親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

Interview 第6回 與那覇潤氏「『中国化』と『江戸時代化』から日本社会を読み解く」後編

愛知県立大学文学部准教授

與那覇 潤

(YONAHA Jun)

Introduction

 近代日本の歩みは、しばしば西洋の文明をどのように受け入れたかという「西洋化」の文脈で語られる。これに対して、『中国化する日本』(文藝春秋)の著者である愛知県立大学准教授(日本近現代史)の與那覇潤氏は、むしろ「中国化」という概念から近代を読み解こうとする。

 明治以降の日本社会は「中国化」する動きと、再び「江戸時代化」しようとする動きの間で揺れ続けているのであり、現代の社会もなお、この構図の中にあるのだという。そのような日本の近代化は、今日の私たちにどのような影響を与え続けているのだろうか。お話をうかがった。

(春近 敬)


【今回はインタビューの後編を掲載、前編はコチラから】

――明治の精神性を語るうえで、いわゆる「煩悶青年」と呼ばれるような、大学で高い教育を受けながらも現状に苦悩する若者たちの存在が重要な役割を果たします。近代仏教は、煩悶青年たちの一つの受け皿でもありました。

 

與那覇 煩悶青年とは、いまふうにいうと「こじらせ系」ないし「意識高い系」で、「空気の読めない人」ですね (笑)。世の中はこんなものなのだから、と割り切れない人たちです。こう言うと個人の性格の問題みたいになってしまいますが、どの程度の割合の人がそうなるのかは、経済のパフォーマンスや政治の安定性にも、左右されるところがあると思います。

 特に日本の場合、もともとが教典(明文化されたルール)のない社会でしたから、個人がことばで理屈を言う時点で、周囲から浮いてしまうところがある。少々不満があっても、何だかんだで日本社会はうまく回っているんだと思える状況なら、理屈を言わない人の方が多い。逆にどうみてもこの社会はおかしい、納得できないという風潮が広まれば、理屈に走る人が増える。煩悶青年は後者の代表例ですね。

 中国も西洋も、理屈をコアに置く社会という点では重なるところがあります。儒教国家では儒教の論理や経典が国の裏づけとしてあったし、アメリカ人は今日でも聖書や建国神話のテキストを活かして、ことばで秩序をつくっていますから。ところが日本においては江戸時代以来、理屈で秩序をつくろうという人はつねに少数派でした。

 そこに帝国大学という形で、いわば「科挙エリートの日本版」のような理屈ばかり達者な若者に、有為の人材というプライドを与えて一定人数をプールする装置を導入した。そんなところに通えば煩悶するのはあたりまえのことで、問題は彼らのエネルギーを、いかに社会のためになる方向へ振り向けるかでしょうね。

 

――理屈で秩序を立てるべきか否かということについて、ご著書で石山合戦に言及されていたかと思います。そのあたりについてもお聞かせください。

 

與那覇 理屈、ないしことばで秩序をつくるメリットのひとつは、居住地にとらわれなくなるということです。近年の研究では「野蛮な支配者である戦国大名と、虐げられた民衆の抵抗である一向一揆」といった単純な構図は放棄され、一向一揆というものも一つの権力体として捉えられています。だから石山合戦も、別に「反体制運動の弾圧」などではなく支配権をめぐる闘争ですが、しかしそれでも織田信長と本願寺には違う点がある。信長型の権力とは属地的なもので、大名が支配している領土にしか及ばないわけですが、一向一揆は信仰と教典にもとづく権力だから、離れた土地の信徒からも支援が受けられる。

 明確な教典なしに空気だけで統治するやり方は、普遍性という点で弱みがあるのですね。教典のない慣習だけの宗教では「このムラのしきたりはこうです」とか、「この地域の人はこの山を拝みます」というかたちにとどまって、世界普遍的な創唱宗教にはならないように。つまり教典をもった権力のほうが、その場に一緒にいない人々にも訴えかける力をもつという強みはある。

 織田信長が石山合戦で、本願寺の持っていた「理念で秩序をつくる」可能性を潰したことが、結果的に「それぞれの地元で、理屈を言わずに空気を読みあって暮らす社会」としての江戸時代を準備した側面は大きい。確かにそれは、徳川時代に二世紀間を超えて機能したのですが、19世紀半ばの危機に対応できずに崩壊したわけです。

 

 ――この考え方から、現代の状況をどのように見ることが可能でしょうか。

 

 日本人には「四の五の理屈をこねずに、万事なぁなぁでやりたい」という江戸時代的な選択肢が、常に目の前にちらつきます。前近代に対するノスタルジアは近代社会に共通の現象ですが、徳川日本のように本当に「理屈なし」であそこまでまとまった社会は、世界的にも珍しい。

 そのせいで、「あそこに逃げ込めば大丈夫なはずだ」という発想がいつまでも抜けません。いまでも理屈をこねる人を「KY」として忌避する風潮があるのは、その表れですよ。お前なんかがごちゃごちゃ言うから、ぼくたちの平穏な日常が損なわれるんじゃないかと思っている人は、どんな組織にも多い。

 

――かつての成功体験が忘れられない、ということでしょうか。

 

 そう思います。しかし江戸時代の社会は誰かが設計図を描いてデザインしたというより、いわばなし崩し的に帰着した形なので、後から意図的に「取り戻す」のには無理がある。ところが、それがあまりにも居心地がよかったので、そういう選択が可能だと思い込んでしまうのです。諦め切れていません。

 理屈のないことで安定していた社会を、「理屈をこねて取り戻す」という矛盾した試みは、ファナティシズムに陥る危険性が高いと思います。戦前の農本主義がまさにそうでした。日本には理屈をいわなくてもおのずとまとまる社会があったのに、近代化でそれを壊したのが許せない。今からでも取り戻さなければならない――という「理屈」で政治を進めるのは、かなり危険なんですね。いわば、「空気を読みあう社会に理屈で合意せよ」と国民に迫ることになるから、空気と理屈の二重の論理で、それに従わない人を排除することになってしまう。これが、戦前の日本ファシズムと呼ばれているものの深層です。

 これに対して戦後の自民党一党支配=55年体制は、期せずしてそれなりに江戸時代を再現したところがありました。自民党は本来、イデオロギーなき政党の最たるもので、冷戦体制のもとで社会主義政権の誕生を阻止するためだけに、参加者の個々の思想の違いは棚上げにして大同団結したら、そのまま長期政権となったわけです。そうして実際に、理念なしでも選挙で地元の代議士さんさえ応援しておけば、全国どこでもそこそこ食べられる社会を作った。

 だから、大学で学生運動なんかをやっている間は理屈を言い続けるのだけど、就職活動を機に理屈は捨てて「転向」して、雑巾がけからやらされる(理屈もへったくれもない)企業社会の空気に適応して生きていくのが、戦後の日本人のライフコースでした。しかしそれがうまく回らなくなってきたというのが、90年代以降ですね。結果として、元々理屈を言わないはずの自民党が、妙に理屈を言うようになったのが現在です。

 

 ――たとえばもともと自民党の党是ではあったものの、長らく表だって掲げることのなかった「改憲」を、近年は強く主張するようになったことでしょうか。

 

 そのとおりです。「とにかく、飯は食えてるんだから細かいことはいいじゃないか」という国民的な合意が失われて、一時は民主党に敗れて政権から追い出されるところまでいきましたよね。そのせいで、空気だけではもう支持層を懐柔できないから、理屈で動員する必要が出てきたわけです。日本はあるがままでも日本じゃないか、ではなくて、意識的に「日本を、取り戻す。」と言わないといけなくなってしまった。

 もちろん、理屈なしでなんとなく自民党が国民をまとめられた55年体制がよかったのかというと、そうともいえません。理屈がないというのは、ことばによる説明責任を果たさないということですから。自民党の大物議員とつながりのある人や業界は「なんとなく」潤うけど、そうではない人の手許には「なんとなく」お金が来ない。万人に開かれた公正さ(フェアネス)という点で、江戸時代型の社会には大きな問題がありました。

 とはいうものの、再軍備やナショナリズムといった戦争の危険もはらむトピックスに関して自民党がイデオロギーを棚上げにしたから、国内の世論も平和裏に収まったし、隣国とも紛争なしでやれたところもあるのです。領土問題などは典型でしょうね。理屈を言い出せば、それは(どちらの国から見ても)「わが国固有の領土」なわけだから、実力行使をしてでも相手を追い出せ、ということになりかねませんから。

 政治には「正論」の矛をいったん収めることで、理屈を出したら調停不能になる争いごとに「落としどころ」を見つけるという側面もあるわけです。教条主義的に理屈で向かってくる革新陣営を、政治ってそんなもんじゃないよといなすのが、かつての保守政党の役割だったのですが、野党暮らしを体験した自民党にはもうその余裕がない。国民の側も、すべてが密室でうやむやになる55年体制の閉ざされた政治はもう勘弁と思う反面、たとえば改憲問題で原理主義的に突き進まれたら怖いな、という気持ちも持っている。その両者のあいだでの舵取りの仕方が、まだうまく見つかっていないように思います。

 

 ――最後になりますが、そのような状況にある現代社会において、宗教的なものの役割があるとすれば、それはどのようなものでしょうか。

 

 私自身は特定の信仰を持っていませんし、宗教に関して深い知見があるわけでもありませんが、地縁では繋がれない縁をつくろうとするときに人類が生み出した「最古にして最強のデバイス」が、教典を持つ宗教だったと思っています。それは空気ではなくことばを信じて生きるのだと決めた人々に対して、周囲からのプレッシャーを断ち切ってその場を離脱する自由を与えてくれると同時に、彼らを原理主義的なファナティシズムの虜にしてしまう危険をも生み出した。この両義性のある力をどう使うか、という問題だと思うんですね。

 その意味では、「宗教的なもの」を狭義の信仰に限って捉える必要はないと思っているんです。ことばの力で、地理的な対面共同体を超えたつながりを作り出すことにその意義があると考えれば、たとえば政治的なマニフェストにしても、社会的な結社にしても、メディアやネットワークにしても同じ問題を共有している。それこそ「天皇制の儒教化」だった戦前の日本も含めて、かつてわれわれが宗教というデバイスを使ってなにを達成し、いかに失敗してきたか。歴史を生業としていることもありますが、そういうモデルケースを示してくれるところに、宗教の役割というものを見てみたいと思っています。

(文責:親鸞仏教センター)


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さらにいえば、多くの住職方は「真宗再興」の「要義」が『正信偈』に述べられていると認識し、「真宗再興」を念じているともいえるのではないでしょうか。『考信禄』を書いた玄智師は蓮如上人による『正信偈』と『三帖和讃』の公開は、「末代興隆のため」、「仏法興隆のために、開板流布せしむるものなり」(『真宗全書』第64巻181頁)と認識しています。私は「末代興隆のため」とか「仏法興隆のため」とか、そんな大きなことはいえませんが、「真宗再興」の願いにおいては、人後に落ちないと思っています。  曽我量深先生は「蓮如上人の御再興」とはちがう、「真宗第二の再興」をなし遂げなければならないと述べています(『曽我量深講義集第10巻 真宗再興の指標』45頁)。この「真宗第二の再興」の願い、さらに現代でいえば「真宗第三の再興」の願いが、多くの住職方が『正信偈』を学びたいという依頼に込められていたのではないかと思います。   ■「私」と「歴史」の欠落した「信心」の見直し 池田  また、お尋ねの「特に留意すべき点」についてということですが、3点申しあげたいと思います。  1点目は、「私」と「歴史」の欠落した「信心」の見直しが必要ではないかということです。これまでの『正信偈』の解説書を読みますと、その多くが『正信偈』の偈文の注釈か、著者の味わいにとどまっているように思います。私は注釈も味わいもどちらも大切に思います。しかし、注釈だけで「真宗再興」が可能とは思いません。信念の吐露といいますか、信念を語ることがなければならない。注釈だけでは「真宗再興」は無理かと思います。信念の吐露、信念を語るという意味で、私は「私」と「歴史」の視点をもった信念、信心が必要ではないかと思っています。  浄土真宗本願寺派の三木照國先生は、本願寺派の伝統宗学には「私」が欠落し、真宗大谷派の曽我量深・金子大榮両先生等の、いわゆる近代教学には「歴史」が欠落していると指摘しています(三木照國『教行信証講義――教行』「はしがき」)。これは大変、重要な指摘と思います。もちろん近代教学にも、曽我先生の「親鸞の仏教史観」や「伝承と己証」という「歴史」の見方がありますが、三木先生のいう「歴史」とは、おそらく「自覚」や「内観」レベルの歴史ではなく、現実を批判的に見る社会性、または「社会改良」の視点を有する「歴史」というような意味と思います。  そもそも「私」というものと「歴史」は離れていないでしょう。たとえば『歎異抄』には「親鸞一人がため」(『註釈版』853頁、『聖典』640頁)という言葉がありますよね。これを無視するならば、もう真宗とは言えない、というような重要な言葉です。人間が社会の中で育んできた「歴史」と、このような「私」というところにまで到達した信仰の「歴史」があるわけです。この関係についてもどのように見直していくか、という問題があると思います。  いわゆる「戦時教学」の問題や教団による差別問題を見ていくと、「純粋培養された――教義だけの〝独り歩き〟」(大村英昭「ポスト・モダンと習俗・迷信」『ポスト・モダンの親鸞』80頁)という問題があるように感じています。たとえば、宗教と道徳、信仰と生活という、一旦は二面的に捉える必要がある問題について、そのすべてを「法徳」といったところから演繹する発想に陥りがちで、そこには課題があると思います。  大谷光真前門主は「危ない一元論」「悪しき二元論」(「宗教と現代社会との関わりについて」『宗報』2018年7月号)ということを指摘されていますが、この「危ない一元論」にも、「悪しき二元論」にも陥ることなく、真宗の教えに立つと同時に社会の問題をも客観的に見ていく視点、そういうものを信仰の課題としてもたなければならないと私は思います。そうでなければ、持続可能な宗門、教団としての理論にはならないだろうということです。個人の信仰のみならず、組織論の重要性を思います。  だから、出世間の方向性というものを担保しつつ、常に社会に関わっていく。その場合は、社会に関わる原理、原則というものを、必ずしも真宗の教法によってのみ、導き出すべきではないと思います。一個人の信仰としては、そのようなこともあり得るでしょう。けれども、教団という組織は社会の中にあるわけです。社会のルールを完全に否定できるなら別ですが、易々と否定できるものではありません。社会的な合意を取ることは、極めて重要です。そういった点もふまえつつ、同時に戦時教学をも批判しなくてはならないのです。  教団という組織が社会の中にある以上、私たちはあくまでも社会の問題に取り組んでいかざるを得ません。「日本社会が潰れても、真宗教団は残る」などと放言することは到底できない。だから、他領域の論理というものをふまえなくてはならない。社会的視点と言いましょうか、そういうものが私は必要だと思います。中島岳志氏の著書『親鸞と日本主義』における批判などを読みますと、個人の信仰主体の確立のみではなく、同時に信仰共同体の論理が求められているのが現状ではないかと思うのです。   ■「与奪」と「祖述」 池田  2点目は、「与奪」と「祖述」という学問方法の問題に関することです。江戸時代初期の『正信偈』の注釈は存覚上人の方法、すなわち、各宗派の立場を一応肯定し、翻って浄土門に帰依せしめる、いわゆる「与奪」という方法に依拠していました。それには聖道諸宗や浄土異流に対して、浄土真宗の仏教としての正統性を主張する意味がありました。ゆえに、そのような注釈では、引用文献も聖道諸宗や浄土異流を意識した、広範囲な文献が参照・引用されていました。  しかし、本願寺派においては三業惑乱以降、学びの方法が「与奪」から、宗意安心を「祖述」するという方法に代わりました。この「祖述」という方法は、ややもすると後世の宗学の型にはめて親鸞を解するという問題に陥りやすいように思います。同時に江戸時代には、浄土真宗の優越性を強調した、「別途不共」や「真宗別途義」が強調されました。こうした「真宗別途義」の強調について、村上速水先生は真宗教義の鮮明化であると共に、「他力の救済を強調することに没頭して、仏教としての真宗という立場を見失わせる」とも指摘されています(『続・親鸞教義の研究』115頁)。この「真宗別途義」を中心とした学びは、学派の分立をもたらし、緻密な学説を競いましたが、排他的な「廃立」が強調されやすく、真宗教義の優越性の強調が、宗派の閉鎖性やセクト主義的傾向に陥る危険性も有しています。私は他宗他門に対して、浄土真宗の優越性を強調することを否定しているのではありませんが、宗祖の「顕浄土真実」の意味を鮮明にしようとするならば、あくまでも「仏教としての浄土真宗」の意味を明らかにする姿勢を忘れてはいけないと思っています。  ご参考までに、私が20代後半であった、今から40年ほど前の出来事をお話しします。当時、あるところで曽我先生の「信に死し願に生きよ」という言葉を引用して、自分の解釈を語ったことがありました。すると、ある方から「あなたはどんなところで勉強されたのですか、その言葉はレトリックに過ぎないのではないか」という、厳しい指摘を投げかけられました。この指摘を受けて、私が考えるようになったのは、自分とは異なる解釈と対話が叶わない学問方法を採用する限り、公開された解釈とはならないのではないか、ということでした。狭小な安全地帯に身を置いたところで、井の中の蛙にしかならないのではないでしょうか。  異なった解釈が表現される場合に、それによって教団としての組織的まとまりが損なわれるのではないか、という意見を耳にすることもあります。しかし、異なる意見同士の対話の中から、必ず新しい解釈・組織が生まれてくる、ということを信ずる以外にないと思います。これはもうそれしかないと思う。それが信じられるかどうかということだと思います。仏法僧という三宝への信頼こそが教団を支えているのです。その信頼から、真に創造的な解釈が生まれてくると思います。  「祖述」というあり方は、ある意味では伝統に依拠した立場と方法ではありますが、宗派の閉鎖性やセクト主義を超えた、「真宗第二の再興」のための学問方法としては課題があるとも思います。方法論に万能はないのです。曽我先生は「真宗第二の再興」は「真宗統一ということより仏教統一の方向に眼目がある」(『曽我量深講義集第10巻 真宗再興の指標』45頁)と述べています。「祖述」は基本です。しかし、「真宗統一ということより仏教統一の方向に眼目がある」という立場の大切さを思うならば、「与奪」という方法の再評価も必要になるでしょう。浄土真宗は仏教である、という視点を見失うと、教団内で「純粋培養」された教義が独り歩きすることにもなってしまうのではないでしょうか。   ■「逆縁」による「興宗」 池田  3点目は「逆縁興宗」「逆縁興教」ということです。『顕浄土真実教行証文類』(以下『教行信証』)や『歎異抄』、『親鸞聖人血脈文集』には「流罪記録」が付されています。了祥師は『正信偈』を解釈するに際して、『教行信証』執筆の動機はどこにあるのかを見据えて『正信偈』を読むべきだと述べています(『正信念仏偈註解』〔以下『註解』〕、7頁)。言い換えれば、了祥師は『正信偈』を「破邪顕正し仏恩師恩を報ずる」偈と理解すると共に、「流罪記録」と合わせ鏡にして『教行信証』制作の「造意」を論ずる必要性を述べています。つまり、『教行信証』を「流罪者」としての親鸞が書いた書物として仰ぎ、いただくということです。ある意味では、教団の中枢ではなく、在野で学びを深めた了祥師ならではの解釈ということもあるでしょう。「立教開宗」の書というと、浄土真宗の宗祖としての親鸞の書いた書物ということになりましょうが、その親鸞聖人は宗祖とされる以前は、「流罪者」であったという「歴史」に立って、その御文に接する必要があるのではないでしょうか。  曽我先生は「浄土真宗は配所に生まれたり 逆縁に生まれたり」といい、「逆縁興宗」、「逆縁興教」、「逆縁立宗」という言葉を記しています(『両眼人』32頁)。「逆縁」に我が身と我が心を置いて読むことも大切に思います。「逆縁」を介した「興宗」「興教」があるのです。言い換えれば、「逆縁」を介して、『教行信証』の題号における「顕」の意味や「興宗」「興教」の意味を考えてみる必要があると思います。「疑謗を縁として」(『註釈版』473頁、『聖典』400頁)「真宗再興」の意味を明らかにすることが大切に思います。  逆境を縁として書かれた書物を、順境のみを縁として読むと、建前の仏恩報謝、「ありがたい・もったいない・おはずかしい」にとどまるということも起こり得ます。あるいは、観念的な「私」と、「内観」的な「歴史」にとどまってしまうこともあるでしょう。私は、「逆縁」を介した教学的営為が『正信偈』解釈において、どのように現れているかに興味があります。曽我先生も金子先生も各々が逆境の中で教えを解釈していった方々ですね。それゆえでしょうか、両先生は「ありがたい・もったいない・おはずかしい」にとどまらない思索を残されたと思います。   星野元豊先生は「後世の宗学の型にはめて親鸞を解する」のではなく、「わたくしたちは素直にその文章から直に親鸞の心を汲みとるべき」と提言されたことがありました(『註解』375頁)。しかし、実際には、多くの『正信偈』の解説書は後世の宗学の型にはめて『正信偈』を解釈する「祖述」で終わってしまっていないかと思うこともあります。『正信偈』の御文の中に「逆縁」を見出すことは難しいのですが、その背景に「流罪者」としての親鸞がいることは忘れてはならないと思います。 (文責:親鸞仏教センター) (中編へ続く) 池田 行信(いけだ ぎょうしん)  1953年栃木県に生まれる。1981年、龍谷大学大学院文学研究科博士課程(真宗学)修了。現在、浄土真宗本願寺派総務、慈願寺住職。  著書に法藏館より『近代真宗教団史研究』(共著、信楽峻麿編、1987年)、『真宗教団の思想と行動[増補新版]』(2002年)、『現代社会と浄土真宗[増補新版]』(2010年)、『現代真宗教団論』(2012年)、『浄土真宗本願寺派宗法改定論ノート』(2018年)、『正信念仏偈註解』(2021年)等多数。 最近の投稿を読む...
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