親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

「親鸞仏教センター通信」第73号

戸次顕彰 掲載Contents

巻頭言

本多 弘之 「「本願を宗とする」ということ」

■ 連続講座「親鸞思想の解明」報告

講師 本多 弘之 「空しく過ぎるひとなし

報告 越部 良一

■ 第63回現代と親鸞の研究会報告

講師 橋本 健二 「現代日本の階級社会とアンダークラス」

報告 大谷 一郎

■ 研究員と学ぶ公開講座2019報告

藤村  潔 「大乗の「信」を起こす— 『大乗起信論』を読む —」

東  真行 「「収容所の親鸞」という問い — ソ連領被抑留者の信仰を読む —」

戸次 顕彰 「般若波羅蜜の信と行— 『大智度論』を読む —」

■ 聖典の試訳(現代語化)『尊号真像銘文』末巻

菊池 弘宣 「「源空聖人の真影の銘文(隆寛による銘文) 」後半

■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」

東  真行 「岡本精一(1924〜1993)」

コラム・エッセイ
講座・イベント

刊行物のご案内

研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

「親鸞仏教センター通信」第72号

戸次顕彰 掲載Contents

巻頭言

戸次 顕彰 「三宝としてのサンガ考」

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

講師 本多 弘之 「本当の依り処

報告 越部 良一

■ 第62回現代と親鸞の研究会報告

講師 佐藤 卓己 「「ポスト真実」時代の輿論主義と世論主義」

報告 田村 晃徳

■ 「三宝としてのサンガ論」研究会報告

講師 細川 涼一 「西大寺叡尊と非人―叡尊の自伝『感身学正記』を中心に―」

報告 戸次 顕彰

■ 近現代『教行信証』研究検証プロジェクト

青柳 英司 「第2期への展望」

■ 聖典の試訳(現代語化)『尊号真像銘文』末巻

菊池 弘宣 「源信和尚の銘文」

■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」

速水  馨 「近角常観(1870〜1941)」

コラム・エッセイ
講座・イベント

刊行物のご案内

研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

今との出会い 第200回「そもそも王舎城で―マガダ国王・頻婆娑羅(ビンビサーラ)考―」

戸次顕彰

親鸞仏教センター研究員

戸次 顕彰

(TOTSUGU Kensho)

その時に王舎大城に一(ひとり)の太子あり、阿闍世と名づけき。調達(デーヴァダッタ・提婆達多)悪友の教に随順して、父の王頻婆娑羅(びんばしゃら・ビンビサーラ)を収執し、幽閉して七重の室に置く。……

(『観無量寿経』『真宗聖典』89頁)


 浄土三部経の一つ『観無量寿経』の序分は、世に「王舎城の悲劇」と呼ばれる出来事に直面した韋提希夫人を中心にして、浄土の教えが開示される因縁を説いている。ところで、この物語の登場人物である母・韋提希や、首謀者である阿闍世王・提婆達多は、多く注目される一方で、マガダ国王頻婆娑羅(以下、ビンビサーラ)には、一見影の薄いような印象がある。そこで限られた紙幅ではあるが、少々記しておきたい。


 釈尊の教えや生涯の事績は、インドの部派によって伝承された聖典である経と律の中に記録されている。そして、これらの源流をたどれば、釈尊入滅直後にマガダ国の王舎城で開催された第一結集(『親鸞仏教センター通信』第68号「教えの伝承―第一結集について思うこと―」参照)に由来している(少なくともそのように伝承されている)。


 特に、三蔵の中の「律蔵」には、釈尊成道後の仏弟子たちの「出家」「受戒」の経緯を詳細に記録する章があり、中でも漢訳『四分律』(受戒犍度)・『五分律』(受戒法)は、釈尊の成道以前の記録を残している点で注目される。その中の釈尊の「誕生」「出家」記事で必ず言及されているのが、「相師の予言」である。すなわち、三十二相を具えて誕生した太子(釈尊)を見た占い師(相師婆羅門)たちが、「この子が在家にとどまれば転輪聖王になり、出家すれば仏陀になる」と予言したという話である。


 出家を決意した釈尊は、まず最初にマガダ国の王舎城を訪れたと記録される。このとき国王ビンビサーラは、宮殿を出てわざわざ釈尊のもとへ行って謁見し、「ぜひこの国にとどまり、私に代わって王になってほしい」と伝える。しかし、王の再三の慰留にも関わらず、釈尊は世俗の王として君臨することを拒否して、出家学道するという固い意志を表明した。(王は「相師の予言」を臣下からすでに聞いて知っていたということになっている。このエピソードの背景に、転輪聖王になるとの予言が大きく影響していることは言うまでもない。)

 その際、釈尊は、王の要請を丁重に断りつつも、その代わりに「もし無上覚を成就したならば、あなた(ビンビサーラ王)に必ず会いに来る」と約束して王舎城を去ったのであった。


 こうして釈尊は、六年の苦行ののち成道し、初転法輪などを経て、やがて三迦葉とその門弟たちを帰依させ、千人規模の大集団を形成した(このときの経緯については「「大比丘衆千二百五十人」考」『アンジャリ』第35号参照)。そしてこの後、かつての王との約束を思い出し、再び王舎城へ向かった。このとき王は八万四千の国民とともに釈尊を出迎え、王は竹林精舎を釈尊に寄進したと記録されている。ここで釈尊は、大国マガダにおいて宗教活動の拠点を得たのであった。


 こうした文脈から明らかなことであるが、「相師の予言」は、単純に釈尊の偉大性を誇示するために語られ伝承されたものではない。この占いが流布してビンビサーラ王の耳に入ることがなければ、後に時代を動かす釈尊とビンビサーラ王との出会いは実現しなかったのである。


 サンガは一人の宗教家の理念・理想だけでは動かない。後代に存続していかない。千人、千二百五十人という仏弟子がいて、さらにサンガを取り巻く国や民衆といった社会状況を背景に運営されている。実際、律に説かれる生活規則は、釈尊在世中においても、状況に応じて、随時追加・修正されている。釈尊の出発点において、王舎城の国王と民衆の帰依は、重大な意味をもっていただろう。未来へ仏法が伝承されていく起点となった第一結集がなぜ王舎城で開催されたのかという問題と併せて考えていかなければならないと思う。(この点についての問題提起は「再び王舎城へ―阿難最後の願いと第一結集の開催―」親鸞仏教センターホームページ「今との出会い」Vol.190参照)


 釈尊晩年に起こった王舎城での事件は、提婆達多の阿闍世に対するそそのかしに端を発したことは周知の事実である。このとき、提婆達多は「汝、父を殺すべし、我、当に仏を殺さん。摩竭(マガダ)国界に於いて、新王新仏有らん」(『四分律』巻四、十三僧残法・三)という言葉で阿闍世に近づいていることに注意を要する。提婆達多が言う「新王新仏」とは、明らかにかつての王と仏を念頭に置いている。その王とは、阿闍世の父・ビンビサーラであり、仏とは釈尊である。提婆達多は、釈尊とビンビサーラ王との関係がうらやましかったのではないか。

(2020年1月1日)

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繁田
今との出会い第244回「罪と罰と私たち」
今との出会い第244回「罪と罰と私たち」 親鸞仏教センター嘱託研究員 繁田 真爾 (SHIGETA Shinji)  2023年10月、秋も深まってきたある日。岩手県の盛岡市に出かけた。目当ては、もりおか歴史文化館で開催された企画展「罪と罰:犯罪記録に見る江戸時代の盛岡」。同館前の広場では、赤や黄の丸々としたリンゴが積まれ、物産展でにぎわっていた。マスコミでも紹介され話題を呼んだ企画展に、会期ぎりぎりで何とか滑り込んだ。    実はこれまで、同館では盛岡藩の「罪と罰」をテーマとした展示会が三度ほど開催されてきた。小さな展示室での企画だったが、監獄の歴史を研究している関心から、私も足を運んできた。いずれの回も好評だったようで、今回は「テーマ展」から「企画展」へ格上げ(?)したらしい。今回は瀟洒な図録も販売されたが、会期末を待たずに完売。若い来訪者も多く、「罪と罰」に対する人びとの関心の高さに驚かされた。    展示をじっくり観覧して、とくに印象的だったのは、現在の刑罰観との違いだ。火刑や磔や斬首など、江戸時代には苛酷な身体刑が存在したことはよく知られている。だがその他にも、(被害者やその親族、寺院などからの)「助命嘆願」が、現在よりもはるかに大きく判決を左右したこと。「酒狂」(酩酊状態)による犯罪は、そうでない場合の同じ犯罪よりも減刑される規定があったこと。などなど、今日の刑罰との違いはかなり大きい。    現在の刑罰観との違いということでは、もちろん近世の盛岡藩に限らない。たとえば中世日本の一部村落や神社のなかには、夜間に農作業や稲刈りをしてはならないという法令があった。「昼」にはない「夜の法」なるものが存在したのだ(網野善彦・石井進・笠松宏至・勝俣鎭夫『中世の罪と罰』)。そして現代でもケニアのある農村では、共同体や人間関係のトラブルの解決に、即断・即決を求めない。とにかく「待つ」ことで、自己―他者関係の変化を期待するのだという。この慣習は、人が人を裁くことに由来するさまざまな困難を乗り越える一つの英知として、注目されている(石田慎一郎『人を知る法、待つことを知る正義:東アフリカ農村からの法人類学』)。    「罪と罰」をめぐる観念は、このように時代や場所によって大きな違いがみられる。まさに“所変われば品変わる”で、今ある刑罰観が、確固とした揺るぎない真理に基づいているわけではないのだ。    だとすれば私たちは、いったい人間の所行の何を「罪」とし、それを何のために、どのように「罰する」のだろうか。そして罰を与えることで、私たちはその人に何を求めるのだろうか(報復?それとも改善?)。そのことがあらためて問われるに違いない。そして「罪と罰」は、おそらく刑罰に限らず、社会規範・教育・団体規則・子育てなど、私たちの社会や日常生活のさまざまな場面にわたる問題でもあるだろう。    それにしても江戸時代の盛岡では、なぜ酒狂の悪事に対して現代よりも寛容だったのだろうか。帰宅後に土産の地酒を舐めながら、そんなことに思いをはせた。   (2024年3月1日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第243回「磁場に置かれた曲がった釘」
今との出会い第243回「磁場に置かれた曲がった釘」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi)  西田幾多郎(1870-1945)は、最後の完成論文「場所的論理と宗教的世界観」(1945)の中で、対象論理と場所的論理という二つの論理を区別したうえで、次のように述べている。   真の他力宗は、場所的論理的にのみ把握することができるのである。 (『西田幾多郎哲学論集Ⅲ』岩波文庫、1989年、370頁)    現代思想において「真の他力宗」、つまり親鸞の思想の本質を明らかにしようとするとき、この「場所」もしくは「場」という受けとめ方が有効な視点となるかもしれない。    キリスト教の神学者である八木誠一氏は、(人格主義的神学に対して)場所論的神学を説明するとき次のような譬喩を提示されている。   軟鉄の釘には磁性がないから、釘同士は吸引も反発もしないが、それらを磁場のなかに置くとそれぞれが小さな磁石となり、それらの間には「相互作用」が成り立つ。……磁石のS極とN極のように、区別はできるが切り離すことができないもののことを「極」という。極と対極とは性質は違うが、単独では存立できない。 (八木誠一『場所論としての宗教哲学』法藏館、2006年、4頁)    八木氏は、神の場における個のあり方を、磁場に置かれた釘が磁石になること、磁石となった釘がS極とN極の二極をもつこと、それらの磁石となった釘同士の間に相互作用が成立することに譬えておられる。また、かつてアメリカ合衆国のバークリーにある毎田仏教センター長の羽田信生氏が、如来の本願と衆生との関係を磁場と釘に譬えられたことがあった。二人のお仕事を手掛かりに、私も親鸞の「真の他力宗」を、磁場に置かれた釘に譬えて受けとめてみたい(以下①~⑤)。   ①軟鉄の釘であれば、大きな釘であっても小さな釘であっても、真っ直ぐな釘であっても曲がった釘であっても、強い磁場の中に置かれると、その釘は磁石の性質を帯びるようになる。釘の形状は問わない。    曇鸞は、他力を増上縁と述べ(『浄土論註』取意、『真宗聖典』195頁参照)、親鸞は「他力と言うは、如来の本願力なり」(『真宗聖典』193頁)と言っている。強い磁場、つまり強い磁力をもった場は、如来の本願のはたらきの譬えであり、さまざまな形状の釘は多様な生き方をする有限な私たち衆生の譬えである。釘が強力な磁場の中に置かれることは、衆生が如来の本願力に目覚めることの、軟鉄の釘が磁気を帯びて磁石となることは、衆生が如来の本願力によってみずからの人世を生きるものとなることの譬えである。    強い磁場の中に置かれた軟鉄の釘が例外なく磁力をもつように、如来の本願力に目覚めた衆生は斉しく本願によって生きるものとなる。また如来の本願力についての証人という資格を与えられる。八木氏は、先に引いた著作の中で、神の「場」が現実化されている領域を「場所」と呼び、「場」と「場所」を区別することを提案されているが(詳細は氏の著作を参照)、その提案をふまえて言えば、衆生は如来の本願のはたらきという「場」においてそのはたらきを現実化する「場所」となるのである。   ②磁場に置かれ、磁石の性質を帯びた釘は、等しくS極とN極をもつ。SとNの二つの極は対の関係にある。二つの極は区別できるが切り離すことはできない。    S極を衆生(Shujo)の極、N極を如来(Nyorai)の極に譬えてみよう。(語呂合わせを使うと譬喩が安易に感じられてしまうかもしれないが、わかりやすさのために仮にこのように割り当ててみた。)如来の本願力という場に置かれた私たちの自覚は、衆生のS極と如来のN極という二つの極をもつ。S極は、衆生の迷いの自覚の極まりである。衆生の自覚の極は如来の眼によって見(みそなわ)された「煩悩具足の凡夫」という人間観を深く信ずることである。N極は如来の本願のみが真実であるという自覚の極まりである。如来の本願力という場に入ると私たちはこの二つの極をもった自覚を生きる者とされるのである。   ③磁石の性質を帯びた釘のN極だけを残したいと思って、何度切断しても、どれだけ短く切断しても、磁場にある限りつねに釘はS極とN極をもつ。    衆生の自覚は嫌だから、如来の自覚だけもちたいというわけにはいかない。如来の本願力の場における自覚は、衆生としての迷いの極みと如来としての真実の極みという二つの極をもつ自覚である。どちらか一方の極だけを選ぶということはできないのだ。またこの二つの極をもつ自覚に立たなければ、その自覚は真の意味での「場」の自覚とはいえない。このような自覚は、「を持つ」と表現できるような認識でなく、「に立つ」とか「に入る」と表現されるような場所論的な把握であろう。   ④磁力を与えられた釘の先端(S極かN極)には、別の釘を連ねていくことができる。N極に繋がる釘の先端はS極になる。二つの釘は極と対極によってしか繋がらない。    私たちが如来の本願力を現実化している人に連なろうとすれば、私たちは衆生の極をもってその人の如来の極に繋がらなくてはならない。如来の極をもっては如来の極に繋がることはできない。衆生の極においてのみ真に如来の極を仰ぐことが成り立つのだ。むしろ如来の極に繋がるときに、はじめて衆生の極も成り立つと言うべきかもしれない。    「真の他力宗」の伝統に連なるときもそうなのだろう。法然の自覚のS極の対極であるN極に、親鸞のS極の自覚が繋がるのである。だからこそ親鸞にとって法然は如来のはたらきとして仰がれることになる。私たちも親鸞の自覚のN極にS極をもって繋がる。そして私たちの自覚は二つの極をもつ場所となる。   ⑤強い磁場に置かれていると軟鉄の釘も一時的に磁石となり、磁場を離れても磁力を保つが、長くは持続しない。    長く如来の本願力の場に置かれた衆生が一時的にその場を離れても、その自覚は持続する。しかし勘違いしてはならない。その衆生は決して永久磁石になったわけではない。『歎異抄』の第九章(『真宗聖典』629〜630頁参照)が伝えるように、場を離れた自覚は持続しない。    私たちは永久磁石ではない。永久磁石であれば磁場に置いておく必要はないから。私たちは金の延べ棒でもない。金であれば磁場におかれても磁力をもつことはないから。軟鉄であっても錆びると磁力をもつことはできない。錆びるとは衆生としての痛みを忘れることに譬えることができる。    私は小さな曲がった釘である。私は、如来の本願力という磁力の場に置かれた小さな曲がった釘でありたい。私の課題は、永久磁石になることではなく、如来の本願力という磁場の中に身を置き続けることである。それは贈与された教法の中で如来からの呼びかけを聞き続けること、つまり聞法である。私はこの身を如来の本願力という場に置き、如来の本願力を現実化している場所と連なっていくことができるように努めたいと思う。    「譬喩一分」と言うように、この譬喩で、親鸞の思想を厳密にあらわすことはできないし、また他にも共同体の形成などの問題を考慮しなければならないが、少しでも「真の他力宗」をイメージするための手がかりになればと思う。 (2024年元日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第242回「ネットオークションで出会う、アジアの古切手」
今との出会い第242回 「ネットオークションで出会う、アジアの古切手」 「ネットオークションで出会う、 アジアの古切手」 親鸞仏教センター嘱託研究員 伊藤 真 (ITO...
青柳英司顔写真
今との出会い第241回「「菩薩皇帝」と「宇宙大将軍」」
今との出会い第241回「「菩薩皇帝」と「宇宙大将軍」」 親鸞仏教センター嘱託研究員 青柳 英司 (AOYAGI Eishi) 本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼 (本師、曇鸞は、梁の天子 常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる) (「正信偈」『聖典』206頁)  「正信偈」の曇鸞章に登場する「梁天子」は、中国の南朝梁の初代皇帝、武帝・蕭衍(しょうえん、在位502~549)のことを指している。武帝は、その半世紀近くにも及ぶ治世の中で律令や礼制を整備し、学問を奨励し、何より仏教を篤く敬った。臣下は彼のことを「皇帝菩薩」と褒めそやしている。南朝文化の最盛期は間違いなく、この武帝の時代であった。  その治世の末期に登場したのが、侯景(こうけい、503~552)という人物である。武帝は彼を助けるのだが、すぐ彼に背かれ、最後は彼に餓死させられる。梁が滅亡するのは、武帝の死から、わずか8年後のことだった。  では、どうして侯景は、梁と武帝を破局に導くことになったのだろうか。このあたりの顛末を、少しく紹介してみたい。  梁の武帝が生きた時代は、「南北朝時代」と呼ばれている。中華の地が、華北を支配する王朝(北朝)と華南を支配する王朝(南朝)によって、二分された時代である。当時、華北の人口は華南よりも多く、梁は成立当初、華北の王朝である北魏に対して、軍事的に劣勢であった。しかし、六鎮(りくちん)の乱を端緒に、北魏が東魏と西魏に分裂すると、パワー・バランスは徐々に変化し、梁が北朝に対して優位に立つようになっていった。  そして、問題の人物である侯景は、この六鎮の乱で頭角を現した人物である。彼は、東魏の事実上の指導者である高歓(こうかん、496〜547)に重用され、黄河の南岸に大きな勢力を築いた。しかし、高歓の死後、その子・高澄(こうちょう、521〜549)が権臣の排除に動くと、侯景は身の危険を感じて反乱を起こし、西魏や梁の支援を求めた。  これを好機と見たのが、梁の武帝である。彼は、侯景を河南王に封じると、甥の蕭淵明(しょうえんめい、?〜556)に十万の大軍を与えて華北に派遣した。ただ、結論から言うと、この選択は完全な失敗だった。梁軍は東魏軍に大敗。蕭淵明も捕虜となってしまう。侯景も東魏軍に敗れ、梁への亡命を余儀なくされた。  さて、侯景に勝利した高澄だったが、東魏には梁との戦争を続ける余力は無かった。そこで高澄は、蕭淵明の返還を条件に梁との講和を提案。武帝は、これを受け入れることになる。  すると、微妙な立場になったのが侯景だった。彼は、蕭淵明と引き換えに東魏へ送還されることを恐れ、武帝に反感を持つ皇族や豪族を味方に付けて、挙兵に踏み切ったのである。  彼の軍は瞬く間に数万に膨れ上がり、凄惨な戦いの末に、梁の都・建康(現在の南京)を攻略。武帝を幽閉して、ろくに食事も与えず、ついに死に致らしめた。  その後、侯景は武帝の子を皇帝(簡文帝、在位549〜551)に擁立し、自身は「宇宙大将軍」を称する。この時代の「宇宙」は、時間と空間の全てを意味する言葉である。前例の無い、極めて尊大な将軍号であった。  しかし、実際に侯景が掌握していたのは、建康周辺のごく限られた地域に過ぎなかった。その他の地域では梁の勢力が健在であり、侯景はそれらを制することが出来ないばかりか、敗退を重ねてゆく結果となる。そして552年、侯景は建康を失って逃走する最中、部下の裏切りに遭って殺される。梁を混乱の底に突き落とした梟雄(きょうゆう)は、こうして滅んだのであった。  侯景に対する後世の評価は、概して非常に悪い。  ただ、彼の行動を見ていると、最初は「保身」が目的だったことに気付く。東魏の高澄は、侯景の忠誠を疑い、彼を排除しようとしたが、それに対する侯景の動きからは、彼が反乱の準備を進めていたようには見えない。侯景自身は高澄に仕え続けるつもりでいたのだが、高澄の側は侯景の握る軍事力を恐れ、一方的に彼を粛清しようとしたのだろう。そこで侯景は止む無く、挙兵に踏み切ったものと思われる。  また、梁の武帝に対する反乱も、侯景が最初から考えていたものではないだろう。侯景は華北の出身であり、南朝には何の地盤も持たない。そんな彼が、最初から王朝の乗っ取りを企んで、梁に亡命してきたとは思われない。先に述べたように、梁の武帝が彼を高澄に引き渡すことを恐れて、一か八かの反乱に踏み切ったのだろう。  この反乱は予想以上の成功を収め、侯景は「宇宙大将軍」を号するまでに増長する。彼は望んでもいなかった権力を手にしたのであり、それに舞い上がってしまったのだろうか。  では、どうして侯景の挙兵は、こうも呆気なく成功してしまったのだろうか。  梁の武帝は、仏教を重んじた皇帝として名高い。彼は高名な僧侶を招いて仏典を学び、自ら菩薩戒を受け、それに従った生活を送っている。彼の仏教信仰が、単なるファッションでなかったことは事実である。  武帝は、菩薩として自己を規定し、慈悲を重視して、国政にも関わっていった皇帝だった。彼は殺生を嫌って恩赦を連発し、皇族が罪を犯しても寛大な処置に留めている。  ただ、彼は、慈悲を極めるができなかった。それが、彼の悲劇であったと思う。恩赦の連発は国の風紀を乱す結果となり、問題のある皇族を処分しなかったことも、他の皇族や民衆の反発を買うことになった。  その結果、侯景の反乱に与(くみ)する皇族も現われ、最後は梁と武帝に破滅を齎(もたら)すこととなる。  悪を望んでいたのではないにも関わらず、結果として梁に反旗を翻した侯景と、菩薩としてあろうとしたにも関わらず、結果として梁を衰退させた武帝。彼らの生涯を、同時代人である曇鸞は、どのように見ていたのだろうか。残念ながら、史料は何も語っていない。 最近の投稿を読む...

著者別アーカイブ

投稿者:shinran-bc 投稿日時:

「親鸞仏教センター通信」第70号

戸次顕彰 掲載Contents

巻頭言

藤村  潔 「祖父が生きていた「足跡」 」

■ 第16回親鸞仏教センターのつどい

講師 竹村 牧男 「往生のそのさきについて」

講師 本多 弘之 「願生心と菩薩道」

報告 大谷 一郎

■ 第5回清沢満之研究交流会報告

全体テーマ:「井上円了と清沢満之」

長谷川琢哉 「井上円了と清沢満之——仏教の近代化と「哲学」——」

星野 靖二 「井上円了と清沢満之——宗教と信の問題を焦点として——」

佐藤  厚 「井上円了と清沢満之——絶対・相対の関係と『大乗起信論』——」

岡田 正彦 (コメンテーター) 名和 達宣 (司会)

■ 第61回現代と親鸞の研究会報告

講師 山本 芳久 「トマス・アクィナスにおける「恩寵」と「自由意志」」

報告 青柳 英司

■ 「三宝としてのサンガ論」研究会報告

戸次 顕彰 「律蔵から読み解くサンガの特色―『四分律』受戒犍度を中心として―」

■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」

東  真行 「岩瀬 暁燈(1916〜1999)」

コラム・エッセイ
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研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

「親鸞仏教センター通信」第69号

戸次顕彰 掲載Contents

巻頭言

本多 弘之 「欲望と願生 」

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

講師 本多 弘之 「願生、即ち得生」

報告 越部 良一

■ 『教行信証』と善導研究会・『尊号真像銘文』研究会報告

講師 金子  彰 「鎌倉仏家の注釈活動—親鸞遺文を通して—

報告 青柳 英司 「生きた宗教としての大乗仏教」

■ 近現代『教行信証』研究検証プロジェクト

講師 杉岡 孝紀 「真宗学の〈解釈と方法〉をめぐる課題」

報告 名和 達宣

■ 「三宝としてのサンガ論」研究会報告

講師 河﨑  豊 「ジャイナ教の信仰と生活」

報告 戸次 顕彰

■ 研究員と学ぶ公開講座2018報告

テーマ:「語る/語られる仏者—伝承から読み解く仏教思想—」

戸次 顕彰 「仏法が伝承される歴史空間 ― 第一結集と『大智度論』 ―」

長谷川琢哉 「教育者としての井上円了・清沢満之」

青柳 英司 「親鸞が語る曇鸞 ― 『高僧和讃』を中心にして ―」

■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」

飯島 孝良 「小笠原秀實(1885〜1958)」

コラム・エッセイ
講座・イベント

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研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

今との出会い 第190回「再び王舎城へ―阿難最後の願いと第一結集の開催―」

戸次顕彰

親鸞仏教センター研究員

戸次 顕彰

(TOTSUGU Kensho)

 私事だが、仏教を研究するとき、律蔵などの戒律文献を読むことが比較的多い。これらには、高度な思想や哲学ではなく、現実の釈尊教団で起こった事件が多く記載されている。ここから、釈尊が目指していた理想のサンガや、仏教の方向性を読み取っていかなければいけないと思っている。とはいえ、私が研究対象としている文献の性格もあって、私の頭の中も何か思想的に難しいことを考えるというようなトレーニングを積むことができていないことは日々痛感することである。


 そうであっても、物事を現実的に具体的に考えることによって、時には気づかされることもある。つい先日あらためて、釈尊最晩年の言葉と足跡が記録される『ブッダ最後の旅』(中村元訳、岩波文庫)を読む機会があった。もちろん学生のときに初めて読み、これまでも何度か目を通す機会はあった。この本の終盤、釈尊が間もなく臨終を迎えようとしている中で、釈尊が号泣する阿難(あなん/アーナンダ)に対して、およそ存在するものは必ず滅びるという道理を説いたあと、これまで侍者として支えてくれた阿難に対して次のように述べるシーンがある。


「アーナンダよ。長い間、お前は、慈愛ある、ためをはかる、安楽な、純一なる、無量の、身とことばとこころとの行為によって、向上し来たれる人(=ゴータマ)に仕えてくれた。アーナンダよ、お前は善いことをしてくれた。努めはげんで修行せよ。速やかに汚れのないものとなるだろう。」

(中村訳前掲書137頁)


「修行僧たちよ。過去の世に真人・正しくさとりを開いた人々がいた。それらの尊師たちにも侍り仕えることに専念している侍者たちがいて、譬えば、わたしにとってのアーナンダのごとくであった。修行僧らよ。また未来の世にも、真人・正しくさとりを開いた人々があらわれるであろう。それらの尊師たちにも最上の侍者たちがいて、譬えばわたしにとってのアーナンダのごとくであろう。」

(中村訳前掲書138頁)


 これまで釈尊は阿難に対して、身近な存在だからこそ多少厳しいことも言ってきたことであろう。ここにある釈尊の言葉は、その阿難に対する最後のお礼だったのかもしれない。胸にジーンとくる感動的な場面である。


 ところが、その釈尊に対する阿難の返答が一見奇妙なのである。


「尊い方よ。尊師は、この小さな町、竹藪の町、場末の町でお亡くなりになりますな。尊い方よ、ほかに大都市があります。例えば、チャンパ―、王舎城、サーヴァッティー、…(中略・引用者)…があります。こういうところで尊師はお亡くなりになってください。そこには富裕な王族たち、富裕なバラモンたち、富裕な資産者たちがいて、修行完成者(ブッダ)を信仰しています。かれらは修行完成者の遺骨の崇拝をするでしょう。」

(中村訳前掲書140頁)


 もちろん釈尊は、この阿難の提案を退ける。そもそも80歳となって余命を自覚するほどの激痛をこらえる最中、大都市へ移動することなど困難だったはずだ。それなのに、なぜこの話の流れで、阿難はこんなことを言ったのだろうか。


 この経典は、王舎城で「七不退法」を説いたあと、北上してクシナーラーで臨終するまでの釈尊の足跡が地理的な固有名詞とともに詳しく記載されている。クシナーラーの先には、釈尊の生まれ故郷があることから、そこを目指していたのではないかと推測される所以でもある。臨終後、摩訶迦葉(まかかしょう)も遅れて到着して、遺体は荼毘(だび)に付されるが、一行は再び王舎城へと戻り、そして第一結集の開催へと向かう。


 なぜ、仏弟子たちはわざわざ王舎城に戻ったのか。摩訶迦葉も到着したのだから、その場で結集を開催できなかったのだろうか。あるいは、釈尊ゆかりの地がよいということなら、そのままカピラ城へ向かうことも選択肢としてあったのではないか。


 しかし、一行は再び王舎城へと戻った。この不自然な動きについては、何日かかるかわからない500人規模の比丘たちの結集会議に、摩訶迦葉の要請で阿闍世(あじゃせ)王が食べ物を供給したという伝承が想起される(『大智度論』巻二)。たしかに衣食住を布施に頼る比丘たちの集いである。ここに生活上の問題があったことは、漢訳『四分律』の「唯だ王舍城には、房舍・飲食(おんじき)・臥具(がぐ)、衆多なり。我等(われら)、今、宜(よろ)しく共に往きて彼(かしこ)に集まり、法と毘尼(びに)とを論ずべし」(『四分律』巻五十四「集法毘尼五百人」)という諸比丘の提案からもうかがえる。


 先ほどの阿難の発言は、侍者として釈尊入滅後のサンガの混乱をすでに予期していたと考えることはできないだろうか。このような小さな村でお葬式ができるのか、結集のような会議が行われるとして、多数の比丘が食べ物も得られない、宿泊もできない、このような場所で開催などできないという現実的な問題を心配していたのではないだろうか。阿難の言葉と、わざわざ王舎城に戻ったサンガの動きとが、重なってくるのである。

(2019年3月1日)

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繁田
今との出会い第244回「罪と罰と私たち」
今との出会い第244回「罪と罰と私たち」 親鸞仏教センター嘱託研究員 繁田 真爾 (SHIGETA Shinji)  2023年10月、秋も深まってきたある日。岩手県の盛岡市に出かけた。目当ては、もりおか歴史文化館で開催された企画展「罪と罰:犯罪記録に見る江戸時代の盛岡」。同館前の広場では、赤や黄の丸々としたリンゴが積まれ、物産展でにぎわっていた。マスコミでも紹介され話題を呼んだ企画展に、会期ぎりぎりで何とか滑り込んだ。    実はこれまで、同館では盛岡藩の「罪と罰」をテーマとした展示会が三度ほど開催されてきた。小さな展示室での企画だったが、監獄の歴史を研究している関心から、私も足を運んできた。いずれの回も好評だったようで、今回は「テーマ展」から「企画展」へ格上げ(?)したらしい。今回は瀟洒な図録も販売されたが、会期末を待たずに完売。若い来訪者も多く、「罪と罰」に対する人びとの関心の高さに驚かされた。    展示をじっくり観覧して、とくに印象的だったのは、現在の刑罰観との違いだ。火刑や磔や斬首など、江戸時代には苛酷な身体刑が存在したことはよく知られている。だがその他にも、(被害者やその親族、寺院などからの)「助命嘆願」が、現在よりもはるかに大きく判決を左右したこと。「酒狂」(酩酊状態)による犯罪は、そうでない場合の同じ犯罪よりも減刑される規定があったこと。などなど、今日の刑罰との違いはかなり大きい。    現在の刑罰観との違いということでは、もちろん近世の盛岡藩に限らない。たとえば中世日本の一部村落や神社のなかには、夜間に農作業や稲刈りをしてはならないという法令があった。「昼」にはない「夜の法」なるものが存在したのだ(網野善彦・石井進・笠松宏至・勝俣鎭夫『中世の罪と罰』)。そして現代でもケニアのある農村では、共同体や人間関係のトラブルの解決に、即断・即決を求めない。とにかく「待つ」ことで、自己―他者関係の変化を期待するのだという。この慣習は、人が人を裁くことに由来するさまざまな困難を乗り越える一つの英知として、注目されている(石田慎一郎『人を知る法、待つことを知る正義:東アフリカ農村からの法人類学』)。    「罪と罰」をめぐる観念は、このように時代や場所によって大きな違いがみられる。まさに“所変われば品変わる”で、今ある刑罰観が、確固とした揺るぎない真理に基づいているわけではないのだ。    だとすれば私たちは、いったい人間の所行の何を「罪」とし、それを何のために、どのように「罰する」のだろうか。そして罰を与えることで、私たちはその人に何を求めるのだろうか(報復?それとも改善?)。そのことがあらためて問われるに違いない。そして「罪と罰」は、おそらく刑罰に限らず、社会規範・教育・団体規則・子育てなど、私たちの社会や日常生活のさまざまな場面にわたる問題でもあるだろう。    それにしても江戸時代の盛岡では、なぜ酒狂の悪事に対して現代よりも寛容だったのだろうか。帰宅後に土産の地酒を舐めながら、そんなことに思いをはせた。   (2024年3月1日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第243回「磁場に置かれた曲がった釘」
今との出会い第243回「磁場に置かれた曲がった釘」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi)  西田幾多郎(1870-1945)は、最後の完成論文「場所的論理と宗教的世界観」(1945)の中で、対象論理と場所的論理という二つの論理を区別したうえで、次のように述べている。   真の他力宗は、場所的論理的にのみ把握することができるのである。 (『西田幾多郎哲学論集Ⅲ』岩波文庫、1989年、370頁)    現代思想において「真の他力宗」、つまり親鸞の思想の本質を明らかにしようとするとき、この「場所」もしくは「場」という受けとめ方が有効な視点となるかもしれない。    キリスト教の神学者である八木誠一氏は、(人格主義的神学に対して)場所論的神学を説明するとき次のような譬喩を提示されている。   軟鉄の釘には磁性がないから、釘同士は吸引も反発もしないが、それらを磁場のなかに置くとそれぞれが小さな磁石となり、それらの間には「相互作用」が成り立つ。……磁石のS極とN極のように、区別はできるが切り離すことができないもののことを「極」という。極と対極とは性質は違うが、単独では存立できない。 (八木誠一『場所論としての宗教哲学』法藏館、2006年、4頁)    八木氏は、神の場における個のあり方を、磁場に置かれた釘が磁石になること、磁石となった釘がS極とN極の二極をもつこと、それらの磁石となった釘同士の間に相互作用が成立することに譬えておられる。また、かつてアメリカ合衆国のバークリーにある毎田仏教センター長の羽田信生氏が、如来の本願と衆生との関係を磁場と釘に譬えられたことがあった。二人のお仕事を手掛かりに、私も親鸞の「真の他力宗」を、磁場に置かれた釘に譬えて受けとめてみたい(以下①~⑤)。   ①軟鉄の釘であれば、大きな釘であっても小さな釘であっても、真っ直ぐな釘であっても曲がった釘であっても、強い磁場の中に置かれると、その釘は磁石の性質を帯びるようになる。釘の形状は問わない。    曇鸞は、他力を増上縁と述べ(『浄土論註』取意、『真宗聖典』195頁参照)、親鸞は「他力と言うは、如来の本願力なり」(『真宗聖典』193頁)と言っている。強い磁場、つまり強い磁力をもった場は、如来の本願のはたらきの譬えであり、さまざまな形状の釘は多様な生き方をする有限な私たち衆生の譬えである。釘が強力な磁場の中に置かれることは、衆生が如来の本願力に目覚めることの、軟鉄の釘が磁気を帯びて磁石となることは、衆生が如来の本願力によってみずからの人世を生きるものとなることの譬えである。    強い磁場の中に置かれた軟鉄の釘が例外なく磁力をもつように、如来の本願力に目覚めた衆生は斉しく本願によって生きるものとなる。また如来の本願力についての証人という資格を与えられる。八木氏は、先に引いた著作の中で、神の「場」が現実化されている領域を「場所」と呼び、「場」と「場所」を区別することを提案されているが(詳細は氏の著作を参照)、その提案をふまえて言えば、衆生は如来の本願のはたらきという「場」においてそのはたらきを現実化する「場所」となるのである。   ②磁場に置かれ、磁石の性質を帯びた釘は、等しくS極とN極をもつ。SとNの二つの極は対の関係にある。二つの極は区別できるが切り離すことはできない。    S極を衆生(Shujo)の極、N極を如来(Nyorai)の極に譬えてみよう。(語呂合わせを使うと譬喩が安易に感じられてしまうかもしれないが、わかりやすさのために仮にこのように割り当ててみた。)如来の本願力という場に置かれた私たちの自覚は、衆生のS極と如来のN極という二つの極をもつ。S極は、衆生の迷いの自覚の極まりである。衆生の自覚の極は如来の眼によって見(みそなわ)された「煩悩具足の凡夫」という人間観を深く信ずることである。N極は如来の本願のみが真実であるという自覚の極まりである。如来の本願力という場に入ると私たちはこの二つの極をもった自覚を生きる者とされるのである。   ③磁石の性質を帯びた釘のN極だけを残したいと思って、何度切断しても、どれだけ短く切断しても、磁場にある限りつねに釘はS極とN極をもつ。    衆生の自覚は嫌だから、如来の自覚だけもちたいというわけにはいかない。如来の本願力の場における自覚は、衆生としての迷いの極みと如来としての真実の極みという二つの極をもつ自覚である。どちらか一方の極だけを選ぶということはできないのだ。またこの二つの極をもつ自覚に立たなければ、その自覚は真の意味での「場」の自覚とはいえない。このような自覚は、「を持つ」と表現できるような認識でなく、「に立つ」とか「に入る」と表現されるような場所論的な把握であろう。   ④磁力を与えられた釘の先端(S極かN極)には、別の釘を連ねていくことができる。N極に繋がる釘の先端はS極になる。二つの釘は極と対極によってしか繋がらない。    私たちが如来の本願力を現実化している人に連なろうとすれば、私たちは衆生の極をもってその人の如来の極に繋がらなくてはならない。如来の極をもっては如来の極に繋がることはできない。衆生の極においてのみ真に如来の極を仰ぐことが成り立つのだ。むしろ如来の極に繋がるときに、はじめて衆生の極も成り立つと言うべきかもしれない。    「真の他力宗」の伝統に連なるときもそうなのだろう。法然の自覚のS極の対極であるN極に、親鸞のS極の自覚が繋がるのである。だからこそ親鸞にとって法然は如来のはたらきとして仰がれることになる。私たちも親鸞の自覚のN極にS極をもって繋がる。そして私たちの自覚は二つの極をもつ場所となる。   ⑤強い磁場に置かれていると軟鉄の釘も一時的に磁石となり、磁場を離れても磁力を保つが、長くは持続しない。    長く如来の本願力の場に置かれた衆生が一時的にその場を離れても、その自覚は持続する。しかし勘違いしてはならない。その衆生は決して永久磁石になったわけではない。『歎異抄』の第九章(『真宗聖典』629〜630頁参照)が伝えるように、場を離れた自覚は持続しない。    私たちは永久磁石ではない。永久磁石であれば磁場に置いておく必要はないから。私たちは金の延べ棒でもない。金であれば磁場におかれても磁力をもつことはないから。軟鉄であっても錆びると磁力をもつことはできない。錆びるとは衆生としての痛みを忘れることに譬えることができる。    私は小さな曲がった釘である。私は、如来の本願力という磁力の場に置かれた小さな曲がった釘でありたい。私の課題は、永久磁石になることではなく、如来の本願力という磁場の中に身を置き続けることである。それは贈与された教法の中で如来からの呼びかけを聞き続けること、つまり聞法である。私はこの身を如来の本願力という場に置き、如来の本願力を現実化している場所と連なっていくことができるように努めたいと思う。    「譬喩一分」と言うように、この譬喩で、親鸞の思想を厳密にあらわすことはできないし、また他にも共同体の形成などの問題を考慮しなければならないが、少しでも「真の他力宗」をイメージするための手がかりになればと思う。 (2024年元日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第242回「ネットオークションで出会う、アジアの古切手」
今との出会い第242回 「ネットオークションで出会う、アジアの古切手」 「ネットオークションで出会う、 アジアの古切手」 親鸞仏教センター嘱託研究員 伊藤 真 (ITO...
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今との出会い第241回「「菩薩皇帝」と「宇宙大将軍」」
今との出会い第241回「「菩薩皇帝」と「宇宙大将軍」」 親鸞仏教センター嘱託研究員 青柳 英司 (AOYAGI Eishi) 本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼 (本師、曇鸞は、梁の天子 常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる) (「正信偈」『聖典』206頁)  「正信偈」の曇鸞章に登場する「梁天子」は、中国の南朝梁の初代皇帝、武帝・蕭衍(しょうえん、在位502~549)のことを指している。武帝は、その半世紀近くにも及ぶ治世の中で律令や礼制を整備し、学問を奨励し、何より仏教を篤く敬った。臣下は彼のことを「皇帝菩薩」と褒めそやしている。南朝文化の最盛期は間違いなく、この武帝の時代であった。  その治世の末期に登場したのが、侯景(こうけい、503~552)という人物である。武帝は彼を助けるのだが、すぐ彼に背かれ、最後は彼に餓死させられる。梁が滅亡するのは、武帝の死から、わずか8年後のことだった。  では、どうして侯景は、梁と武帝を破局に導くことになったのだろうか。このあたりの顛末を、少しく紹介してみたい。  梁の武帝が生きた時代は、「南北朝時代」と呼ばれている。中華の地が、華北を支配する王朝(北朝)と華南を支配する王朝(南朝)によって、二分された時代である。当時、華北の人口は華南よりも多く、梁は成立当初、華北の王朝である北魏に対して、軍事的に劣勢であった。しかし、六鎮(りくちん)の乱を端緒に、北魏が東魏と西魏に分裂すると、パワー・バランスは徐々に変化し、梁が北朝に対して優位に立つようになっていった。  そして、問題の人物である侯景は、この六鎮の乱で頭角を現した人物である。彼は、東魏の事実上の指導者である高歓(こうかん、496〜547)に重用され、黄河の南岸に大きな勢力を築いた。しかし、高歓の死後、その子・高澄(こうちょう、521〜549)が権臣の排除に動くと、侯景は身の危険を感じて反乱を起こし、西魏や梁の支援を求めた。  これを好機と見たのが、梁の武帝である。彼は、侯景を河南王に封じると、甥の蕭淵明(しょうえんめい、?〜556)に十万の大軍を与えて華北に派遣した。ただ、結論から言うと、この選択は完全な失敗だった。梁軍は東魏軍に大敗。蕭淵明も捕虜となってしまう。侯景も東魏軍に敗れ、梁への亡命を余儀なくされた。  さて、侯景に勝利した高澄だったが、東魏には梁との戦争を続ける余力は無かった。そこで高澄は、蕭淵明の返還を条件に梁との講和を提案。武帝は、これを受け入れることになる。  すると、微妙な立場になったのが侯景だった。彼は、蕭淵明と引き換えに東魏へ送還されることを恐れ、武帝に反感を持つ皇族や豪族を味方に付けて、挙兵に踏み切ったのである。  彼の軍は瞬く間に数万に膨れ上がり、凄惨な戦いの末に、梁の都・建康(現在の南京)を攻略。武帝を幽閉して、ろくに食事も与えず、ついに死に致らしめた。  その後、侯景は武帝の子を皇帝(簡文帝、在位549〜551)に擁立し、自身は「宇宙大将軍」を称する。この時代の「宇宙」は、時間と空間の全てを意味する言葉である。前例の無い、極めて尊大な将軍号であった。  しかし、実際に侯景が掌握していたのは、建康周辺のごく限られた地域に過ぎなかった。その他の地域では梁の勢力が健在であり、侯景はそれらを制することが出来ないばかりか、敗退を重ねてゆく結果となる。そして552年、侯景は建康を失って逃走する最中、部下の裏切りに遭って殺される。梁を混乱の底に突き落とした梟雄(きょうゆう)は、こうして滅んだのであった。  侯景に対する後世の評価は、概して非常に悪い。  ただ、彼の行動を見ていると、最初は「保身」が目的だったことに気付く。東魏の高澄は、侯景の忠誠を疑い、彼を排除しようとしたが、それに対する侯景の動きからは、彼が反乱の準備を進めていたようには見えない。侯景自身は高澄に仕え続けるつもりでいたのだが、高澄の側は侯景の握る軍事力を恐れ、一方的に彼を粛清しようとしたのだろう。そこで侯景は止む無く、挙兵に踏み切ったものと思われる。  また、梁の武帝に対する反乱も、侯景が最初から考えていたものではないだろう。侯景は華北の出身であり、南朝には何の地盤も持たない。そんな彼が、最初から王朝の乗っ取りを企んで、梁に亡命してきたとは思われない。先に述べたように、梁の武帝が彼を高澄に引き渡すことを恐れて、一か八かの反乱に踏み切ったのだろう。  この反乱は予想以上の成功を収め、侯景は「宇宙大将軍」を号するまでに増長する。彼は望んでもいなかった権力を手にしたのであり、それに舞い上がってしまったのだろうか。  では、どうして侯景の挙兵は、こうも呆気なく成功してしまったのだろうか。  梁の武帝は、仏教を重んじた皇帝として名高い。彼は高名な僧侶を招いて仏典を学び、自ら菩薩戒を受け、それに従った生活を送っている。彼の仏教信仰が、単なるファッションでなかったことは事実である。  武帝は、菩薩として自己を規定し、慈悲を重視して、国政にも関わっていった皇帝だった。彼は殺生を嫌って恩赦を連発し、皇族が罪を犯しても寛大な処置に留めている。  ただ、彼は、慈悲を極めるができなかった。それが、彼の悲劇であったと思う。恩赦の連発は国の風紀を乱す結果となり、問題のある皇族を処分しなかったことも、他の皇族や民衆の反発を買うことになった。  その結果、侯景の反乱に与(くみ)する皇族も現われ、最後は梁と武帝に破滅を齎(もたら)すこととなる。  悪を望んでいたのではないにも関わらず、結果として梁に反旗を翻した侯景と、菩薩としてあろうとしたにも関わらず、結果として梁を衰退させた武帝。彼らの生涯を、同時代人である曇鸞は、どのように見ていたのだろうか。残念ながら、史料は何も語っていない。 最近の投稿を読む...

著者別アーカイブ

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「親鸞仏教センター通信」第68号

戸次顕彰 掲載Contents

巻頭言

戸次 顕彰 「教えの伝承 —第一結集について思うこと—」

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

講師 本多 弘之 「別離久しく長し」

報告 越部 良一

■ 第60回現代と親鸞の研究会報告

講師 平川 克美 「21世紀の贈与論」

報告 大谷 一郎

■ 清沢満之研究会報告

講師 西本 祐攝 「「他力門哲学骸骨試稿」に学ぶ――研究の方向性――」

報告 長谷川琢哉

■ 英訳『教行信証』研究会報告

講師 ステファン・グレイス 「『教行信証』「証巻」における法身の「意志」問題―鈴木大拙の解釈を中心に―」

報告 田村 晃徳

■ 『尊号真像銘文』研究会報告

菊池 弘宣 「「『聖典』の試訳」『尊号真像銘文』研究会を再開するにあたって」

■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」

中村 玲太 「上杉慧岳(1892〜1972)」

コラム・エッセイ
講座・イベント

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研究会・Interview
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『現代と親鸞』第39号

戸次顕彰 掲載Contents

研究論文
■ 『西方指南抄』研究会

末木 文美士 「菩薩の倫理とその根拠」

■ 第56回現代と親鸞の研究会

岸見 一郎 「よく生きるということ」

■ 第17回親鸞仏教センター研究交流サロン

【問題提起】

中野目 徹 「近代日本のナショナリズムを考える――「明治の青年」を事例にして――」

【全体討議】

中川 未来(コメンテーター)

■ 第14回親鸞仏教センターのつどい

水島 朝穂 「憲法の「古稀」について考える」

本多 弘之 「本願の国土」

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

本多 弘之 「 浄土を求めさせたもの――『大無量寿経』を読む――(25)」 

コラム・エッセイ
講座・イベント

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研究会・Interview
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「親鸞仏教センター通信」第67号

戸次顕彰 掲載Contents

巻頭言

長谷川琢哉 「迷信と安心 」

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

講師 本多 弘之 「一念の事実」

報告 越部 良一

■ 第59回現代と親鸞の研究会報告

講師 平川 宗信 「親鸞思想に立脚した憲法的刑法学を求めて―本願法学への歩みと現在―」

報告 菊池 弘宣

■ 第19回親鸞仏教センター研究交流サロン報告

提題 オリオン・クラウタウ 「「宗教」概念を考える―近代日本における「宗教」としての仏教の生成―」

討議 大平 浩史(コメンテーター)

報告 戸次 顕彰

■ 『教行信証』と善導研究会報告

青柳 英司 「『念仏鏡』について」

■ BOOK OF THE YEAR 2018

●『日本的ナルシシズムの罪』(堀有伸著)

紹介者 本多 弘之

●『青白く輝く月を見たか?Did the Moon Shed a Pale Light?』(森博嗣著)

紹介者 中村 玲太

●『オスマン帝国の解体 文化世界と国民国家』(鈴木薫著)

紹介者 青柳 英司

●『「利己」と他者のはざまで―近代日本における社会進化思想』(松本三之介著)

紹介者 長谷川琢哉

●『『こころころころ はがきで送る禅のこころ』(横田南嶺著)

紹介者 飯島 孝良

●『陰謀の日本中世史』(呉座勇一著)

紹介者 佐々木 啓

●『『にせものほんもの』(野間清六著)

紹介者 浅平  宗

■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」

戸次 顕彰 「赤沼智善(1884〜1937)」

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研究会・Interview
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『アンジャリ』第35号

戸次顕彰 掲載Contents

『アンジャリ』第35号

(2018年6月)

■ Contents

彌永 信美 「「東洋学」の発展的解体に向けて―「自分史」から回顧しつつ」

石井 公成 「「厩戸王」騒動が示すもの」

水野 和夫 「資本主義の終焉とこれからの社会」

杉山登志郎 「児童精神科の外来から見えるもの」

岡   檀 「生き心地の良さとは何か―日本で“最も”自殺の少ない町の調査から」

三上  修 「仏と神と鳥類多様性」

坂口 幸弘 「亡き人の生きた証の伝承」

■ 連載
■ 巻末コラム

戸次 顕彰 「「大比丘衆千二百五十人」考」

※一部のコンテンツは無料でPDF版をご覧いただけます(タイトルをCLICK)

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『アンジャリ』第35号

(2018年6月)

■ Content

彌永 信美 「「東洋学」の発展的解体に向けて―「自分史」から回顧しつつ」

石井 公成 「「厩戸王」騒動が示すもの」

水野 和夫 「資本主義の終焉とこれからの社会」

杉山登志郎 「児童精神科の外来から見えるもの」

岡   檀 「生き心地の良さとは何か―日本で“最も”自殺の少ない町の調査から」

三上  修 「仏と神と鳥類多様性」

坂口 幸弘
亡き人の生きた証の伝承

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戸次 顕彰 「「大比丘衆千二百五十人」考」

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