。学びとは知識を得ることではない。知識を得ることを通じ、自分を知ることにその目的はある。    歴史を学ぶ喜びも同様である。歴史的事項を知ることはとても楽しい。しかし事項を知るだけではただの物語だろう。それが、どのように今日の自分と関わりをもつか。このことを考えることにより自身に肉薄した事実として理解されるだろう。その時に、気づくことはただ一つ。私は先人達の努力により、今ここで生きていることができているということである。    その先人とはもちろん、祖父や父も含む。しかし、寺を支えてくれた門徒の皆さんも当然入る。門徒の方を支えてくれた、そのご家族も含むだろう。さらには、信仰を伝えてくれた先人達も含まれるだろう。このように遡っていくならば、いつかは親鸞聖人や釈尊にもつながるに違いない。    そのように考えるときに、住職達がよく使う大切な言葉を思い出した。それは「お寺を預かる」という表現である。当然のことであるが、住職が「ここは自分の寺だ」などと言い出したら、そのお寺はおしまいである。そうさせない大切な発想。それが「預かる」というものだろう。つまり、私は今、預かっているお寺において、先人達により伝えられた仏法に出遇うというご縁をいただいているのだ。親鸞聖人も『歎異抄』でお釈迦様や善導大師の名を挙げて、伝えられてきた仏法に出会えた喜びを述べている。そこに浄土真宗は自分の教えだ、といった傲慢さは皆無である。親鸞聖人もいただいた法を後世に伝えられた。それが今、私にまで伝わっている。ならば私のやるべき事も同じである。法を後世に伝えることである。    寺の歴史を学ぶ。それは知的関心だけではない。一つのお寺が誕生するまでには、悠久の仏法や、人々の歴史が必要であったことを知る。それは住職としての責任感を改めて自覚させる気づきなのである。 (2023年4月1日) 最近の投稿を読む...
菊池弘宣顔写真
今との出会い第237回「本当に守るべきものを明らかにする」
今との出会い第237回「本当に守るべきものを明らかにする」 親鸞仏教センター嘱託研究員 菊池 弘宣 (KIKUCHI Hironobu) 「あわれ、生きものは互いに食(は)み合う」 (なんと悲しいことか、生きものはお互いに争い食らい合っている)    それは、お釈迦さまの少年時代、農耕祭に臨まれた時のことである。土の中から一匹の虫が這い出てくるところに、一羽の鳥がやって来て、ついばむやいなや、飛び去っていった。それをじっと見ておられた悉多太子(しったたいし、釈尊の成道以前の名)が、深い悲しみの中より発せられた言葉であると、仏伝は伝えている。(以上、信國淳『無量寿の目覚め』〔樹心社、2005年〕所収「「個人」と「衆生」」、26頁取意)  大谷専修学院という場の基礎を築いた信國淳先生は、以下のように、「生類相克(そうこく)」を目の当たりにした少年太子の胸中に思いをいたす。   この場合太子の胸は、すべての生きものへの同苦共感の世界に生きたのである。鳥からついばまれる虫と、虫を食っていのちを養う鳥と、そのいずれにも与することなく、そのいずれをも生き、そのいずれにおいても、太子自らが生きている生命との交感、交流を感じつつ、そこに衆生世界を感得し、「あわれ、生きものは互いに食み合う」と、その如実知見を表白したのである。 (同前、26頁~27頁)   「そのいずれにも与(くみ)することなく」という一言が、私の心に残っている。食われ殺される側、食い殺す側、そのどちらか一方を支持し、正当化するというのではない。そのようなメッセージとして受け取った。思い起こされるのは、私自身の少年時代、遠足に出掛けた時のことである。一羽のアゲハチョウが、カマキリに捕まり、今まさに食われようとしている場面に遭遇した。それを見て私は、「かわいそうに。なんてひどいことをするんだ」と思い、蝶の羽からカマキリの鎌を引き離し、助けてあげた。すると、蝶はすっと飛び立っていったが、今度は、カマキリがぐったりとして動かなくなってしまった。それを見て私は、「なんてことをしてしまったんだ」とショックを受けた。カマキリは、力尽きて死んでしまったのかもしれない。どうなったのか、その顛末を見届けることはできなかった。その時のことが思い起こされてくるのである。    その時のカマキリと同じように、私自身は平生、食い殺す側になっている。自分が直接手を下さずとも、誰かに頼って、他の生き物のいのちを奪っている。他の生き物を殺して食べなければ、自身のいのちを継ぐことはできない。自分という存在は、無数の生き物たちの犠牲の上に成り立っていると言える。    さらに言えば、私は、ゴキブリやムカデなどのいわゆる害虫は、容赦なく殺してきている。害をもたらすと感じるものを何であれ、都合によって殺すような自分だから、もしも戦場に出るようなことになったら、ためらいなく人を殺してしまうのではないかと危惧している。    一方で時には、食われ殺される側に自分の身を置くということも起こり得るのかもしれない。しかし、正直に言って、食われたくないし、殺されたくない。要するに、あきらめが悪いのである。その心中は、仏陀釈尊が、『法句経』(ダンマパダ)に説かれている通りである。   一二九 すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。 一三〇 すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛(いと)しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。 (中村元訳『ブッダ真理のことば・感興のことば』ワイド版岩波文庫、28頁)    私自身は、自分にも、他者にも、殺されたくないのである。存在を尊重されたい、尊重したいと願っているのである。同じようにして、他者の上に私自身のすがたを見出すのであれば、他者を殺したくない、誰かに殺させたくない。その存在を尊重したいのである。  たとえ戦禍に巻き込まれたとしても、できることならば、殺されていくよりも、殺していくよりも、誰かに殺させていくよりも、どこへでも逃げ出して生き延びたいと願っている。それは、誰も皆、一人一人、仏法がはたらく器であると信じるからなのだろうか。    いま現在、ロシアによるウクライナ侵攻に端を発する戦争の惨状を、映像で目の当たりにしている。周辺国の脅威とも相まって、日本でも武器保有、防衛費の問題が急展開してしまっている感じがする。「敵基地攻撃能力(反撃能力)」という言葉が象徴しているように、「敵」という文字が露骨に表れるようになってきている。敵と見なされたものは、当然、警戒心、不信感を抱くに違いない。それは結局、お互いを尊重して協力し助け合うような関わり合いを放棄するという方向になるのではないか。ここにきて、守るための戦いを正当化することは、極めて危険だと感じている。日本は、かつての戦争を通して、大空襲や原爆投下による被害の悲惨、苦痛、そして加害性について、身をもって知ってきたのだから、同じあやまちを繰り返してしまわないように、メッセージを発信し続けていくべきだと考える。被害の側、加害の側、どちらにもならないように模索するということがあって然るべきだと思うのである。    仏教が重んじる精神は「不害」であると聞いてきた。私自身の在り方を振り返れば、前述した通り、それを実行できてはいない。背いてばかりであると言わざるを得ない。しかし、その精神には賛同したい。誰も、傷つけない、傷つかない解決の道がある。それを探求していったのが、少年悉多太子の仏に成る歩みではなかったか。    一切の苦悩する衆生を摂め取って捨てないと誓う、本願の光に照らされて、自己中心的に分別する、執着する心の否定をくぐる。阿弥陀如来の大いなる慈悲・浄土の光に包まれて、存在の本来性に帰る。「一つである」という道理にまっすぐ順い、現実の「食み合う」世界に責任を取って生きる。それは、本願の名号・南無阿弥陀仏という呼びかけを聞く、信心をいただくというところに帰着する。    尊ぶべきは法である。本当に守るべきものを明らかにしたいと思った次第である。 (2023年3月1日) 最近の投稿を読む...
飯島孝良顔写真
今との出会い第236回「想いだされ続けるということ――「淵源(ルーツ)」を求めて」
今との出会い第236回「想いだされ続けるということ――「淵源(ルーツ)」を求めて」 親鸞仏教センター嘱託研究員 飯島 孝良 (IIJIMA...
宮部峻顔写真
今との出会い第235回「太った白人の家族――ネブワース2022旅行記」
今との出会い第235回「太った白人の家族――ネブワース2022旅行記」 親鸞仏教センター研究員 宮部 峻 (MIYABE Takashi)  今年の6月、常勤研究員として着任して早々、有給休暇をいただき、5年ぶりにイギリスを訪れることができた。目的は私が尊敬してやまない人物の一人である唯一無二のロックンロール・スター、リアム・ギャラガーのネブワース公演を観に行くことであった。  原油高、空前絶後の円安、そしてウクライナ情勢の問題もあり、旅行費はずいぶんと高くついた。その事実だけで私のなかにある政治不信、反戦感情はますます高まってくるわけであったが、ともかく、リアム・ギャラガーの歴史に名を残すこととなったネブワース公演を観ることができたわけである。魅了されて以来、これまでリアムとノエルのどちらかが来日すればほぼすべてを観に行った私であるが、なかでも特別なコンサートの一つとなった。  メディアの報道で見聞きしていたが、イギリスに訪れると、ちらほらマスクをしている人もいたものの、コロナ前とほとんど変わらない日常が広がっていた。コンサート会場に移動するバスでもマスクはおろか、朝からギネスを大量に飲み、歌い、騒いでいた。私も隣の知らない客にギネスを渡された。これぞイギリス流のおもてなし。  さて、二日間で16万5千人を動員したコンサートでは、両日ともにそれぞれ前座が4組ずつ出た。私が観に行った二日目には、Fat...

著者別アーカイブ