親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

Interview 第27回 池田行信氏(後編)

ikeda

浄土真宗本願寺派総務、慈願寺住職

池田 行信

(IKEDA Gyoshin)

Introduction

 2022年2月13日、zoomにて、昨年『正信念仏偈註解』を上梓された池田行信氏(浄土真宗本願寺派総務、慈願寺住職)にお話をお聞きした。そのインタビューの模様をお届けします。

(東  真行・青柳 英司)

 

【今回はインタビュー後編を掲載、前編中編はコチラから】

──今回のご著書では、注釈のみならず、「補遺」欄にとても重要な事柄が多く書かれていると感じました。たとえば、多田鼎の龍樹理解について近代における言説の伝播を探られ、あるいは、コロナウイルス感染拡大の状況下における生老病死の受けとめについても言及があります。また、私が特に重要と感じたのは村上速水の見解を取り上げて、「文献解釈の落とし穴」について書かれている点です。そこでは親鸞の思索過程を重んじることなく、整備された教義理解を他の者に強制するという問題が指摘されています。これは親鸞自身の問題というよりも、親鸞が明らかにした教法を大事に思う、あらゆる人々にとっての重要課題であると考えます。私たちはこの問題をいかに捉え、乗り越えていけるとお考えでしょうか。

 

■親鸞の「プロセス」を課題とする

池田  村上速水先生は、「聖人の教義といわれるものは、聖人が到達した結論」であると述べています(『註解』459頁)。その「結論」を解釈しようとすれば、「精微をきわめた訓詁解釈学」が要請されましょう。その意味では、「完全無欠な教義として整備された論題」や「精微をきわめた訓詁解釈学」は「主客二元論」とならざるを得ません。しかし、「結論」に至る「プロセス」「厳しい道程」を私の課題として、主体的に問題にしようとすれば、「主客一元論」の視点が要請されるのではないでしょうか。

 信楽峻麿先生は「真宗の信心」を「宗教的意識」として、「ひとつの宗教的態度」として捉えると共に、村上先生のいう「プロセス」「厳しい道程」を自己の課題として、主体的に問題にして「主客一元論」に立った信心理解を提起しています。(慈願寺blog「真宗余聞(6) 信楽峻麿はなぜ教団と宗学を批判したのか(その1)」 を参照のこと)

 また、小林一茶は『おらが春』において、さらに木越康先生は『ボランティアは親鸞の教えに反するのか』において、「他力」を解釈する難しさについて言及していますが、これらのテーマは、今日「慈悲」をどう理解するかという課題に通じているように思います。(前掲blog「補遺(213)文献解釈の落とし穴――ボランティアは自力?」を参照のこと)

 『歎異抄』第4条の「聖道の慈悲」と「浄土の慈悲」の理解について、田中教照先生はその著『現代文「歎異抄」に学ぶ親鸞の教え』(235頁)にて、「聖道の慈悲」と「浄土の慈悲」は、「区別」して、どちらを取るかという問題ではなく、「聖道の慈悲」から「浄土の慈悲」への「転換」の必要性を述べているのだと指摘しています。一茶が『おらが春』に記した「他力縄に縛られる」(『註解』214頁)という話や、ボランティアは「聖道の慈悲」だというような見解は、「区別」のレベル、言い換えれば、「解釈」のレベルで、「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむ」(『註釈版』834頁、『聖典』628頁)ことを「自力」と否定してしまうあり方ではないでしょうか。

 そうではなく、「結論」に至る「プロセス」「厳しい道程」を私の課題として、主体的に問題として、「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむ」ことが難しいと知ったならば、「浄土の慈悲」「大慈大悲心」が要請されて来るのではないでしょうか。はじめから「浄土の慈悲」という「結論」、言い換えれば「浄土の慈悲」のみが正しいという「区別」、建前に依拠して解釈するから、人間の自然な感情でもある「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむ」、道徳的な感情としても否定しきれない感情を、「自力作善」として否定してしまうことになりやすいのではないでしょうか。村上先生はこの「結論」、建前からの議論の陥穽を指摘しているように思います。

 このように、いわば後世の宗学の型にはめた、「結論」の押しつけに縛られているありようを、一茶は「他力縄に縛られる」と語ったと理解することもできるのではないでしょうか。

 

■私的な祈り

池田  この点に関連して、ひとつの例をご紹介します。たとえば、新型コロナウイルス対策として、各種の行事が中止や延期を余儀なくされています。そして、それは必要なことと思います。

 では新型コロナウイルスの終息を「祈る」ことはどうでしょう。日本の仏教教団は、「戦勝祈願」した戦時下の動向を戦後に深く反省し、そのことを表明してきました。このことについては、たとえ、それが当時の善意にもとづく「祈り」であったとしても、公的責任が問われるべきです。では、私的な「祈り」は、どうでしょう。もちろん公的責任が問われることはないと思います。しかし、もし教団が私的な「祈り」を抑圧するとしたら、どうでしょう。

 ある坊守様から聞いたのですが、その方が学生時代にある先生からお聞きしたお話だそうです。その先生が学校に通学される時、お母様がお寺の山門の下で、「大難を小難に、小難を無難に」ととなえて、毎日見送ってくださったというのです。息子に災難が起こることは避けようがないけれども、それを少しでも小さなものに、というのが、そのお母様の心だったということです。

 このお話を聞いて、その坊守様は自分も子どもを授かることがあったら実行しようと思ったそうです。その後、結婚をし、子どもが生まれ、その子が山門から見えなくなるまで、合掌してその言葉を繰り返しているそうです。そのことを、また別の坊守さんにお話しした時、「真宗でそんなことをするのはおかしい」と、あっさりと言われたそうです。そう言われても、今も子どもを見送る時に、相変わらず続けているとのことでした。

 本願寺派では三業惑乱以降、「祈り」を非常に警戒し、「心経験」つまり、心での経験、意識作用までを「意業」とし、「他力信心」は「非意業」というのが教学上の建前になっているようです。真宗者の日常生活の現場にあっては、「『祈ります』とは言いません、『念じます』と言います」ということになり、「祈る」が否定され、代わりに「念じる」が使用されているようです。多くの僧侶や門信徒のあいだでは、浄土真宗の教えにおいては「念じる」は認められても、「祈り」は否定されていると理解されているのが現状ではないでしょうか。

 しかし、参考までに述べますと、恵信尼様は「後世をいのらせたまひける」(『註釈版』811頁、『聖典』616頁)と、「祈り」という言葉を使われています。親鸞聖人と恵信尼様の、夫婦の会話の中での言葉です。親鸞聖人が実際に「祈り」という言葉を使ったかどうかは判然としませんが、恵信尼様が「祈り」という言葉で教えの一端を理解していたことは間違いないでしょう。夫婦の会話の中では「祈り」と理解されていたのだと思います。

 この「祈り」という言葉については、誤解を生じる恐れがあるから用いることのないように、という暗黙の了解が教団内にはあるのだと説明されることもあります。しかし、教団の中でのこういった暗黙の了解が、多くの僧侶や門信徒に共有されてきたとも思えません。結果として、「真宗でそんなことをするのはおかしい」という一言であっさり片づけられ、「大難を小難に、小難を無難に」という、ひとりの人間の心にさえ寄り添うこともできないのではないでしょうか。そもそも、そのような暗黙の前提をもつ教学理解は、教団内の多くの僧侶や門信徒はもとより、教団外の不特定多数の人々にも開かれたものとは言えないでしょう。

 先に「逆縁」ということを申しましたが、「逆縁」は新たな創造的解釈が生まれてくる契機ともなり得るものです。あるいは、これまで「寄り添う」とも申してきましたが、私が寄り添うのみではなく、そもそも私たち自身も苦悩の中にいるのです。親鸞聖人であっても、流罪の苦悩を経られたわけです。宗祖がなぜ『教行信証』といった大部の著作を書かれたのか。あるいは宗祖なき後になぜ『歎異抄』が書かれなければならなかったのか。そこから、これまで言葉にならなかった教学が生まれてきたのです。そこには痛みや悔しさがあったのではないかとも思います。「ありがたい・もったいない・おはずかしい」と言って済ませられない苦悩を経て、言葉が紡がれてきたのです。そのような言葉を生み出してきた教団であればこそ、信頼に値すると私は思います。

 もちろん「大難を小難に、小難を無難に」という言葉は、仏教の信仰そのものに関わる表現ではないのかもしれません。しかし、この場合でいえば少なくともそう願い祈る、ひとりの人間の心に寄り添うことができるような視点からの、「祈り」の考察が必要ではないでしょうか。教団内の暗黙の了解が理解できる者にしか通用しない教学では、高尚なる宗学の奥義ではあり得ても、次世代に対する責任を担う教学とはならないように思います。

 かつて安田理深先生の講義をお聞きしていた時に、あるご年配の女性の方が聞きに来られていました。その方が休憩時間に「すみません。先生が「しゅうじ」(「種子」)と仰っているのですけれど、あれは何ですか。お習字のことですか」って、私に聞いたのです。安田先生は本当にすごい先生だと、その時に思いました。そういうおばあちゃんたちにも懇々と仏教としての浄土真宗を説いて、そういった方々の生活のレベルにまで何かが響いているわけです。

 宗教は最終的には「面々の御はからひ」(『註釈版』833頁、『聖典』627頁)であると思います。しかし、「結論」に至る「プロセス」で、今悩んでいる人間がいるならば、建前からの議論、建前からの説教ではなく、今悩んでいる人間の、「結論」に至る「プロセス」に寄り添うことのできる、そういう教学的営為が要請されているのではないでしょうか。

 親鸞聖人が「結論」に至る「プロセス」に寄り添うことを、自己の課題とした教学的営為は、たとえば『教行信証』の「三願転入」を読み解くことで理解できるかも知れません。または、道綽禅師や善導大師による「本願取意の文」や「本願加減の文」として知られる、第十八願文の書き換え(『註解』394頁)や、親鸞聖人における、教行証の三法組織から教行信証の四法組織への展開は、まさにこの「結論」に至る「プロセス」に寄り添うがゆえの教学的営為であったようにも思うのです。

(文責:親鸞仏教センター)

前編はコチラ)

池田 行信(いけだ ぎょうしん)

 1953年栃木県に生まれる。1981年、龍谷大学大学院文学研究科博士課程(真宗学)修了。現在、浄土真宗本願寺派総務、慈願寺住職。

 著書に法藏館より『近代真宗教団史研究』(共著、信楽峻麿編、1987年)、『真宗教団の思想と行動[増補新版]』(2002年)、『現代社会と浄土真宗[増補新版]』(2010年)、『現代真宗教団論』(2012年)、『浄土真宗本願寺派宗法改定論ノート』(2018年)、『正信念仏偈註解』(2021年)等多数。

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